第3話  { 総務省::情報通信研究機構; }

(一)(二)(三)

千代田区・江戸川区



(一)千代田区:霞ヶ関:午後




 岩戸紗英は瞠目した。

「ふぅん…………岩戸を通すな、って指示されてるわけか」

 エスカレーターを登りきって警察庁のゲートへ歩みを進めた矢先——制服の一団が自分の行く手を阻んでいる。

 先頭の一人がこう告げた。

「駐車場へご足労願います。車の中で話がしたいと……小笠原おがさわらが」

「私と会話しているところを、誰にも見られたくないって意味? 失礼な話だこと」

 三人の警察官を従えて中央合同庁舎第二号館のロビーを横切りながら、岩戸は今日が長い一日になるだろうと予感した。

 昨日の逮捕劇。電網庁が公務執行妨害で捕らえた二人、甲斐原と島﨑は車両整備のプロ。押収したPCからは大量の車載ECUプログラムが発見された。中でも目立つのは大型バスの違法改造、ハッキング作業の痕跡。その事実に霞ヶ関では激震が走った。国交省でも警視庁でも県警でもなく、総務省傘下の新造組織が流れを変える——それには、想像以上のインパクトがあったらしい。

 気がつくと、岩戸の目前に青いマイクロバスがあった。警視庁所属の遊撃車。中央のドアが大きく開かれ、岩戸だけが中へと通される。

 中程の座席には馴染みの中年男二人が深刻な顔で陣取り、一台のPCを覗き込んでいた。岩戸は憮然としながら傍に腰を下ろす。

「こっちが呼び出されたのに入れないなんて、失礼な話ですね」

「ちょっとワケアリで」黒く日焼けした海老群えびむらが片手を挙げ、白い歯を見せた。警視庁公安部、公安局長。全国の公安警察を率いる実質的なリーダーである。

「バスの件で刑事部が表立った動きをはじめてる、とは聞いてますけど……うちの人間が何か、邪魔でもしましたか?」

「捜査本部が葛西署で立ち上がった。どうにかして人選には口を出したいと思ったんだけど……無理だったよ」

「人選? ……どういうことです」

「突っついたんだ、蜂の巣を」禿げ上がった小笠原おがさわらが頭を撫で回した。弱り顔である。警察庁警備局局長、こちらは公安を率いる警察官僚の重鎮だ。

 海老群がノートPCの液晶画面を岩戸の方へと向けた。だからブラウザの中で大写しになっている写真と相対する。自分の顔。岩戸紗英の顔だ。といっても、このURLに晒され続けているおなじみの写真で、それ自身に驚きはない。ネット自由化連絡会——電網庁を目の敵にする匿名の書き込みで成り立つ、ブログや掲示板だけのウェブサイトである。

 驚くべきは今朝方更新された中身だ。トップ画面に〈電網庁の横暴・抜き打ち検査のいきすぎた実態〉なる記事が貼られている。文字列の合間に、ベガスの整備工場に進入したマイクロバス二台の写真。蹴られて怪我を負った従業員は全治一ヶ月、という身も蓋もない指摘。そしてクローズアップされるおきまりの〈総務省の魔女〉——岩戸紗英の顔写真。

「いつものことです」魔女はそう言って力なく笑った。

 本当は背筋が凍るような思いをしている。けれど顔色に出さないようにした。記事が出るにはどう考えても早すぎるのだ。その上に現場写真まで。明らかに。

 明らかに——。

「いつも通り、で片付けるべきかな」海老群はきっぱりと言った。「野良記事にしては早すぎると思う。情報、どこかから漏れた可能性あるね」

 岩戸は表情を変えずに応えた。「昨日のガサ入れ……より前に? それとも後?」

「わからない。どこからどう洩れたか。洩れてないのか。そっちも内偵はしっかりやってほしい。僕らも出来る限り、捜査に口出しするつもり」

「捜査に口出しって……まさか天下の警視庁刑事部を信用できないってこと?」

「捜査本部が立ち上がる場合、所轄に赴く捜査員の人選は常に問題にすべきなんだ。偏っていないかどうかチェックすることで、いろいろ牽制がきくんだよ。ホコリがたつこともある。でも今回は間に合わなかった……だから、別の方法で探りを入れるつもり。用心に越したことはない」

 警察は二手に割れている。それを岩戸も重々承知していた。

 電網庁と合同でサイバー空間の公安組織を立ち上げるアイデア——賛成派には小笠原、海老群を筆頭とする警備系幹部が名を連ねる。逆に反対派の多くは刑事系幹部。表向きの理由は「警察の独立を重んじるべきだから」。しかし本音は別のところにある。国民を監視する機能、つまり公安警察が力を持ちすぎて、刑事警察とのバランスが大きく崩れる可能性を危惧している。早い話、警備系幹部と岩戸の蜜月が気にくわない。あからさまな嫉妬。それが海老群と小笠原の意見だ。

 今回のリークが警察内部の仕業だとすれば反対派の所業。そんな連中がバス事案の捜査に深く関与すれば、捜査を進めるにつれ、一部始終が「どこかへ」筒抜けにならないとも限らない。俺たちはそこまで計算に入れている。だから電網庁も内偵は進めるべきだ。海老群の鋭い目が、そう語りかけてくる。

「……」岩戸は返答に窮した。

 実は最近、電網庁は不祥事を起こしたばかり。女性職員のフィッシング行為。幸い表沙汰にはならなかった——などという説明は憚られる。折角、きな臭い整備士を逮捕して点数を稼いだばかりだというのに。

 小笠原が口を開いた。「俺の耳にもいろんな話が飛び込んできてる」

「いろんな、って?」

「いいハナシも悪いハナシも」

 岩戸が不敵に笑う。「小笠原さんのいろんな……に、グッドニュースが混じってた事ってあるかしら」

「そう言うな。これでもポジティブに考えようと努力してるんだ。ともかく電網庁が甲斐原という男を挙げたのは、いろんな意味で正解だったってこと。但し」

「?」

「怪我人……出したらしいね。例の」

 岩戸は重々しく言った。「常代……有華。軽傷ですみました、けど」

 男二人が揃って口を一文字に結んでいる。当然だ。総務官僚が独法職員を顎で使い、それがこともあろうに警視総監の姪。スキャンダル御法度の問題児、その有華が怪我をした。一歩間違えれば、また〈岩戸の野心云々〉と書かれる。誹謗中傷を生き甲斐にするネットの野良犬たちに、餌を播くようなもの。

