(二十一)
(都内某所)
ドイツ製のスポーティな四ドアクーペを走らせながら、
〈……本日深夜〇時頃、情報通信研究機構より盗難された自動運転の実験用車両は、さきほど二時十八分頃、中央自動車道で対策チームが発見、永福料金所の手前で強制停止に成功しました。車のトランクからは昨晩より行方不明となっていた女性が、両手足を縛られた状態で見つかり、無事に保護され……〉
そこまで聞いて、舌打ちしながらハンドルを叩く。
二度、三度。
(対策チームだって? ……あのロータスか!)
中央道からの帰り、赤いテクセッタに併走する妙に遅い英国車には驚かされた。不便極まりない手狭で小柄な、サーキット以外ではまるで無意味なレーシングマシン。それがRの大きい(=曲がり方が緩やかな)中央道を時速一〇〇キロ未満でトロトロと走るなど到底あり得ない。そういえば抜き去った後、追ってくる様子もなかった。ああいう凝った車のオーナーなら、ラグジュアリー系のポルシェと見れば、獲物、ご馳走だと思う筈。なのに。
〈……捜査当局は、おなじく中央道にて白バイと接触事故を起こしたタンクローリー運転手・菅村詠一およびトラックの運転手・川島貴臣らが事件に関与しているとみており……〉
白バイと接触事故、というフレーズにひっかかる。大型車軍団は白バイに追いつかれ、停まれと命令され、逆上したのだろう。計画にないことをやってしまったのだ。ロータスの邪魔が入りカッカしていたのかもしれない。人選にも問題はある。暴力団経由でドライバーを四名調達、と同時に助手席にも筋者を四名乗せた。報酬が高額なだけに、連中は必死になりすぎたのだ。
(……というより……ロータスだ……あんなのが妨害に入ったら頭にも来る……覆面パトカー? ……まさかな。エキシージなんて化け物を配備したなら、警視庁は必ず
pack8back8を乗せたポルシェは、やがてアジトのガソリンスタンド跡地へと滑り込んだ。広いスペースの中でもっとも手前の、目立つところへと停車させる。
いつものように小さな手提げ金庫を手にして、ブラインドの降りたオフィスへと入った。とりあえず金庫は机の上に置く。中から銅箔にくるんだ薄いカードを取り上げ、まだヘルメットは脱がずバイザーだけをカチリと上げ、岩戸紗英の顔写真が入った電網免許証を眺めた。
(こいつが、こいつだけが……唯一の戦利品なのか)
すぐさまカードを銅箔でくるみ、他のカードと束ねた状態にして、ガラス張りのディスプレイ棚のすぐ傍、北欧製のデザイン金庫へと放り込む。時計やキーホルダーといった車関連のコレクションと並んでも遜色ない、木目調仕上げがお気に入りだ。
岩戸のゼロ種免許についてあれこれ調べるのは後にしよう。
今は失敗の原因を探ることが先決だ。
PCのキーボードに指を這わせる。監視カメラ画像解析の、総合判定はGREEN。ここへの侵入者はいない——それを確認して、ようやくヘルメットを脱ぐ。
頭を左右に振って長髪を和ませ、それでも砂堀恭治はしかめっ面を解かずにいた。負けたことが許せない。
(あいつ……あのロータスめ……)
砂堀は手早く警視庁へとアクセスし、Nシステムを引っかき回した。あの小粒な英国車、その写真を探すために。
一分とかからずナンバーは同定できた。
一分半後には登録ナンバーのオーナーにたどり着いた。
そして驚愕する。
「い……岩戸紗英……!?」
思わず声が出た。
まさかの、まさか。
魔女が——魔女たる所以を発揮したというのか!
砂堀の顔が苦悶に歪んだ、その時だ。
オフィスの窓ガラスが外から強く照らされ、降ろしたブラインドの隙間から光の矢が伸びた。
しかも光跡がゆっくりと動いて、強くなって。
やがて完全に静止する。
(車……?)
