3

 その声は、高らかに響き渡った。


 アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィールという名の青年は、あらゆるものを隠すことについては特段の才能を有していると考えてもいいかもしれない、彼女はぼんやりと思った。


 竜騎士団長と怪盗は、術式画面を掲げる盆の前で相対している。


「貴様か、帝都で犯罪行為を繰り返していたのは」


「是非とも義賊と言ってくれ」


 ガイウスが口を開けば、アルデンスはそう返した。


「思うところはある、だが、結果的に益をもたらすものであったかもしれないが、罪を犯したことに変わりはない、帝国の法にて裁かれねばならん」


「それは誰を守る為だ、竜人?」


 竜人の全身の鱗が逆立つ。その表情が凶悪さを増した。


「笑止、法だ」


「その法が多くの人を苦しめていようとも?」


「それを変える為に皇帝陛下は動き始めた」


「十七歳にも満たない若造が、変えられるとでも?」


 大怪盗とラナの視線が合った。彼女は怒りと哀しみを同時に覚える、彼のイークライト・シルダへの評価に対して。だが、アルデンス自身がこれまで置かれていた状況が苛酷であったことを、その言葉が内包していることにも気付いた。しかし、彼女が知ったからこそ理解出来るのであって、ガイウスにはわからないだろう。ヒーエリアの家に何が起きたかは知っているかもしれないが、たった一人の生き残りである彼のその気持ちを向かい合わせで直接伝えられたことなど、この竜人族は、ないのだろうから。


「支えるべきお前がその指輪を持っているのに?」


 ガイウスの逆立った鱗が激しく震えた。


「……貴様」


 金属の擦れ合う音を立てて、長剣が抜かれる。起動釦の音が微かに聞こえて、それはヴン、という術式発動音から少し遅れて、激しく渦巻く炎をその冷たい金属の身に纏った。


「これだから竜人は感情的でいけない」


「戯言を」


「迷いの剣で俺に勝てるとでも思っているのか、騎士団長如き、竜人でも造作ない」


 アルデンスが腕を振るうのが見えて、ラナは身構えた。風の精霊王フェーレスが自ら生み出す数多の大気の流れをあっという間に集めて分厚い盾にした瞬間、目に飛び込んでくるのは刹那の剣戟。


「貴様は捕らえる」


「やってみろ」


 水を纏う一対の短剣と炎を纏う長剣の交差したその時、男達が、睨み合う。


 打ち合った刃が、あっという間に数多の精霊を生み出して屠った。跳んで逃れたのは大怪盗の方だ――脚部装甲が装着されている。彼女は叫んだ。


「ギレーク竜騎士団長!」


「下がっていろ、花嫁殿」


「気を付けて、脚部装甲は厄介だから」


「わかった」


 と、言葉を交わした途端に目の前に翻るのは、一度見た黒い布だ。視界を塞ごうとするのは反乱軍の者の常套手段なのだろうか、だが、ラナには効かない。


「フェーレス!」


 風の刃が、一度退けた闇を今度は粉々に切り裂いた。小さな魔石が四方八方で砕ける音に、アルデンスの舌打ちが混じる。それを聞きながら、彼女は今度こそ編み飾りの施された長い下穿きを握って力を入れる――絹が裂けた。


 金属のぶつかる悲鳴に、生まれては散っていく精霊の高笑いと叫び声が乗って、不協和音を生む。


 自分は何処に行こうとしているのかわからない。ガイウス・ギレーク竜騎士団長が“大怪盗ユエルヴィール”を足止めしている間に、合図を待たずこの場から扉の向こうへ行く方がいいか、それとも先程歩いてきた道を戻って近衛騎士を呼ぶ方がいいか、破いた下穿きを両手に握り締めて、彼女は迷った。


 迷った瞬間だった。


「逃がすかよ」


 どうやって剣戟から逃れたのか、アルデンスが後ろにいて、左腕をがっちり掴まれる。捻っても抜けない、己が結局男よりも非力な女であることにラナは怒りを覚えた。


「風よ!」


 しかし、女でなければイークとのやりとりもなかったかもしれない。そう思いながら叫んだ瞬間、ずっと共にいた腕輪が、左腕から抜けた。


「その手はもう使うな」


 投げられた母の形見を追おうとして彼女は跳んだが、腰を抱き込まれる。フェーレスが霧散した。大怪盗の力は強く、両手で解こうとしたが、びくともしない。見れば、ガイウスは別の何者かと相対している。気付けば、幾つもの影が周囲に揺らめいていた。


