(六)

江東区・江東区・(都内某所)




(六)



Ⅰ:江東区:豊洲:夜



 仲本繭なかもとまゆはその夜、男達のせいで疲れきっていた。同僚の気色悪いデブと外見にお金をかけすぎの上司。この二人はソリが合わない。そのどちらに調子を合わせるのも、繭は気乗りがしない。

(あーあ)

 帰宅するやいなや、繭はバッグをぞんざいに放った。生活のために再就職を決断したものの、条件につられ警視庁などという厄介な職場を選んだのは間違いかもしれない。でもこの城の為だ。プータローでは手に入らない高級マンション。荷物を床に放っても散らかした感じのしない、このリビングの為なら。

 シャワーの水音が聞こえていた。テーブルには食べかけのポテトチップス、飲みさしの缶ビールが放ってある。

 繭は立ったままリモコンを拾いあげ、テレビのスイッチを入れた。

〈……この運転手は健康診断にも異常はみられず、仕事歴も申し分ないということですが……観光バス会社は大手でして、いわゆる過労の線は……これって小泉政権時代の、乗合・貸切バスに関する規制緩和がやっぱり悪影響を……〉

 報道の中身はネットとほぼ同じ。コメンテーターの見解もありきたりに感じられる。だから繭はすぐに電源を切り、値の張るソファに身体をどすんと預けた。

 シャワーの水音が——途切れる。

 同居人は濡れた髪のままこちらへ歩いて来るだろう。いや、まずキッチンに立ち寄って冷蔵庫を開ける。それから自分に気づく。

 繭はあえて廊下に背をむけた。ガラステーブルへ向かい、開かれていたノートパソコンをタッチする。ブラウザを開いて、ついつい検索してしまったキーワードは——岩戸紗英。写真がたくさんヒットした。でもすぐに消そう。見られたらまずい。私の好みだってバレてしまう。履歴も残さないほうがいい。

 スリッパの音が近づいて来た。重さがあった。肉感的な女の重力をはらんでいる。

 少女のような自分とは違う、大人の女の身体つき。その足音はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開け閉めした。やがて——

「あ……まゆちんだ」同居人の、第一声。

 繭は眼鏡のズレを直すと、振り返らずに呟く。「帰ってたんだ、みっちゃん。早いね」

 か細くて愛らしい声を出すこと。それがお約束。まゆちんのキャラ。

 ノートPCを叩く。履歴を消して、それから適当にネットサーフィン。男の名前で検索しよう。御題は何でもいい。たとえば——砂堀恭治。大丈夫、これなら毒にはならない。薬にはなるかもしれないけど。

 繭はあくまで後ろを振り返らない。それがお約束。

 同居人の気配が間近に迫った。バスローブから伸びる白い足が、ストッキングを履いた自分の黒い足に絡まってくる。遂に背中から、ぎゅっと抱きしめられた。声が漏れそうになる。しかし繭は我慢した。まだダメ。まだ振り返らない。じっと液晶画面を見続ける。