招かざる客だ。砂堀は気を引き締めた。何者か知らないが、ここは建前上、無人の施設。ただの駐車場。それで押し通すと決めている。
侵入者がいればセキュリティ業者が飛んでくる。それを待つのみ。
ところが——次の瞬間、オフィスのドアが荒っぽく叩かれた。
「おうぃ、開けてくれぇ」ぞんざいな、くぐもった、しかしかなりの大声が室内に轟く。
それからやや間を置いて「おうぃ、開けてくれぇ」という音声が、監視カメラのマイクを伝い、PCのスピーカーから再生された。
それを聞いて砂堀は青ざめる。
馴染みのある声。顔見知りの男。
このアジトを知らない、知られてはいけない、招かれざる、そして——セキュリティ業者が連れ出してくれそうに思えない男だ。
砂堀はゆっくりと立ち上がってドアに歩みよると、鍵を解き、外へ開け放ってやった。「どうしたんです? ……こんな夜中に」
「おう……お前さんに話があってなぁ……こんな所まで来て、すまないが」
けむくじゃらの筋肉男——飯島警視がそこに立っていた。
「どうぞ……暑いですね、今夜は」
飯島は半歩入ると目を丸くした。「うひょう……良い具合に効いてるな、エアコンが。さっき帰ってきたばっかりとは思えねぇ」
砂堀は顔色を変えずに返答した。
「コンピューターが、あるんでね。入れっぱなしで」
「…………だろう、な」
飯島は数歩も行かないうちに両手をぱん、と合わせた。「面白ぇな、ここ……さすがにガソリンの蓄えはないんだろ?」
「……知り合いの頼みで、ちょくちょく留守番をやるんです」
砂堀はわざわざカウンターチェアに腰掛け、中を誇るように両腕を広げた。
薄暗いオフィスは居抜きで使っているから、自販機まで完備されている。「あ、百円入れてどれでも飲んでください。お金は返せますんで」
「サンキュ。……ふむ、高級外車のガードマンってところか?」
飯島は自販機に歩みよるとコインを連続で投じ、がらり、がらりと二度、音を響かせた。両方を手に握ってしげしげと眺め、やがて。
砂堀に向かって突き出す。「どっちがいい?」
「どちらでも……毒なんか入ってませんよ」砂堀が笑う。
「だろうなぁ。こんなところへ砂堀恭治を尋ねてくる奴ぁ誰もいない。同僚はおろか宅配便さえ来ない。来させない。つまりこいつは自分専用の自販機だ……いや、さしずめ冷蔵庫ってところか」
「ご用件は何です?」
飯島は缶コーヒーを開けて一口飲むと、対面するようにカウンターチェアに腰を据え、淡々と言った。
「ありきたりな言い方でつまんねぇが……お前さん、自首しないか」
砂堀は髪をかきあげて、わざと尋ね返した。
「え? ……」
普段の自分を装う。「………何の冗談です?」
「俺を相手に、自首しろってんじゃないぜ? そこらへんの、そうだなぁ、交番にでも出掛けて、ハッキングの自慢話を聞いてもらうってのはどうだ。警視庁は勤勉だから夜中の交番にもちゃんと警官がいる。……ま、お前さんのホラ話だと思われる可能性もあるし、そうならんよう、俺が付き添ってやらんこともない」
「…………」
砂堀は薄笑いを浮かべた。
それを一瞥して、飯島が頭を搔く。
「警視庁が三顧の礼で迎えた、セキュリティ業界の大御所。それが砂堀恭治だ。お前さんが少々手癖が悪いと知ったら、警察の幹部は煮え湯を呑む気分で隠蔽しようとするだろう。最悪の場合、お前は自首すらできない身体にされるかもしれん……意味、わかるか?」
「…………はは。人が悪いなぁ、飯島さんは」
「だが末端の、所轄の地域課の警察官に知られ、のんびりとお縄になれば隠蔽は難しい。警察の不祥事としてメディアも騒いでくれる。悪いハナシじゃないだろう」
「…………あはははは」
「俺には選択肢が二つある……砂堀恭治の所業を警察幹部に報告する道と、本人に自首を促す道。で、個人的に……面白くない方の結果は見たくないのさ。わかってくれよ」