「……迂闊でした」と告げ、岩戸は頭を下げた。

 海老群が嘆息する。「……ねぇ。こっから先、バス事案はなるべく警察に任せてよ。間違いなく、生傷が絶えないと思うから」

「……そう思います」



 香坂一希は開発局の大きなオフィスを、そのど真ん中を小走りで突き進んだ。垂水昂市の大きな背中を見つけたからだ。

「おかしいです、局次長!」大きめに声を張った。それに大勢が反応し、香坂に視線を投げてくる。

 垂水が歩みを緩め、浅く振り返った。「そう?」

「おかしい。甲斐原の携帯電話は電網庁が押収したんだ……こっちで調べるべきです」

「わかるよ、言いたいことは。でも状況が変わってきてる」

「これじゃウチは……電網庁は警察の下請けじゃないですか」香坂は垂水に追いすがる。「電網公安官は所詮、ネットのおまわりさん。そういうことですか?」

 垂水は立ち止まらず、たしなめるように言った。

「あっちにも電子鑑識デジタル・フォレンジックのチームがいる。優秀だって聞いてる。心配しなさんな。バス事案が事故から事件に格上げされて、捜査本部が動き出すからには箝口令が敷かれて当然なんだよ」

「もっとはっきり言ってください…………ネット自由化連絡会。アレにすっぱ抜かれたことで、電網庁のガサ入れは事前に洩れていた可能性が取り沙汰されている。違いますか? ウチは機密のゆるい、脇の甘い組織だと思われた。そうですね?」

 そこまで言われて、ようやく垂水は歩みを止めた。「……こっちが警察のケツを蹴りあげたのは間違いないんだ。貸しは作った。な、力抜こう。どうした? 祇園狐は飄々としたキャラじゃなかったのか」

「……」

「常代君と空手小僧の二人に、怪我をさせて申し訳ないと感じてる?」

「……僕が言い出したことですから、無責任ではいられません。それに」

「それに?」

「バス事故を装って猪川大臣の息子が殺された。だとしたら、その動機が気になります」

「動機ねぇ。何だと思う?」

「…………とぼけないでください。我々は警察任せにできないはずです。攻撃対象には、ずばり電網庁自身が含まれている」

「……つまり?」

「つまり……ネット免許制を肯定し、同調するような立場の人間あるいは組織を……猪川大臣やベガス社を、罠に陥れる勢力が暗躍している。そんなムードがネットに充満している」

「どうしてそう思った? 根拠でもあるのかい」

「……お流れになった合同記者会見です。東京ミッドタウンを会場に、自動運転の公道実験を高らかに宣言する。国交省、ベガス社、警察庁。三者揃い踏みの大々的なセレモニーが計画された。けれど総務省は列席しない予定だった。なんでです? 総務大臣は? 電網庁長官は?」

「…………」

「あの会見は岩戸紗英が段取った。なら電網庁の、総務省のお手柄になるべき。しかし敢えて誰も列席させない。その理由を僕はずっと考えていました。要するに総務省は……いや、岩戸さんは目立ちたくない」

「…………」

「電網免許制度はメディアから目の敵にされている。ネットワーク事業者を束ねて誕生した電網庁は、監視社会の担い手になる……将来のファシスト集団だと怪しまれている。だから目立ちたくない。しかしその一方で、電網免許が役に立つ具体例はどんどん増やしたい。つまりお流れになった合同記者会見は、電網庁にとって仕掛ける価値が高く、国交省はそれに一役買う形で乗ったものだ。岩戸さんが要望し、ベガスと猪川大臣が引き受けた。ところが猪川の息子が殺される。ベガスのバスがひっくり返る。肝を冷やすべきは国交省の役人でもなく、ベガスの役員でもない……」

 岩戸紗英であり、垂水昂市であり、部下である僕らだ。香坂がそう言いかけたタイミングで——山のごとき局次長の肩が、微かに動いた。

「うん……いいね。いい勘してる。ちょっと場所、変えようか」


 一階のカフェテリアに移動しよう。席をとっておいてくれ——その提案を受け、先に移動した香坂の目前には今、二つのプラスティック製カップが鎮座している。その二つが二つとも汁気をこぼすほど、テーブルの上に重たいフォルダが「どすん」と置かれた。香坂は支えるべく手をさしのべ、と同時に、局次長がそれを片手で運んできた事実に閉口した。垂水は体格も立派だが握力も非凡。軽い感動を覚えるほどにファイルは分厚く、重みがあった。背表紙には「箕輪塾関連」というタイトルが記されている。

 垂水はテーブルをはさんで対面に座ると、手を伸ばし、香坂に向けたフォルダの冒頭を押し広げた。男の顔写真が貼り込まれている。

「彼が箕輪浩一郎みのわこういちろう。人文系の東大教授。専攻は近代社会システム。有名な箕輪マップの提唱者になる。一枚めくって」

 香坂は次の頁を探り、折りたたまれた紙の端を引っ張った。

 B4程度の大きさに広がる。「箕輪……マップ?」

 グラフのように横軸と縦軸があしらわれ、その中に大きめの楕円が点在し、中に「地上デジタル放送の開始」や「ETC料金所の全国普及」などという文字列が書き込まれている。横方向は年度、縦方向はテクノロジーの進歩を表しているらしい。

「いわゆる、ロードマップ……ですか?」

「そう。箕輪先生が考えるところの、二十一世紀において日本が歩むべき道……彼は人文系だけど、元は情報工学の専門家だから複雑怪奇に仕上がってる。マップが最初に書かれたのは一九九七年。以来、細かく改訂を重ねている。どう思う?」

「……地上デジタル放送の開始が二〇〇三年……ETC料金所の全国普及が二〇〇五年で一千カ所……自動車免許証のIC化開始が二〇〇六年……インターネット免許制が二〇〇八年とある……。うーん、これって予想なんですか?」

