(十四)
(都内某所)・渋谷区・国立市
Ⅰ:(都内某所):未明
赤いテクセッタ——アスカ号の仕掛けは、すべて情報通り。
運転席のドアを開け放ったままシートに腰掛け、カーナビをいじりつつ、紙マスクに覆われた口元がほくそ笑む。十和田美鶴には手応えがあった。ハッカーとして、女として、岩戸のスキャンダルを仕掛けるという大役に、自分ほどおあつらえむきな人間はいないだろう。
「おもしろいね、これ」
「うん、すげぇ。チョーおもしれぇ」
助手席でサングラス男がうひゃひゃ、うひゃひゃと嬌声をあげている。たった今この男は運転席が空っぽのクルマに乗り、サービスエリアの駐車場をくるりとひと回りして戻って来た。かなりのテンションで頬を上気させている。縛った女を殴りつけ、一斗缶の油を注いだ時よりも興奮しているようだ。初対面だがなかなかの変態野郎だと思う。同居人を四六時中殴る自分もたいして変わらないけれど。
やがて、ちょうど向かい側にタンクローリーが停車した。予定から一分も遅延がない。助手席からヘルメットを被る男が、ノートパソコンを抱えて降車する。
(あいつが——pack8back8!)
美鶴も興奮を隠せない。ながらくVainCrainというハンドルネームを騙り、犯罪者の巣窟たる
pack8back8はいわばブラックハットの中のブラックハット。大口顧客から大金を得て、小口の仕事を雑魚に与えるストロングホールズきっての成功者。スター。憧れの的。
(凄い奴が……目の前にいる!)
付き合いは長いが顔をあわせるのは初めてだ。美鶴には車の専門知識がないから、どうあがいてもブロウメンの仲間には加えてもらえない。今回のような「女性限定の仕事」が存在しなければ、一生会えなかっただろう超大物。
ヘルメット男はゆっくりとテクセッタの運転席側へ歩み寄り、黒いライダーブーツの踵をアスファルトにかつんと打ちつけ、革グローブをした右手の親指をグッとあげてみせた。
「準備万端、といったところかい?」
くぐもってはいるが男の声だと判る。美鶴は紙マスクをしたまま無言で首を縦に振った。
助手席からサングラス男が声を出す。「あんたが警察巻いたって、マジ?」
pack8back8は手に抱えていた黒いノートPCを開き、Nシステムが捕らえた写真らしきものがずらずらと並ぶ液晶画面を誇らしげに見せた。
「銀ぴかのタンクローリー、赤いテクセッタの写真を、都内のあちこちでNシステムが大量に撮った……という状況を作り出してある。しかし発見できない。パトカーも白バイも首をかしげるだろう。かれこれ一時間は経つから、そろそろやる気を失っている頃だね」
美鶴も自前のタブレットを取り出すと、同じ画面を確認して笑った。「確かに、これじゃあ祭りだ」
「トランクの中身、見るかい?」サングラス男が言った。「油まみれの美魔女。何発か殴ったから、もう美魔女じゃないかもだけど」
「その前に……戦利品をもらっとこうか」
サングラス男が岩戸のバッグを、そして美鶴が薄っぺらいICカードを一枚差し出す。
「これ、欲しかったんでしょ?」と、紙マスクの下で微笑む。
pack8back8はヘルメットのバイザーを半分ほど上げ、岩戸紗英の写真が刻まれていることを確認する。それから美鶴と目を合わせ、軽くうなずいた。
互いに目しか見えていない。街中ですれ違ってもまずわからない。そんな交流をブラックハットは良しとしている。
「電網免許証。確かに、いただいた。あと一つ……データロガーは?」
サングラス男が助手席のグローブボックスを開いて、黒い箱状の物体を取り出す。
美鶴はそれを手に取り、しげしげと眺めて言った。「これね。言われたとおり、エンジンを始動させる前に外したわよ」
車載用データロガー。車の情報すべてを遠隔地に届ける、いわば携帯電話の役目を果たす代物。外しておけばベガス本社には何の情報も届かない、ということだろう。
車の知識に乏しい美鶴でも作業は二分とかからなかった。
「簡単に外せたんで、ちょっと拍子ヌケしたけど」声音に嘲笑を含ませる。
