第14話

 ……惜しい。もう少し時間があれば犯人と対峙できたのに。あのコンドルの仕掛けにもっと早く気づいていれば……。

 だが、やるべきことは見つかった。犯人の目処が立ち、探す場所も分かった。私は着実に進んでいる。あと少しで猪去をみすみす死なせずに済む。

 それでも不安は離れない。

 私は不安に気づかない振りをする。不安の正体を知るよりも、他に知らなくてはいけない正体がある。

 私は猪去と親交を深め、最上階へと向かった。

 猪去の仕事が終わってから、姿勢を正して告げる。

「猪去さん。このままではあなたは殺されてしまいます」

「……な、なんだって?」

「私はそれを止めるためにここにいます。聞いてください。私は前まで、犯人はエレベーターで来て、猪去さんを殺害するのだとばかり思っていました。しかし、実際には違いました。猪去さんを殺した犯人は、すでにこのにいるのです」

「……君は、あの部屋を知っているのか」

「前回は気づくのが遅くなってしまい、みすみす猪去さんを死なせてしまいました。でももう違います。私は猪去さんを助けられます。いますぐあそこに行きましょう」

 私が立ち上がると、猪去もまた、その重い腰を持ち上げた。

 コンドルの羽根を動かすと、壁に隙間が生じる。隙間は広がっていき、下に降りる階段が現れる。

 私と猪去は二人で階段を降りていった。

 犯人との対面が近づいていた。私は背後の猪去を気にしながら歩いた。二人がかりなら、たとえどんな人物が襲いかかってきても負ける気はしない。

 私は背中から出刃包丁を取り出した。

「それは……」

「念のためです。それより猪去さんも気をつけてください。犯人がどこから襲ってくるかまでは分からないんですから」

 細い階段が終わり、私たちは広いフロアにたどり着く。

 瞬間、目に入ったのは大量のスカトロ雑誌だった。積まれてできた黄金の山。私たちはその隙間を歩いた。ライトが点灯したことで、私たちがこのフロアにいることは犯人にもバレたはずだった。

「一応聞きますけど、全部自費で買われてるんですよね?」

「……コレクションは自分の金で買うのがマニアのたしなみだ」

「着服したお金とかじゃないですよね?」

「さすがの私でも着服してまでは買わない」

 山に近づくたび、出刃包丁を握る手に力が入る。私は一つ角を曲がるたびに、勢いよく飛び出した。まだ見ぬ犯人の虚を突くつもりだったが、いつも誰もいなかった。

「もっとばつの悪い思いをするかと思ったが、意外と動揺しないものだな」

「なんでまたこんな雑誌を買われるようになったんです?」

「……別に説明しても構わないが、熱弁を振るうことになるぞ? おしっことお漏らしの違いなんて、本当に聞きたいか?」

「……さっきの質問はなかったことにしてください」

 山を一つずつ潰してゆく。どこにも人の影はない。

 時間が過ぎ、あと残されている山は一つだけになった。

 私たちは最後の山に近づいてゆく。

 順調に犯人を追い詰めているはずだ。

 犯人は間違いなくこの裏にいる。

 犯人に逃げられないよう、私たちは二手に分かれた。山の左右からそろそろと近づく。

 この陰に……ナイフを持った殺人犯が……。

 私は猪去と顔を見合わせた。お互いに一つ頷いた。私は指を三本立てた。次は二本立てる。最後に人差し指を一本残し……、

「いまだ!」

 合図を出して、素早く距離を縮める。雑誌の山を曲がり、その場に身をかがめている犯人に出刃包丁を向ける。

 いざとなったら一切の遠慮なしに突き刺してやる。殺すことなら私の方が長けているのだ。

 スカトロ雑誌の陰。

 そこにいたのは……、

 いや。

 ……違った。

 全部が違った。私の予想は間違えていた。陰には誰もいなかった。

 そこには、ただなにもない空間が広がっているだけだったのだ。

「これは……天田君、どういうことだ?」

「他に部屋はありますか? 隠し部屋でもなんでもいい」

「まったくない。そもそもここは設計ミスが生じたときに、重役の一人が面白がってそのまま作った部屋なんだ。当初から作られる予定の部屋じゃなかったんだよ」

「じゃあ、いったい……」

 犯人はどこへ消えたんだ?