砂堀はふざけるように、カウンターチェアをぎぃぎぃと回した。
「面白い。面白いからあえて伺いますけど……僕がいったい、何をしたとおっしゃりたいんですか?」
「四年前、警察は砂堀恭治にとてつもなく興味を持った。セキュリティ監査のプロとしてNシステムの脆弱性を指摘した頃だ。それが三年前に愛媛県警で当たってしまった。まるで占い師に心酔する若い女のように、警察はお前を顧問として呼びつけ、サイバー防犯のレクチャー係に任命。ところが費用が嵩むので、警察は正規の職員になってもらえるよう交渉を始めた。それが二年前。しかし、お前さんは何度も断っている」
「…………柄じゃないですから」
「だが今年になって態度を変えた。それは何故か?」
「単に根負けしたんですよ」
「俺は簡単な仮説を立てた。砂堀なるハッカーは、そもそも警察への興味を失っていた。お抱え業者として自在に出入りできる権限を手に入れたら、知的好奇心は満たされてしまう。もはや用無し。そこへきて正規雇用なんて絶対ありえない。わざわざ収入が減る選択をとる意味がない……ところが今年になって、警察に入ってみようかという興味が湧いた。何故か?」
「……」
「……電網庁の成立。電網免許証制度の発足。そして、電網庁が警察と合流し、公安部隊を運用するという噂話を聞きつけたからだ」
「……ほぉ」砂堀は頷いた。「僕を相手に、わざわざ仮説をね。ご苦労なことです」
「なかなかいい着想だ……電網庁は民間企業を国有化した組織。つまり自分と同じレベルのハッカーがゴロゴロいる。ダイレクトに近づけば火遊びになりかねない。一方の警察はチョロい。その二つが合流するとなれば、警察に籍を置くことにメリットが生まれる。そういえばお前さん……電網二種を軽々突破しながら、一種の受験は回避したよなぁ」
「…………よく調べてますねぇ」
「俺の仕事が何か知ってるだろう?」
「公安総務課、十一係……行政機関に接近する……ハッカーの監視だ」
飯島はニタリと笑った。「お前さんにあらためて言うまでもないだろうが、電網一種には免責事項がある。ハッキング沙汰を起こした場合は例外なく自己責任。二種以下なら無実を主張していい。悪意ある人間に乗っ取られた、自分は被害者だとダダをこねることが二種は許される。一種は許されない」
「一種なんて、損ですよ」
砂堀は調子を合わせた。一般論の範囲で。「確かに自由自在にどこへでもアクセスしていい。海外の違法なファイルサーバーだろうが、ギャンブルサイトだろうが、児童ポルノだろうが。しかし責任が重すぎる。下手をすれば当局にお縄だ」
「イエス。だから二種持ちは……二種止まりの奴等は、みんな俺の監視対象になる。優秀な癖にその力を発揮しない連中。計算高く、悪意を捨てないハッカーの外面ってことだよ」
「……それ、酷いですよ。試験が難しそうだから受けないだけって事、ありうるでしょ」
「無論、全員じゃないぜ? 二種の受験で、ほぼ満点をたたき出すような恐ろしい奴に限って疑う。
「…………」
「申し開きはあるか?」
「いいえ。というか、何をおっしゃりたいのかさっぱりわかりません。飯島警視が勤勉で、僕の能力を警戒してたのは了解しました。そりゃあそうでしょう。警察は、僕を採用する前に身辺調査を行う筈だ。しかし僕が、晴れて警察に正規雇用された砂堀恭治が……一体、何をやらかしたとお考えなんです?」
飯島はカウンターチェアから立ち上がると、手でシャツの胸元をぱたつかせ、涼しげな表情でオフィスを歩き始めた。
カーグッズのコレクションが陳列された、豪華なディスプレイ棚の前で足を止める。
「キーホルダーに、ミニカー……時計が高そうだな。タグホイヤーに、ロレックス? よくわからんが」