「このデータロガーはカナダ製の汎用品だ。ベース車両がもともと北米仕様だから、テレマティクス(※自動車の遠隔通信)もアメリカ流なのさ」
国産のテクセッタはもう少し手が込んでいる。そう言ってpack8back8は美鶴たちに降りろと指示した。お役御免というわけだ。
pack8bak8は運転席に収まると、背負っていた小振りのバックパックから黒い箱を取り出した。まったく同型のデータロガーらしい。それをグローブボックスの下側、もともとオリジナルが設置されていた場所へと結線する。ダミーということだろう。さらに、不要となったオリジナルの側からSIMカードらしきものを抜いて、ダミーの方へ挿入。
(なるほど……そうするわけ)
二つの黒い箱が入れ替わった。形状はまったく同じ。しかし、ダミーには自前の改造が施されているに違いない。
さらにpack8back8は自前のノートPCと車を結線し、助手席の下へ潜ったり、あるいは車の電源を入れ直しつつ、さまざまな操作を行いながら、自動運転の挙動を確認している。
やがてエンジンを始動し、最後にバックパックをまさぐり、薄い銅箔を取り出して岩戸の免許証をくるんだ。それを複数枚のクレジットカードで挟み、小さな金属箱へ入れ、その箱をバックパックへと放り込む。
「そうしておけば、免許証って探知されないんだ?」
美鶴は眉をひそめる。「車からも認識できなさそう」
「確かに……でもエンジンさえ止めなければもう電網免許証は不要です。アスカ号にはこのまま走って行ってもらうから」
つまり、ゲーム開始ということか。美鶴は武者震いした。
pack8bak8はテクセッタを降車すると、誰も乗っていない運転席のシートベルトをかちりと締めた。それからドアを開け放ったまま車の外をぐるりと一周し、タイヤの種類や状態を丹念に調べている。ドアを開けたままにしておくと走り出さず、閉じれば走り出す仕組み。
「全てランフラット・タイヤか。おあつらえむきだなぁ」
pack8back8は革グローブをはめた拳で、トランクをこつりと叩いた。「……岩戸紗英。総務省トランク課課長さん。聞こえる?」
ヘルメット越しのくぐもった声で、罵詈雑言を浴びせ始める。
「あなたって最悪です。最悪。ファシストなんだって? でしょう。ファシストでしょう。独裁が目的なんですあなたは。国民から自由を奪うのが目的。だとしたら魔女なんて素敵なもんじゃない。小汚いメス豚です。死になさい。殺してさしあげますよ。正義の鉄槌って奴を、振り下ろしてあげますよ」
サングラス男がニタニタしながら気を利かせ、運転席のスイッチでトランクを開ける。
油と涙とガムテープで覆われた女の身体が外気に触れた。
そこへpack8back8は上半身を突っ込み、叫ぶことも動くこともままならない顔に、黒く堅いヘルメットをごりごり擦りつけながら罵った。
「ねぇ……国民を免許制で縛るってキモチイイの? 政治家とか役人とか転がして、法律さえ作ったらこっちのものとか思ってるの? キチガイ。キチガイの発想だ。おお怖い。でもね……わかってない。あなた、わかってない。ファシストさん敗北。ネットってね、ネットっていうのはですね、クソだらけなの。とっくの昔に……」
そこまで言ってpack8back8は、ヘルメットごと頭をハンマーのように振り下ろした。「……クソまみれなんだよ!」
鈍い、衝撃音。痛みを伴うだろう響きに美鶴はびくりと反応した。そして怯えた。
こいつは天才なんだろう。でもイカれてる。完全に。
「…………ふう。お偉いさんが掃除してやろうったって、そうはいかないわけ。もう絶対無理なわけ。わかる? 馬鹿が掃き掃除するよりめっちゃ速く賢いのがたっぷりクソを撒き散らしていくわけです。俺たちがです。捕まるわけないですよ? 警察なんてゴミ溜め。警察にすり寄る貴方はゴミにたかるハエですね、そう。お前はハエ女だ」
女の嗚咽とハッカーの邪念が、闇の中でハイブリッド車にまとわりつく。