 マップの端には二〇〇二年五月改訂、と記されていた。

「次、めくってみろ」

 翌頁には、実際にそれぞれが実現した年度が書き込まれたリストがあった。垂水自身のお手製だろうか、二〇〇八年で止まっている。香坂は念のために持参したノートPCを開き、検索エンジンを活用すべく数回キーを打って、それからこう答えた。

「インターネット免許制は別にしても、結構……当たってるんじゃないですか。凄いな。知らなかった……」

「実は予想じゃないんだ」

「へ?」

「このスケジュールを守ろうとしているんだよ、箕輪先生の教え子たちがね」

 垂水は分厚いフォルダを閉じ、「箕輪塾関連」というタイトルを指差した。

「それが……箕輪塾」

「通称ね。正式名称は高度情報通信戦略……なんたらかんたら委員会。長ったらしい。総務省では、岩戸紗英が箕輪の直系の門弟だ」

「……門弟」

「簡単にいえば箕輪先生は規制経済論者。規制の緩和がもたらす破滅を予見して、むしろ積極的に規制を作り、新たな需要を喚起する政策をたくさん提唱していた」

「経済活性化の金科玉条は、規制『緩和』だと思っていました」

「右肩上がりの頃はね。だが時代が変わった。今は緩和よりも規制が経済を活性化する……テレビのデジタル化も、その一例さ。買い換え需要が加速する。ネット免許制も同じ理屈でやってる」

「言われてみればそうですね……でもテレビのデジタル化には局側が猛反発してる。国は苦労してると聞いてます」

 香坂は同期の総務官僚に聞かされた話をそのまま口にした。アナログ停波を二〇一一年より前倒ししようと取り組んでいるものの、ネゴがうまくいかないという。

「放送業界は嫌がるに決まってるんだ。設備投資が嵩んで、懐が痛む。内輪で勝手に進めるから、放っておいてくれと言いたいのさ……一方で電機メーカーは新商品を売りたくてうずうずしている。そこで行政の出番」

「嫌われ役を買って出るわけですね」

「イエス。経済の活性化ってのは、法人や個人の財布を無理矢理こじ開けるってことだから、一定量の反発は食らうよ」

「ふむ。じゃあ、どうしてウチの……電網庁へのISP統合はうまくいったんですか。反発はあった筈だ」

「簡単ではなかったよ。しかし通信業界の実情は、おおむね放送業界と真逆だったのさ。モバイル端末の高性能化、クラウドの需要増。通信量は指数級数的に増えていく。それに応じてトラブルも増す。サイバー攻撃が増える。セキュリティの負担は高くなるばかり……ところが、過当な競争で通信単価が上げられない。むしろ下げろと世間がうるさい。国が手を差し伸べなければ万事休す、だったのさ」

「……なるほど」

 垂水は指を伸ばし、フォルダを突っついて言った。「ま、こいつを読めばわかるようになる。電子化できてないんだ。スキャンしてくれるかな」

 それを香坂は、上司に与えられた罰ととらまえた。「……単純作業で頭を冷やせってことですね」

「そうじゃない。これを読んでおくべき人間と、そうでない人間がいる。祇園狐には知っておいてもらいたい。世界のうねり具合をね」

「世界の……うねり具合」

「それと、忠告だ。箕輪浩一郎は五年前に失踪。現在も行方不明」

 香坂は目を丸くした。「失踪!?」

「そして、猪川代議士は箕輪と同門。もともと親交が厚い。岩戸とも顔馴染みだ。国交大臣におさまる、遥か前からね」

「……箕輪教授がやられ、猪川代議士がやられて……次は岩戸紗英。つまり我々ということですか……敵は一体……」

「大勢さ」

「……大勢」

「たとえばベガス社が赤字に転じて喜ぶヤツ。たとえば政治家の出世を反古にして喜ぶヤツ。そういう連中の総和が襲ってくる」

「それがネ自連(=ネット自由化連絡会)?」

「あれは単なる器だ。スポンサーの顔や影は見えない仕掛けになってる」

「仕掛けって何ですか? ウチはそのからくりを暴くために動いてる? そういう……意味ですか」

「……」垂水は唐突に言葉を切った。

「これ以上は聞いちゃいけない、って顔だ」自分のようなヒラには教えられない事情がある——そう香坂は勘ぐった。「所詮、新人ですしね……いや、もしかして僕がお試し期間だからですか?」

「気にするほどの事じゃない」垂水は笑った。「このファイルに閉じられているのは全部、公開ずみの情報だ。まずこれを読め。その先は網安官といえども共有不可……だけど君の、配属が正式に決まりゃあ教えてやれることも増えてくる」

「はい」

 香坂は身の程を知って唇を噛みしめた。自分はまだ信用を勝ち取っていない。それには数ヶ月、いや、もしかしたら数年かかるのかもしれない。


——組織に尽くせるか?


 あの謎めいたメールの一文が思い起こされた。

「一つだけ、教えておこう」垂水はか細い声で言った。「牙城ストロングホールズ。このキーワードで情報を漁ってみるといい。ただし正面切って検索しても何も出てこないから、そのつもりで」

「それがヒントですか」

「ヒントというより答えだなぁ。カーダープラネットって、聞いたことあるだろう……ブラックハットが集まるコミュニティサイト。犯罪者の巣窟」

「名前ぐらいは。管理人はロシア人でしたっけ? 確か、閉鎖されましたよね」

「摘発が続いたから、雲隠れしたのさ。でも無くなると思うかい? その手のアングラサイトが」

「……思えませんね。亜種がどんどん現れる」

「世界中で日々ハッカーが生まれては消えるように、くすねたパスワードを売買するブラックマーケットもまた生まれては消える。当局が何度摘発したところで、無くなりはしない。手を変え品を変えて」

「……悪い病原菌みたいですね」

「テクノロジーが進化する限り、それをハックしようとして挑戦者が現れるのさ。言い換えると、新しいシステムは必ず脆弱性を抱えて生まれるから、その小さな亀裂をこじあけてやろうというブラックハットが後を断たない。そいつらは成功した暁に、どこかの誰かのサーバーを手中におさめ、データすべてを手に入れる。しかし意味不明だ。そのデータが欲しかったわけじゃない。ただハックにチャレンジしたかっただけ」

