(九)

国分寺市・小金井市・国分寺市




Ⅰ:国分寺市:本多:夜



 常代モーターズの看板が視界に入った途端、有華はブレーキを踏んだ。静かな住宅地の真ん中、ワンブロック手前でロータス・エクセルのエンジンを切る。そのまま溜息をついてハンドルに頭をもたせかけた。NICTの駐車場を出てからまだ二百メートルも走っていない。車で来る必要のない距離。しかし、ボロ英国車のレストアをさせるためなら乗ってこなければしょうが無い。

 遠目にみても一階のシャッターは閉じている。夜九時は営業時間外だ。二階の灯りは——子供部屋の灯りは——当然、消えている。

(とうちゃん……いるかな)

 レストア工場を営む父親は、仕上がった車を客に届けるため出払っていることも多い。昔ほど羽振りがよくないし、母親までバイトに出ているとしたら家はもぬけの空だ。

 有華は残りの距離、たったワンブロックを走って行くことができずにいた。心の準備が整っていなかった。だから気を紛らせようとスマートフォンを取り出し、ニュース記事に目を走らせた。でも、まるで頭に入らない。

(あーあ、行くか)

 車を降りて、とぼとぼと歩き、シャッターの前に佇む。しかし五分ほど動けなかった。表面に描かれた常代モーターズの文字。はげ落ちている部分をじっと見つめる。いろんな事がありすぎた。このロゴがまだなかった新築の頃。このロゴがサーキットで脚光を浴びた日。そして、このロゴに自分が泥を塗ったあの夜。

 勿論、シャッターの向こう側にある「醜悪なスクラップ」にも想像がつく。見た目は綺麗。きっとピカピカに磨かれている。スクラップだなんて誰も言わないに違いない。でも。

 でもそれは人間を殺した車と轢かれたバイク。

 絶対に、永遠に見たくない物。

 自分にとってはスクラップとしかいいようがない。

(やっぱ無理。帰ろ)

 ロータス・エクセルを停めた路肩へと戻るべく踵を返す。そこで居るはずのない男の姿を認め、有華は目を丸くした。

「え」

「よぅ」

 緒方隼人が立っていた。あいかわらず左手首は包帯でぐるぐる巻き。首から腕を吊り下げる布こそしていないけれど、ギプスか何かで一回り大きくなっているのが痛々しい。

「……何しに来た」

 有華はバツが悪そうに言った。実家の敷居をまたげない自分を見られていたのが恥ずかしい。

「親爺さんから電話があった。随分古いロータスがうちの近所に停まってるけど、有華のだろって」

「ち……あいかわらず勘の鋭いことで」

「母ちゃんに会いたくて、でも俺を避けたくて敷居をまたげないんだったら、とうちゃんはでかけるからってさ。アレは相当気にしてるぜ。自分のせいだと思ってる」

「正解だから」

「切ないこというなよ。入ろうぜ」

 有華は憮然として言った。「頼まれてくれない? 車庫ン中、見てきてほしいんだけど」

「まだ置いてあったら?」

「帰るよ。見るの絶対嫌。耐えられない」

「……もう無いよ」緒方は素っ気なく言った。

「え!?」

「無い。知ってるんだ俺。だから入ろうぜ。親爺さん待ってる」





Ⅱ:小金井市:貫井北町



 ドライバーは知っていた。ここが手薄だという事を。

 案の定、自分たちの黒いミニバンが街道沿いに停車したことに気を止める通行人はまったくいない。というより国分寺界隈はほとんどが宅地で、夜の十時をすぎてしまえば道行く人の気配そのものが見られない。

 五十メートルほど先にNICTの正門が見える。二四時間体制の警備員が二人いるはずだ。しかし連中には本気でガードに勤めているというほどの真剣さが無い。駐車場の前には申し訳程度の監視カメラがあるにはある。しかし敷地は広大。そして乗り超えられないほど高い外壁はどこにもない。建物自体が古く、しかも独立行政法人という性格、つまり公共物という認識がある。おまけに国分寺という田舎の呑気さが手伝って、セキュリティの勘はなまりきっている。