「自分で買った物は半分ぐらいですよ。あとはいただきもので」
「女に貢がせるのが得意だそうじゃないか」
「……ネットにはそんな悪口を書かれてますね。まさか、朝から晩までくっだらない掲示板の見張りでもやってるんですか。なかなか良いご身分だ」
「何を言う。モテる男の自慢話を聞いてやろうって趣向だぞ」
「大きなお世話ですよ」
「教えてくれよ。どうやったらそんなに貢がせられるんだ」
「さぁて……僕はだいたい、仲良くなりたい女性には物をねだりますよ、ストレートに」
「それが全くわからねぇ」
「だって、居酒屋で隣りに座ったとするじゃないですか。女性は腕にアクセサリしてますよね。腕時計なんて結構イイ物をつけてたりする。そしたら目聡く褒めます」
「なるほど。で?」
「それ欲しいっていいます」
「はぁ? ……女物だろ」
「ええ。だから女物だよって言われますよ、みんなに。笑われる。そしたら言えばいいんです。じゃあペアになるような、男物ちょーだい、って」
「初対面だろ?」
「初対面」
「断るだろ、普通」
「断られますね。ダメ、あげないって言われたら、じゃあ時計いらないから中身がほしいって言ってあげる。目を見つめて。ね? ここまでがセット商品」
飯島が吹き出した。「狂ってるな、お前さん」
「そうですか? ちゃんと笑ってくれますよ」
「どういう意味だ」
「ピエロをやるんです。女の子たちを笑わせるためにやる。最低だ、こいつ馬鹿だって言ってくれたら、えへへと笑って席を立つ。合コンで五人いたら五人とも攻めます」
「ひぇえ。絨毯爆撃じゃねぇか」
「警察風にいえばローラー作戦」
「作戦ってのは成功させるためにあるんだぞ? ……とても成立しそうに思えん」
飯島が再び歩き出し、北欧製のデザイン金庫の上に手を乗せた。
砂堀は見て見ぬ振りをしつつ、続ける。「ところが中には一人二人、酔ったふりしつつ電話番号握らせてきたり、自分の腕時計を外して次に会うまで貸してやるとかいう奴、いるんです。かわいいでしょ。カワイイ奴等ですよ」
「……あのな、砂堀」
「お勧めですよ、このやり方。あ、ちなみに顔は選んじゃダメ」
砂堀は軽口を叩きながら、心の内では警戒を強めていた。
公安マンが無駄話をしながら歩き回っている様子が怪しい。身体に何か、探知機の類でも仕込んでいるのだろうか。間違いなく録音はされている。そう考えて然るべきだ。
飯島は大袈裟にのけぞって言う。「人生考えちまうなぁ……タグホイヤーになったりするのか、それが最終的に」
「最初のデートが時計売り場ってパターンもありますよ。希にね」
「ハードな夜の営み、肉体労働の代償か」
「エッチですか? ジラしますけどね、そこは」
「わかった、わかった…………もういい」
「わかりました?」
「ああ。参考にならないということが、よくわかった」
飯島は毛むくじゃらの手を後ろに組み、ゆっくりと歩いてオフィスを観察した。「お返しだ。俺がお前さんを疑った理由について、じっくりと話してやる。こっちは参考になるだろうぜ」
ときどき歩みを止めては砂堀に向き直る。そして顎髭を撫でる。
「今更言う必要もねぇが……警察はサイバー捜査が苦手だ。ここ数年、誤認逮捕やら何やらで世間から厳しい突き上げを食らっている。強化したい。砂堀恭治は喉から手が出るほどの逸材。だからヘッドハントした。だから仕方なく、お前が出した条件を……身体検査や体力測定、警察学校での訓練などを免じるという条件を全て呑んだ。まちがいなく破格の待遇だ。俺にとってはここが、一つ目のポイントだった」
「どこがです?」
「砂堀恭治は、身体のことをあまり他人に探られたくない」
「……」
