(十八)

中央道


Ⅰ:


 タンクローリー、停まりなさい。そんな声が聞こえた刹那、紗英は我に返った。拡声器? パトカー? ——助かる、自分は助かると思った。思ってしまった。期待が全身を駆け巡った。

 しかし数秒もせずに何かが転倒する衝撃が頬を伝って、それから拡声器の存在感が失せて——ああ、やっぱり助からないのだ、自分はこのまま死に向かうのだという気分が勝り、その瞬間どっと涙が溢れた。やっぱりだ。間違っていた。自分の人生は間違っていたのだ。そう思った。

(先生、私は……やっぱり私は、間違っていましたか?)

 箕輪浩一郎の顔が浮かぶ。東大に合格した夏、憎悪した兄が病死するという不意打ちを食らい、紗英は情緒不安定に陥った。十代半ばから五年間、自らにかけ続けた自己暗示が解けてしまいそうになり、それが怖く感じられて、大学時代は敵を求めるような言動を繰り返した。医療従事者の不正を暴く市民団体に参加したり、反原発運動に身を投じてみたり、およそ考えられる限りの「敵」を探し出し、反論し得ない正義を振り回し、そのために、あらん限りの知性を注ぐ癖がついた。

 ところがその癖を指摘し、紗英の目を覚まさせる男がいた。それが箕輪である。


——君のような人間に、私は知性を授ける意味を感じない。このゼミを去りなさい。


 大学教授に拒絶された。それは雷に打たれるような衝撃だった。叱られたのではない。拒絶である。

 先生という生物は時に生徒を叱るが、叱られた時は頭を縦に振っておけばいい、同調してやれば大人は退く——それが紗英の処世術だ。自分を教育しようとする人間を「復讐を邪魔だてする者」イコール「障害物」としか考えたことがない。叱責の中身、形而上の価値だけを抽出して、そこに愛など求めたためしがない。

 気が触れてしまってからというもの、母は自分を上手に叱ってくれない。

 バイト先の先輩から学業優秀な自分に対する卑屈な感情を向けられることはあっても、育ててやろうなどという温情を感じたためしがない。

 ファミレスで皿を割ったとしても手が滑っただけのこと。

 コンビニで万引きをしたところで金に困っていただけのこと。

 人生に失策があれば反省するまでのこと。

 叱責と心情を相関させたところで益がない。大人は大人の都合だけで叱っているのだし、子供は子供の都合で生きるべき。そういった認識しか持たない、持てない少女だった。

 生前の父が多忙な男であり家を留守にしがちだったことも、紗英の情操に大きな穴を開けていた。

 聡明な母の血を継いでいるという自負も。

 東大に合格できたという結果も。

 紗英が自らを独善的な正義漢に祭り上げる原動力となっていた。


 ところが。


——君のような人間に、私は知性を授ける意味を感じない。このゼミを去りなさい。


 箕輪浩一郎のゼミ。

 その門を叩いて半月もしないうちに、紗英は破門された。


——私はものづくりを念頭に置いている。ものづくりできる人間を育てたい。知性は何かを産み出すためにあるべきだと考えている。しかし君は……


 箕輪教授は東大において異色、異端の教員だった。当時、理系出身の教授が文化系のゼミを開くという、いわゆる「境界領域」での成果は乏しかった。ところが箕輪は学部を隔てた連携のみならず産学共同事業にも積極的で、得意のITを駆使し、医療機器やエネルギーやビデオゲームといった各々異なる分野に貢献、同時多発的な成果を収めていた。官僚製造器と揶揄される東大にあって箕輪が目指すコンセプト、提唱する社会システムは「二一世紀型の産業社会」であり、育成したい人間は「官僚ではなく産業人」と公言して憚らなかった。まだ四十代だった彼を「日本を牽引する知性」としてメディアが担ぎ、騒ぎ立てる。当時、箕輪に憧れを感じない東大生は一人もいなかった。

