報われなくって死っねない

moge

第1話

 鏡に映る私は輝いていた。

 つややかな黒髪は、肩の位置でそろっている。肌はみずみずしく、沁み一つない。へそは上を向き、足の長さを目立たせている。唇の両端が持ち上がると、井戸のように深いえくぼが作られた。

 上下に着ているのは裸に近いスパンコールだ。上は胸を強調するデザインで、下もほぼ隠れていないデザイン。着衣を固定する布は透明で、見えてはまずい部分だけがスパンコールで強調されていた。

 首にネックレス。手首にブレスレット、足首はアンクレットが巻かれている。それぞれに使われているイミテーションダイヤが、スパンコールと共に光った。

「どんな感じだい?」

 返事をする前にカーテンが引かれる。試着室が露わになって、私の元々着ていた下着は隠す暇も与えられず、衣装係の目に止まった。

「似合いますかね……?」

 鏡の私が身体を揺する。反射した光で衣装部屋が輝いた。

「あんた、タッパがいいからよく似合うわ」

 私の身長は百七十五センチだ。高校を卒業してからぐんぐん伸びた身長は、男性の中に混ざっていても目立つほど高かった。

 衣装係の小柄な女性が、私の腕を掴む。

「このブレスネットはもう少し余裕を持たせた方がいいね。腕を上げたとき、肘の手前で止まるぐらい」

 言いながら衣装係は指を動かす。私はされるがままにされながら、鏡の自分を見続けた。

「サイキ・グランド・ホテルだろ?」

 私は小さく頷いた。

「だったらもう少し黒くしときな。日焼けサロンがあるから焼いとき。領収書も忘れないように」

 細くしわがれた指が、私の鎖骨をねっとり撫でる。

「綺麗な鎖骨。このくぼみは男を魅了するね。悪くない」

 頭より上に足を伸ばす。身体を激しく動かしても、スパンコールはずれなかった。スパンコールは見えてはならないものを隠し続けた。

「少しきついかも知れないがね。これぐらいがちょうどいいんだよ」

 足を上げたまま、私は曖昧に頷いた。

 アクセサリーを全て外す。手渡すと、衣装係がカーテンを閉じた。

 背中に手を伸ばしてホックを外す。指がスパンコールに触れる。その感触は冷たい。光は温もりの象徴なのに、きらびやかなスパンコールは温かくない。見せかけだけのステージ衣装に、私はその身を包んでいる。

「あんた、荷物は本当にあれで全部かい?」

 カーテンの向こうで衣装係が言った。

「ですよ?」

「珍しいね。あんたぐらいの年齢で、あれだけしか服がないなんて。私もこの仕事に就いて長いさね。いろんな人を見てきたよ。服を見れば、ある程度は人柄が分かるってもんさ。でも、あんたは服自体を持っていない。まるで死にに来たようじゃないか」

「死ぬつもりなら仕事なんてしませんよ」と鏡の中の私は明るく振る舞う。「いままでは服にかけるお金もなかっただけですって。これからはばしばし稼いで、この衣装部屋を全部埋めるぐらい稼いじゃいますよ!」

「私を窒息させるぐらい買ってくれればいいね」

 着替え終わった瞬間、カーテンが勢いよく開いた。衣装係が腕を出す。スパンコールの衣装をその手に渡すと、衣装係は大切そうに受け取った。

「泊まるところは決まってるのかい?」

 こちらを見ずに衣装係が言う。

「ここまで迎えが来ることになってるんですが……」

「直接ここに?」衣装係の声には怪訝な響きが混ざっている。

 ショーガールとは、距離感を芸にした職業だ。触れられる距離と過激な踊りで客を楽しませるのが仕事。ほとんどの客は、その過激さより、手を伸ばせば届きそうだけど触ってはいけないもどかしさを娯楽にする。

 しかし中には無風流な客もいる。力や金を駆使して、無理矢理ショーガールをかき抱こうとする輩。そういう連中は私たちの私物を盗む。

 ショーガールの集まる場所は大抵堅固なセキュリティーが備わっていた。このレッスンスタジオもそうだった。入出は鍛え抜かれた女性警備員によって厳重に管理されている。用なく入れる場所ではないし、用があっても気軽に入れる場所ではない。