 最初から一人ではなかったのだ。


「放して」


「無理だ、お前を連れて帰る、ティルクの要請だ」


 自由になりたい、その脚を蹴った。装甲に覆われていて揺らぎもしない。


「関係ない、放して」


「暴れるな、戻らなければ殺す手筈だ、そうしたくない」


「嫌だ」


 二ヶ月間鍛えた腕ですら無駄だというのか。まだ時間が足りなかったというのか。下穿きを破いて取り去ったせいで太腿が露出するが、構わず、彼女はもがいた。竜騎士団長が、盗みどころか反逆罪で極刑になるぞ、などと叫んでいる。


 否、無駄などではない、何もかも覚悟して来た場所だ、己の意志の与り知らぬところで動く誰かの手など振り切って、死の影さえ置き去りにして、彼女には行かなければいけない場所がある。ここで道が途切れなければいけない、などと、誰が決めようとも。


 全てを飛び越えて。


「よせ、死にたいのか」


「嫌だ、私が決めた、イーク……父さん」


 口に出した刹那、途方もない飢えと乾きが襲ってきた。


 捕まえようとする腕が知った者のものであっても、それを叩き折ろうとしてまで、求めるものがあるのだ。視界がぼやけた。家族としての顔など殆ど知らない、だが、そのようなことなど、最早どうでもよかった。


 会って、訊きたいことが沢山あるのだ。


「父さん」


 母のことも、国のことも、イークのことも、夢のことも、アル・イー・シュリエのことも。


 そして何より、その人の想いを。


 その瞬間、すぐそこに落ちた腕輪が眩い輝きを帯びる――共鳴するのは彼女の血か、それとも声か。雨季に萌え出ずる新芽のような美しい色の髪としなやかな若木のような四肢が伸び、風の精霊王は今再びこの場に召喚される。


 その双眸が一睨み、鋭い風は、ラナを捕らえている腕をあっという間に四散させた。


 光り輝く蛋白石の竜に肉片と血飛沫が飛び、緋色の痕を残す。彼女もそれを浴びた。痛みの悲鳴を喰らいて主の道の竜が哀しげに輝き、そのずらりと並んだ向こうから、近衛兵の小隊十名が魔石動力機械つきの剣を抜いて駆けてくる。


 それに向けて、彼女は腹の底から声高らかに、叫んだ。


「我が名は、宰相グナエウス・キウィリウスが娘にしてシルディアナ帝国が皇妃、ラレーナ・キウィリウス・サナーレ!」


 キウィリウスの名にはっと顔を上げる近衛騎士に向かって、ラレーナは続ける。


「近衛よ! シルディアナ帝国の皇帝と宰相の名において、私の守護を、頼みます!」


 そうして振り返った先にいるのは信じられないという目で此方を見ているアルデンスだ。先のなくなった二の腕を押さえ、その場に蹲り、痛みに歪む眉間の奥に青い瞳が揺れている。


「……ラナ、お前」


 食い縛った歯の奥から漏れた男の呻き声はフェーレスの足元へ転がって、力なく止まった。


 彼女が纏うのは高貴にして親和なる友、始原の風。


「戻らないならお前は始末されるぞ! 死ぬつもりか!」


「貴方は前に私に言った、抗え、と」


 優しくも強い力が彼女を中心に吹き荒れている。近衛騎士達は揺らめく影を切り裂いて、フェーレスの加護を受け、踊っていた。そして、ラレーナは揺れる耳飾りを、イークの想いを感じるのだ、耳元で、刻印を施された小さな火の魔石が精霊王に共鳴しているのを。


「お前を死なせたくない、俺の話も聞けないのか!」


 アルデンスの顔が、苦しみや懇願や哀しみを堪え切れず、歪んだ。


「そうだ、私は、貴方という名の死に抗おう、アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィール!」


 彼女は右耳に揺れる耳飾りを利き手で引きちぎった。


 覚える痛みなど最早何でもない。


「近衛よ、逃げて!」


 近衛騎士達が後退する。利き手を失って、それでも尚、アルデンスは向かってきた。そこに立ち塞がるのは風の精霊王フェーレス、刃のような空気が彼の脚部装甲を、偽りの金の髪を、肌を、切り裂いていく。血飛沫の中に、大怪盗は膝をついた。


 ガイウスが羽ばたいて空中に退避するのを、彼女は視界の端に捉え、声を上げる。


「ギレーク! 私を抱えて飛んで!」


「承知した、皇妃よ!」


 先程彼女を捕らえていたものとは比べ物にならない程に力強い腕は、すぐに彼女の腰を浚って上空へと逃れる、倒れ伏す幾つもの人影と、その中心で蹲る大怪盗ユエルヴィールを置いて。


 それを見下ろし、彼女は宣言するのだ。


「大怪盗ユエルヴィール……いいえ、アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィール、皇妃に対する殺害予告と未遂により、極刑とします」


