第12話

 殺意は捨てた。

 気持ちは暗いままだったが、新しい人生を送る決意をした。

 私は七時に、スイートルームで目を覚ます。同じ空に同じ鳥が飛んでいる。テレビも新聞もスマートフォンも毎日、同じ日付を示している。

 まだ繰り返しは終わらない。

 なぜ? いったいなにをすればこのタイムスリップは終わる?

 ……もし、このルール3が完全に間違っていたとしたら、話はどうなる?

 一部が間違えているのではなく、全部が全部、完全に間違えているとしたら?

 この繰り返しには目的がなく、私はだとしたら?

 もしそうなら……救いがなさすぎる。私にできることなどなにもなくなる。それはダメだ。耐えられない。

 いったん視点を変えるべきだ。

 そもそも、タイムスリップが始まったきっかけはなんだったのだろうか?

最初の日にだけあった特別な出来事が、プログラムのバグみたいに延々と私を同じ日に縫い止めているのか。それとも、毎日私が知らずに行っている行為があり、それを止めれば繰り返しは終わるのか。

 後者は考えづらかった。昨日はなにもせず、ずっとこの部屋にいた。外にも出ず、水も飲まなかった。それでも私は繰り返した。同じ生活を送っている人は世界中に何人もいる。なのに、私だけが繰り返すのはおかしい。

 となると、きっかけは最初の日だ。

 最初にこの手を染めた日を、私はなんとか思い出す。あのときした特別な行為のうち、すぐに思い当たるのは殺人だが、私は他にもなにか特別なことをしたのだろうか?

 ……いや。案外、きっかけは繰り返す日々にはないかもしれない。その前日、春子と共に霞ヶ浦を歩いたときに、繰り返しの条件を満たしてしまったとも考えるだけなら考えられる。