 衣装係の半開きになった口をノックの音がふさいだ。

「失礼します」

 続いて入ってきたのは三十前後の女性だった。

 女性は濃いスーツに身を包んでいた。イミテーションダイヤの代わりに腕時計を、ブレスレットの代わりにネクタイを、アンクレットの代わりに誇りを足にまとっている。

 私と女性の視線が合わさる。

天田あまだよるさんですね?」「迎えの方ですか?」

 声までもが合わさり、気まずくなった雰囲気を衣装係が吹き飛ばす。

「わざわざ直接来るなんていうから誰かと思ったら、なんだ。ハルちゃんかい」

「行きますってこの間伝えましたよね?」

「んなもの知らないね。リーチ中に話しかけるあんたが悪い」

 衣装係がそっぽを向く。

 スーツの女性は肩を持ち上げ、改めて私に話しかけた。

「天田さん?」

「あ、はい。はじめまして。天田です」私はつむじを見せるように頭を下げた。

「これはどうもご丁寧に。城野きの春子はるこです」と言って、女性が名刺を差し出す。その指先には小さな傷があった。出血はしていないが気にはなる。

 受け取った名刺には『秘書課配属 顧問秘書』と記されていた。

「ホテルの顔になる人とは可能な限り会うようにするのが、上の考えなのです」

 なおも詳しく春子に事情を聞こうとしたところで、むっつり顔の衣装係が言った。

「なにもここで会話することないだろ。あたしの用件は終わってんだ。話すなら外行きな」

「そうですね」

 逃げるように春子は衣装室を出ていった。私もそのあとを追いかける。

 私の全財産はキャリーバッグ一つ分しかなかった。私の引きずるキャリーバッグに、衣装係のぶつぶつと呟く恨みがましい声が重くのしかかった。


 土浦駅から東側に出ると、高く伸びたビルが目に入った。近代化した町並みに、日も当たらないほど高いビル。その隙間を抜けると、今度は水面が遠くまで伸びているのが見えた。

 日本で二番目に大きい湖、霞ヶ浦。

 湖から冷たい風が流れてくる。私はコートの前を合わせた。

 春子は使い古した自転車を引っ張っている。駅前にはレンタサイクル店が幾つかあった。このあたりは車よりも自転車の方が便利なようだ。

「天田さんも自転車で行く?」と春子。

「私、自転車って乗れないんですよね」

「へー、そうなの」

「子供の頃は乗れたんですけど、いろいろあって乗れなくなっちゃったんですよ」

 一時期は自転車を見るのも嫌だった。人間の心とは不思議なものだ。あれほど苦痛だったのに、カウンセラーと話しただけで、いまは見る程度なら大丈夫になった。

「天田さんはこのあたりに来たことは?」

「それが、初めてなんです」

 これから働く身であるにもかかわらず、私は土浦のことをなにも知らなかった。少しばつが悪かった。

「あまり身構えないでください。そういう従業員もたくさんいます。でも、そうですね。目につきやすいところから説明しましょう」

 道路沿いに進むと、すぐに橋に行き当たる。春子は橋の下を指さした。

「桜川です」

 私は橋桁から下を覗いた。対岸まで二百メートルほどある広い川。その表面は濁っている。魚がいるかと期待したものの、見た限りなんの生き物も見えない。

「霞ヶ浦は広く浅い湖です。それゆえ、湖底の泥が巻き上がりやすい。汚い湖としても有名ですよ」

 広さだけでなく汚さまでも、春子はなぜか誇らしげに言った。

 橋を渡り終えると、川沿いに歩く。

「先ほどの道をまっすぐ進むと国道125号に当たります。国道を使うと少し遠回りになりますが、案内板も多いので迷いません。車で来られるお客様は大抵国道を使います。私たちは歩きなので、遠慮なく湖沿いの道を使いましょう」

 川の横に高さ五メートルほどの土手が続く。川側では、背の高い植物が冬に精気を奪われて灰色になびいている。乾いた風ですっかり硬くなった植物は、ハリネズミの背中に似ていた。

 時折、植物の奥にモーターボートが見えた。木の板が植物を踏みつけてモーターボートに至る道を作っている。ハリネズミの悲鳴が聞こえてくるほど、木の板は乱暴に設置されていた。

「駅を左に行けば遊覧船乗り場があります」

 春子が遠くを指さす。そこに見えているのは湖面を切って移動する白いクルーザーだった。クルーザーよりも遠い位置で、帆を張り上げた船が複数並んで移動している。岸に近い場所では、手こぎボートの釣り客もいた。