「……私はもう一度上の見回りをします。猪去さんはここにいてください。念のためこれも持っていてください」

 私は自分の出刃包丁を、猪去に渡した。

「誰かに襲われたら戦ってください。猪去さんの手で、自分の命を守ってください」

「……君も気をつけてくれよ」

 私は一人で階段を上がる。

 今回も念のためエレベーターに仕掛けを施しておいた。まずは鈴が落ちていないかを確認しよう。

 鈴は仕掛けたときと同じ形で、そこにあった。私たちが上がってきてから、この部屋に新しく来た人は誰もいないはずだった。

 私は部屋を回った。

 仕事部屋、娯楽室、寝室、コレクションルーム。今度は逆回りに、寝室、娯楽室、仕事部屋、コレクションルーム。トイレも風呂場も探した。ソファーの中も剥製の中もウォーキングクローゼットの中も確認した。

 ……誰も、いない。

 七時まで猪去から目を離さなかった日。あのとき、猪去は死なかった。

 私の目があったから猪去は殺されなかった。あのときは単純にそう思った。

 しかし、本当に犯人なんているのだろうか?

 私はもう一度フロアを回る。時刻を確認する。六時五十五分。もういい時間になっていた。

 私は隠しフロアに移動する。

 そしてそこで、

 ――猪去の死体を目にしてしまう。

 死体のそばに、血塗られた凶器が転がっていた。それはあの出刃包丁だった。私が猪去に手渡した出刃包丁が、いまは血で曇って猪去のそばで転がっていた。

 あと五分も経たずに今日が消える。

 猪去を殺害した人物はいったい誰なんだ?

 このフロアにいるのは私一人だというのに……。

 私は出刃包丁をじっと見た。反射される光は、私のよく知っている輝きだった。私が何度も手の中で見た、犯行後の出刃包丁の輝きだった。

 私の頭の中に、一つの考えが思い浮かぶ。

 ……もしかして、これはもっと単純な話なのではないか?

 一見不可能に思える状況だが、状況を単純に考えれば、犯人と思われる人物は確かにいる。

 二人の人間がいて、一人が殺害される。

 ならば犯人は誰か?

 私の出刃包丁。猪去を突き刺した私の出刃包丁……。

 あれを振るえたのは誰だ? それは、私が知らない人物か?

 それとも……、

 これ以上ないというほど、私が知りすぎている人物か?

 疑問が次々に浮かんでくる。

 そもそもタイムスリップなんて本当にあるのか? 私の意識は本当にずっと私の身体にあったのか?

 意識とはなんだ? 時間とはなんだ? 世界とはなんだ? 血塗られた包丁を片手に部屋を徘徊しているのはいったい誰だ?

 私は自分のしたこと全てを把握していると、本当に言い切れるのか?

 視界が歪む。時間が歪む。私の身体を、通りすぎていく影がある。

 あれは、誰だ?

 人影は、私から離れた場所でぽつりと呟く。

「ああ、7時1分だ……」


 スイートルームに私はいる。ただし、ここが本当にスイートルームかは分からない。

 洗面所に入ると鏡越しに顔が見える。ただし、それが本当に私の顔かは分からない。

 考えると、考えただけ思考が動く。ただし、それが本当に私の思考かは分からない。

 なにもかもが嘘くさかった。まるで、大きなスタジオに紛れ込んだかのようだった。

 二十四時間が経過すると、スタジオの壁からガスが噴出される。ガスは私から意識を奪う。意識を失っている間に、時計がいじられ、私の身体はベッドに寝かせられ、そしてそれまで死んでいた人たちがいっせいに立ち上がって「お疲れー」「いや、今回もよい演技だったよ」と互いに褒め合う。スタッフは地震を体感させる装置がまだ動くかとメンテナンスし、ルーレットは同じ場所に止まるよう磁石でいじられている。