 紗英も、もちろんのこと、強い憧れを持った。

 ところが。


——君は無から有を組み立てる作業に興味がない。そういう人間は足を引っ張るだけだ


 紗英に自覚はあった。愚かしい発想を口にする先輩を皮肉ってみたり、無心に夜更けまで話込む時間を無駄だと断じたり。ゼミ内で頻繁に行われる学生同士のブレーンストーミングにおいて、紗英はおよそ馴染むということができずにいた。有り体にいって「浮いて」いた。自分の何が悪いのか。何がそうさせるのか。どんな教科書にもヒントは書かれていなかったし、解決策があるとするなら自分以外の学生を総取っ替えすることだとさえ思っていた。そこへ。


——このゼミを去りなさい。


 叱られたのなら謝ることもできる。

 批評されたのなら反論もできる。

 しかし違ったのだ。箕輪は自分を、単純に拒絶した。

 驚きのあまり紗英はその場で号泣した。人前で率直な感情を露わにしたことなど何年もなかったのに。箕輪は困った顔をして、まさかあの岩戸紗英が、氷の女王などと称される君が泣くなんて思いも寄らなかった、悪かったと謝った。それでも紗英は泣き止まなかった。後日、居合わせた学生から聞いたところでは、まるで幼児がバランスを崩して転んだ時のように、火が点いたように泣いていたらしい。

 そこから紗英のリハビリが始まった。以来箕輪ゼミで起こった出来事のすべては、「父性」とのファースト・コンタクトを受け入れた少女が、人間らしいバランスを取り戻すプロセスに他ならなかったが、紗英の助けになったのは教授ではなくむしろゼミの仲間達であった。合理主義と損得勘定に毒されきった娘に脱皮するきっかけを与えたのは、ゼミ対抗で選抜メンバーとなり徹夜で興じた麻雀大会や、三昼夜ぶっ続けの野外音楽イベントを支えるボランティア活動であった。性格は簡単には変わらない。コンプレックスは消えない。しかし習慣が変わり、経験が加わった結果、身体に変化が起きた。それは態度に現れていく。時間はかかった。かかったけれど。

 いつの間にか紗英は笑ってばかりいた。誰もが岩戸を「陽」の女と認めるまでになった。箕輪ゼミ始まって以来の首席卒業生にして、ゼミ対抗麻雀大会で連覇を達成した殿堂入りチャンピオン。赤門をくぐって以来、学生生活で得られた貴重な経験が、人生を支える新たな基盤となったのである。

 残された悩み事といえば卒業後の進路ぐらいのもの。初志貫徹で国家公務員になるべきか、それとも民間企業で力を発揮すべきか。箕輪ゼミでの経験が、復讐一辺倒の単純きわまりなかった自分を、当たり前の若者程度に複雑にした。喜ばしいと思う反面、不安を抱えるほどに弱くなったとも感じられた。


——君は民間企業に行くべきじゃないか?


 紗英は箕輪を父のように慕い、身の上の全てを話した。そういう間柄ということもあり、箕輪は官僚への道を勧めない。復讐の権化であった頃の思いを引きずるのはよろしくない、と言いたいに違いないのだ。だから紗英はこう答えた。


——先生、私は総務省へ行こうと思います。


 ゼミの仲間達が先生の教えを胸に秘めて、大手の商社やメーカー、電力会社、電話会社——ありとあらゆる民間企業へ就職する。彼らの面倒をみる人間が一人ぐらい、行政に潜り込んでおくべき。その役目って、私にぴったりじゃないですか? 岩戸はそう返答した。もう大丈夫です、先生。私はちゃんとした理由で官僚になるのです。そういう意思を込めた。紗英なりの返礼であった。


——確かにそうかもしれないなぁ。君が民間で勝負の才能を発揮すると、君がいる会社だけが一人勝ちになるかもしれない。


 箕輪はそう言って笑った。笑ってくれたのである。しかし後日。


 紗英は思い知らされることになる。

 箕輪が官ではなく民への進路を勧めた、その真意が——別のところにあったと。


(先生……私は……やっぱり私は、間違っていたのですか)






Ⅱ:中央道:東京方面(調布):未明




——前のタンクローリー、トラック、止まりなさい!