 私たちの歩く土手は、舗装されていて歩きやすい。ジョギングをしている白人とすれ違う。白人が「ハーイ!」と言って手を上げた。私も手を上げて「ハーイ!」と告げる。手を叩かれた瞬間、運動している人の放つ、強い熱風を身体に受けた。

「桜川はここまで。ここから先が霞ヶ浦になります」

 川と湖の境目。ここが河川管理境界だと、春子が教えてくれる。同じ道が、川沿いから湖沿いの道へと、その意味を変える。

 鳥の鳴き声が聞こえた。視線を下げると、黒い粒々が湖に浮かんでいた。びっしりと湖面を埋め尽くしているそれは、全て名も知らぬ鳥だった。

 湖に浮かぶ鳥は、川からの水流に乗ってただ流される。ある程度流されると、鳥たちは羽ばたいて河川管理境界まで戻る。戻ったら、また流される。鳥は極力自ら動かず、河川管理境界の周辺に留まろうとする。陸ではなく、頑なに水面に居座る理由は私には分からなかった。

 緩やかなカーブを曲がる。湖に向いていた私の身体が今度は街の方に向く。

 湖から変わって眼前に広がったのは、昼間でも感じ取れるほどに濃厚なネオンサインの輝きだった。車と人が放つお金の匂い。年中お祭りをしているかのごとき、屋台からの叫び声。

 緩と急。静と動。文化と自然。対照的な二つの事柄が湖を境に分かれている。

 先行く春子が振り向いた。彼女はにっこり笑って言った。

「ようこそ、日本最初のカジノ都市、土浦へ」


 いまから六年前、日本で最初のディーラー養成学校ができた。作られる前の心配とは裏腹に、予想の数倍の応募があった。様々なカジノゲームを把握した人が生まれ、今度はその人たちを活かす職場が必要になった。

 カジノに必要なのは国の許可だった。どれだけ法が否定しようとも、国が認めれば全ては吹き飛ぶ。

 カジノホテルが建築される直前だけ、毎日様々な人が意見を見せびらかした。

 法律の専門家は、賭博罪の根拠は昭和二五年、終戦と同じ年の判例によるものだと告げ、その古さに注目させた。

 統計の専門家は、イギリスがカジノを設立する際に行ったウェイクフィールド刑務所における調査を持ち出した。そのデータは賭博を行っているものは行っていないものより品行方正で、仕事に対しても積極的な傾向を示すと告げていた。

 ギャンブラーに対するネガティブな意見は偏見だ。データに断言されれば、否定派の声は小さくならざるを得なかった。誰だってあの人は偏見持ちだとは言われたくないからだ。

 こうして国民は容認するようになった。カジノに対する抵抗感は緩やかになくなり、話はとんとん拍子に進んでいった。

 カジノを建てよう。そう公式に決まり、今度は場所が問題になった。

 都心にはカジノを作れない。なぜなら地価が高すぎるから。

 小さなカジノでは文化として根づかない。

 作るなら一つの街を丸ごとカジノ都市にする必要があった。そこまでしなくては観光客の誘致は期待できない。

 都心からアクセスしやすく、気軽に行ける程度には日常過ぎない場所。ギャンブルに疲れた人や遊び盛りの子供でも、また来たいと思えるリゾート地域。

 多くのリゾート地域は自然との共存を掲げていた。金の匂いがするカジノは、穏やかなリゾート地域と相性が悪かった。

 こうして白羽の矢が立ったのが土浦だった。

 日暮里駅から常磐線で一時間。成田からなら一時間半。羽田からでも二時間で土浦に着く。広い湖があり、ゴルフクラブがあった。土地だって有り余っていた。

 つまり、土浦はカジノを建てるにはうってつけの場所だった。


 駅から徒歩で三十分。荷物を引っ張る腕が疲れてきた頃に、サイキ・グランド・ホテルが見えてきた。

 日本でも有数の大きなホテル。その前に不釣り合いな車が停車している。白塗りの胴に、緑色の帯。車体の真ん中には赤い十字架が描かれている。

「……献血バス?」

 勝った人が献血するのだろうか? 負けた人が頭を冷やすために血を抜くのだろうか?