 不可思議な状況に巻き込まれれば、答えの出ない問いばかり浮かぶ。

 時間はある。答えが分からないのならば、思いつく限りを片っ端から試してみよう。

 こうして私は一日中食べてばかりいて二十四時間過ごし、指一本動けなくなるほど激しい運動をして二十四時間を過ごした。

 二十四時間で可能な限り遠くまで行き、二十四時間で可能な限り高い場所へ行った。

 ヒントを求めて本を読み、ヒントを求めて映画を観た。

 何回も何十回も違う行動に挑んだ。

 それでもなにも変わらなかった。

 もっと徹底的に思い切ったことをすべきなのかもしれない。

 私は出刃包丁を持って息を止めた。鼻から一つ大きな息を漏らして、奥歯を噛んだ。腕を振り下ろし、一気に自分の身体を切り裂いた。

 出刃包丁が、私の腹部に飲み込まれる。表面のひんやりとした感覚に反して、血の集まっているところだけが異様に熱い。

 同じ場所が冷たくて熱い。

 ああ、あの人は毎回これを味わっていたのか……。

 新しい感覚を得られたものの、結局、自傷行為は私に変化をもたらさなかった。

 次の二十四時間で、私はビルから飛び降りた。

 繰り返す日々は私に苦痛しかもたらさない。死の向こうに、充実な生があるのかもしれない。私はそう考えた。

 迫ってくる地面。薄くなる空気。はっと唾を飲み込んだ瞬間、硬いアスファルトに叩きつけられ、私は死んだ。

 ……なのに、次に目にしたのは、スイートルームの天井だった。

 テレビをつけると朝のニュースキャスターが各新聞紙の記事を取り上げている。私の死亡記事は当然載っていなかった。

 何事もなかったかのように昨日はなくなる。

 もうどうすればいいのか、分からなかった。

「おはようございます。昨日は勝ちましたか!」

 清掃スタッフを無視するのもいったいこれで何度目だろう。もう金輪際話しかけて欲しくない。耳障りな清掃スタッフの声は、同じ日々に対する私の倦厭を強めてしまう。

 エレベーターを上がる。久しぶりに、ビュッフェを食べようと思った。不味い朝食が、初日の記憶を鮮明に蘇らせるきっかけになればいい。

 その程度で解決できるものでもないと知りながら、それでも私は湧き出たアイディアにすがってしまう。

 いや、アイディアが浮かぶうちはまだいいのだ。やることが思いつくうちはまだいいのだ。

 やることが一切思いつかなくなるとき、私は生よりも死よりも恐ろしい状態に陥る。

 VIP用レストラン。その入り口で、間違った敬語のウェイターに話しかけられる。

 私はルームナンバーを言い、芋洗刑事の対面の席に案内された。

 ビュッフェの前に立つ。

 繰り返しの目的が、このほとんど捨てられるに決まっている食材を無駄なく食べることだとしたら、どんなに力が抜けてよいだろう。

 気がつくと、私は皿を山盛りにしていた。

 コーヒーカップに泥水を入れる。自分を痛めつけるように、私はただこの失敗した料理をやっつける。

 ナイフを腹に入れたときのように、料理を胃に送り込む。味覚はあるのに、感情が挟まる余裕はない。

「やあ、タダ飯は美味いか?」と肌鰆喜一郎が言う。

「驚くほど不味いぞ」

「朝からワインを飲んでいるのかね」

「お前の分も頼むか?」

「よいではないか、と言いたいところだが、ダメだ。僕は飲めない」

「珍しいな」

「というのも、ついさっき献血してきたからだ。献血した直後にアルコールを飲むと大変なことになるのだ」

「朝から献血かよ」

「笑止の至り。血は美しい。そして僕は美しい。すなわち、我が高潔なる血液は世界でも最たる美しさを放っている。僕は自分の血を見たいという理由で献血する世界一素晴らしい人間なのだ」

「恐ろしくエゴイストでナルシストな献血理由だな」

 私は機械的に腕、口、喉、舌を動かした。常に一定のペースで食事を続けた。それでも皿の料理はなくならない。

 猪去が近寄って言う。

「天田君だったね」

「……はい」

 応答をする気力なんてない。

 誰かと話したい気持ちなんてない。

 私は、もう、飽きていた。

「ハルちゃんの話とは随分様子が違う。なにかあったのかね?」

「……いえ、なにも」

「ふうむ」

 一つ呻ると、猪去は私のテーブルに着く。

 冷たい反応をすれば、彼は別のテーブルに着くはずなのに……。

 猪去の呼んだウェイターが、私と同じぐらい皿いっぱいの料理を運んで来る。

 一口食べて猪去が言う。

「……酷いな」

「私の状況と同じぐらいには……」

 猪去が顔を上げ、私を見た。

 いったい私はなにを口走っているのだろう。ネガティブな感情が膨らみ、静かに爆発して出た台詞だった。重要な秘密を漏らしたのに、それをどうでもよく思っている自分もいた。

 どうせこの一日だって明日になったら消えてしまう。ならば、誰になにを言ってもいいではないか。

「やっぱりなにかあったようだな。誰かに話して楽になるなら話してごらん」

 だから猪去は私と同じテーブルに座ったわけだ。この人は基本的に善人だから。苦悩する私を見て、放っておけないだなんて思ってしまう。

「……あのテーブルのお客様」

 私は対面のテーブルを指さした。二人には聞こえないよう身を乗り出し、猪去の耳元で囁いた。

「一人は芋洗是近さん。バカンス中の刑事で、すでに負けて一文無し。若い方は第二十八代目肌鰆喜一郎。職業は名探偵。通称、喜の字」

「彼らと親しくなったのかね?」

「彼らの方に会話を交わした記憶はないでしょう」

 その意味は猪去には伝わらない。

「……今日の九時十分。地震が発生します」

「予言かね?」

「いいえ、過去の話です。同時刻、ルーレットで男性が大騒ぎします。地震でボールの落ちる場所が変わったのだから、この勝負は無効だと主張します」

「ふむ」

「十二時二十八分。カードカウンターがフィジオに入室を遮られます。彼は連れ去られるとき、つけ髭を落とします」

 ……ああ。こうしてみると、なんと私に話せる内容の少ないことか。

 飽きるほど繰り返した日々を、私は全然知らないでいる。

 どうせ猪去は私の話なんて信じまい。初対面の相手にこんなことを言われてもペテン師だとしか思うまい。

「十二時三十分。星定男が休憩に入ります」

「天田君、君は、星君のことを……」

 私は猪去を妨げる。そして告白する。

「十二時三十五分。私が星定男を刺殺します」

「それはどういう意味だ?」

「ただの、過去の話です。もう終わった話です。十六時。猪去さんと芋洗刑事がやって来ます。そうして私が逮捕されます。こうして今日は終わります」

「どうもよく分からないのだが……」

「ではこういう話ならどうです? 猪去さん。あなたは私と星定男の関係を知っていました」

「……ああ」

「あなたが初めて行ったカジノはラスベガス。そこで勝ちに勝ったあなたは、ショーガールに心を惹かれました。あなたは星定男に家族を殺された私が、星定男の前でキラキラと輝いて踊るのを、ただ見たかった」