 拡声器を通じた指示が飛んでいる。赤いパトライトの光も見える。

 緒方は安堵の溜息をついた。間違いない。白バイが一台、追走している。

 右の車線にはエキシージ、タンクローリー、トラック——最後尾に白バイと、四台が縦に並んだ状態。

 左の車線にはアスカ号、それにトラックが二台続く。

 車六台の大集団。そこへ白い単車が張りついたのである。

 緒方は目を凝らしてバックミラーの様子に変化を求めた。

 これで。これで決着がついてほしい。だが。

 どの車にも止まろうという気配がない。白バイの警告は無視されている。

「マジ……かよ」

 やがて『三鷹市』の看板が目の端をかすめた。

 途端にアスカ号が減速へと転じる。例の六十キロ制限だ。有華ももそれに倣う。追従するタンクローリー、そしてトラック三台も減速。

 もはや高速道路とは言い難い状態。

 その間隙を、サイレンを鳴らす白バイだけが加速した。

 警告を発しても集団に変化がない。だから見切りをつけ、二車線のど真ん中を縫って前進。大型車軍団の前に割って入るつもりだ。

 しかし。

 赤いパトライトが大型車四台に囲まれた途端。

 助手席のドアミラー越しに緒方は見た。

 トラックが、タンクローリーが——幅寄せを始めたことを。

 二車線の中央に開いたスペースを、一斉に、潰しにかかったことを。

「あ……ダメ。ダメっ」有華が金切り声をあげた。「それダメえっ!」

 咄嗟に白バイは怯んだ。アクセルオフ、スロットルを閉じる。しかし。

 間に合わなかった。

 がきん、と金属塊の接触音。

 白バイがバランスを崩す。左に右にブレる。

 体勢を立て直そうとするが、大型車の作る左右の障壁が狭く、まるでピンボールのように——弾かれて。

「うわあっ」

 緒方は叫んだ。見た。見てしまったのだ。

 白バイから放り出された機動隊員の——末路を。

「や………やったな……」

 バイクは無人のまま数十メートルは走っただろうか。やがてバックミラーの闇へと消える。

 サイレンの音が遠ざかる。

 緒方は拳で自分の膝を強く、強く叩いた。

 何度も、何度も。「くそっ! やりやがったな畜生っ!」

 有華は絶句したまま六十キロをキープしている。最悪の結果に涙が出そうなのだ。その気持ちが緒方にも伝わった。

 しかし、そんな時間帯が二人の油断を生んだ。

 白バイを葬った後、背後の大型車軍団が左へ——アスカ号の背後へと車線変更を始めたのである。

 特にタンクローリーは路肩に近い位置へ車体を寄せていた。それから減速に転じる。

 六十キロで走るエキシージとアスカ号。

 その二台から距離を置くということは、つまり、五十キロ近くまで落としたということだ。

(どうしてだ。どうして減速を……)

 緒方は違和感を覚えた。路肩は狭くない。いや、むしろ広がりつつある。もしかしたら——左の端いっぱいに車を寄せておき、どこかで強引に抜きにかかるつもりではないか。

 この妙な車間距離は、その前兆ではないか。

「有華っ」だから声をかけた。

 しかし返事がない。白バイの末路にショックを受け、放心している。

「え」有華の返答は小さかった。

 ほんのわずかに隙が生まれた。

 刹那、緒方の瞳の端に路線バスの停留所——『三鷹』の看板が飛び込んでくる。

「まずい……またバス停だ!」

 路肩が。

 長らく狭かった路肩が、急激に広がっていく。

 しかも、さっきのバス停・深大寺とは様子が違っていた。ガードレールに阻まれていないのだ。路肩がそのまま広がって三車線、いや、四車線分の横幅を作り出す。

 そこへ猛加速しながら、時速にして九十キロは出ているだろう怪物軍団が突入。

 アスカ号の向こう側を、左側一杯を、駆け抜けていく。

「嘘っ、やられた!」有華は為す術無く見つめている。

 四台全部に抜かれることはなかった。かろうじて。

 しかし二台が前に出た。一番速かったのは荷台が空っぽの二トン車。横っ飛びしてエキシージの前を遮る。そして。

 ボディを大きくロールさせながら、光沢を放つ円筒の怪物が——赤い無人車、アスカ号の前へと躍り出る。

「くそっ」

 緒方は苦々しくマイクに告げた。「タンクローリーが前に出た、やられましたっ」

 でも、まだだ。まだチェックメイトじゃない。

 右にトラック、そしてエキシージ。

 左にタンクローリー、そしてアスカ号が続く。

 つまりタンクローリーは自動運転車の真正面。まだ「斜め前」じゃないんだ。

「有華、あいつを、銀ピカを右に出させるな!」

 緒方は運転席を見た。有華の横顔を。

 物凄い形相で前を見据えている。

 ここからどうやる。どうやって盛り返す。それを必死に考え続けている。

「タンクローリーを右に出させるためには、前のトラックが加速すると思うんだ」有華は冷静に言った。「でも、トラックが加速したら私たちがぴったり追従すればいい。簡単には、右に出させないよっ」

