5

 次の日、山吹はたった一人で馬上にあった。

 昨日も一人で乗ってはいたが、絶えずチェインが手綱を握っていたから、不安を感じたりはしなかった。でも今日は、チェインも馬に乗ると言うので、手綱を持つのも自分自身だ。

 この砦にいる馬たちは、山から切り出した木を運ぶことを第一の仕事としているから、とても大きな体をしている。山吹は足をめいいっぱいあげて、鐙に置くと、鞍の前方についている握りに手をかけ、ひらりと体を持ち上げた。小柄な山吹の補助をしようと近寄ってきた男たちから「おおー」という、声が上がり、山吹は笑顔で肩をすくめた。

 乗馬用の服は、結局イェンネンから譲り受けた。

「この馬はたった一人でも朱の帝国の首都まで走っていけるくらいの子ですよ」

 そうチェインは馬上の山吹に声をかけた。

「朱の帝国の首都に連れて行かれたら困っちゃうでしょ!」

 言い返した山吹にチェインは破顔した。自分も馬に乗り、姿勢の取り方や、軽い合図の出し方、バランスのとり方を山吹に教える。

 そして数刻後には、二人は砦を後にしていた。


 二人が出立したころは、辺りはまだうっすらとだが朝靄に包まれていた。

 ぽくぽくと、馬を並べて歩いて行くうちに天からさす日差しが空中の靄を散らしていく。

「この街道は、朱の帝国が千龍の郷までの行き来をしやすくするために開いたものです」

 こんな山の中にこれほどの街道を作るのは大変な作業であったに違いないと山吹は思う。

「この道を、千龍と朱の民が互いに行き来できるようにしたいのです」

 チェインは言った。

「じゃあ私も!……えと、また遊びに行ってもいい?」

 山吹は聞いた。

「もちろんです。山吹の乗っている馬の名は白点といいます。ほら、肩のあたりに白い点があるでしょう?」

山吹が見ると、茶色い馬の右肩辺りがまあるく白くなっている。

「白点を山吹に預かって頂きたいんです」

「……ええ!?」

 驚く山吹には答えず「この辺で朝食にしましょう」と、チェインは街道から脇道に入っていった。


 木々の間を縫って、高い草も踏み分けて、二頭の馬は歩いてゆく。

「つきましたよ」

 チェインが細いけもの道から目的地に出ていくと、ようやく山吹の目の前も、視界が開けた。

「わあ」

 山吹は歓声を上げた。

 そこには、そう大きいものではないが、とてもきれいな色の沼があった。

 底をびっしりと水草が覆い、揺らめき、その色が水面に映るからなのだろうか、不思議な緑色の水面。水草の間を泳ぐ魚たちは、あまりに透明な水のためにまるで空を飛んでいるように見える。