「な、なぜそれを?」

「あなたがおっしゃったからです。これもまた過去の話です……」

 料理はまだ残っていた。しかし、私は席を立ち上がった。猪去は呆然とした顔で私を見た。

「諏訪さんが来ます。弁護士から連絡があったそうです。私はお邪魔なので失礼します」

 皿に料理を残したまま、私はレストランをあとにする。

 どうせ消える時間だ。交わした言葉も、膨れた胃も、全ては消えてなくなるのだ。


 自殺では救われなかった。

 もしも私が熱心な仏教徒だったなら、自殺は私を救ったかもしれない。輪廻し、新たな生命の部品となる。そして私は修羅道か、孤独地獄に落ちるのだ。

 自殺でダメなら他殺はどうだ。あえて誰かに恨まれて殺意を向けてもらうとか……。

 殺されるとしたら、二十四時間以内に殺されなくてはいけない。そう考えれば、誰かに恨まれるより、すでに私を恨んでいる人を探す方が確実だ。

 土浦のほとんどの人は私を知らない。ここで私を前から知っているのは一人だけだ。

 その一人……星定男が、私を殺す状況を作ってみるのはどうか?

 私たち二人で、あの日の終わりを始めるのだ。両親と姉を殺した星定男が、私を殺す。世界は世界の望むままに閉ざされる。

 いままで考えた中では一番ましなプランに思えた。

 自室にこもって計画を深める。

 二十時になり、ノックが鳴った。

 出ようか出まいか私は迷う。煩わしい会話はごめんだった。しかし、いままでこの時間に訪問者は来なかった。これは新しい徴候だった。

 身体を引きずって、私はドアを開けた。

 そこにいたのは、総支配人の猪去だった。

「どうかしましたか?」

 猪去は玄関で私の顔を見据える。

 その瞳が……懐かしかった。

「九時十分に地震が発生したな」

「そうですか」

「そのとき、ルーレットテーブルで騒ぎが起こった」

「でしょうね」

「星君はまだ殺されていない」

「もう殺しましたから」

 猪去が私の肩をぐっと掴んだ。指先が、肩の肉に食い込んでいる。

 肩が痛くなる。強い痛みと熱がある。

 ああ、私を殺してくれるのはこの人だったのだ。星定男ではなくて、猪去こそが私を殺す相手だったのか。道理はなくとも、これで試せることは一つ減る。

 ここで殺されるなら、私にとって損はない……。

 猪去は肩を掴んだまま、ぐっと自分の肘を曲げた。私の身体がよろけて、猪去にもたれかかった。鼻をくすぐるのは、真新しいスーツの香り。猪去の胸板は、年の割に頑強な筋肉の鎧だった。

 猪去は私を殺さなかった。

 そして一言だけ告げた。

「辛かったね」

 ……なんか、懐かしい。

 私は猪去から姉と同じ雰囲気を感じ取った。

 私は姉が大嫌いだった。私のためと言いながら、過剰に干渉してくる姉が大嫌いだった。

 猪去に抱かれながら、私は姉のことを思い出す。

 気づくと舌が動いていた。私は全てを話していた。この身に起こった過去の出来事を、私は猪去に話し続けていた。


「ルーレット史上、最も連続して同じ色が出たのは何回だと思う?」

 私の長い告白を聞いた猪去が唐突に言った。

「二十回ぐらいですか?」

「その倍以上だ。なんと、五十一回も連続で黒が出た。これはドイツのバート・ホンブルクでの記録だ。さて、天田君はその話を聞いてどう思った?」

 五十一回。連続して五十一回同じ色が出る。

 そのときのカジノから聞こえるのは悲鳴か、歓声か。

 ……私なら多分、憤慨する。

「道具に問題があったのでしょう。長時間使われて、メンテナンスが行われていなかった」

「カジノに行かない人は偏った運命を認めないだろうね。半端な人は不正を疑うかもしれない。しかし、カジノに慣れた人ほど納得する。いつかはこういうことも起こるはずだと納得しつつ、いま伝説の目撃者となっている喜びは隠さない」

「同じ色ばかり偏って出るなら、お客様はそちらに張り続けるだけで勝ちを重ねることができますね。裏返せば、カジノは負け続けてしまう。十回程度ならともかく、五十一回も続くとなると、連続した状況を疑わなくなりますか」

「左様。いつかの私が話したかもしれないが、ルーレットは世界中で行われているゲームだ。そこに戦略を組み立てる面白さはない。だというのに、なにがここまでルーレットを普及させたのか。それはルールがシンプルで、賭け方が分かりやすいからだ。勉強せずともルーレットなら賭けられる。慣れた人は、Voisins du Zeroというチップの置き方をしたりもするが、それだってそろそろ0に落ちそうだからその周辺に賭けてくれ、という意味に過ぎない」