 後部座席にいたサングラスの男が天井を意識しつつ立ちあがり、最後尾に転がしてあった荷物、その口を縛ったさるぐつわを確認した。

「気ぃ失ったままでも、いい女だよなぁ」

「殺すには」ドライバーはフロントガラスを見据えたままで言った。「ちょっと勿体ない?」

「ヤリてー」

「死体が専門じゃなかったの」

「まぁね。でも、気絶してる女もOK。今すぐヤリてー」

「証拠を残したければどうぞ」

「精液ってこと? だよねぇ。あーもったいねー。ホント殺すのもったいねー」

 サングラスの男は岩戸のハンドバッグを開き、中身をバラバラとぶちまけ、ペンライトで照らした。赤い紐で結わえられたカードホルダーを取り上げ、ドライバーへと放る。

 ドライバーはカードの表面をじっとにらんで確認すると、ホルダーをおもむろに頭から提げ、バックミラーに自分を映し、紙でできた使い捨てマスクの具合を確認した。盤石だ。顔を撮影されたとしても、これなら岩戸と区別はつかない。

 ドアを開けて車を降りる。広大な駐車場を右手にみながら歩く。どこから進入するかは決めてあった。暗がりをまっすぐに進んだ。そして壁を掴む。誰かがじっと見つめていても気づかないだろうほど、素速い身のこなしでよじ登り、跳び越える。痩せたいが為、近所のボルダリング場に通った投資が活かせた——などと、ほくそ笑む。

 駐車場のどこを、どう歩けばカメラに映らないか。映ったとしても呑気な守衛が気づかないか、計画どおりに突き進む。

 ものの一分もしないうちに侵入者は大きな倉庫の前にたどり着いた。

 間違いない。サイバークライム実験場。別名クライム・ラボ。

 カードリーダーに岩戸紗英のそれをかざす——あっさり解錠。

 中に入ってしまえばこっちのものだ。着ているスーツはわざわざ岩戸の好みを調べて購入した。身のこなしが女で、紙マスクさえしておけば大丈夫とたかをくくる。解錠したカードが岩戸なのだから。何の問題もない。あるはずが、ない。

 侵入者は懐中電灯を頼りに真っ赤なセダンを見つけ、足を止めた。身体を近づけただけで車が反応し、ドアががちゃりと勝手に解錠する。電網免許証の威力。すべて情報どおり。凄腕の〈企画者〉だと知ってはいたけれど、さすがだ。さすがだよpack8back8。

 紙マスクの下で、ほくそえみながら——侵入者は携帯電話に指を滑らせ「アスカ号を確保」というショートメッセージを放った。





Ⅲ:国分寺市:本多



 板張りの廊下が狭く感じられる。たった三年、足を踏み入れなかっただけなのに。

 ぎしぎしと音をたてて歩きながら、居心地の悪い空間だった筈の日本家屋に、有華の身体はむしろ安らぎを覚えていた。ここで生まれ、ここで育ったのだから当然なんだよね——と溜息をつく。

 母親が前を歩く。

 幼なじみは自分の後ろをついてくる。

 父親の姿は見当たらない。ガレージにいるのかな。まだ仕事中?

 懐かしい。啓太がこの世を去るまで幾度となくこうやってこの廊下を歩いた。何もなかったかのように振る舞うことができれば、どんなに幸せだろうかと思う。

 でも、それは無理。

 やがて母親が立ち止まり、ガレージに続くドアのノブに手をかけた。

 開けてほしくない。昔の自分なら泣いて悲鳴をあげていた。そこには見たくないものが「二つ」ある。緒方はもう「ない」という。でも怖くてたまらない。三年前までは間違いなくあった。あったのだ。

 パチリ。

 母親の手で照明が灯された。

 有華は両手で顔を覆いながら、ガレージへ降りるスリッパに足を滑り込ませた。

 足がすくむ。

 目が。目が開けられない。

 怖い。怖すぎる。

 緒方が率先してガレージへ足を踏み入れ、「大丈夫」と言う。

 薄目をあけてみた。

 車が三台並んでいる。バイクは見当たらない。

 啓太の遺品であるアプリリア——その黒いシルエット。二つある怖い物のうち、一つはどうやら姿を消した。

 でも。

 有華はがっ、と目を見開いた。一番奥に控えている車にカバーがかかっている。そして、そのシルエットは明らかにスポーツカーのそれだ。大きさといいフォルムといい、慣れ親しんだ英国車のそれ。