 私だけが世界の本当の姿を知らないのだ。私が不安になる有様を見て、モニターの前の世界中の人間が笑い転げているのだ。

 キャリーバッグを開けると、私の目に出刃包丁の光が突き刺さった。

 私は出刃包丁を掴んで立ち上がる。

 猪去を助ける方法はない。世界が死を望んでいるならもう助けられない。

 しかし、私が繰り返しから逃れる術は必ずある。

 世界が望まなくなればよい。

 徹底的な破壊をすれば、世界は私を放逐する。

 私は出刃包丁を持ったまま、少し遅めにVIP用レストランへと向かった。

 山盛りの皿を前に食事する猪去。彼は私に目を留める。

「天田君だったね」

「……」

 私は無言で出刃包丁を高く掲げた。そしてその冷たい輝きを、猪去の首筋に当てた。

 頸動脈を切ると、血が噴出した。

 だが、まだ足りない。このままでは猪去は助かってしまう。確実に殺すためには、もう数ヶ所の傷がいる。

 返す刀で首をさらに突き刺した。二箇所、三箇所、四箇所、五箇所。同じ場所を何度も刺せば、縫合はその分、難しくなる。

 誰かに体当たりされて私の身体が吹っ飛んだ。その誰かの眉に古い傷口があった。傷口がひくひくと蠢いている。お前が犯人だと眉の上の古い傷口が言っている。

「そうだ。私が犯人だ」

 こうして猪去を殺した犯人は捕まった。

 誰が殺したか分からないのなら、私が殺せばいい。そうすれば、猪去を殺した犯人は確実に捕まる。

 こうして私は捕まった。猪去は助からないが、それでも犯人だけは捕まったのだ。

 なにをするまでもなく、考えるまでもなく、努力をするまでもなく、決意を強めるまでもなく、猪去を殺した犯人は、こうしてあっけなく捕まった。

 夜が明ける。


 七時。私はスイートルームにいる。

 さっきのやり方ではダメだったか……。

 もっと世界を破壊しよう。猪去を殺した犯人を確実に捕まえる最後の手段を取ろう。

 私は出刃包丁を持ったまま、廊下に出た。

 廊下にいたのはいつもの清掃スタッフだった。

「おはようございます。昨日は勝ちましたか!」と快活に声をかけてくる。その元気のよさをうっとうしく思いながらも、「おはようございます! もう大勝でしたよ!」と私は言う。通りしな、清掃スタッフの首筋を出刃包丁で切る。清掃スタッフはヒューヒュー言って傷口を押さえる。押さえた手が真っ赤に染まる。清潔なエプロンが赤黒く染まる。

 私は出刃包丁を持ったまま、エレベーターを降りていった。一階に着くと、目の前にいたのはスターターだった。笑顔を浮かべたスターターは私が握っているものを見て表情を変えた。口が叫ぶ形になったのを見計らって、私は出刃包丁を横に薙いだ。出るはずだった叫び声が、単なる呼吸音へと変わる。血液と共に、スターターの、声になり損ねたものが吹き上がる。

 ロビーに出る。カウンターにいる従業員に近寄る。彼の着ていた立派なスーツが赤く染まった。今度こそ大きな叫び声が上がった。私は叫び声の主を一人ずつ追ってゆく。

 しゃがんで泣き叫ぶ子供。私は殺害する。近寄ってくる警備員。私は殺害する。こけた青年。私は殺害する。イカレた紳士。私は殺害する。

 姉も両親も殺された。犯人に出された判決は懲役十五年だった。私はそれを不服に思った。真っ当な判決ではないと思った。それでもなにもしない手もあった。しかし、私は復讐しようと決意した。あの人を殺害しなくては新しい人生は歩めぬと思い込んだ。

 そうなのだ。本来なら、私はあの時点で納得することだってできたのだ。十五年の刑を妥当と考えることだってできたのだ。それでも私は納得せず、復讐すると決めたのだ。

 猪去を救うだって? なるほど、人があの死体を目にしたら、当然抱く決意だろう。しかし真っ当でない私が真っ当な手段に頼るだなんて、どうかしていたのではないか?