「規制とか舐めた真似するから、こうなる……ここは遊び場なんです。昔っから、俺たちここで遊んでるわけ。自由を謳歌してるわけ。だからね、邪魔するからね、こうなっちゃうのですよ。痛い? 痛かった? 自分のせいだろが阿呆。自分でさ、敵を作っちゃうからこうなるわけだろ馬鹿。…………ね? 敵を作らない人生にしないと、美人に生まれても無駄ってことです。ねぇ? …………聞こえてる? 後悔してる? ね……おい。誰が美人だって? 後悔しやがれ、このクソドブスが」
罵倒を浴びせ続け、やがて飽きた頃に——pack8back8はトランクを閉じ、表面を強くバン! と叩いた。
それから運転席のドアも閉める。
喧噪が止んだ。
静寂が訪れる。
それからやや間があって——赤いハイブリッド・カーが動き出す。
モーター駆動の車は静かだった。
静かに。
とても静かに、絶望のドライブへと旅立っていく。
Ⅱ:渋谷区:初台:未明
GEEの指摘に香坂がハッとする。カード型でない電網免許証の試作品。ネックレス型と、腕時計型のことだ。
「そうか。岩戸さんはネックレスを着けてる。免許の反応は二倍……くそっ、わかってませんでした」
だからか。
だからノイズのような反応が多いのか。
あわてて香坂はキーボードを叩き、メニューをひっくり返す。探知システムの地図画面から設定画面へ。それから思案してエディタを。ソースコードを開き、目を皿にして読み直す。
同じ人間を意味する二つの電網免許。二つ同時に探知した時は、センサの認識率がより高く、正しい結果に思われる方を選択していた。つまりもう片方はエラーとして捨てていた。香坂は追加でコードを書き始める。一人の人間を二つ以上のルートに仕分けできるように。
修正にはテストが必要だ。けれど時間がない。プログラマとして自分の感覚、経験を信じるしかない。
「タイプX、幾つありますか」
「タイプXの#01はネックレス。#02と#03が腕時計。ちなみに腕時計型は発信だけじゃなくて受信もできる。それ、わかっとけよ」
「了解……時計タイプって二台あるんですか」
「一台はゆかりんが持ってる。#02ね。もう一台はどこにあるか不明。管理者はどっちもUNKNOWN」
香坂は目を丸くした。
「UNKNOWN!? ……」
GEEは肩をすくめる。「ウチも知らんで? #03がどこにあるんか」
Ⅲ:国立市:谷保:未明
ロータス・エキシージの助手席で、緒方は淡々と語り続けている。
「岩戸紗英は自分の生まれを呪った。だから必死に、死にものぐるいで努力した。コンプレックス、憎しみ。それが働きながらの東大受験、国家公務員一種への合格、そして立身出世の原動力となった。でもあの人、有華には自分と同じ感覚を押し付けたくなかったらしい。自分の歩いて来た道は修羅の道、鬼の道。普通の女の子の規範にはなりっこない」
「普通の女の子だから駄目、ってことじゃなくて?」有華は首を横に振る。「能力が足りないんだよ、たぶん私の」
「有華がNICTから電網庁に移籍できない理由のことを、言ってるのか?」
「…………うん」
「わかってなさそうだから教えてやるよ……岩戸さんにも、有華にも、どうにもできない話だ。もちろん能力の問題でもない」
「どーゆーこと?」
「警視庁と電網庁が合流して公安部隊を立ち上げるって話、ぽしゃっただろ? それの影響だ。合流が叶う前に、有華を電網庁へ移籍させるのはマズイ。なんてったって警視総監の姪なんだから」
「よく……わかんない」
「もしも有華をNICTから電網庁に移籍させて、それから警視庁と電網庁の合流が叶ったとするだろ。それを世間がどう思うか、ってことさ。すべては岩戸さんによる計略で、電網庁が高柳総監の姪っ子を特別扱いした結果、総監は私的な感情が絡んで合流話に乗り気になった……あるいは、姪っ子の就職を手土産に岩戸が警察を
「げ……マジで?」
「メディアに騒がれなくても、イジメられる可能性はある。総監の姪っ子だから重宝されただけの女だとか何とか、陰口叩かれたいか? 実力だと誰も認めない。折角移籍しても、組織の中で不和の種になるだけ。それって寂しいだろ? また日陰の身に戻るのは……嫌だろ?」