「お前はずっと後悔するぞ、ラナ!」


「そんなもの、とうに決めた覚悟!」


 耳から流れ出る血が首を濡らしていく。利き手を振りかぶって、ラレーナは叫んだ。


「炎の精霊王ヴァグールの思し召しの下に、御力を解放したまえ!」


 アルデンスは泣いていた。


 叩きつけられた耳飾りから吹き上がる美しくも恐ろしい金と紅は、全てを纏って爆発を起こす。そうして主の道に顕現するは、かつての緑豊かなスピトレミアを焼き尽くした、古代の火の眷属、精霊の長。


 炎の大精霊ヴァグール。


 その熱は風と出会い、フェーレスとまぐわい、勢いを増し、些末事とでもいわんばかりに、溢れるその涙を、無くなった腕から流れる血を、蒸発させていく。


「我がフェーレスよ!」


 焼ける喉が紡ぐおぞましい声が、劫火に巻かれ、その最期に朗、と響いた。


「ならばお前の行く先に、その祝福があらんことを!」




「ここまで来たのであれば安全です、皇妃ラレーナ」


 ガイウスの腕が優しく彼女を床に下ろす。近衛騎士の小隊がその周囲に控え、利き手に武器を携えたまま、右手を左肩において簡素な挨拶を寄越してきた。竜騎士団長は何かを慮るように彼女の左手を取り、右耳に流れる血を鉤爪のすべらかな部分で拭う。その気遣いが有り難いとラレーナは感じた。


 主の道の端は固く冷たい。しかし、背後では燃え盛る劫火の中、寄せられた思いにもよく似た熱さに、かつての友が焼かれていた。エイニャルンの学舎で彼に魔石工学を教えていたのが遠い昔のようだ。その前も、帝都の学舎で色々な話をしていた。サヴォラ免許を取得した時の、良かったな、という言葉もちゃんと覚えている。ティルクと軽口を叩き合うのを面白いと思ったこともあった。


あの美しい蒼の双眸を見ることは二度とない。


「あれはかつて私の友でした……灰は、せめてアルヴァの大河と、海に……送ってやって」


「……手配させましょう、近衛を二人、伝令として残します、今は陛下の居室へ、私と」


「ええ」


 武器を抜いたままの近衛が道の両側に一人ずつ、虹色に輝く蛋白石の竜の間に直立し、待機の姿勢を取った。


 ラレーナの耳に残る叫び声。戻らないなら始末する、死ぬつもりか。彼女を始末する予定があったということだ。ティルクの要請で連れて帰るなどと言っていたが、そうならないのであれば、彼女を始末する……そんな道を決めたのは誰だろう。


 彼女は呟いた。


「私を殺したがっている誰かがいます、ギレーク」


「それはアーフェルズだ」


 瞬間、思わぬ声が飛び込んできた。何かを言おうとして口を開きかけたガイウスは全身の鱗を逆立て、近衛騎士は弾かれたように顔を上げ、武器を構える。


「だから俺は行くなと言った」


 続く言葉が彼女を揺さぶる。苛烈さの込められたそれは、すぐ上から飛んできていた。主の道の始まりに連なる空中庭園の入り口、そのすぐ向こうに並ぶ列柱の、最も近い一本の上。


 見上げればそこにティルクがいた。


「ティルク」


「何だと」


 ラレーナは思わず口に出した、そして逆立った鱗を震わせながら竜人が囁く。


「そこにいるのはガイウス・ギレーク本人か」


「……如何にも」


「マルクス・ウィーリウスから連絡が来た」


 ガイウスの瞳孔が細くなった。武器を抜いたままの右腕の筋肉がぴくぴくと動いている。


「指輪を受け取ったそうだな、これでお前もめでたくアルジョスタ・プレナの一員だ」


 冷たく言い放ったティルクの声に、彼女は息を呑んだ。


「……関係者になってしまったって、そういうこと?」


「アーフェルズの決めることは我々の総意だ、従って、ラナをスピトレミアに戻すのに、お前は反対出来ない」


「……然り、私はただ、彼女を守ると約束したまで」


 竜人の無機質な声が落ちて、その場はしんと静まった。炎と風の音が聞こえてくるのみだ。


 ならば、アルデンスはいたずらに犠牲になっただけだったとでも言うのだろうか。否、彼女自身が、何も知らずに手に掛けたのだ。


 彼女の意志が。


「ギレーク、これって――」


「大怪盗は逮捕されねばならなかったが、皇妃への反逆罪を犯した……私は君を守ると誓った」


「――私が馬鹿なことを言ったせい」


「いいえ、ただ起こってしまっただけです」


「貴方も私の邪魔をするのね」


 何となくわかる、ラレーナは、ガイウス・ギレークがあっという間に反乱軍アルジョスタ・プレナの思惑に呑み込まれたのを察した。


 何処まで走ればいい、そう思いついて胴着の裾を掴んだ瞬間だ。


「君を守ると誓った」


 苦しげな声が聞こえた。


 後頭部に痛みを覚え、何もわからなくなった。

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