 私は殺すことを選んだ女だ。殺すことでしか幸せになれない女なのだ。ならば猪去を救うために私が執るべき手段だって、殺すことであるべきだ。いついかなるときも、病めるときも健やかなるときも、私は殺す女だった。

 星定男を殺害した。猪去を殺害した。次に私は名前も知らぬ民衆を殺害して回った。この世界を殺害し尽くしたとき、ようやく私は幸せになる。

 肩に衝撃を感じて振り返る。遠くに拳銃を構えた警官がいた。青い制服の警官だった。その顔に軽く覚えがあった。

 ……思い出した。星定男のアパートに来た警官だ。私の裸から目をそらした警官だ。

 私は警官に近づく。警官は拳銃を構えてなにか言ったが、私の耳には届かなかった。

 向けられた銃口が光を放つ。

 私は頭に衝撃を受けてホテルに倒れ込んでいた。

 破壊された脳で、私は思考を繰り返す。

 まだだ。まだ足りない。まだ私は救われない。

 七時。私はスイートルームにいる。

 ……戻ってきたならば、私が殺した中に猪去を殺害する犯人はいなかったわけだ。

 。時間はかかるが、しらみつぶしこそ確実な手段だ。

 犯人を殺したときが、この繰り返しの終わるときならば……。

 出刃包丁を背中に入れて廊下に出る。清掃スタッフはすでに殺したからもう殺さない。

 もっと殺しておくべき人物がこのホテルにいた。本来なら最初に殺しておくべきだったが、うっかり私は忘れていたのだ。

 しばらくは展望台で時間を潰す。

 エレベーターを待つ諏訪の姿が目に入る。

 私は諏訪に近寄った。同時に、背中から出刃包丁を出した。腐った目をした男に、出刃包丁を突き刺した。男の目を切り裂き、二度と私を見れなくさせた。どろりと体液が流れたが、飛び散りまではしなかった。私の服は綺麗なままだ。

 なるほど、こう殺せば返り血を浴びなくて済むのか。

 男の死体を乗せたエレベーターが下に降りる。私は別のエレベーターで一階に降りた。

 扉が開くと、スターターが叫び声を上げていた。スターターが見ているのは諏訪の死体だ。私は悲鳴を聞きながらホテルを出た。土浦市の外れまで行き、『レンタルボートうだがわ』まで歩いた。

 古ぼけた帽子の従業員が新聞を読んでいる。最新記事はなんだろうか。誰かの死亡記事だろうか。それを読み、「ああ、これが自分でなくてよかった」と従業員は安心しているのだろうか。私は出刃包丁を手に握った。新聞に穴が空き、その奥の従業員にも穴が空く。吹き出た血液で、死亡記事が染まっていった。

 湖沿いの道を歩く。猫背の絵描きがそこにいた。くの字型の背を向けて彼は絵を描いている。その背中は、あたかも刺してくれと言わんばかりだった。だから私は絵描きの背中に出刃包丁の刃を突き刺した。絵描きの身体が転げて、キャンパスは絵描きの血で彩られた。完成された地獄図がそこに浮かび上がっていた。

 凧揚げの子供たちが私を見た。眼鏡のリーダー格の少年が腰を抜かす。なにか言おうとしたその口は、酸欠の金魚のように、ぱくぱくと開閉を繰り返していた。だから私はその口に思いっきり出刃包丁を突き刺した。眼鏡が宙に飛び、少年は無個性な肉塊になった。

 太った子供が小便を漏らしている。私は太った子供の腹を切り裂く。中から出てきたのは白い脂肪の塊だった。脂肪が好きだから太るのだろうと、切り取った脂肪を少年の口に入れてやると、少年はさらに小便を漏らして喜んだ。

 逃げだそうとしていたのは鼻の穴の大きな少年だった。投げた出刃包丁が、回転の勢いをつけて少年に刺さる。少年は転ぶ。のけぞった姿勢の少年の、鼻の穴に出刃包丁を刺してやる。二つの鼻の穴がより大きな一つの鼻の穴になった。実にほじりやすそうだ。