「この先は、もう朱の帝国ではありません。道も険しくなります。ここで休んでから行きましょう」

 チェインは鞄の中から、薄く削った木の皮に包まれた握り飯を取り出した。

 沼の畔に胡坐をかいて座ると「どうぞ」と山吹にも包みを一つ手渡す。

「ありがとう」

 山吹は包みを両手で押し抱くように受け取ると、チェインの横に並んだ。

 中から現れた握り飯を、山吹は見つめる。飯を手にして食べているチェインを横目で見ながら、自分もそれにかぶりついてみた。

 もきゅもきゅと咀嚼をすると、柔らかくもちもちとしている。

 山吹は口の中の粒がなくなるまでじっくりと味わって食べた。

「おいしい」

 夕べ食べたごちそうはもちろんおいしかった。見た目もきれいで感動した。でも、いま手の中にある握り飯も、とてもおいしい。素朴で優しい甘みがある。

「米です。気温が低く高地である千龍ではなかなか育たない。ここではひえが主に取れると聞いてます」

「ひえなら、たしかに粥にして食べるけど……」

 そう言って、また米を一口くちにする。

 ひえとこのコメというものを比較してよいものかと思う。

「朱の帝国というのは、どんな国なんだろう」

 山吹は口の中のコメを咀嚼しながら、森の向こうを見るように遠い目をした。

「いつか来ませんか?」

 チェインは言った。

「いつか?」

 山吹は夢から覚めたようにチェインを振り返る。

「いけるの?」

 今度は体ごと、チェインに向き直る。

「ええ、あなたが望むなら」

「うん。いつか行きたい!」

 山吹はにかっ笑うと、また沼の方を向いて、今度はぱくぱくと勢いよく握り飯を口に運んだ。


 しばらく休憩したのちの行程は、今までたどってきた道程から比べると、道も細く険しかった。だが、山吹は馬に慣れてきたらしく、思いのほか順調にアユの里へ到着した。

 山道が開け、目の前にいくつも住居が立ち並ぶ集落が見え始めると、山吹は白点の背から飛び上がって地面に降り立った。

 いくら慣れたとはいえ、まだ自由に白点を操ることは出来ない。地面に降り立った山吹は、疾風のように集落へと駆け込んでいく。

 かけていく山吹の後ろ姿にチェインは苦い笑いを漏らすと、自分自身も馬から降りる。二頭の手綱を手に取り山吹の後をゆっくりと追った。


「山吹っ!」

「無事だったのか!?」

「里長! 山吹がっ」

 集落の中に飛び込んだ山吹の姿に広場に集まっていたものから声が上がった。 集落を入ってすぐに広場があり、そこに数人の男衆が集まっていたのだ。

 集落の入り口で、馬を入り口近くの柵につなぎとめながら、チェインはこの様子を眺めていた。

 すると、集落の中で最も大きな住居から、壮年の男が姿を現す。チェインの記憶にある顔立ちだった。そう、このアユの里の里長。

「山吹。無事であったか」

 山吹の父である里長は、目の前の山吹に目を瞠った。

「崖から落ちたと聞いて、心配していた。これから里の男衆で探しに出るところだったのだぞ」

 そう言った里長が、少し離れたところにいるチェインに気付き、じっとチェインに視線を注ぎ、そのままチェインに歩み寄ってきた。

「あなたは、確か……」

 チェインは静かに一礼をする。

「春以来ですね。アユの里長、飛沫しぶき殿」

「おお、名を覚えていてくださいましたか」

 里長は穏やかな笑みを浮かべた。

「もちろんです」

 チェインがそう答えたところで、山吹が二人の間に割って入った。

「父さま。どうして私が崖から落ちたと知っているの? 朝霧は? もしかして、朝霧は帰ってきたの!?」

 間に割って入り、掴みかかりながら尋ねる娘に里長は眉を寄せた。

「朝霧は帰ってはおらん。いや、朝霧がこの集落に帰ることはのうなった……」

「え?」

 山吹の動きが止まる。掴んでいた父の衣から手を放すと力なく数歩後ろによろめいた。その背をチェインが支える。山吹はチェインに背を預けたまま、両手で口元を押えた。

「ああ、違う。朝霧は無事だ」

 娘の心配を見て取った里長が言葉を付け加えた。

「へ?」

 そう声をあげると、山吹はへなへなとその場に座り込んでしまった。

「よかったぁ」

 そして、不覚にも、涙がにじんでしまうのだった。

「朝霧殿は、神和かみなぎの里で、神和ぎになることに決まったのです」

 里長の後ろから現れたのは、白衣に袴というかしこまった服装の男だ。神和ぎの正装。

「このようなところで立ち話もなんでしょう」

 そう言って、里長は集落の中で最も大きい住居の中へチェインと神和ぎを案内する。

 ついて行こうとした山吹に「お前は母の手伝いをせよ」と、言った。

 山吹は頬を膨らませたが、口答えをすることはなく「はい」と返事をする。里長に口答えをすることは、娘と言えど禁止されている。

「山吹、馬に水を与えてやってくれませんか?」

 飛沫に続いて住居へ向かっていたチェインが振り返ってそう頼むと、山吹は頷いて駆け出していった。

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