「ワンゲームが短いのもルーレットの普及した理由でしょうね。カジノ側からすればワンゲーム一分ならそれだけ回収も早くなる」

「ちなみにハルちゃんは元々ルーレットのディーラーをやっていた」

「ああ、それで」

「思い当たる節が?」

 遠い記憶が蘇る。

「説明を受けたとき、他のゲームに関してはどこかしら皮肉じみた悪い雰囲気を伝えてきましたが、ルーレットだけはもっと発展して欲しいと願っている口調でした」

「特に手本引きの説明から強い迷いが見えただろう? ハルちゃんはルーレットより楽しいゲームをなかなか認めないからな」

 私の口元に微笑が浮かぶ。そんな自分に驚いてしまう。

「ルーレットは、世界レベルで考えれば、毎日何万ゲームとプレイされている。ここに常時ルーレットが一台稼働している二十四時間営業のカジノがあるとしよう。一分できっかりワンゲーム。そのカジノだけで、一日、千四百四十回はプレイされているわけだ。その手のカジノが世界に十店舗もあれば、それだけで一万四千四百回はプレイされる」

「五十一回連続黒はあり得ないデータではないんですね」

「記録だけ知ると不正を疑う数値だが、毎日世界中で行われているルーレットのゲーム数を念頭に置くと、イカサマやメンテナンス不足を用いなくとも説明できる。

 長期的に見れば、ルーレットの赤と黒は限りなく同数に近づいていく。しかし短期的に見れば、赤ばかり続いたり、黒ばかり続いたりと偏る。

 さて、これはおそらく間違っているのだろうが、天田君の話を聞いた私の感想を言おう。タイムスリップから抜け出すために君はもがいた。しかし、その行為はこれから先、何億回と続くルーレットのうちの、ただ一つの赤を黒にしただけではないか?」

「私がいろいろなことをやっても、長期的に見ればなにもやっていないに等しい。そういう意味ですか?」

 猪去は頷く。

「君の取った小さな行動が、後に大きな変化をもたらす。バタフライ効果と呼ぶそうだが、この繰り返しのさなかに、君はバタフライ効果を実感したかね?」

「……いくつかはありました。例えば、小さなカッターの刃を木の枝に仕込むと、子供たちがいなくなる。その結果、目撃者もいなくなる……」

「体感したかと訊いたのではなく、実感したかと私は訊いた」

「実感?」

「天田君はいろいろと細かい変化をもたらしたが、長期的にはなにも変えていないのではないか?」

「しかし、私は死んでもみたのです」

 猪去は首を振った。

「残酷なことを言うようだが、それだって長期的に見れば小さな変化に過ぎない。

 フーコーとかいう人が、興味深いことを言っている。私らが日頃から用いる『個人Aが業績を残した』、この手の表現には意味がないと彼は言うのだ。業績には意味があるが、個人A自体には意味がない。なぜなら個人Aがいなくとも、その時代に生きた別の誰かが同じ業績を発表する、と」

「それはちょっと……納得しかねます。いろんな個人の発見が積み重なっていまの私たちにつながってますよね?」

「フーコーとかいう人はそれを否定する。発見したのは特定の個人だが、個人自体はなんら重要ではない。その個人が発見するだけの知の下地が社会全体に広がっていた。下地を知ることの方が重要だ、と。私たちにとって大事なのは下地を知ることで、個人名を知ることではない。発見はいつでも誰かが下地の表面をかすめ取るだけで生まれる状況にある。

 この下地をエピステーメ―と言うのだが、人にものを教えるときは具体的な単語ではなく、具体的なエピソードで教えるべきだな。というわけで、インド人の話をしよう」

「イ、インド人?」

「ゼロを発見したのはインド人。そう言われてインド人はすごいな、なんて思ったことがあるだろう? しかし、こうは思わなかったか? 誰もゼロを発見できなかっただなんて、昔の人は馬鹿だな、と」

 思ったような、思わなかったような……。

「昔の人にはゼロという概念は必要なかった。しかし、インドの社会ではゼロという概念を必要としていた。ゼロはこうして生まれた。大切なのはゼロがいつからあったかでも、誰が考えたかでもない。当時のインド社会を知ることだ。当時のインド社会の、なにがゼロを求めさせたか。それを知るべきだとフーコーとかいう人は言うわけだ」

「でも私たちにまで伝わっていないだけで、誰か特定の個人がゼロを使おうと言ったはずですよね?」

「そうかもしれないね。しかし、もし仮にその誰かがゼロに気づかなかったとしても、別のインド人がゼロを使おうと言っただろう。それは日本人やインディアンでは絶対にありえなかった。インドの社会において、初めてゼロという概念は生まれたわけだ」