「わかります。仮に、脱税疑惑のある食品メーカーのサーバーがこじあけられたとしても……ハッカーに経理の知識はないから、データに裏帳簿が紛れていたとしても、それを嗅ぎつける能力はない。ハッカー一人で脅迫なんてできっこない」

「……コンピューター・ギークはいつだって宝の持ち腐れ。金に換えたい。だから常に売り先を探している。そんなオタク連中のために、景品交換所は永遠に不滅だ。その最新型が牙城ストロングホールズ。サイバー犯罪のいろんなプロジェクトがビジネス案件として流通している。参加したいやつは、手を挙げるという仕組みだ」

「ストロング、ホールズ……」

「名うてのハッカーたちはここを根城にして一攫千金を夢見るらしい。けしからんだろう? 御用にしてやろうと思う。ところが、だ。このサイトを潰すことに、どれほどの意味があるだろうか?」

「……潰してもまた生まれる。だから潰すことに意味はない。そうおっしゃりたいんですか……でも、それじゃあみっともない。敗北宣言だ」

「じゃあ、お前さんならどうする」

「……うーん」少し間を置いて、香坂はぼそりと呟いた。「研究……しますね」

「何故?」

「身を守るために。どんな悪辣な連中かを知り、犯罪の手口さえわかっていれば……個別の犯罪を防止するか、被害を減らすことはできるかもしれない」

「もっといえば、悪い奴を吸い寄せる装置として利用し、そこを覗くことで、ある種の犯罪予知を企てることも可能になる」

「……きわどいですね、その発想は。表向きは批判されるでしょう」

「だから関わりのあるスタッフは一握りに絞ってある。実は……十和田美鶴にも、少し作業をさせていたんだ。その手に詳しかったからね」

「十和田って、あの……トイレの」香坂は目を丸くした。「まさか」

「そのまさかだ。詳しいも何も、十和田は最初から牙城ストロングホールズの住民だったらしい。VainCrainなるハンドルネームで荒稼ぎしていた。サイバー攻撃を仕掛けるぞと中小企業を脅迫してみたり、政治家の誹謗中傷、評論家の個人ブログ叩き……いろいろと手を染めた。砂堀恭治もその犠牲者らしい」

「砂堀って……警視庁が雇ったあの、セキュリティの大御所ですか」

「十和田の書き込んだ砂堀への罵詈雑言は酷いもんだった。警察に手を貸すなんてハッカーの風上にも置けない、という意味だろう……あの女は爪の先までダークサイドに染まっている。おそらくIX(=インターネット・エクスチェンジ)時代からの手癖だ。お前さんに発見されていなければ、もっとエスカレートしただろう。彼女の罪状は背任どころじゃない。警察と連携し、正式に起訴しなきゃならん」

「不名誉な話ですね、電網庁としては……」

「人ごとじゃないぞ。香坂一希が大丈夫だと言い切れるか」

「僕がですか」香坂は目をしばたいた。「……まぁ、客観的にみれば、危険でしょうね。駆け出しの、ひよっこですし」

「というより、お前さんの能力が問題なんだよ。ハッカーは紙一重。優秀であればあるほどあっち側に転ぶ可能性を持ってる。半歩でも間違えりゃあ、十和田と同じになる」

「半歩……ですか」

「これ以上聞いちゃいけないんですか。さっき、そう言ったよなぁ? ……知らないということを、むしろ幸せと思うべきだ。知ることが怖いと思うべきだ。そういう仕事になっていく」

「わかります。ですが……一つ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「十和田の調べを進めているのは、誰ですか? 僕のまわりにいる先輩方じゃなさそうですね」

「……」

「特命課の中で、僕が会ったことのない人がいる。電子メールでUNKNOWNと名乗っている人だ。違いますか」

「まぁ、とにかく」垂水はコーヒーに口をつけることなく、小銭を置いて立ち上がった。「……祇園狐。君はもう少し恐さってヤツを感じておくように。天才ドライバーにはアクセルだけじゃなくて、よく効くブレーキも必要だろ?」







(二)千代田区:霞ヶ関:午前




 常代有華はここ一週間、あまり眠れないでいる。甲斐原の逮捕劇以来、岩戸紗英と顔を会わさない日々が続いていた。避けられているような気配を感じている。

 この日は特に憂鬱だった。月末の忙しさも極めつけで、電網庁が新庁舎へ移転する引越の最終日でありながら、と同時にベガス社から研究用車両がNICTへ納品される日でもある。午前中には霞ヶ関の片付けをすべて終わらせ、午後は国分寺へ向かわねばならない。

(午後が……めんどくさいなぁ)

 エレベーターで二号館の十一階へ向かう最中、有華は作戦を練った。そうだ。岩戸さんに会えたら、あえて顎の擦り傷を勲章のごとく見せびらかそう。甲斐原の逮捕劇を立派に成し遂げたと胸を張ってみよう。垂水さんにもらったお小言は——独法職員という立場で怪我をすれば岩戸を困らせるぞ、という忠告は——たぶん当人に伝わっている。でも、あえてそれを話題にすることで流れを変えられるかもしれない。有華はエレベーターを降りてきびきびと歩いた。リズムを速めた。そうだよ。持ち前のバイタリティで形成逆転といこう。きっと岩戸さんは褒めてくれる。慰めてくれる。これまでもそうだったし、これからも——そう信じて特命課のドアを開けた。

