守りたいもの(3)



「黒っ……手、型が……」


 震える口から発せられる言葉が、うまく伝わらない。


「は?」


 天井を指さしても、手型の消えた天井は真子にとってはいつもの光景だった。


「そ、うだ……、誰か……この家の中に誰かいない?!」

「誰か居るの?」

「さっき、お風呂入ってるときに……女の人が、ここに居た」

「え、ちょっ、そういうのやめてよ」

「う、嘘じゃないの! それに、私ここに来てから赤いボールがこの部屋を転がるのを何度か見ているんだけど、真子は知らない?」


 由美子の言葉に、真子は渡りを見渡せばゆっくりと頭を振る。


「赤いボールなんてないよ。お姉ちゃん、疲れているんじゃない?」

「……え?」

「疲れてるの。ほら、お母さんとお父さんが離婚して一番ショック受けてたでしょ?」

「そうだけど……でも、私は本当に……!」

「お母さんから、さっき電話があったの。お姉ちゃんが疲れているみたいだから、ゆっくりさせてあげてって」

「電話?」


 ああ、そうだ。いきなり電話を切ったこと。母は心配しているのではないだろうか。だから、真子に電話をかけてまで由美子のことを心配しているのか……あとで、謝らなくては。


「うん……ごめんね、そうなのかもしれな――」

「お母さんは、お姉ちゃんばっかり」

「え?」


 ふいに、真子の口から零れた言葉を由美子は受け止めることができなかった。

 首を傾げても、真子に「なに?」と返されてしまった。どうやら、由美子の聞き間違いのようだ。


「だから、今日は早く休んだ方がいいよ」

「……うん」

「ほらほら。はやく洋服着ないと風邪ひくよー」


 気のせいだろうか。真子の笑顔に影がある。こんな時、いつも真子は「怖いからやめて」と騒ぎ出すのだが、まるで立場が逆転したように諭される。そんな感じがなんだか痒くて不気味で、由美子は落ち着かなかった。


 自分が見たものは、嘘でも勘違いでもないと思っているのだが、真子には何一つ見えていないみたいだ。

 赤いボールだって、あれ以来見ていない。


「(……もしかしたら、私本当に疲れているのかもしれない)」









「ねえ、真子」


 一息ついた深夜前、由美子は真子の部屋の前に居た。


「入っていい?」


 ふすまをゆっくりと開けると、真子は寝る準備をしていて、ベッドに潜りながらこちらを見上げていた。


「どうしたの?」

「ん。ちょっと今日は一緒に寝てもいい?」

「……うわ、キモい」

「そういうこと言うな」

「仕方ない。真子様のベッドに入れてやろう」

「ありがと」


 入口から横に伸びた真子の部屋はフローリングだ。が、それに似合わず出入り口の襖がある壁は押入れになっている。白い生地に青いラインが一本縦に伸びている襖が、控えめに和を強調していた。

 自分の部屋と違って、化粧品の香りがほのかにする空間に足を踏み入れると、由美子もベッドの中に潜り込む。

 スプリングが、ギシリと小さな音を立てた。


「うわ、せまくなった!」

「小さい頃は一緒に寝ても平気だったのにね」

「朝起きたら、お姉ちゃん床に落ちてるよ。寝相ねぞう悪いもんね」

「真子は、私と壁にはさまれて潰れてるかもしれないよ?」


 顔を見合わせれば、にっこり笑って二人は天井を見上げた。


「……まさかさ、お母さんたちが離婚するなんて考えてなかったよね」

「確かに。何だかんだ言って仲良かったしね」

「真子は、お父さんについていかなくて本当に良かったの?」

「なんで?」

「なんでって……それは、ほら……お父さん、お前のこと大好きだから」

「は?! やめてよ、キモい!」


 唾を撒き散らすような勢いでこちらを向く真子に、由美子は苦笑した。


「いいじゃん。私なんて、お父さんと会話したことあんまりないんだよ」

「思ったんだけど、どうしてお姉ちゃんってお父さんに嫌われてるの?」

「嫌われてるって、直球すぎてへこむ」

「何かしたの?」

「いや、私が聞きたいよ。何かしたなら謝るから、教えてほしいんだけど無理だしなぁ」

「お姉ちゃん!」

「ん?」

「なら、ウチが聞いてあげる!」


 ウチに任せて! と、目を輝かせる真子に由美子はまた苦笑した。天井を見上げて、目を閉じれば大きく息を吸い込む。

 知りたいのか、自分は理由を知りたいのか。しかし、知らないままの方が何かとうまくいくのではないだろうか。


「遠慮する」

「なんで?!」

「……だって、怖いじゃん」


 由美子は寝返りを打てば、真子に背を向ける。


「……でも、ウチはお母さんに好かれてるお姉ちゃんの方が羨ましいな」

「え、何言ってるの?」

「ほら、お母さん、なんでもかんでもお姉ちゃんお姉ちゃんじゃん」

「あー、うん」

「何か困ったことがあっても、ウチじゃなくてお姉ちゃんに頼るから、それはなんか……羨ましかったりする」

「でも、口うるさいよ? あれしなさいこれしなさいお姉ちゃんなんだからちゃんとしなさいって。まあ、長女だから仕方ないんだけどね、わかっているけどたまに嫌なときあるし」

「あ、じゃあ今はうるさいお母さん居なくて嬉しいでしょー?」

「それとこれとは、違うの。ほら、真子は明日も仕事でしょ。もう寝るよ」

「はあい」


 間延びした返事を聞きながら、由美子は眠りに落ちた。


「……口うるさい、か」


 そんなことを呟く真子の話を聞いてあげられてたら、この先ことを止められたのかもしれない。


 胸の中に溜まる黒いものをでながら、真子もまぶたを閉じた。













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