 緒方は人工知能に問いかけた。残り時間を。髷はあと五分と返答する。本当に五分残されているだろうか。アスカ号は何時、急加速しないとも限らない。

(そうだ。もしや……?)

 緒方はわずかな勝機を見出した。

 後ろのトラック二台がエキシージとの車間を詰めてこない。追突してくる気がなさそうだ。

(前に出た二台が何かを仕掛ける……その二台を明るく照らすために、後ろの二台は安定走行を選んだ……そういう判断か?)

 こっちにとっては好都合。小突かれさえしなければ、再び狙撃のチャンスが生まれる!

 緒方はライフル銃を構えた。

「ギィさん、今ならやれそうですっ」

 HMDの赤枠にテクセッタの右前輪を収めた。忍者が青白く光りだす。

 しかし——

〈……フレームレート最適化条件、収束せず……シャッタースピード再調整……〉

 緒方は絶句した。

 髷を包んだ青い光が、ゆらゆらと明滅している。

 いつまで経っても、トリガーを引く予兆が感じられない。

「ギーさん!? なんで撃てない……」

 そのときだ。

(え……何……何だ)

 緒方は異様な光景に戸惑った。

 HMDの上、視界の端で数値がめまぐるしく書きかわる。

 チビ忍者の挙動、光の明滅に合わせて、赤い枠の中の映像が微妙に変化している。

 あるときはコマ落ちしているようにみえて、あるときは手ブレした写真のように——ぼやけて。

〈げ、げふっ、ま、髷の字! タイヤ径、64cmでっ〉GEEの声と。

〈タイヤ径、64cm……車速84キロ±0.05……一秒あたりのタイヤ回転数11.61093……フレームレート再調整哉……再調整也……〉髷の声が混ざり合う。

 女ハッカーとその家来は、捉えた画像を解析している。そして何かを。

 何か「答え」のようなものを探っている。

〈……シャッタースピード再調整哉……再調整也……〉

〈それや!〉女ハッカーがシャウトした。〈よっしゃああ、見えたぞ緒方っ〉

〈フレームレート・シャッタースピード確定し候〉

 と同時にHMDの画像が——突如としてクリアになった。

「そういうことか!」

 緒方は朧気に理解した。

 何を、どう狙うべきかが、感覚として。

 タイヤが——激しく回転しているターゲットが、止まって見える。

 側面に刻まれたロゴが。ホイールの金属模様が。

 まるで静止画のようにはっきりとしている。

 もはや「動画」とは言いがたい。それは飛び飛びの、くっきりとした、ブレの一切ない、いわば「連続写真」だ。

〈一発一発が弱かったら、十発、二十発、同じ場所に当てたったらええんや……〉

 回転するタイヤを正確に狙うべく、たった今、GEEは即席でプログラムを修正したのだ——緒方はそれを理解した。

〈……髷っ、ロゴのど真ん中、Xの字があるやろ……そのXのど真ん中だけに全弾当てるぞ!〉

〈御意。目標、トラッキング開始……シャッタースピード、フレームレート、絞り値、走行相対速度へリンク済み哉……〉

 髷の全身に数十個の数値がまとわりつく。

 人工知能が、リアルタイムに、高度な演算を繰り返している。

〈走る速さが変化しても追従できる筈やぞ……緒方、あとはお前次第や!〉

「押忍っ」

 しかし。

 道路のギャップを車体が拾う。

 跳ねるたびに銃身がドアに蹴り上げられ、照準がブレる。

〈……緒方殿、目標を赤い枠に収められよ〉

〈腹黒ダヌキぃ、根性見せてみいや!〉

 言われるまでもない。銃口を向け続けるべく右手に力を込める。脇を締める。歯を食いしばる。だが、それにも限度があった。

「有華! 頼む! 安定させてくれっ」

「やろうとしてるってば!」

 だが、敵は二人の奮闘を待ってはくれなかった。