 だから。

「……おや……すみ? 私がですか?」意外な指示に面食らった。

「一ヶ月ぐらい、どう?」

 ブラインドから差し込む朝の陽光を背負い、岩戸は微笑む。「ずーっと駆け足だったじゃない?」

「今日……車が納品されるからですか? 自分で運転してみたくて、だから……」

「え?」

「……魔女の運転手はお払い箱?」

「はは。そうじゃなくて」岩戸は椅子に背中を深く預け、天井を見上げた。「ここを引き払うタイミングでちょっと休憩。グッドアイデアでしょ」

 有華は唇を震わせた。

「私が……怪我をしたからですか。常代有華は高柳総監の姪。だから警察の圧力が」

「まさかぁ。考えすぎよ、考えすぎ」

 岩戸の表情は変わらない。寸分も。有華はその態度に違和感を覚えた。

「じゃあ休みません」だから拗ねてみせた。「アタシはNICTの所員です。国分寺の指示で動きます」

 それが逆効果だった。

「そりゃあそうだね。ま、とにかく電網庁には来なくてよし。私からも国分寺に一言、言っとくから」岩戸はそうあっさり言ってのけたのである。

「ちょ……ま、待ってください。岩戸さんこそ、休暇取るべきじゃないっすか? アタシなんかより、よっぽど働いてる」

「私? 休もうと思ってるよ、私も」

「ウソ」

「信じてよ」

「信じません」

「そうよね。ゆかりん、私を信用してないもんね」

「……え」

「ご実家に帰ってないそうね。いつから?」

 風向きが——変わった。「……忘れました」

 忘れるはずがない。もう三年も帰っていないのだ。

「こっちに……霞ヶ関に絡み始めた頃から。じゃなくて?」

 それは誤解だ。関係ない。けれど。

「……覚えてません」しらをきる。

「どうして私には内緒?」

「……」

「私はこう解釈してるの」岩戸は事務机に両肘を突いて、有華の顔を下から覗き込むようにした。「実家に帰らないのは岩戸紗英の、魔女の野心を見極めきれないから。仮に岩戸が失脚して、常代有華が岩戸の道連れになっても、高柳総監の……あなたの叔父さまの顔には泥を塗りたくない。岩戸と叔父さんのパイプ役に、自分はなるべきじゃない」

 有華がまったく思いもよらないことを、岩戸はすらすらまくしたてる。

「すいません。おっしゃってる意味が、さっぱりわかりません」本音だった。

「じゃあ聞くわ。なんで帰らないの」

 言いたくなかった。言えば同情される。過去に戻される。

 戻るのは。

 戻るのはイヤ。「……個人的な問題ッス」

 立っているのが辛い。岩戸さんが、あの魅力的な力のある瞳で自分を見る。心の奥底まで見透かそうとしてくる。不思議と痛みや辛さは感じない。何もかも喋ってしまいたくなる。岩戸紗英という人間の器量がそうさせる。けれど。有華は歯を食いしばった。自分のプライベートはアピールにならない。むしろ多忙な人たちにとってお荷物になる。足を引っ張りたくない。それは最低限の、最小限の——努力だと思うから。

 岩戸の表情が変わった。悲しみの色が瞳に浮かぶ。

「私と一緒じゃレールを外れる。どこに行くかわからない。そう感じてない? 無意識のうちに高柳総監を守ろうとしてる。そうじゃなくて?」

「そんなこと、考えたこともない! ……です」これも本音。本音なんです。嘘じゃない。

「本当? じゃあ警視庁と目と鼻の先にあるこの建屋に出入りしてて、なのに叔父上を……高柳総監を避けてるそうね。それはどうして? 説明できる?」

「……」詰んだ。詰んでしまった。

「こないだ私、言ったよね。潮時かもしれないって。それはね」岩戸はゆっくり言葉を置く。「ここから先は得体が知れないから。楽しいことばかりじゃない、ってこと。むしろ苦しいことばかり。ううん……怖いことばかり、かも」

 黙ってうなずく有華に、岩戸は畳みかける。

「一ヶ月。それだけあれば、結論は出せる?」

「……結論ってなんですか」

「私についてくるか、それともここで退くか」

「岩戸さん。迷惑ですか、私」

「どうして?」

「警視庁幹部の姪っ子を、それも傷物をわざわざ抱えている。それって迷惑っスか」

 傷物という言葉をわざわざ自分で口にする。岩戸がどこまで知っているのか試すために鎌をかけた。そのせいで足が震えた。

「傷物って……まさかそれ、引きこもりだった頃の事を言ってるつもり?」

「……」

「大事な娘さんだって思ってる。傷物なんて思ったこと、一度もないわ」

「……じゃあ、今すぐNICTから電網庁に転籍させてください。一ヶ月の休暇なんて全っ然いらない。NICTの所長はOK出してるはずです。あとは岩戸さんの判断だって、垂水さんもそう言ってました」

「……」

「ほらぁ。休ませたいだけなんだ。そうなんでしょ。結局、邪魔なんだ私がっ」

「……」

「おかしいっス。私が実家に帰ってるとか帰ってないとか、そんなの業務に支障ないじゃないですか。単なるプライバシーです。なのに、それが理由でNICTにずっと籍を置かせるなんてやり方、おかしい。岩戸さん絶対おかしい」

「……」

 有華は机を両手で叩いた。思った以上に大きな音が響いた。

「私を見てください! 叔父とは無関係に、私が頑張ってる姿を評価してください。私に能力があれば、電網庁で召し抱えるべきでしょ。どうなんですか。私、私っ」

 岩戸は両手を組んで、うつむいたまま答えた。

 決定的な言葉だった。

「能力だけでいうと、必要な人材とはいえないわね」

 女帝の言い草は冷たかった。「答えに……なったかな?」



 常代有華が十一階の廊下を劇的な早足でこちらへ歩いてくる。荷物を抱えていた香坂一希は、いつものように紙一重で避けた。

 一つに束ねた長い髪が糸をひくように空気を裂いて、バネのある動きが筋肉の質の良さを、日焼けを厭わない小麦色の肌が若さを、さっぱりとした気性を表すメイクの薄さが清涼感を——ふりまいていく。いつもそうだ。

 ところが今は、少しムードが違う。

「お……おい、どした?」返事がない。明かに妙だ。

(泣いてる!?)