「……お前が髪をかきあげて斜に構える癖な。あれ、格好つけてるわけじゃないんだろ。左耳に頼る癖。右耳が不自由。メニエール病というそうだな。三半規管が正確に機能しない。だから車酔いが酷い。子供の頃は、相手の言葉を聞き直したくて、頭の角度を変える癖を同級生に真似された……つまり、いじめられた。髪を伸ばしたのは、その癖を誤魔化すためでもある」
砂堀は舌打ちした。「親に……電話したんですか。そういうことするかなぁ」
「……しかし、右側で囁いた言葉も聞こえているのはどうしてだ?」
飯島がまっすぐに砂堀を見る。そして声を出さず口だけを動かした。
ス、エ……と。
(そうか……あの時)
砂堀は思い出した。
警視庁刑事部、捜査一課の会議スペース。末次刑事を前にして、飯島係長は自分の右側に座っていた。
そして、こんな事を耳元で囁いた。
——スエはホモっ気があるからな。気をつけろよ。
敏感に反応して、適当に返事をした記憶がある。
「……」あれは右耳側だった。砂堀は舌打ちする。
試されているとは思わなかったのだ。
飯島は不敵に笑う。「……俺はこう考えた。メニエール病だったことは事実。しかし完治している。左耳を突き出し、斜に構える癖は病気の名残りでしかない。ところがお前さんは車が苦手だと繰り返す。三半規管の持病持ちで、車酔いが酷い男という印象を俺に、あるいは緒方に刷り込んでくる。笑いそうになったがな。お前の運転免許証が人一倍充実しているって事を、俺は、とうの昔に知ってたわけだから」
「…………」
「極めつけが、この……」飯島は窓に近づいてブラインドを小さく押し下げ、パチンと弾いた。「高級車、高級バイクのコレクション。ご丁寧に、母親名義で買い漁る。お母さん、まったくのペーパードライバーだって? そのくせ、ランボルギーニってどんな車かご存知ですかって聞いたら、知ってたのには驚いたぜ。恭治がミニカーを欲しがるので、なんとなく覚えました……うん、いいハナシじゃないか」
「………………」
「とにかくだ。砂堀恭治は車が嫌い。世間ではそれで通してる。理由は簡単、車に執着する人間だと悟られたくないから。Nシステムの脆弱性に警鐘を鳴らした自分が、本当は翌年に愛媛県警のNシステムを堕とした張本人・pack8back8であると、悟られたくなかったからだ」
「………………」
「ハイテク日本車に精通し、最新鋭の交通システムを手玉にとるカリスマハッカー。その正体は……子供の頃からミニカーに夢中な、大の車好き。しかし三半規管を患ったせいで耳が悪い。乗り物酔いに苛まれる。学歴・仕事はパーフェクトながら、聴力検査が突破できず運転免許にだけは苦労した。しかし三十代で病気を克服、検査をパスできた感動を母親に泣いて語り、あらゆる運転免許を次々に取得……二輪、大型二輪、大型、大型特殊、果てはけん引免許まで手に入れた交通マニア。車に執着し、資格にこだわり続けてきた男だ」
「………………なるほど。理屈は通ってる。でも不思議だなぁ。なんでそこまで、こじれちゃったのか」
砂堀は反撃に転じた。「僕がカーマニアな事は認めますよ。車酔いが酷いとは言いました。でも運転できないなんて、一言も言ったことがない。でしょ?」
飯島は黙っている。
砂堀は右耳を指差して、軽快に喋り続けた。「耳は昔にくらべてずいぶん良くなりました。でも車酔いはゼロじゃない。いいクルマやらバイクが沢山ほしくなるのは、まぁ、なんというか……時計と同じです。コレクターの悲しい性ってだけで。あ、母親名義で買う理由は、彼女ゴールド免許なんで保険料が安いから。それだけです。考えすぎですって飯島係長。おっかしいなぁ。いったいどこでどう、勘違いが始まっちゃったのか」
「二つ目のポイントを教えてやろう。お前の人選センスだ」
「……は? 人選?」