「ふ、ふむう?」

 私が口を尖らせていると、猪去は安心したように言う。

「考えているうちに、少しは気が紛れてきたかな?」

「まだ、よく分かりませんが……」

「ならば、もう一つ例を出そう。天田君は、グラハム・ベルが電話を作らなければ、現代はもっと違う社会になったと思うかね?」

「そこまで大きくは違わないと思います。確かベルは特許で……」

「そう。その通りだ。ベルが電話を考えなくとも、イライシャ・グレイが電話の特許を取っていた。

 ではなぜベルとグレイは同時期に電話という複雑な装置を考えたのか? 二人の差は時間にしてわずか二時間だった。これはただの偶然か?」

「同じ社会に属していたから? ああ、二人とも同じ知の下地を持っていたから……」

「ベルがいなくともグレイが電話を作る。トーマス・エジソンがいなくともニコラ・テスラがいた。フーコーがいなくとも、別の誰かがフーコーの着想を発表した。個人自体には意味がない。そうフーコー人は言ったわけだ。

 さて、そろそろ天田君の話に戻ろう。天田君は自身の現象をバタフライ効果的には考えていても、フーコー的には考えていない」

 ルーレットで当たりが変わったとき、これでいろんな人の運命が変わったなと私は考えた。それをきっかけに、同じことをしても肌鰆喜一郎に見破られない世界につながるのではないかと思い、行動に移した。しかし、結果はどれも失敗だった……。

「君の一挙手一投足で、細かな未来は確かに変わった。廊下の右側を歩かず、左側を歩いたことで、他の歩行者の歩き方は変わっただろう。同じ廊下を歩いていた男性の精巣がシェイクされ、数百年後の個人は全然違う人になっただろう。しかし、その知の下地までは変わっていない。宝くじの当選番号を一つずらしただけでは、個人の運命は変えられても、社会の運命までは変えられない。

 数万年後の知的生命体がタイムマシンを発明し、仮に、もし仮に、彼らが数万年前の君を実験対象に選び、同じ一日を何度もタイムスリップさせて臨床データを取っていたら?」

「そ、そんな……」

 その発想はなかった。猪去の話は、私の想像を大きく飛び超えていた。

 猪去は慌てて首を振った。

「誤解してはならない。最初に言った通り、この考えはおそらく間違っている。君がこの現象から抜け出したいと真剣に願うなら、安易な結論に飛びついてはいけない。これは考えの一つでしかない。その前提を踏まえた上で、私の考えをもう一度言うと、君は数万年後の未来を変えられるほどのなにか大きな変化を、今日一日で起こすべきなのではないか?」

「数万年後の未来を変えられるほどのなにか大きな変化?」

 そんなの不可能だ。バタフライ効果的にはたやすいけれど、フーコー的には、黒煙を上げているタンカーの進路をオール一本で変えるようなものだ。

 猪去は腕時計を見て立ち上がる。

「……もうこんな時間か。君をこのままにするのは心残りだが、そろそろ私は失礼するよ。まだ仕事が残っていてね」

「あの」去りかける猪去を呼び止める。

 どうして呼び止めたのだろう? 言ってから私は考える。私が彼を呼び止める理由……。

「……もっと話せませんか」

「それは、どうしたものかなあ」

 激しく渦巻く自分の感情に驚く。

 私は猪去の話を聞いたことで、自分が再びただの人間だったことを思い出したのだ。

 私は仲間が欲しかった。私を理解してくれて、頼りがいのある話相手が欲しかった。

 ネガティブな感情が薄らいでいる。状況を打破するために必要な、強い力が湧いてくる。

「そんな目で見られると困るな」私はどんな目をしているのだろう?「あいにく仕事を残したままにしているから。……そうだな。私の部屋に移動しても構わないかね」

「お邪魔でなければ!」

 私は猪去について部屋を出る。

 エレベーターに乗った猪去は、しばらくどのボタンも押さなかった。

 猪去は上着の内ポケットをまさぐって、革のキーケースを手に取った。鍵の一つで、ボタン下部のボックスを開ける。

 鍵のかかったボックスの中に、四角いケースがあった。このケースにも鍵穴がある。猪去は小さな別の鍵を出して、このケースも開いた。

 二重の鍵から出てきたのは緑色のプラスチックボタンだった。

 猪去は緑のボタンを親指で強く押し込んだ。

 エレベーターのドアが閉まる。私たちのいた三十五階のスイートルーム。エレベーターはそこからさらに上がってゆく。

「これが私の部屋だ」猪去が言った。

 エレベーターが開くと、そこはもう部屋だった。廊下はなく、ワンフロアがそのまま猪去の部屋になっていた。事務的な部屋かと思いきや、テレビがあってソファーもある。人の住まう家そのものだった。