 チャームポイントの黒目がちで大きな瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。それを気づかれたくなくて、だから速さは五割増しで、香坂から顔を背けるようにして、エレベーターホールへ向かっている。

 香坂は足を止め、翻って後ろ姿を目で追った。抱えた段ボールをその場に置き、追いかけようかとも考える。でも。こういう時は行動を起こさないのが自分流。

(……そっとしておこう)

 特命課に戻るや否や、涙の理由に見当がついた。オフィスには窓に向かって立つ岩戸紗英が一人いるだけで、しかも表情が暗い。二人のやりとりに何かあった。そう察して余りある。

 広々とした空間に二つしか残っていない机の片方へ段ボール箱を据え、それから香坂は声をかけた。「泣いてましたよ、常代さん」

「泣きたいのはこっちよ」

 岩戸は窓の外を見たまま、吐き捨てるように言う。めずらしい剣幕だった。相手を手玉に取るような魔性の態度が、すっかり影をひそめている。

 香坂は段ボール箱の中から、二つのフォルダを取り出して言った。

「三百ページ分のプリントアウトなんて、するんじゃなかったな。喧嘩を仲裁するタイミングを逃すなんて、自分で言うのもなんですけど……間が悪い」

 岩戸が半身だけ向けて、くすりと笑った。「あなたでもプリントアウトしたい資料があるのね。紙のない国から来たみたいな顔をして、とっ散らかった机の上を毛嫌いする癖に」

「大事なものだけは紙にしておきたいタイプなんで」

「ハッカーらしからぬ発言だ。コンピューターを信用しないの?」

「プロセッサはある程度信用してます。でもハードディスクは信用してません」

 香坂は自分の作った真新しいフォルダを机の上に立て、表紙を岩戸の方に向けた。「……箕輪塾関連。垂水さんの信じられないほど分厚いフォルダを真似ないで、二つに分けるところが僕らしいところです」

 岩戸は黙って表紙を見つめ、それから肩をすぼめた。「面白そうじゃない、それ」

「先週スキャンさせてもらったんです。パソコン上で読めれば充分だと思っていたんですが、目を通すうちに冷や汗がでてきた……プリントアウト級です。でも」

「でも?」

「喧嘩のほうが興味あるな。あの娘を泣かせるなんて並大抵じゃない」

「……」岩戸はまた窓の方を向いて、ブラインドを押し下げる。きっとロータス・エクセルが駐車場から滑り出す様を見届けたいのだ。

「常代有華は……警視総監の姪っ子なんですよ、ね」

「それがどうかした?」

「だから手元に置いてるんですか」香坂は語気に嫌悪感を含めた。「総務省傘下とはいえ、独立行政法人の職員を……辞めさせずに電網庁で働かせている。合法とは思えない」

「だったら? 誰かに注進する?」

「いいえ。でも軽蔑します」

「軽蔑か」岩戸はブラインドにかけていた指を離し、香坂の方に向き直った。「電網庁は国民を監視、弾圧するための巨大なサイバー暴力装置。いずれ肥大化し、警察を取り込んで真の暴力装置へと進化する……」

 ネット自由化連絡会のトップページで謳われる誹謗中傷のフレーズを岩戸がさらりと諳んじる。嘲りの色が瞳に宿っている。

「ネットにはそう書かれてます。その狙いが本当なら、常代有華は警察とのパイプ役として使える……まさか、そう思っているんですか? 本気で? だとしたら軽蔑に値する。軽蔑級です」

 岩戸はうんざりという顔をした。

 沈黙が続く。だから香坂は話題を変えようとした。そのときだ。

「ね、あの子が泣いてこの部屋を出て行った。どうしてだと思うの? 新米君」岩戸が言った。

「転属希望の件、でしょう?」

「だからさぁ、涙の理由よ」

「…………常代さんは……自分を見て欲しいんです。警察幹部の親族としてではなく、自分自身を評価してほしい。ところが転属は認めてもらえない。それが悔しい。違いますか」

 岩戸はまっすぐ香坂の目を見た。「さすが祇園狐……といいたいところだけど、五十点」

「……正解を教えてください」

「あの娘はコンプレックスの塊なの。それが解ってあげられないと百点取れない」

「教えていただけないんですか」

 岩戸が含みを込めて言う。「教えても理解できないってこと、世の中にはあるんだよ」

 喧嘩を売られた。そう思った。だから。

 香坂は思いきって口にした。

「僕が……組織に尽くせない人間だからですか?」

 香坂の脳裏に焼きついていたイメージが、強くフラッシュバックした。あのときと似ている。そうだ。あのときもこんな風に、朝早く、広いオフィスに呼び出されて。



——うちの会社が組織としてダメだってことは、俺もよくわかってんだ。


 半年前の出来事だった。最初に就職したセキュリティ系のソフトベンダー、それを率いる三〇歳半ばの社長が、自分だけを会社に呼び出した。ハッカー連中がまだ寝静まっている時間に。


——お前は優秀だ。言ってることは正論。でも、「組織が脆弱な時期は、優秀すぎる社員を雇わないほうがいい」ってアドバイスも世の中にはある。知ってるか?


 香坂は自分の主張を繰り返した。時代は変わりつつある。スマホとかタブレットに囲まれて育つ子供は、積み木でも組み立てるような感覚でゲームぐらい作ってしまう。我々プロも変化を恐れていては置いて行かれる。JAVAが使えるから食いっぱぐれない、なんて感覚じゃあお粗末。そういう危機意識を持ちましょう、と言っただけです。せめて、プログラミング言語ぐらいは、新しい物を勉強し直す気概を持つべきだ。違いますか。間違ってますか僕。


——否定はしないよ。けどなぁ、いつの時代だって最先端の言語を颯爽と使いこなせるのは忙しいプロじゃなくて、暇のたっぷりあるアマチュアだ。銀行の基幹システムじゃ、今でもCOBOLのコードが動いてんだぜ。COBOLだぞ!?