「お前は十二係の立ち上げに際して人事権を要求した。ところがだ。蓋を開けてみて俺はのけぞったよ。津田沼和矢と仲本繭。片方はゲームのクラック(※ライセンスの不正利用)で会社を懲戒解雇された経験がある。片方は札付きハッカーと同棲中の、脱法ドラッグ常習者だ」
「…………」
「お前さんはなるべくデキの悪い男と女を部下に選んだ。さらに、その二人に大事な仕事を押しつけ、滞らせ、自分は被害者面をする……はっきり言えよ。あいつらの性悪さを知ってて、あえて選んだろ?」
「わかってないなぁ……過去の経歴を問題にしてたら、有能なプログラマなんて雇えませんよ?」砂堀は開き直った。「非常識な奴に限ってハッキングの技量、資質は高いもんです。これはねぇ、なんていうか、この業界じゃあ常識。飯島さんにはわかりっこない」
「違うな。お前には狙いがあった。ロクデナシを雇うという狙いが」
「…………狙い?」
「簡単だ。お前はNシステムを儲けに変えたかったのさ」
「……」
「砂堀恭治はNシステムの欠陥を知っている。悪意を持って破綻させることができる。あらかじめ計画を練っておけば、結構な金にもなるだろう。しかし、今までそのチャンスはなかった。あれだけNシステムを知り尽くしながら、金に換えることは出来なかったんだ。何故か? Nシステムが襲われてしまえば、セキュリティの権威・砂堀恭治の名前に傷がつくからだ。夜毎繰りかえす有名人気取りの女遊びは捨てがたい。だからお前はNシステムを食い物にできなかった。そこで考えた。Nシステムと、表向きだけでも縁切りできないものか……そうだ……警察に潜り込み、自分より能力の低い人間をNシステムのお守りにあてがえばいい。そして、その男が致命的なミスを冒したかのように偽装する。それなら自分の表の顔は傷つかない……そして、大金が懐に転がり込む。おあつらえの馬鹿も見つけた。それが津田沼だ」
「ほほぉ……もし本当だとすると、かなり酷い奴ですね、僕は」
「車専門のハッカー軍団・ブロウメンを組織する凄腕の交通系ハッカー……今夜、Nシステムを破綻させた男。甲斐原や津田沼を操り、岩戸紗英の誘拐を計画した……すべてお前さんの仕業だ。パケット・バケット」
砂堀はぱちぱちと手を叩き、喜んでみせた。
「面白い! 飯島係長、面白いです、とっても。ですが、ねぇ」
一転して、肩をすくめる。「無理がある。無理が」
「どこがだよ」飯島は口をへの字に結んだ。「お前が自首すれば成立するだろうが」
「できませんよねぇ、できない。だって何もしてないんですから」
「も一回、頭からやってみるか?」飯島は惚けた口調で言いながら、ポケットに手を入れた。何かをまさぐっている。
砂堀は冷笑する。「さっきから…………何かお探しですか」
「おうよ。岩戸紗英の電網免許証だ。どこかに隠しやがったらしい」
「ますます可笑しい」砂堀は苦笑した。「そんなものを、どうして盗るんです? そのパケット・バケットとかいうハッカーは、相当にチンケな泥棒野郎なんですか」
「一種免許の受験は回避した、しかし資格が喉から手が出るほどほしい……ましてや、岩戸のそれはゼロ種。最高に価値が高い」
「ふぅん。なら僕じゃないですよ。だって僕は、一種の受験を回避したわけじゃない」
「違うのか」
「大嫌いなんですよ。ああいう、いい加減な適性検査の類を……だから受けたくなかった。それだけだ」
「…………ふむ」
「わからないでしょうけどね、健常な飯島さんには。身体障害者が優遇措置を願い出たとき、たとえばクルマの免許が欲しいと望んだとき、世の中は決まって適性検査という名の下に人間の性根を確認しようとする。つまりね、病気が狂言であるかのように疑ってかかるんです。苦しんでる人間を試すような真似をするんだ。その癖、テストのほとんどが学問的根拠なんてないも同然。病人は工夫しますよ。本当に自分が病気であることを証明するために必死になる。どうしてです? どうしてこっちが工夫しなきゃならない? 健康な人間は何一つ工夫なんてしなくていいのに? ……そういうプロセスが大嫌いでね」
