神和ぎ為り

1

 まったくあっという間の出来事だった。

 たった今。朝霧は神和ぎ為りの儀に臨むための真っ白な着物に身を包み、額と頬に神和ぎの里の長である神主様から赤土を練ったもので聖なる印を描かれている。

 精霊の里森で山吹とはぐれ、初めて会った精霊の気の強さに、意識を失ったのはつい数日前のことなのだ。


 精霊の森で気を失い、朝霧が目を覚ました時は、ひんやりと涼やかな腕に抱かれていた。

 朝霧は目の前の精霊の、光彩のないぽっかりと深い穴のような青い瞳に目が吸い寄せられる。

「あなた……だれ?」

 ほとんど言葉にならなかった。動いた唇からはため息の様な音が漏れた。

『お前には、私が見えるのか?』

 精霊から発せられる言葉は、まるで頭の中に直接響いているようだった。柔らかな音色が頭の中を反射して余韻を残していく。だが、精霊の唇は確かに動いていた。

 朝霧は、精霊の目を見たまま頷いた。

『お前、私の声も聞こえるのだな』

 朝霧が今一度頷く。

 カラカラカラカラ……。鈴を振るような笑い声が頭の中で乱反射した。

『ならば、おまえ、神和かみなぎか』

 朝霧はその言葉にはっとする。

「ちがいます。私はアユの里の朝霧と申します。普通の娘です。神和ぎ様では、ありません。神和ぎさまは、神和ぎの里にいらっしゃるとっても霊力の強いお方のことです」 

 朝霧は、恐れ多い間違いを正そうと声を上げた。目の前の精霊は楽しげに笑顔を見せている。

『したが、お前も神和ぎであろう? 精霊であるこの私と会話を交わすことが出来るのだから』

「ちがう、ちがいます……」

 精霊は、それ以上そのことについては何も言わなかった。

『私の名は保澄ほすみという』

 そういって、光彩の無い穴のような瞳で朝霧を覗き込む。

「あさぎり……朝霧ともうします」

 保澄はうなずくと「立てるか?」と、朝霧に聞いた。

 朝霧は保澄の腕から這い出し、立ち上がる。

 そう言えば、頭の中でキラキラと反射するようだった保澄の声が、緩やかな響きに代わっているような気がした。

「ああ、許せ。力の加減がうまくいかなんだのだ」

 保澄が言った。

「さあ、お前を送り届けてやろう」

 立ち上がった保澄はとても背が高かった。

 決して威圧的なわけでは無い。透けるような体に揺れるたびに薄青く光る長い髪。

 保澄が差し出した手に自分の手を重ねる時、朝霧はもしかすると、保澄の手を握ることは出来ないのではないか? と言う想いに囚われたほどだ。だが、それは杞憂だった。差し出された手ははっきりと重量を持って、朝霧の手に答えた。

『朝霧は、私の姿を見、声を聞くことができるのだな。こうして触れ合うことも出来る』

 滑るように山道を歩きながら保澄が聞いた。

「はい、はっきりと保澄さまを感じます」

『保澄でよい』

「え?」

『さまはいらぬ』

「ええ? ほ……ほす……み?」

 ドキドキと心臓が脈打つのを感じながら朝霧は保澄を呼んだ。

 保澄は出会ってから初めて笑顔を見せた。




 精霊の森は広大な敷地を持っていたが、どの集落にも繋がってはいない。たった一つ。神和ぎの里とだけ境界を接していた。神和ぎの里から続く森と、その背後に控える山脈の、人の分け入ることの難しいような高地はおおむね精霊の土地であり、精霊の森だった。人々はオグマ川に点在する集落と、その周辺の森を生活の拠点として利用している。

 気が付けば、すっかり辺りは夜の闇に包まれていたのだけれども、朝霧は少しも怖くはなかったし、手のひらから繋がるひんやりとした保澄の手が、不思議と自分の全てを包んでくれているような気すらした。


 そうしてしばらく歩いていた朝霧は、視線の先に膝をつき頭を垂れた数人の人間を見つけた。

 保澄に手をひかれるまま、人々の正面までやってくると、一番近くにいた老婆が面を上げた。

「神主、様!?」

 こちらを向いている顔は、千龍の郷を導く神和ぎの里の頂点に立つ、神主だった。

 神主である老婆は保澄の前にちんまりと手をついている。細い眼が、保澄を見上げている。

 朝霧は条件反射で神主様の前に膝をつき、手をついてひれ伏した。

 神主の後ろに控えていた数名の男女がそんな朝霧を立たせ、神主の後ろに導くと、共に保澄の前に手をつくよう促した。

『次の満月に、神和ぎ為りとサキヨミを……』

 頭上から保澄の声がきらきらと降り注いだ。

 顔をあげることはできず、そうしてしばらく頭を下げ続ける。

 保澄の気配が途絶えたのを感た。神和ぎたちが腰を上げ、ようやく朝霧も面を上げると、そこには夜の気配が残っているだけだった。

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