「面白い? こーあんの仕事」

 耳元で囁く、鼻にかかった甘い声。少女を演じる自分とは真逆。大人っぽくていやらしい。それが彼女の、お約束。

「どうかなぁ。確かに機密情報っぽいのはゴロゴロしてそうだけど」

「じゃあ面白くなりそうだ。カモろうよ。どうせ馬鹿ばっかでしょ」

 同居人の舌が頬を這った。「おいし……」

 あ。

 繭は反射的に声を出した。「ん……みっちゃんじゃ、ないんだから。国家権力なんてカモれないよ私」

「あははは」

 同居人があけすけに笑う。バスローブをわざとはだけ、素肌を押し付けて。

 弾力が繭の意識を朦朧とさせる。

「お仲間はどう? ガード固そう?」頬の肉を言葉が伝う。

 苦しい。我慢できそうにない。

 はぁあ、と吐息が洩れる。

 繭はやっとのことで言葉を紡いだ。「……長髪のバブル親爺と、おしゃべりのキモデブ……デブはよくわかんない。長髪のキャリアは凄いよ。有名人だもん」

「へー、誰?」

 繭は抱きしめられたままで、腕をテーブルに伸ばし、ノートPCのブラウザをスクロールさせ、上司のキャリアを紐解いて見せた。

 検索で見つけたニュースサイトの記事は、まだ日付が新しい。

——『人気ホワイトハットに三顧の礼・警視庁の新戦力となるか凄腕ハッカー』。

「警察が頭をさげて、連れてきたみたい」

 同居人は繭の肩越しに、長髪がなびく男の顔写真を見初めた。「わ……砂堀恭治じゃん! こいつへこたれないよねぇ。ブログに炎上仕掛けてやったことあるんだけど」

「なんでそんな事したの?」

「こいつを悪く言うだけで、お金くれる連中がいるって知ってた?」

「そんなに嫌われてるんだ」

「女にモテそうだからかな? なんかさぁ、エロい顔してるよねぇ」

 繭は頬をふくらませた。腹をたてたという素振り。すると同居人は背後から、膨らんだ両頬を両手で支え、強引に振り向かせた。

「まゆちんはデキるオヤジ……好き?」

 同居人は意地悪く笑う。

 繭は目を伏せた。もちろん演技だ。「男が好きなわけないでしょう」という意味の。「わかっているくせに」という意味の。

 誘っているのだ。ふてくされて見せれば慰めてくれるから。

 すべてがお約束。

 同居人は笑いながら、繭の眼鏡をそっと外させた。

 それから強く、強く唇を貪った。





Ⅱ:江東区:青海:夜



〈修学旅行バス事故の真実:運転手の勤務実態は? ……〉

 タクシーの後部席にテレビが着いていた。四本木篤之しほんぎあつゆきはそれを眺め、溜息をつく。まだ世論は自動車メーカーに言及していない。しかし、いずれはベガス製だと報じられるだろう。時間の問題だ。


 その夜、四本木はザ・リッツカールトン東京から直接帰宅せず、職場へと向かっていた。残業している社員を激励するためである。築地に立ち寄って手土産の寿司を買い、築地からお台場まで二十分あまり、後部座席で寿司が倒れないよう気を遣いつつ、テレビ漬けになった。おかげで事件の概要が頭によく入った。

「あ、ここでいいです。うん。こっちがね、裏口だけど近いのよ」

 タクシーを降りて夜空を見上げると、大きな観覧車が視界に入った。東京臨海副都心——通称・お台場の遊園地、パレットタウン。巨大なショッピングモールと合わせ、東京随一の集客力を誇る一大レジャー施設である。隣接するライブ会場からロックミュージックが漏れ聞こえて、夜の九時を回っていても、人の気配はしっかりと感じられる。その一角、最新の自動車テーマパーク〈VEGALAND〉の敷地内に、ベガスの本社研究所があった。

 ここ数日、本社研は不夜城と化している。百人からの技術者が集う大部屋、完全自動運転車の実現を目的とした「APタスクフォース」。精鋭の頭脳集団が働き詰めで、消灯しているエリアは半分もない。

 そこへ四本木は赤ら顔で、寿司折を手に参上した。「よ! 揃い踏みですなぁ皆の衆」

 誰も彼もが苦笑いだ。合同記者会見の延期は耳に入っているらしい。四本木は構うものかと、オフィスの狭間にある会議スペースにところ狭しと寿司を並べた。十人前はある。

「手が空いてるやつはつまんでくれ。言っておくけどね、安物じゃないぜこれ」

 社員たちが集まる中、四本木は右腕というべき課長の肩を叩いた。「バッチシだったぞ! 赤にしたのはぁ、大、大、大正解。サエちゃん気に入ってくれてるっ」

 サエちゃんって誰、という声が聞こえた。四本木は大きな声を出す。「知らないの? 岩戸紗英。討論番組とかよく出てるだろ」 

 そうやって「燃料を投下」する。電網庁のスポークスウーマンが美人だという話題でもちきりになる。他にも寿司を全員に分配するために飯粒の数を計算しようと言い出す者や、食事とスポーツと燃費の関係について燃焼サイクル理論を持ち出す者も現れる。総じて沈みかけた職場が明るくなった。これでいい、と四本木は思う。タスクフォースをあずかる部長職、技監の自分はムードメーカー。とにかく士気を下げたくない。不可能を可能にする為には膨大な熱量が必要だ。

 ところが同じ大部屋にいて、寿司に全く興味を示さずパソコンを睨む連中もいる。半導体の設計チーム。彼らはバス事故の調査で渦中にいる。以前もトラックのリコール騒ぎで徹夜を強いられた面々であり、今夜も家に帰れるかどうか気が気でないのだろう。

 四本木には覚悟があった。バスの一件で会社がどこへどう転ぼうと、開発スケジュールに遅れは出さない。出させない。今月末に予定していた、電網庁へのオートパイロット車両納品セレモニーは自粛を促されるだろう。しかし納品そのものは滞りなくやり遂げたい。国と連携した事業は年度をまたぐと次の年度末が目標になり、翌年、翌々年——と、ずるずる長丁場になりがちだ。企業側はたまったものではない。お役人がやる気になっている今、立ち止まるわけにいかないのだ。