「いいなぁ。乗ってきたなぁ」飯島はにっ、と笑う。「貴様は権威主義的な業務独占資格の存在を忌み嫌っていた。だからルールの網をかいくぐって、耳の病気を誤魔化し、資格をかきあつめる男になった」
「誤魔化しって……失礼だなぁ」
「ブラックハットの心理ってのは異常だ。朝から晩までキャッシュカードの暗証番号、クレジットカードの署名、サーバーにアクセスできる社員証……ありとあらゆるIDを手に入れてカネに替えることばかり考える。だから当然、電網ゼロ種の噂を聞きつけて興奮した。資格マニアとしても垂涎の代物。そうだよなぁ?」
「ハァ? ……焚きつけて口を割らせようなんて、やめてくださいよ」
「電網庁の職員、それも選ばれた人間だけが持つスペシャルライセンス。それを不当な手続きで……正当な手続きにツバを吐きかけつつ手に入れたい。根っからの性分が燃えたぎった。ありとあらゆる可能性を吟味して、電網庁の職員になるキャリアパスを探し始め……その頃、電網庁が警察と合流する噂を聞きつけた。くだらないと思っていた警察のオファーを受けてみよう、ついでに念願だったNシステムとの縁起りも実現してやろう……などと思い始めた」
「そろそろ止めにしましょう。想像力豊かでミステリー好きな警察官殿の、推理ごっこ……まさか朝までやる気じゃないでしょうね」
「まだ続きがあるぜ? 警察と電網庁の合流が滞って、お前は地団駄を踏んだ。だから資金が集まっていたベガス社への企業テロ計画に岩戸紗英を組み込んで、彼女の電網免許証を……最上位のゼロ種を奪ってやろうと考えた」
「もういいですよ。終わりぃ」
「日本初の公道用オートパイロット車、あの赤いテクセッタが操舵できるという歴史的な価値を持つ、唯一無二の電網ゼロ種免許証をコレクションに加えようと……」
「終わり終わり。お腹いっぱいだ……帰って下さい。ほら。もう朝になっちゃいますって」
「警察と電網庁の合流話が流れたのには、落胆しただろう? 組織なんて物に期待した自分が馬鹿だった。そう思ったか?」
「官僚と一緒にしないでくださいよ。組織に期待なんか一度だってしたことがありません。それが良識あるハッカーってもんです」
「なぁ、自首しろよ。悪いコトはいわん」
「…………わかんない人ですね。飯島さん、あなたのお話は一から十まで妄想だ。何の証拠もないんだから」
「だよな」飯島は突然、口調を変えた。「俺もそう思ってたよ。ほんの三〇分前までは」
「……え?」
「お前が後生大事に物的証拠を携えて、ここへ戻って来るまではな。ポルシェが停まって、部屋に入って、三十秒も経たないうちに……お前さんが岩戸紗英の電網免許証を手にして、ニタニタするまでは」
「……」
「逃げおおせるのは、無理だぞ」
「嘘だ。デタラメです。そんなもん、此処にはありませんよ」
「あきらめろ。追尾してるんだよ。岩戸の免許証はここにある」
「笑っちゃうな。追尾なんてできるはずがない。このガソリンスタンドは私有地ですよ。いくら条例があるからって……」
砂堀は卓上のPCモニターを一瞥した。監視システムの報告を確認する。
間違いない。侵入者は許していない。「……持ち主が知らないうちに、勝手にセンサーを取り付けたりできないし……それに」
「それに?」
「……………カマをかけてるつもりですか? この僕に?」
飯島がニヤニヤと笑う。
砂堀は冷静さを保つことを心がけた。
挑発だ。そうに決まっている。