 足下を見ると、一人の少年が土下座をしていた。土下座をしたまま震えていた。私はその背中に立った。この背中に乗るのはいつぶりだろう。面白くなってきたので背中の上でジャンプした。着地する際、出刃包丁を下に向けた。着地と同時に、刃がぶすりと刺さった。少年の震えは止まり、これで彼はもう二度と誰からも馬鹿にされずに済んだ。

 肩に衝撃を感じて振り返った。この衝撃はつい数時間前にも受けたばかりだった。やはりあの警官だ。私に銃口を向けた警官が、もう一度指を絞った。すると、私の頭は衝撃を感じて吹き飛んだ。

 破壊された脳で、私は時間を待っている。

 七時。私はスイートルームにいた。

 やはりここに戻って来るか。予期していた分、受け入れやすかった。今度は夜になるまで待った。ときには眠り、ときにはテレビを見て、ときにはシャワーを浴び、私は待った。

 二十時半。私はホテルを出た。

 背中に出刃包丁の感触がある。ひんやりとした感触に肌を震わせながら、寒い夜の土浦を歩いた。車のライトが私を照らす。私はライトを睨んだ。あの運転手もいつかは殺してやらねばなるまい。しかしそれはいまではない。なによりも先に殺すべき人物が、バーで私を待っている。

 二十一時に駅に着く。バーの扉を開けて、ジャズに耳を傾けた。止まり木に座る一人の客とバーテンの視線が私を刺した。私は彼女らに応えるために、出刃包丁を取り出した。

 一閃。続いて二閃。

 光の線が目に焼きついた。人が死んでもジャズは鳴る。これが私の発見だった。殺人によって音楽は止められない。しかし、音楽によっても殺人は止められない。私とジャズは互いに独立し、殺意は肯定も否定もされずにたたずんでいる。音楽は何者からも自由なのだ。

 部屋を染め抜いた私は、死の香りをまとって外へ出た。

 朝の七時まで、あと何人殺せるだろうか。駅にはたくさんの乗客がいる。その全てが私の狙いなのだった。

 叫ぶ泣く騒ぐ、襲う。

 光が私を次なる道へと導いた。夜道を照らす明かりは、殺意への文化的道しるべだった。私が出刃包丁を振るうと、私につき従う影だって出刃包丁を振るう。一人が動けなくなると、影もまた動けなくなる。一人殺せば二人が殺せる。二人を殺せば四人が殺せる。数は倍々式に増えていく。それに私は気をよくする。

 肩に衝撃を感じて振り返る。青い制服の警官。いつもと同じ警官。いったいどういうシフトでこの人は勤務しているのだろう? 私を銃殺するために、彼は税金で暮らしているのか。

 七時。私はスイートルームにいた。

 警官だ。警官をなんとかすると、もっと効率がよくなる。

 私はスマートフォンで土浦市を調べる。警察署がどこにあるか、ガソリンスタンドがどこにあるか、ホームセンターがどこにあるか。マップを頭に叩き込む。キャリーバッグを空にして、引きずりながらホテルを出た。

 私はホームセンターへ行き、ガソリン携行缶を一つ買った。

「袋にお入れしますか?」と言われたので、

「いいえ。バッグがありますから」とキャリーバッグの中に入れた。

 次は最寄りのガソリンスタンドに行く。携行缶にガソリンを入れてもらった。キャリーバッグがパンパンに膨らむ。人を焼ける重さを引きずって私は歩く。

 コンビニに行き、トイレを借りた。トイレで、キャリーバッグの底を丸く切った。トイレから出ると、店員にお礼を言った。新聞紙とジッポライターも一つずつ買った。

 準備は概ね終了した。

 私は警察署へ向かった。署の前に立番がいた。

 陰に隠れて、キャリーバッグを開ける。ガソリン携行缶のキャップを取ると、ガソリンの臭いが鼻を襲った。むせる臭いの中で、チャックを閉める。

 試しにキャリーバッグを引きずって歩くと、地面に一本の線ができていった。はたから見て、その一本の線はとても目立った。

 私は自動販売機でペットボトルを買い、キャリーバッグの上で転がした。ペットボトルからこぼれたお茶は、キャリーバッグを濡らした。

 キャリーバッグを引きずって警察署を一周する。地面にできた濡れあとを、立番が不審な目で睨む。私は自分も被害者ですという態度で、キャリーバッグの上のペットボトルを示した。立番は睨みを解いて、私に理解ある笑みを浮かべた。