 寿司の一つに四本木が手を伸ばした。すると「部長、顔が真っ赤です」「酒臭いですよ」などと若手が笑う。まさか車で帰ってきたんじゃないですよね、などとふっかけてくる。もちろん車メーカーの従業員が飲酒運転で捕まりでもすれば、確実に懲戒免職だ。

「何、その疑いの目。乗ってないよ。乗ってない。ってかさぁ、こういう時こそオートパイロットだよなぁ。サエちゃんにあげるんじゃなくて、俺が社用車に欲しいぐらいだよ」

 四本木は笑顔で鮪寿司を口に含んだ。明日からは会社との闘いになる。アレを延期、コレは自粛、状況を考えろ——などとわめくにきまっている、役員達との闘いに。

 そのとき、四本木はまったく気がついていなかった。自分の上着のポケットに、いつの間にか、財布が一つ放り込まれていたことを。





Ⅲ:(都内某所)



 経営難で潰れたガソリンスタンドの跡地に住む酔狂な人間はいない。そもそも法的には住宅地ではないし、マンションを建てたところで、土壌汚染の評判がたとうものなら儲けは望めない。しかしpack8back8パケットバケットはガソリンスタンドの跡地をそのまま根城にしていた。整備用の二柱リフトも含め、完全に居抜き物件として手に入れたから、法的には今もガソリンスタンドのままで、つまり自分は個人経営者だ。

 ガソリンスタンド跡地を収得した理由は簡単である。洒落たオープンカーに頑健な軍用トラック、時速三百キロを超えるリッター級バイク。ありとあらゆる高級車両を収集する人間が、誇らしげに自慢できる駐車場といえばガソリンスタンドを置いて他にない。ディーラーだとは思われたくないから、チェーンで区切らない。もちろん警備は厳重。監視カメラも沢山仕掛けているし、悪戯しようものなら警備会社の袋だたきに遭う。

 オフィスのガラス窓にはブラインドを吊りさげた。プライバシーの保護のみならず、斜光でコンピューターを扱いやすくする狙い。導入したマシンはwindowsが四台、macが三台、他にlinuxが六台。此処はさながら電子の要塞だ。専用エアコン付サーバールームまで造る念の入れようで、ケーブルの山や冷却ファンの騒音は皆無。目立つのは六枚の液晶画面のみと、あくまでガソリンスタンドのムードを保っている。接客用のカウンターや丸椅子も残した。居抜きで流用したという事実に満足していたいからだ。新品のタイヤやバッテリーが並んでいたショウケースには、自慢のカーアクセサリを並べている。キーホルダ、時計。ドイツ製が多いからポルシェびいきは自ずとわかる。わかるように並べている。

 液晶モニター六台は贅沢だ。しかし、それぞれに「鍵」を映すとなれば数が足りない。左上の一枚には五十男の顔写真と電子メールの履歴、そして音声データの波形。波はどんどん右へ伸びる。REC——録音中を意味する赤い文字の明滅。音声は細かく解析され、リアルタイムにテキスト化されていく。 


『乗ってないよ 乗ってない ってかさぁ こういう時こそオートパイロットだよな サエちゃんにあげるんじゃなくて 俺が』


 首尾良く事は進んでいる。男の声は大きく、早すぎず、澱みがない。音程が高めなのも好都合だ。四本木篤之——最初の「鍵」は簡単に開いた。

 pack8back8は黒い革のツナギに身を包み、フルフェイスのヘルメットと手袋も脱がず、ライダーブーツを履いた両足をデスクに乗せていた。汗をかかない体質で、いつまでもこうしていられる。この格好が好きだ。そしてスピーカーから発せられる音を、耳ではなく踵で聞くのが好きだ。

〈……乗ってないって、しかも酔ってないし。乗ってないし、酔ってないし。酔ってても乗れるけどさ。俺の世代はね。でもほら、ちゃんとね。何? その疑いの目ぇ……〉

 無防備な、そして地位のある中年男の声。それが文字列に変換される様は大好物だ。いきつけの寿司屋の名前。明日の予定。会議の中身。自宅の場所。家族の食事時間。妻の趣味。娘と仲の悪い子供の名前。それら全てが攻撃の材料となる。

 pack8back8は掌で、じゃらじゃらと鍵束を弄んだ。









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