 それでも我々は新しい言語を選択する勇気を持つべきです。生産性を重んじるならば。


——重んじるからこそ、古い言語を選択する判断もありえる。そう決めて必死な奴が……お前の上司が、お前の持論を聞いたらどう感じるかってことさ。


 辞めて欲しいと思うでしょうね。


——だろ? 誰かに辞めて欲しい人間だなんて思われるのは面白くないよな? そう思われないように、ちょっとは努力してくれてもいいと思うんだ。


 香坂は返事を怠った。意図的に。それを社長は見逃さなかった。


——まさかお前……辞めたいのか? 俺にクビって言わせるよう仕向けてんのか? だとしたら、本気で怒るぞ。



「僕が……組織に尽くせない人間だからですか?」

「え……何。何の話?」

 岩戸紗英は狐につままれたという面持ちでいる。香坂はシャツの左ポケットに忍ばせていたスマホを取り出し、メールアプリを起動して見せた。

 覗き込み、女帝はただ首をかしげている。「組織に……尽くせるか? 何これ?」

「……東京に赴任した朝、僕に届いた電子メールです。UNKNOWNという差出人に心当たりがまるでない。けど、スパムメールにも思えない。たぶん上司の誰かだと思ったんですが……岩戸さんじゃないんですか?」

 岩戸はゆっくり首を横に振った。

「……このメールにまだ返信できていないんです。組織に尽くせるか。無責任に尽くせるとも答えられない。かといって尽くせないとも答えたくない。相手が誰か見当もついていない。転じて、自分は未熟……そんな自覚は持ってます。つまり……」

「…………」

「……つまり常代さんの事情を僕に教えても無駄っていうのは、僕が理解力の足りない未熟者だから……あるいは、組織に尽くせるかどうか怪しい半端者だから。そういう事ですよね?」

「なるほど。そうきたか」岩戸は苦笑する。「違う違う。そんな電子メールのことは知らないし、少なくとも私は仕事仲間として、キツネ丼君の才覚を疑ったりしたことはないぞ」

「じゃあ教えてください」香坂は食い下がった。「僕に教えても無理だというのなら、無理だと判断した理由だけでも教えてほしい」

 子供の頃から秀才で通し、最高学府を経て今の自分がある。教えても無駄などと言われて、おいそれと引き下がれるものではない。だが怖くもある。だから身構えた。衝撃に備えて。

 岩戸は苦笑しつつ言った。「ね、あなたにコンプレックスってある?」

「……コンプレックスですか」

「ないでしょう」

 吹き飛ぶような威力は感じない。けれど確実に響く一撃だった。コンプレックス——劣等感。それに適当な感情に思い当たらない。あるとすれば。

「……あるとすれば……最初に就職した会社を辞めてしまったことです。キャリアとしては無駄足だ」

 無駄足なんてもんじゃない、と思う。組織を一度裏切ったという過去、イコール「組織に尽くすタイプの人間ではない」という証し。だからこそ、あのメールにおいそれと返事ができないのだから。

「会社を辞めた。そのときの気分はどう? 無力感はあった?」岩戸は椅子に腰を下ろし、背もたれに身体を預けた。

「無力感は……ありませんでしたね。自分が望んで辞めたわけだから」

「じゃ、その程度のコンプレックスってことよね」

「……常代さんのは、もっと深い。だから僕にわかりっこないってことですか」

「世界に対する無力感、失望。それを感じたことがある人間同士にしか生まれえない、悲しい共感ってもんがあるのよ。ねぇ……あの娘、あなたに家族の話をした?」

「……いいえ。何も聞いてません」

「常代有華はプライベートに重い問題を抱えている。かなりの」

「そうなんですか」

「だけど、あなたには話さない。どうしてだと思う?」

 腹立たしい煽りだった。けれど乗ってはいけないと思う。

「それは……面識が浅いからです。どうでもいい、ただの同僚だから……教える必要がない。それだけです」

「そういうところ、お馬鹿さんなのね」

 件の才媛はまるで子供をあやすように言う。冗談でもなく、叱るでもなく。

「……」

 魔女の流儀に合わせるしかなくて、香坂は一方的に追い詰められた。何も言い返せない。返しようが、ない。

「いい? あなたはスーパーマンなの」岩戸は手綱を緩めない。「颯爽としてて、知恵があって、優しい。傷なんてどこにもない人間。あの娘、あなたのことが好きに決まってるわ。だから内緒にしてる」

「……」

「わかる? 秀才君」

「…………難解、です」

「つまりね……同情されたくないのよ。対等になりたいって、願ってるわけ。どう? かわいいって思わない?」

 岩戸は立ち上がって右の拳を固め、まるで身動きできない香坂の胸を、軽く、そして真っ直ぐに打った。

「おいっ。大化けしてみせろ祇園狐。あの娘が電網庁に必要だと、本気で思ってるなら」

 大化けしろ。言葉の意味を計りかねて、青年は戸惑うばかり。だが女は手荷物を抱え、背を向けた。がらんどうのオフィスを真っ直ぐ出口へと歩き去る。

 ドアノブに手をかけ——最後に一度振り返って。

「……違うな。あの娘がかわいいって、本気で……思えるのなら」

 そう言い残した。



 香坂は最後の段ボール箱をまとめ終えると、部屋に残る理由を失った。初台の新庁舎へ移動し、荷物の梱包を解いてからでないと何もできない状態。スマホで時計を見る。まだ昼を回っていない。二十一時からは同じフロアの管理局におもむき、サーバーのシャットダウン作業に加勢する予定。午後が丸々と空いてしまった格好だ。

 そして、岩戸の捨て台詞が頭から離れない。

(大化けしろって……どういう意味だ)

 常代有華が出て行った理由について、自分の読みが当を得ているならば、呼び戻すことが香坂一希にできるとは到底思えない。新人が人事について講釈を垂れ、あるいは慰めても説得力が伴わない。それでも岩戸は行動しろ、という。それって——つまり。

(そうか)

 香坂は一つ思い当たった。自分が何かにつけてひな型テンプレにはめたがるという癖に。新人が人事に軽々しく意見することなど無駄。無意味。そういうレッテルを貼る。かせを思いつく。だから人より先回りできるくせに——何もしない。自分に課せられた責任を全うするだけ。

 かの女帝は、そんな、賢しいだけで消極的な態度を否定したのではないか。

(でも、なぁ)

 仮にそうだとして。そのひな形を、類型を無視したとして。

 僕に一体、何ができる? 