 一周しても、まだガソリンは残っていた。最後の一滴まで空にするように、燃えやすい街路樹の周辺を私は歩く。

 さて、もういいだろう。

 内側をガソリン、外側をお茶で濡らしたキャリーバッグ。私はキャリーバッグに新聞紙を貼りつけた。新聞紙は適度に濡れてへばりついた。

 まだ余っていた新聞紙を丸め、ジッポライターで火をつける。

 火のついた新聞紙をキャリーバッグに入れると、炎はみるみる大きくなった。私の復讐心を吸って、炎は周囲を焦がしてゆく。

 黒煙が上がった。私はキャリーバッグから離れた。引火するまでが大変だったが、一度引火すればあとは簡単に火の線ができた。私の歩くスピードと同じぐらいの速度で炎が動く。警察署が飲み込まれる。大きな橙色の丸ができ上がる。

 もうここに用はない。私は背後の叫び声から逃れて、土浦の街に紛れ込んだ。

 できるだけ素早く移動する。私は混乱に乗じて殺したかった。しかし、警察署の目と鼻の距離ではまた射殺されてしまうだろう。

 だから私は遠くに移動する。できるだけ人のいない路地を狙って移動する。

 時折、ここぞというチャンスが発生する。誰もいない二メートルぐらいの幅の路地で、一人の男性とすれ違う。すれ違いざま、私は男性の喉を切り裂き、叫べなくさせた。返す刃で足を切り裂き、歩けなくさせた。時間切れまでそこで座っているといい。あなたは私と違って死ねるのだ。

 点々と隙があれば殺害した。一人殺し二人殺し、三人殺し四人殺す。殺していくうちに、返り血を浴びない角度を覚えていく。方法はいろいろあるが、手首だけひねってきゅっとクビを切るのが一番いい。そうすれば首から噴出した血液が、誰もいない空間に抱きついた。

 いままでの殺害には余計な力が入っていた。人を殺すのに力一杯、柄を握る必要なんてない。親指と人差し指だけでも十分だ。歯医者が教えてくれる歯ブラシの持ち方で、人はたやすく死ねるのだ。

 通りがかりにすっと殺す。上手くやれば、相手は自分が死んだことすら気づかない。

 何人殺害したか数えなくなる。

 ただ一つ言えることは、私は大量殺人を犯していた。

 ――大量殺人、か。

 大量殺人の利点を私は考える。

 私が定めた、この繰り返しが終わる仮の条件は猪去殺しの犯人を挙げることだった。

 しかし、私が猪去を殺害して犯人となった程度では、繰り返しは終わらなかった。

 猪去は言った。フーコーとかいう人の考えを持て、と。個人の運命を変えるのではなく、社会の運命を変えろ、と。

 犯人捜し。

 社会の運命の変化。

 大量殺人はそのどちらにも適う合理的な手段だった。

 例え私が意図しなくとも、殺した中に猪去殺しの犯人がいればそれでよい。結果的に猪去は助かる。

 もちろん、たまたま殺した相手が目的の殺人者の確率は低い。だから私は母数を増やす。たまたま殺せるように、一日で大量の人間を殺す。

 大量殺人は社会の運命だって変えられる。

 津山事件は多数の創作のモチーフになった。ポートアーサー事件はオーストラリアの銃規制を促した。アンネシュ・ブレイビクは一人で七十七人もの人間を殺害したことで、ノルウェーの通貨価値を下げてみせた。