 ロータス・エリーゼ。かつての愛車に間違いないと思う。つまり怖い物の一つはまだ間違いなくそこにある。あるじゃないか。そう感じられた。有華は目尻に涙が浮かぶのを堪えることができず、ガレージに背を向ける。

 やっぱりだ。まだここにある。あるじゃないか。だから言ったのに。こんな所、来たくなかったのに。絶対嫌だったのに。

 捨ててくれと、泣いて頼んだのに。

 あわててスリッパを脱ぎ、廊下へ逆戻りしようとした矢先、緒方の右手が有華の手首をぐいと掴んで引き留めた。

「大丈夫。アレは違う車だ。お前のエリーゼじゃない!」そう言った。

 有華は振り返って、鬼の形相で幼なじみをにらみつける。緒方の手を振りほどこうとする。あんたに何がわかるのさ。あんたに私の辛さなんてわからない。わかるわけない。そんな風に無言で念を込めた。

 緒方はその視線をまともに受けとめて、しかしまったく身じろぎしない。

「信じろよ!」

 信じろといわれて、信じられるものでもない。有華にとってロータスの大ヒット作であるエリーゼの流麗なフォルムは忘れ難い。父にプレゼントされた想い出のスポーツカー。筑波サーキットのカップレースで供に戦った相棒。そして弟の命を奪った戦犯。

 一度は愛した、そして、心底に憎んだ曲線。緒方がなんといおうと、このカタチはエリーゼのそれだ。

 でも、カメラ小僧は譲らない。奥へ奥へと自分を誘う。

「ほら、こっち来て見ろって」

 有華は車庫の一番奥、暗がりに置かれた丸みのある車へと近づき、カバーの上から手でなぞってみた。リアの一部に膨らみ。どうやら大きなスポイラーが着いている。自分のエリーゼには、なかったものだ。

 母がガレージの端に立ち、自分と緒方を見守っている。その視線を感じて有華は振り返った。そして。

「リアスポ(=リアスポイラー)が……ついてるね」確かにエリーゼとは違うらしい。そういう意味で言った。 

 母がにっこり笑って、壁のスイッチに手を伸ばす。

「説明は私じゃ無理ね」

 がしゃり。大きな音をたててガレージの自動シャッターが開き始めた。

 上がりきるのを待つまでもなく、向こう側に誰かが立っていたこと、そして耳をそばだてていたことを有華は察知した。シャッターと地面の隙間からまず目に飛び込んできたのは、月明かりに照らされる緑色の丸灰皿、そして山盛りの吸い殻。煙も匂いもさせているし逃げたところで無駄、だから観念して足を止めたに違いない。

 父の匂いは煙草とガソリンの混ざった匂いだ。シャワーを浴びないと、ダイニングキッチンで食事を取らせてもらえない家長だった。双子が大きくなると四人家族のうち三人までが油臭くなり、結局ガレージで食事を摂ることが増えた。壁際に置かれた作業机が、いつしか我が家のダイニングテーブルへと変貌していった。その上に長らくロータスのロゴが入った緑色の丸灰皿が置かれていて、ある時子供達の為にと排煙ファンのついた小うるさい電動灰皿に置き換わった。猛反対したのは他でもない有華。勿論、自分が吸うからではない。あのロータスのロゴが格好良いと思っていたし、神業的に手際のいい熟練エンジニアが小気味よいエンジン音を吹かせた後で、油まみれのまま静かに、穏やかに一服する姿が好きだったのだ。