 エキシージの前にいた二トン車が、いきなり急ブレーキを踏んだのだ。さっきのお返しといわんばかりに。

「……わ!」

 目前で赤いブレーキランプが点灯する。有華はブレーキングを余儀なくされた。

 失速したエキシージが後ろへ。

 後ろへ退く。

 緒方はアスカ号を視界に収められない。

 タイヤを赤い枠線内に収めることが叶わない。

「有華!」

 どんどん、どんどん遠ざかる。

 自分たちと前のトラック。その間に大きなスペースができる。

 次に、生じた隙間へと、銀色に光る巨体がなだれ込む。

「だめっ」

 有華と緒方は目を丸くした。

 タンクローリーに、遂に、尻を向けられたのだ。

「まずいぞっ」

 右にトラック、タンクローリー、そしてエキシージ、その後ろにトラック。

 左にアスカ号、そしてトラックが2台。

 エキシージは完全に囲まれた。そして前にも後ろにも、煌々と照明を焚く化け物がいる。悪魔の巣へと囚われている。

 為す術が、ない。

 緒方は左斜め前を凝視した。

 悪意に満ちたタンクローリーと、哀れな無人車アスカ号。二台は昼間のごとき煌々と明るい空間を、時速六十キロで進行している。

 しかもアスカ号の「斜め前」で、タンクローリーは。

 その巨体は、鏡の如く輝いた。

 刹那。

 赤いテクセッタが急加速に転じる。

 トランクに岩戸紗英を乗せているであろう、自動運転の車。それがどんどん加速していく。

 七十キロ。

 八十キロ。

 九十キロ。

 その背後に、ぴったりとトラックが続いた。さらにその後ろにもトラックが。

「ご……誤動作だっ」緒方は焦った。「スピードが……上がった!」

 最悪の状況が訪れようとしていた。

 二人の視界には前を走るタンクローリー、左を走るトラックの側面だけが見えている。

 もはやアスカ号は見る影もない。

 二台のトラックに阻まれた向こう側だ。

 ロータスが追突したとしても勝ち目のない、極めて鈍重な大型車の壁。その向こう側だ。

 届かない。

 岩戸を乗せた車が、手の届かないところへと——走り去っていく。

 緒方は咄嗟に路肩を見た。

 狭い。狭いのだ。クルマ一台が通れる幅があると思えない。

 つまり、この大型車が作り出す障壁を取り払うチャンスがない。

〈何があった!?〉垂水局次長の声だった。〈加速してるぞ……百キロを超えた……六十キロ制限じゃないのか〉

〈有華っ〉香坂が似つかわしくない怒声を吐いた。〈諦めるなっ〉

〈食らいつけ!〉GEEの声だ。〈緒方っ、退いたら負けやぞっ〉

 遠く離れたベガス社で——電網庁の新庁舎、サーバールームの奥底で。

 自動運転車の挙動を見守る全員が声を張った。

 しかし。

 状況を一番良く知る緒方は叫ばない。

 叫ぶことができなかった。むしろ。

 絞め殺される寸前のように、低く、くぐもった言葉を吐いた。

「やめろ」それは。「やめてくれ」

 それは祈りに似ていた。

 運転席では有華が。

「嫌だ」有華が呻いた。

 目尻に大粒の涙を浮かべて。「嫌だっ!」

 緒方は問うた。自らに。これが、こんなものが運命なのかと。

 常代有香と岩戸紗英。互いに秘密を抱え、打ち明けることなく過ごしてきた二人。近くにいたけれど遠かった二人。それが今日、珍しく喧嘩して。それが意外に深刻で——けれど今なら、もう腹を割って話せる。そうに決まってる。だから。だからもう一度、もう一度だけ二人を会わせてやりたいんだ。それだけだぞ。たったそれだけ。たったそれだけのことが、俺にはできないのか? 

 叶えてもらえないほど、大それた願い事なのか。


 もう、駄目なのか。








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