「総支配人特権だ。まあ、こんなところに寝泊まりしているせいで、なにかあると昼夜問わず呼ばれてしまうのだが」

 半円状のサイキ・グランド・ホテルは、上に行くほど狭くなる。最上階は、他のフロアよりも格段に狭い。それでも一部屋と考えると、他の部屋よりははるかに広かった。

「当ホテルの最上階だよ」

「うわあ」感嘆の声しか浮かばない。

 窓から見下ろせる景色は美しかった。たった五階上がっただけで、こんなにも景色が変わるだなんて。

 それまでは遮られて見えなかった部分が見えている。ここより上階がない分、影が少なく、遠くの景色もはっきり見えた。大きかったものは小さくなり、狭かったものは広くなり、同じものが違う形になっている。

「しばらく探検するといい。私はメールの返信をしているから」

 お言葉に甘え、私は猪去の部屋を歩き回った。

 最上階は田の字型に分かれている。

 エレベーターのある部屋は解放感が強かった。床も天井も真っ白で、ホテルをそのまま小さくしたような部屋だった。仕事机もあり、猪去が普段、ここにこもって働いているのが見て分かった。

 壁一面はガラス張り。メールを打ちながら話す猪去によると、カーテンもないのに、ここは外から見えないようになっているそうだ。

 右の扉を開けると娯楽室があった。絨毯敷きのシックな作りで、棚に囲まれて年代物のソファーが一つある。棚にはフランス語で書かれたビジネス用の書物や古いSF小説が並んでいる。DVDやCD、レコードもあった。天井近くに取りつけられたスピーカーからはいったいどんな音が鳴るのだろう?

 さらに右に回ると、寝室だった。人の寝室は見るべきではない。そう思っても、目が勝手に動いていた。二人どころか三人は横になれそうなダブルベッド。クローゼットが開いており、中が見えた。そこは六畳ほどあるウォーキングクローゼットだった。

 最後の部屋の扉を開けたとき、私は「わっ!」と叫んでしまった。

 ドアの前にあったのは、大きな熊の剥製だった。天井に届くほど高い熊が、両手を挙げて来訪者を襲っていた。爪は大木さえもなぎ倒せるほど尖り、牙は骨まで届くほど鋭く、体毛は重力に反して逆立っていた。

 熊の剥製から目を離し、改めて部屋を見渡す。

 この部屋は古今東西の様々なものを集めたコレクションルームだった。部屋の中央に大きな四角い柱がある。柱に沿って、剥製が一辺に一体ずつ並んでいた。熊はそのうちの一体だ。他の三体の剥製は、羽を大きく広げたコンドルと、ギャロップの途中で止まった馬。それに角の見事な鹿……。

 ……馬と鹿か。

 並ぶ剥製の遊び心に気づき、私はクスリと笑った。

 柱の四辺以外にも、壁沿いに様々なものが展示されている。ボトルシップ、精巧な彫刻、暖色の風景画、歴史ある陶器、民族的な槍……。統一感はなくとも、コレクションルームは飾る価値のある代物で溢れていた。

 ドアを開けて、私は猪去の仕事部屋に戻った。

「すごいですね。一周するだけで若返りそうです」

「熊に驚いていたな」

 どうやらあの叫び声を聞かれてしまっていたようだ。恥ずかしさから、私の顔は熱くなった。

「え、えと……、一人で住んでるんですか?」

「親族はいない」猪去はキーボードを打ちながら答える。

「これだけ広いと掃除も大変そうです」

「みな同じことを言うよ。ホテルの警備室に鍵を一つ預けてある。配達や掃除は従業員がしてくれる」

「家族じゃない人に部屋に来られるなんて嫌じゃないですか?」

「鍵の管理さえしっかりしていれば問題ないよ。私と、警備室、ハルちゃんと諏訪君。鍵を持っているのは、みんな私の信用している人たちばかりだ。最新式の技術で、簡単にコピーができる鍵でもない。そもそも盗むのに困るものはあっても、盗まれて困るものはないしね」

「エレベーターのドアが開いて馬の剥製を持っている人が出てきたら、みんなびっくりしちゃいますね」

「……あれは入れるのも大変だった。防腐処理を施しているとはいえ、剥製は本来ならケースに入れなくてはいけなくてね。剥製の値段自体は百万程度だったが、運搬費として特別に一人二万出した覚えがある」