「あくまで一般論として申し上げましょう、飯島警視。RFIDカードの正確な探知は簡単じゃない。他のカードと束ねられたり、金属箔にくるまれたりしたら、反応なんてめちゃくちゃなはずだ。街中にセンサーがあるのは聞いてますけど、よっぽどの至近距離でしか正確で安定したカードの反応は得られませんよ。駅の自動改札と財布の中にいれた定期券ですら、エラーを起こすぐらいだ。仮に……」
「仮に?」
「……仮に今、飯島さんがズボンのポケットにセンサーを仕込んでいたとしても。僕が、もし岩戸紗英から奪った電網免許証を隠し持っていたとしても。他のICカードなり、金属の板なりを挟み込んでいたりでもすれば正確には検知できない。RFIDなんて、その程度の仕掛けですよ?」
「よくわかったなぁ」飯島はポケットからスマートフォンを取り出した。「……と、いいたいところだが、こいつはただのスマホだ。こいつに探知機の機能がついてれば、格好よかったんだが」
飯島はデザイン金庫の前で中腰になった。
「免許証……おおかた、こいつの中にでも放り込んだんだろう。違うか?」
「いい加減にしてくださいよ」砂堀は動揺を見せず、しかし毅然と言った。「お帰りいただけませんか」
「開けてみてくんねぇか」
「そいつは金庫ですよ。それを開けろというなら、あなたは強盗だ。僕に一一〇番させないでください」
「おいおい、悲しいこと言うな」
「残念ですよ……本当に残念だ、飯島さん」
「まったくだ。俺の手柄にならなかったってところが、まことに残念。自首の説得も聞いてくれねぇし、金庫の中も見せてくれねぇ。とことん残念な結果だ」
「…………妙な物言いをしますね。頭、大丈夫ですか」
「ばっちり冴えてる」飯島はにこやかに言った。「免許証を金属箔にくるんで、後生大事にカードの束に紛れさせでもしておけば、探知なんて不可能。今はそういう状態だ。岩戸紗英の電網免許証が間違いなく此処にある、なんて事はわかりっこない。たとえ俺が探知機を持っていたとしても。そうだろ?」
「よかったです、頭は正常のようだ」
「俺は令状も持っていない、ただの客人。お前さんが拒絶すれば侵入者。金庫を開けろなんて騒げば、俺は狂人。俺の方がぶち込まれる。そうだろ?」
「よかったよかった。落ち着いてくれたみたいで」
「しかしなぁ」ゴリラ男が、意味ありげに顎髭を撫でまわす。「一瞬でも金属箔をめくっちゃえば、そりゃあアウトだぜ。我慢できなかった、って事だろうけどなぁ。アレか? せっかくゲットした戦利品、一目見たいって気分になっちまった。そういうわけか? 犯罪者心理って奴だ」
「……しつこいよ」砂堀は露骨に顔をしかめた。「不愉快だ」
「不愉快? 俺もさ。こんな仕掛けが決定打っていう事実が気にくわねぇ。まことに不愉快。しかし、なぁ砂堀よ。ここに……」
飯島は派手なディスプレイ棚の前で立ち止まると、時計のコレクションが集められた中の、ひときわ眩い一角を指差した。「……ちょいと成金趣味なロレックスがある」
「…………ええ、ありますよ。もらい物だ」
「見た目は何の変哲もないロレックス。しかし中身まで調べたか? 調べてねぇだろう。ハッカーの名折れだぜ。こいつが時計型の何かだって可能性、勘ぐるべきだったんじゃないのか?」
「………………………………………………………………」
「…………ついでにいうと、誰にもらったか覚えてるか? お得意の合コンで出くわした、馬鹿ノリで騒がしい、男日照りなアラフォーだったろ?」
「………………その女が何か?」
「実はな」飯島は肩を落とした。「最高に残念なお知らせだが、そいつ男なんだ……しかも、お前さんの上司」
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