「……うん……」
「岩戸さんはいつも有華を、実力で登らせてやりたいと考えている。だから警視庁との合流話が一旦流れた時点で、移籍話も保留にするしかなかった。全部有華のためを思ってのことだよ」
有華はすっかり得心して、それから意気消沈した。岩戸は自分のことをしっかり考えてくれていたのだ。それがわからない自分がどうにも情けない。
車内の空気がどんよりと澱む。
緒方が唐突に声を張った。「聞こえるか? 香坂っ」
有華はHMDのイヤフォンに耳を傾ける。返事はない。かわりにキーボードを叩き続ける音が微かに響いている。
緒方は畳みかけた。「さっさと岩戸さんめっけて、このバス事案、片付けようぜ! 電網庁が大活躍して警察が事件解決。そしたら合流話が復活するきっかけになるかもしれない。有華の移籍話を叶えるには、俺とお前が……力を合わせるしかないってことだ!」
〈……〉
「違うかよ、香坂っ」
〈……中央道だ! テクセッタは、八王子インターから中央道に乗ったっ〉
有華の両目が弾かれるように開いた。「八王子ぃ!?」
エキシージは国立府中インターの前に停車している。八王子は隣のインターだ。
中央道に乗って、追跡しろということか。しかし——
「ど……どっち?」
上りか、下りか。有華はカーナビ画面を凝視する。
「東京行きか、その逆……山梨か。どっちに行ったのっ」
〈すまんが、わからない! 高速に乗ってからの足どりは不明。センサーの設置が進んでないんだ!〉
あと一歩なのに。有華が下唇を噛む。そのとき。
〈ゆかりぃん、例の成金時計持ってへんかぁ? 持ってるやろぉ?〉
女ハッカーの関西弁が割り込んできた。
「ギィさん?」
〈な・り・き・ん・ど・け・い!〉
「あちゃー、時計か!」有華が緒方の方に向き直る。「時計探して、時計っ」
荷物まみれになりながら、緒方は助手席で方々をひっくり返す。「んなもん、ねぇよ。ねえって」
「あ、ごめん」有華は上着のポケットをまさぐった。「アタシが持ってたわ。ほい」
「おお。確かに高そう……って」緒方は金色に輝く高級時計、その文字盤をHMD越しににらむ。「あ!」
{
時計の上に小さな忍者アバターの姿があった;古風な言葉遣いの風変わりな人工知能——髷MAXである;
〈それ、電網免許証のセンサーとして使えるねん……〉
GEEの檄が飛ぶ。〈髷の字!〉
〈御意〉
忍者が宙を舞う;ぴぴぴ、と腕時計が音を放つ;
間髪入れず、有華と緒方の視界を覆うHMDに、二枚の電網免許証が大写しになった;
一枚は「常代有華」;一枚は「緒方隼人」だ;
至近距離の電網免許証二枚を、検知したという反応である;
}
「なるほど……お前で岩戸さんを探せってことか」緒方が微笑んだ。「頼むぜ、髷っち」
〈緒方殿、お仕え申す〉人工知能が
「ギィさん、免許証の反応が拾える距離ってどれぐらい?」
〈ええとこ十メートルやな……すれ違う車同士とかで、検出できると思う?〉
GEEの問いかけに香坂が応じた。〈可能だと思います〉
有華は待ちきれずにアクセルを煽り、左膝を持ち上げた。
「とにかく……探すしか、ないってことだよね」クラッチペダルが浮いて一速ギアが噛む。
爆音、そしてホイルスピン。
蹴飛ばされるようにエキシージが進軍、加速を開始した。深夜の高速道路、国立府中ICへと向かう路。左へ切れ上がるカーブをぐいぐいと登り、料金所へとまっしぐらに駆ける。
そのときだ。緒方が背もたれに身体を押し付けられながら叫んだ。「待てよ、どっち向きに乗るつもりだっ」
「……」有華は応えなかった。
心の中では決めている。けれど返事が面倒。
〈有華っ、目を覚ませ! また同じミスをするつもりかっ〉
香坂までが自分を止めようとする。
けれど、もう待てない。突撃あるのみ。そういわんばかりにアクセルをべた踏みし続ける。しかし、そのとき。
有華の視界を奇妙な影が過ぎった。
黒いレーサーレプリカタイプの二輪車。
馬鹿っ速いバイクが、エキシージの真横をすっ飛んでいく。
(抜かれた!?)