「当ホテルは上に行くほど狭い、半円状の構造になっています」春子はごくごく自然に献血バスの横を歩く。「直径の中心にロビー。その奥にフロントがあります。四十階建てで、カジノは一階のほぼ全てのスペース。外から来たお客様も一度はロビーを通らなくてはいけません。二階には各ショップがあり、三階から五階は式場がメイン。大浴場は八階で、プールとジムも同じく八階。客室は九階より上になります」

「私は何階で働くんですか?」

「一階です。カジノの一部にステージが設置され、そこで働いてもらう形になります」

 私たちが入り口に到着するまでのわずかな時間にも、車はひっきりなしにサイキ・グランド・ホテルに流れていった。自家用車の家族もいれば、バスで来る団体客もいる。誰もが周囲を見ず、まっすぐホテルに移動する。

「ほとんどの人は車でカジノに直行します。ただ、負けが続くと散歩します。クールダウンにですね」

「おお、なるほどです」

 春子がクスリと笑う。彼女はくだけた雰囲気で言った。

「天田さんって何歳だっけ?」

「二十七になりました」

「見た目はすらっとして格好いいのに、話してみるとなんだか幼いのね」

「あ、ダメでしたか?」私はしょげて見せる。

 春子は慌てて手を振った。「違うの。悪い意味じゃないの。ギャップがあって、不思議だなあって感じ。ただそれだけだから。あ、もしかしてお姉ちゃんとかいるんじゃない?」

 鼓動が高まる。心臓の音を隠すように私は答える。

「そうですよ。私、妹です。ちなみに高校までは百五十センチでした」

「それでなのね。甘え上手って雰囲気がある。お客様に気に入られそう。少額ならいいけど、あんまり高額なチップは受け取らないようにしてね。一時的に気が大きくなってるだけだから」

「はっ。かしこまりました、お嬢様」

 私は肘を九十度に曲げて、執事のようにお辞儀した。

「あ、それ格好いい」

「ところでお嬢様、さっきから気になっていたのですが、お腕を拝借しても構いませんでしょうか?」

「あら、なにかしら?」

 春子のほっそりとした腕に私は触れる。

 長い指。私はそこにできた傷口に触れる。

「痛っ」

「ダメですよ。傷を放置しちゃ」

 持っていたバンドエイドで春子の指を軽めに締める。

「あ、ありがとう」

 ホテルの入り口では、一定の間隔を開けてドアマンが並んでいる。ドアマンといっても、彼らの仕事はドアを開けることではない。自動ドアの普及したいまとなっては、車から荷物を受け取り、フロントまで案内するのが彼らの主な仕事だった。

 ドアマンが車を捌いてゆく。忙しそうで、よほど特殊な客が来ない限り、歩行者は自分でホテルに入る。

 若いドアマンが春子に気づく。彼は小さく頭を下げた。春子も同じ動作でドアマンに応える。ドアマンが近寄ってきて春子の自転車を受け取った。彼らは駐輪場まで自転車を持っていってもくれるのだ。

 円柱状のドアが開く。

 サイキ・グランド・ホテルはカジノホテルだ。それゆえに、私は大きな音がするかと身構えた。しかし、ドアが開いてもパチンコ店のような騒々しさはなかった。鳴っているのは商談中のサラリーマンが奏でる、ロビーで書類をめくる音やソーサーの叩かれる金属音だけだった。

「あそこがインフォメーション。ホテル内の案内や免税店の説明ぐらいはできるようにしてもらいたいけど、困った質問は全部インフォメーションに投げてくれていいから」

 説明に戻っても、春子の口調はくだけたままになっていた。

「困った質問って例えばどんなのがあるんですか?」

「そうね」春子は頬に手を当てる。「私が実際に受けた質問だと、札幌までの最短移動経路とか、さっきテレビで紹介していた本のタイトルとか……」

「……それは、答えられないですね」

「まあほとんどの質問はネットで調べられるけど、あのときは検索しても出てこなくて、結局、インフォメーションの人がテレビ局に電話したのよね」

 移動の合間に、スタッフの何人かが春子に向かって頭を下げた。春子はときには頭を下げ、ときには視線だけで彼らに応えた。ついでのように私に向く従業員の視線も、思いの外優しかった。