 香坂はしばらく席を離れず、思案にかなりの時間をかけた。



「電網庁特命課の香坂様……という方がお越しですが……はい……はい……お約束ではないそうです……ええ……はい」

 制服姿の女性は耳から受話器を外すと、怪訝そうに香坂を見据えて言った。「高柳は多忙でして、お約束がなければ面会は難しいと思いますが」

「……じゃ、どうやったらその、約束は取り付けられ……」

 受付係にあしらわれそうになった、そのとき。

 警視庁の玄関からロビーに制服の一団が雪崩込んできた。中の一人が、携帯電話を耳に当てつつ、まっすぐ受付へと歩み寄る。

「やぁ……あなたでしたか」警視総監は一度しか会っていない若者の顔を覚えていた。「悪いね……時間があんまりとれないんだ」

「五分で結構です。ご挨拶に伺っただけなので」

「じゃ、そこのソファで」

 警視庁の最高責任者と若造が連れ立って腰掛ける。その様子をさして珍しがることもなく、制服姿の連中が慌ただしく目の前を横切っていく。

「今日で最後なんです……霞ヶ関は。明日からは初台に出勤です」

「そうか。引越するって言ってたね」

「遅くなりましたけど、これ。新しい連絡先になります」

 香坂は刷り上がったばかりの名刺を渡した。あの日、高柳と遭遇した時は配属されたばかりで持ち合わせていなかった。「常代さんには、高柳総監が訪ねてきたことを話しました。ですが、放っておいてくれ、叔父の相手をするなと釘を刺された」

「そう……ですか」紳士は受け取った名刺をポケットへ入れると、悲しげに頷いた。「そうでしょうね。お聞きになりましたか? 常代家の事と……次第を」

 香坂は首を横に振った。余所の家庭が不和だとして、その理由を詮索したいとは微塵も思わない。

 だから、ここへ来た理由をきっぱりと宣言した。

「あまり立ち入るような真似をしたくはありません。ですけど僕は……僕としては、伝言の役目は全うしたはずです。それをお伝えしたかった。僕が約束を反故にしたと思われるのは、心外なので」

「いやぁ……こちらこそ、面目ない。巻き込んだのは私のほうだ。わざわざありがとう」

「……寝覚めが悪いの、苦手なんです」

「寝覚め、か。なかなか殊勝な物言いをしますね」高柳は微笑んだ。「あなたのような義理堅い人が傍にいてくれる。叔父として嬉しく思います。あいつはハネッ返りですが、心根はとても優しい子だ。有華を……よろしく頼みます」

 自分の見立てに間違いはない。常代有華が何と言おうと、高柳泰平は立派な男だ。香坂はそう思った。

 あまり時間をとらせたくない。

 これ以上深入りしたいわけでもない。

 若者は自分から立ち上がって、頭を軽く下げた。

「お力になれず、すいません。何があったか存じませんが、関係の修復を願っています」

 それだけ言って立ち去ろうとした矢先。

「……私が悪いんです。いや、違うな」高柳が立ち上がって言った。「本当は誰も、悪くはないんだが……どう接していいかわからず、ただ何年も時間が過ぎてしまった。会わない時間が永すぎて、だから余計に会いにくくなってしまった。何かきっかけさえあれば、また笑い会えると信じてるんです」

 香坂はあらためて一礼し、踵を返した。

 自分は義理を果たしたいだけ。名刺を渡すだけで十分。重たい事情があるのだとしても、仔細は常代有華の口から聞きたい。

 そんな気分も手伝って、独りでに早足になった。






(三)江戸川区:東葛西:午後



「あ、重いぞ。それ」末次警視が言った。

 にもかかわらず、若い巡査が段ボール箱をトランクから引っ張り出して、そこで——ギブアップ。アスファルトの上にどすん、と置いた。

「うぇ―、台車探してきます」

 末次は薄笑いを浮かべ、巡査の尻を平手でぱん、と叩いた。「そうして」

 それから運転席のドアをばたりと閉める。

 次々と到着するツートンカラーのクラウンで駐車場はあふれかえっていた。皆がめいめいに手荷物を抱え、建屋に邁進する。そんな中で末次だけは手ぶらで玄関をくぐった。若い巡査に荷物運びを手伝わせるのが癖になっていた。頭上で警視庁葛西警察署の文字が陽光を弾いている。

 甲斐原豪の逮捕が引き金となり、修学旅行バス五十六名死亡事案は事故から事件へと格上げされ、ベガスカスタマーセンター江戸川第二が管轄区内であるこの葛西署に捜査本部が開かれることになった。出向いた捜査一課の面々にあって、末次の持参した資料はとびきり重い。まったく電子化できていない、新聞の切り抜きや雑誌記事の塊だ。

 台車を転がす巡査の斜め後ろをついて廊下を歩きながら、末次は与太話をしかけた。「太田君は刑事課なの?」

「いえ。いちおう刑事志望ではありますが」

「未婚か」

「ですけど?」

「葛西署は美人いる?」

「……いますよ、それなりに」

「太田的には署内で結婚相手探したいと」

「はい。そりゃ……まぁ」

「じゃ、末次的アドバイス。聞きたい?」

 太田巡査は目を輝かせた。「是非お願いします」

 末次はニタニタして言った。

「刑事志望なんて言わないことだなぁ。離婚率高いって事、女の子はみんな知ってる。誰も寄ってこなくなるよ」

「…………マジですか」

「これマジね」

「結婚と刑事は」

「両立しない」

 台車を止めて、巡査はドアノブに手をかけた。「警視殿は」

「独身だよ」

 末次は不敵な笑みを浮かべつつ、署内で一番大きな会議室へ足を踏み入れた。背広組でごった返す中、なるべく上座の会議机に構え、箱の蓋を開く。

 しばらく中身を眺めてから、ひらめいたように手を叩き、本部長席に歩みよると、置かれていたマイクを手にとった。

「あー、あー。手を動かしながら聞いてくれ……ちょっと急ぎで相談がある。総務省職員、岩戸紗英四十二歳、女性。政治家の娘で猪川代議士とつながりがある。こいつの資料を配布用にまとめたいんだが、ちょっと膨大だ。各班、早い内に一名出してくれ。手分けしたい」












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