「た、高いっ」

「剥製の値段だけなら、意外と鹿の方が安い。運ぶ難しさは変わらないが……。あれで七十万ぐらいかな? 首だけなら十万から買えるから、天田君も一つ買ってみるかね?」

「十万ですかー。ん? スイートルームで一泊するぐらいの値段なんですね」

「言われてみるとそうだな。ちなみに熊が一番高かった。品質とポーズのせいで、五百万ぐらい取られた。あれも大きくてエレベーターに乗らなかった」

「それなら頑張って盗む人も、……いないんでしょうねえ」

「いないだろうなあ」

「じゃあ入れるの簡単だったのはコンドルだけなんですね」

「それは違う。熊よりも馬よりも鹿よりも、コンドルが一番難しかった」

「コンドルが一番小さくないですか? 羽を広げて三メートルぐらいあっても、体積で考えるとそうでも……」

 猪去は重苦しい声で言う。

「コンドルはワシントン条約で保護されているからな」

「……えー」

「一時期より繁殖数を増やせたとはいえ、いまだに死体さえも簡単には取り扱えない」

「私の中で猪去さんの評価、だだ下がりなんですけど……」

 メールの返信をしていた猪去が、慌てて顔を上げる。「一応言っておくが、ちゃんと許可は取っている。許可を取るまでが大変なだけだ。元々国内にあった剥製の売買にも登録票を交付してもらう必要があって、文句なしで一番面倒だった。結局あの剥製だけ中古でね……」

「それでもコンドルの剥製が欲しかった?」

 そんなに大変ならば、他の動物の剥製でもよかったのでは?

「……コンドルはね、南米では様々な国旗に描かれているぐらい特別な鳥なんだよ。なによりも優雅に雄々しく飛ぶ。私が見に行ったときは、コンドルは一度だけしか羽ばたかなかった。しかし、そのたった一度の羽ばたきで、コンドルは長く美しく飛んでいた。南アメリカの伝承では、神の住まう地域に連れて行ってくれるのがコンドルなのだそうだ。だから私はコンドルの剥製がどうしても欲しかったのだ。労を厭わず入手した。あの部屋に置いてみたら、他にも剥製が欲しくなった。その結果増えたのが熊と馬と鹿だ」

「コンドルが最初なんですね。すごい惚れっぷりです」

 猪去は遠い目をする。「熊、馬、鹿。どれも大金をはたいただけあって見事な剥製だ。雄々しさだけ見ればコンドルと並ぶ。しかし、彼らには優雅さがない。優雅なのはコンドルだけだ……」

 猪去はしばし手を止めて、物思いにふけっていた。


 猪去の仕事が全て終わったのは、五時を過ぎた頃だった。

 これほどのハードスケジュールをこなしながら、レストランの食事が不味いというクレームがあれば猪去は店にまで赴くのだ。土浦にカジノホテルがたくさんあっても、サイキ・グランド・ホテルが繁盛する理由はこういうところにあるのだなと私は思った。

「そういえば、飲み物も出していなかったな……」

 さすがに疲労の色は隠せずに、猪去は張りのない声で言った。

「いえ、無理矢理お邪魔したわけですし」

「家に上がっておきながら、いまさら構うことはない。オレンジジュースでいいかね?」

「すみません。ありがとうございます」

 手に二つコップを持って来て、猪去が座る。私はソファーに腰掛けたまま頭を下げた。

「さっきの話の続きだが……」

「コンドルですか?」

 猪去は苦笑した。「本題を忘れてもらっては困る。君の身に起こっていることだよ。……私は、世の中は確率でできているものだと考えている」

「確率で回っている、ではなく?」

「私たちの目では、全てはしっかり存在しているように見える。しかし、量子レベルではしっかりした存在なんてない。なにもプランク定数の領域で考える必要もないな。分子レベルより大きくとも、我々は確率で存在しているのだ」

 なにを言っているのかはよく分からない。しかし、ようやく話を続ける気になった猪去の勢いを殺したくない。私は黙って続きを促す。

「今度の例は、このオレンジジュースだ。カップをこう、テーブルに置く。しばらく経つと水面は静かになるね。しかし、拡大するとどんなときでもオレンジジュースは絶えず細かく動いている。ブラウン運動というものがあるし、分子間力というものもある。小さな範囲では恐ろしく激しく動いているのに、不思議なことに全てをまとめて上から見下ろすと、オレンジジュースは安定しているように見える。私がこうしてコップを持ち上げなければ、表面にさざ波さえ立たない」

「右に動く分子と左に動く分子がそれぞれ同確率で存在しているせいで、固定して見える、という感じですね?」

「あまり厳密ではないが、理解するだけなら問題ない」

「……私がいま死のうと生き延びようと、時間のはるか先から見れば、大差ない」

「そう表現されると、肯定しづらい。もっと肯定したくなる表現をしてくれないかな……」

「じゃあ、例えば、ですけど。時間以外の現象が関わっている可能性はありませんか? パラレルワールドとか」

「それは考えなかったな。しかし、パラレルワールドは同時に存在するものだ。パラレルワールド間を移動していたと考えたところで、起きたら同じ日の七時になっていることの説明は別途必要となる。エーテルの扱いと同じだね。あってもなくても結論に影響を与えないならば、ないものとして考えていい」

 ……結論に影響を与えない。その言葉になにか引っかかるものがあった。

 もしもパラレルワールドが関わっているなら、なにか大きな問題が発生する気が一瞬した。

 私は、いったいなにが引っかかったのだろう?