「父ちゃ……ん」

 有華は目を丸くした。

「よう」色黒な壮年の男が頭を搔きながら言った。「おかえり」

 ツナギ姿だ。有華は自然と笑顔になった。

 ツナギを着ていない時はいつもジーンズにポロシャツにセカンドバッグ。衿を立てるの格好悪いからやめて、と頼んでもやめてくれないバブル世代の残党。

 全盛期は本業だけで大儲けできたから、ツナギ以外に頓着する必要はなかった。バブリーなファッションセンスでも許された。けれど息子と娘がひき起こした死亡事故のせいで廃業寸前に追い込まれ、それでも車への情熱を捨てきれず、ネットで中古車ディーラーの真似事をして、それで生計を立てるのがやっとで——だからツナギは着る機会が減って、だからポロシャツの衿が立ちっぱなしで。その衿のヨレ具合が哀れに感じられて、そんな格好をさせているのが自分だと意識させされて。だから。

 だから普段着のとうちゃんは——嫌い。けれど、今は違う。

「エリーゼはもう無いんだ。アプリリアも」ツナギ姿の男はおごそかに言った。

「……うん。処分してくれたんだね」

「悪かったな。なかなか踏ん切りがつかなかった」

 緒方が会釈した。「御無沙汰してます」

「もうカメラ小僧とぁ呼べねぇな、隼人。立派な警察官僚二年生だ」

「いやぁ。こういうタイミングで包帯姿だし」手首を持ち上げて言った。「格好悪いっスね」

「なんの。立派なもんだ……名誉の負傷か?」

「私を守ってくれたの」有華が言った。

 今度は父親が有華を見て目を丸くする。「お前……迷惑かけてるのか」

 緒方が慌てる。「有華は頑張ってます、親爺さん。この怪我は俺のドジですって。わかるでしょ?」

「……外に停まってるロータス。お前んだろ? エクセルなんて妙な車、目立つからなぁ」父が娘に問うた。

「あの子、調子悪いの」娘が応える。

「瀬戸のとこに世話になってるらしいな」

「げ。そこまでバレてるの」

「クラッチディスク。やっぱり見つからないか?」

「……みたい」

「アレは廃車にしよう。瀬戸がパーツ取り用にもらってくれるさ」

「廃車?」有華は笑った。「あれ、私の車じゃないし、私が決められないよ」

「実はうちで下取りしたんだ」

「下取り? 何言ってんの……」

「お前が乗ってるロータス・エクセルの持ち主には、うちで新車をお買い上げいただいた」父親が車庫の奥を指差す。「そっちの……カバーがかかった車を」

 父親はそう言って、ポケットからキーを取り出して娘に投げた。

 キャッチしながら言葉の意味を斟酌し、すぐに有華は総毛立った。

「嘘っ」

「素敵な人ね、岩戸さんって」背後で母親の声がした。「啓太にお線香も上げてくれたのよ」

「岩戸さん……が……ここに来たの?」

「一昨年のことだ。まだあの頃は此処にあった。お前のエリーゼが。啓太のアプリリアも」

「……」

「岩戸さんには正直に話したよ。娘は車を捨ててくれと言う。自動車屋の親爺を怨んでいる。でも親爺は娘がまたエリーゼに乗ってくれることを期待している。あの夜のことを忘れた頃に、またハンドルを握ってほしいと願っている。だから捨てられない。捨ててしまったら、娘と息子がエリーゼとアプリリアで綴った想い出のすべてを否定することになる。親爺としてそれは出来ない。そうやって口論するうちに、娘と親爺の溝は深くなってしまった」

「……」

 母親が口を開いた。「その半年後ぐらい、かな? 岩戸さんからお電話があったの。新しい、最高の車が欲しいから探してくれって」

 父親が笑う。「ドライバーはとびきりのやんちゃで、ロータスを手足のように操れる不良娘……って条件でな。それで、お前のエリーゼを処分すると決めた」

 有華は手のひらに乗せたキーを一瞥し、それから車庫の一番奥を凝視した。

 ツナギ姿の父親が丸みをおびたボディに手を這わせ、カバーを丁寧に外す様子から、まったく目が離せない。

 やがて。

 真新しい、そして息を呑むほど美しい豹が——ベールを脱いだ。

 有華の黒目がちな大きな瞳がさらに大きく見開かれる。

「げ……これって、まさか」

「ロータス・エキシージ。地上最速の英国車。お前が愛したエリーゼの進化形……つまり、生まれ変わりだ」






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る