そしてライダーの背中を。
見覚えのある背中を、視線で追いかけた。
——悪い癖だよ、姉貴
「うそっ」
衝動的にアクセルオフ。そして、おもいきりブレーキを踏んだ。重心が一気にフロントへ移動。二人の体重が四点式ハーネスにかかる。
完全に停止してから、有華はHMDを跳ね上げた。前後左右に視線を投げ、バイクの姿を求めた。どこ? どこに見えたの。バックミラー? いいや、そんな筈は。見たはずの自分に問いかける。しかし。
黒いレーサーレプリカの姿はどこにも見当たらない。
「け……い、た?」
間違いない。あれは啓太のアプリリアだ。「…………まさかね」
視界には「国立府中」と掲げられた料金所が見えるだけ。それを超えると左右に分岐する。東京か、山梨か。どちらに向かうかを選択しなければならない。
緒方は大きく息を吐いた。「くー、俺が隣りだと容赦ねぇなあ」
加速とブレーキのさじ加減が酷い、という意味だ。
「……ゴメン」
「どっちに行くつもりだった?」
「東京」
「理由を教えてくれ」
「え………………だ……だって……だから」
〈慌てるな〉香坂の穏やかな声がイヤフォンに響く。〈ゆっくりでいいんだ……よく考えてからでいい〉
「う……」有華はグローブの上から親指を噛んだ。
「俺はペーパードライバー同然だから」緒方は言った。「地理に詳しくない。わかるように説明してくれ」
香坂が助け船を出す。
〈こないだの……修学旅行バス事故。だろう?〉
「そそそ、それっ! 確か、でっかい料金所に突っ込んだよね?」
〈つまり高速に乗り降りするインターチェンジの小さな料金所じゃなくて、高速道路同士を分割する、本線上の大きな料金所にアスカ号は向かう……有華はそう考えた〉
「そう! ここから一番近い本線上の料金所って、中央道と首都高を分割してる料金所……だからこっち。東京方面っ」
視界の端で忍者アバターが二、三回飛び上がる。HMDに地図が示され、適切なサイズに拡大された。
緒方が画面を睨み、眉をひそめる。
「なるほど……永福料金所か。わかった。でもよく考えようぜ。今、あわてて走っていって本当にいいのか?」
「ん……っ」
「アスカ号に岩戸さんが乗っていて、しかもECUに細工があったとして、だ。観光バスの事故と条件が同じならタンクローリーが絡むはず。そいつに足止めを食らわせることができれば、自動運転車は普通に走る。岩戸さんは助かる。だろ?」
「……うん」
「でも俺たちが高速に一旦乗ってしまったら、料金所までノンストップで走り続けるしかない。アスカ号とタンクローリーが前にいれば追いつけるかもしれないぜ。でも後ろにいたらどうする? 永福料金所で待ち伏せしたって誤動作は防げるもんじゃない。激突するのを黙って見るだけになっちまう」
「そ……それもそうか。さすがだ。賢い」
〈八王子と料金所の間には、石川ってパーキングエリアがあるぞ……そこで二台が集結してる可能性がある。俺も緒方に賛成だ〉
緒方はHMDに手を当てていった。「ロータスは国立府中で、東京方面に向いて網を張る。でも逆方面って可能性もあります。アスカ号を発見するには一台じゃ無理なんです……って……飯島係長、聞こえてます?」
携帯電話のバッテリーが切れたために、緒方はHMDを使い、上司とのIP電話を繋ぎっぱなしにしている。
〈聞こえてるっ……〉飯島のダミ声が響いた。
〈……第九方面の交機に緊急車両出させるから、そのロータスなんとかで、あんまりドタバタすんなっ〉
しん、と静まるエキシージの車中。
有華はおどけてみせた。「……えへへ。危なかった。大失敗の一歩手前」
だが指先は震えていた。舌を出し、ゆっくりとHMDを装着し直そうとするが、上手くこめかみに馴染まない。
長い髪をいじって、落ち着こうとする。
岩戸を助けたい。その気持ちが過剰なんだ。上滑りしてる。そんな手応えがある。
「回りの指示をよく聞いてほしい」緒方の口調は厳しかった。
「…………バス事故のこと、隼人のほうが詳しいもんね」
「有華はドライバーに徹する。できる?」
「…………うん」
有華は頷く。在りし日の自分を思い起こしながら。
サーキットでの走行中に車体がトラブルを抱えた時、その不具合をコントロールして走りきることばかり考える癖があった。ピットに入ればメカニックが簡単に解決できる問題かもしれない。でも、解決できなかったら? 単なるタイムロスになる。それが惜しい。だからドライビングで誤魔化そうとする。誤魔化せるのも一流の証。常代有華が車と対話する力、類い希なる感性の賜だ。けれどチームプレイとしては不合格。それを弟にも、仲間達にも繰り返し指摘された。
——悪い癖だよ、姉貴
相談する。そんな簡単なことができない。できないせいで、大失敗を招く。反省して落ち込むこともある。だが父はいつも最後に娘を励ました。
——最後は一人だ。感性だけが頼みになる。お前の感覚は鋭い。それを疑うな。
緒方が親指を立てて言った。
「さっき、よく停まれたな。偉いぞ」
有華は助手席の足元に転がしておいたバッグを手に取り、中から位牌を取りだした。自宅の仏壇から持って来た物だ。
「啓の……啓の声が聞こえた」位牌を持つ手が震える。「悪い癖だ、って」
緒方は有華の手から位牌を受け取り、助手席の前方にあるべき収納スペースを探した。エキシージには一般的な乗用車が備える開閉式のグローブボックスがなく、その代わりぞんざいな造りの棚がある。
その棚へ位牌を横向きにして、そっと据え置いた。
無二の親友を前に、緒方隼人は誓う。
「俺と啓を信じてくれ。俺たちで必ず、有華を岩戸さんに会わせる」
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