 個人が社会に与える影響で、大量殺人ほどめざましい成果を上げられるものは存在しない。

 私の横を童が走る。私はその首を切断する。

「福原の旧里に一夜をこそ明されけれ……」

 童の弟らしき稚児が私にすがりつく。

「折節秋のはじめの月は、下の弓張りなり……」

 二人の母親が死体をかき抱く。

「深更空夜しづかにして、旅寝の床の草枕、露も涙も争いて、ただ物のみぞ悲しき……」

 老婆がよたよたと近寄って、

「いつ帰るべしとも覚えねば、故入道相国の造りおき給ひし所々を身給うに……」

 翁が嘆き悲しんでいる。

「春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿、松蔭殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館共、五条大納言邦綱郷承って造進せられし里内裏、鴛鴦の瓦、玉の石畳……」

 父親が涙を流して私を襲う。

「いづれもいづれも三年が程に荒れ果てて、旧苔道を塞ぎ、秋の草門を閉づ……」

 振り下ろされた拳を難なく避け、

「瓦に松生い墻に蔦茂れり……」

 出刃包丁を父親に突き刺す。

「台傾いて苔むせり……」

 家族の血は最後に父親に注がれる。

「松風ばかりや通うらん……」

 これにて血縁。

「簾たれて閨あらはなり……」

 六つの死体を脇に寄せ、私は歩く。

「……月影のみぞさし入りける」


 殺し、殺し、殺し、殺した。

 刺し、刺し、刺し、刺した。

 薙ぎ、潰し、飛び、壊し、跨ぎ、蹴り、振り、攻め、取り、去り、会し、経た。

 叫ばれ、襲われ、回され、問われ、迫られ、離され、乱され、探され、壊れた。

 社会の時間が進んでいく。私以外の時間が進んでいく。私だけが同じ日に残る。ただ一人、動かずにこの時間を過ごす。

 楽しみなんてなくなった。悲しみなんてなくなった。怒りだけがどこかにぽつりと残っていた。心の片隅で、怒りがうずくまって私の行動を監視していた。

 どうすればよい。

 私はどうすればよかったんだ。

 分からないことが増えていく。動けば動くほど、仮定は潰されていく。

 復讐は私を救わなかった。愛は私を救わなかった。

 ならば大量殺人だって私を救わない。

 それでも私はこの手を振るう。

 人を殺すことしかできなかった。

 だから私はこの手を振るう。

 全部無駄だと知りつつも、それでも私には殺ししかない。

 どうすれば私は生きられる?

 もう何度目になるかも分からない。私はただただ目につく人物を殺し回った。

 警察署を燃やす。殺害する。夜になれば建物に入る。

 警官の声が私を囲む。

 誰も私を救ってくれなかった。私もまた誰も救えなかった。

 ……もういい。

 もう、疲れてしまった。

 私は出刃包丁の刃先を見た。優しい力で振るう刃は、何人殺しても刃こぼれ一つ起こさない。骨には当てず、皮膚の奥をちょっと切る。その動きを繰り返した。私の手にすんなりなじむ出刃包丁は、いつしか私より人らしい心を持っていた。

 ああ、もうなにもない……。

 殺意は出刃包丁に任せ、私はその場に倒れ込む。無手の私に、警棒を持った警官が襲いかかる。無数の警棒に身体中が叩かれる。その痛みは一発の銃弾に打たれるより弱い。

 全てを捨てようか……。

 次の時間からは、もうベッドのまま過ごそうか……。

 武器を捨て、意識を捨て、感情を捨て、行動を捨てる。

 寝るでも起きるでもない。泥の一部に私はなる……。

 倒れた私のそばで出刃包丁が妖しく光る。何百人もの血を吸った出刃包丁がいまでは立派な妖刀と化す。凶器はもはや出刃包丁ではなく、私ももはや天田夜ではなくなった。

 夜が明けている。

 日が昇る。

 私は厳重に拘束される。

 手錠をかけた警官に私は尋ねる。

「いま、何時ですか?」

 警官は腕を振るって、自分の時計を見せてくれた。

 特に感動は起きなかった。望んでいたものが訪れても、私はなにも思わなかった。

 感想を抱くには心が腐りすぎていた。残されていたたった一つの怒りも、いまは膝を抱えてうつむいているだけだった。

 その時刻を私は久しく忘れていた。

 あれほど待ち望んでいたというのに。

 警官の腕時計。その短針が7を、長針が12を超えている。

 ああ、7時1分だ……。

 私はのだ。

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