 頭を悩ませるも、思いついたことは一度離れるともう掴めない。私は諦めて、感想だけを口にした。

「まともに考えれば考えるほど、むなしくなっちゃいますね。私にとって自分はこんなに特別なのに、宇宙から見ればちっぽけでどうでもいい存在でしかないなんて」

「選挙に行かない若者の主張だな」

「どうせ私の一票があってもなくても当選者なんて変わらない……」

「健全な発想じゃないね。現行の選挙制度だと無駄な票は確実に存在するから、例としてはダメだな。好ましい結論が導き出せない。ここはせっかくだし、結婚相手で考えてみてはどうかな?」

「結婚相手ですか?」

「全員が全員そうとまでは言わないが、冷めやすい人は恋愛中に考えるだろう。もしこの好きな人がいなくても、私は別の人とつき合っていたんだろうなあ、と」

「不健全な会話ですね。せっかくこんなに素敵な部屋にいるのになあ」

「さて」と猪去は咳払いする。「この身もふたもない主張、残念なことに、ほとんどの人にとっては事実だ。この人だから結婚したというのはあっても、この人でないと結婚しなかったというパターンはそうそうない。

 この人じゃなくても恋愛はできる。だからこの人は特別ではない。運命の相手なんて存在しない。と、割かし多くの人が考えている。

 しかし、それは錯覚だと私は思う」

「私はどちらかというと、運命の相手なんていないと考える性質ですけど……」

「私が提案したいのは、ときには結論を逆に固定してから接続詞を変えてもよくないか? ということだ」

「えーと。つまり……、この人は特別だから、恋愛もできる?」

 猪去が笑う。「それはそれで錯覚じゃないか。否定的な錯覚を肯定的な錯覚にしただけだ。順番までは逆にしない。

 私が言いたいのは、代用がきくからといって、その人が特別でなくなるわけではないという話だ。この考え方を守って、さっきの私の台詞を接続詞だけ変えてごらん」

「……えと、この人じゃなくても恋愛はできる。でも、この人は特別なのだ?」

 猪去は手を叩いた。

「代理があっても特別は特別じゃないか。そう考えていけない根拠が果たしてあるかね?」

「この例をいまの私の状況に当てはめると、……えーと、個人の行動が集団に影響を与えなくとも、その個人が特別じゃないわけではない?」

「感情を伴わせる結論は、常に強く断言すべきだね」

「個人の行動が集団に影響は与えなくとも、その個人は特別……である」

 猪去がパチパチと拍手する。

 私は恥ずかしくなった。

「これなら健全な結論だ。天田君。君がなにをしようと、世の中はいままで通りに回ってしまう。それはそれで、どうしようもない事実だ。しかし、だからといって君が特別じゃないと思う理由にはならないんだ。私はそう思うよ」

「なんかもう、口説かれてませんか、これ?」

「私としては保護者のつもりなのだが……」

 どちらにしろ恥ずかしさはなくならない。

 話し込んでいるうちに、時間はかなり経っていた。

 窓の外で、霞ヶ浦が赤くなる。

「はあ。ちょっとトイレ借ります」

「ああ」

 猪去はそう言って、ただトイレに行くだけの私を大切そうに見送った。

 七時がやってくるのもあと数分。七時が訪れれば、この猪去との会話も消えてなくなる。気持ちが晴れたからといって、もうタイムスリップしなくなると簡単に思えるほど私は楽観的な人間ではない。

 ――しかし、

 この会話が消えてなくなるからといって、こうして過ごした記憶、私にだけ残る思い出が大切じゃなくなるわけでもないのだ。

 同じ日を繰り返すようになってから、私は初めてかけがえのない時間を過ごせたと思う。人と話すことがどれだけ大切か、私を導いてくれる人がどれだけ愛しいか、この世界がどれだけ美しいもので満ちているか。それを私は知ったのだ。

 またしてもあの感覚が蘇っている。

 ……私は浄化されたのだ。

 星定男を殺したときとは違う、もっと自由で大きな浄化を私は享受している。

 手を洗って顔を見た。私の顔は、鏡越しで何度も見た顔なのに、初めて見る人のように美しく輝いていた。

 ――ああ、七時になってしまう。

 次のタイムスリップが起こる前に、ソファーに座る猪去の姿を、もう一度この目に焼きつけたい。新しい大切な人の表情を胸に、私は先へと続くのだ。時間に余裕があれば、感謝の気持ちも伝えよう。

 感謝の気持ち……。

 私は目元をぬぐって、視界をはっきりさせた。ありがとうと言うときには、相応しい表情があった。

 私はトイレのドアを開け、そして、

 猪去が血まみれになって死んでいるのを発見した。

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