「どうしよう。最初に荷物置く?」

「私が住むところって、この近くなんですか?」

 事前の話では女子寮に住むことになっていた。

 しかし、春子は言いづらそうに口を開く。

「それが……、その、ごめんなさい。部屋を空ける予定の人が急に体調悪くしちゃって、天田さんの部屋ってまだできてないの。だから今日はホテルに泊まってもらおうかなって。……問題なかった?」

「私はどこでも問題ないですけど……」

 むしろ都合いいぐらいだ。

 春子の足が止まる。

「天田さんはゲームの経験ってある?」

「ゲーム、ですか?」問われ方から、カジノゲームの話だなと分かる。「トランプなら幾つか……」

「ポーカーとブラックジャック?」

「あとはブリッジとか」

「日本でブリッジができる人は珍しいわね……」春子は目を閉じてなにか考えていた。

 目が開いたとき、春子は私をクロークへと案内した。

「いったんここに荷物を預けて」

 私は春子に従って、キャリーバッグと引き替えに番号札を受け取った。

 ロビーから右側に回ると、ホテル内に門が現れる。門は開かれており、人がひっきりなしに行き来していた。門の奥では緑色のテーブルが並んでいる。

 この門から先がカジノなのだ。

 二人の男が門の端に立っていた。二人とも揃いの坊主頭で、黒いスーツを着ている。他の従業員とは雰囲気が違う。視線を隠す黒塗りのサングラスが、怖さを強調している。首は不動なのに、サングラスの裏では眼球がぎろりと動いているのが分かってしまう。

「なんか仁王像みたいですね」

 男の一人がにやりと白い歯を見せた。レイ・チャールズをモデルに仁王像を彫ったらこうなるんじゃないかと私は思った。

「フィジオです」他の従業員の前だからか、春子は硬い口調に戻って言った。「彼らには極力話しかけないでください。過去に問題を起こした人を入れないようにしているのがフィジオです。フィジオはカジノで最も神経を使う仕事です」

「監視カメラで見張るんじゃないんですね」

「カジノにおける監視カメラはナイーブな問題です。アメリカのように昔からカジノが文化として認められている地域ならまだしも、日本では手札を見られていると警戒するお客様が多いです。一応イカサマ防止用として、ゲーム台の回りだけは監視カメラを設置していますが、ゲーム台のない場所は人の目だけで監視してます」

「ホテル内もですか?」

「フロントなど、現金を置くところには監視カメラを使ってます。ホテルの入り口はドアマンが、レストランはウェイターが、廊下は定期的にガードマンが巡回する。当ホテルのセキュリティはそういう形式にしています。というのも、このご時世にわざわざカジノにまで来られるお客様はオンラインカジノでは満足しない方たちばかりだからです。だから極力人の手を残しています。もっともこれに関しては、まだ実験的な部分があります。犯罪が多くなるようなら、ホテル中に監視カメラを設置するかもしれません」

 サイキ・グランド・ホテルは人の目で成り立つ。私は頭のメモ帳にいま聞いた情報を書き入れた。

 フィジオの隙間を抜けて門を通る。開かれている門なのに、足を一歩踏み入れたとたん、イメージ通りの騒音が耳を襲った。

 ジャックポットが派手に揺れてコインをはじき出す音。ルーレットの台が回る重い連続音。興奮した様子でアジア系の外人が叫んでいる。

 金と欲望が音でカジノを支配している。

 ――このどこかにあの人がいる。

「チップはあそこで交換できます」春子が窓口を指さした。「カジノを出るときはチップは持たないようにしてください。ブザーが鳴ります」

 言われて門に視線を戻すと、黒い機械がフィジオの横に立っていた。その機械はレンタルビデオ店でよく見る万引き防止用の機械にそっくりだった。

 監視カメラを少なくした代わりに、チップの管理を細かくしたというわけだ。

「……従業員がゲームのルールを把握していないのはまずいです」

「まずいですか」

「かなりまずいです」春子は告げる。「毎日夕方から初心者向けの説明ツアーを行っているのですが、今日は天田さんのために、特別、私が説明しましょう」

「お世話になります」

「まずはあちらをご覧ください」

 言って春子が指さしたのは、ひときわ騒がしい金属ボックスだった。

「スロットですね」

「プレイの説明は省きます。ただし、一つだけ覚えてください。当ホテルのスロットの特徴は出玉率が九十二パーセントなこと。この高い出玉率のおかげで、うちのスロットは他のカジノより人気があります」

 私たちは早足にスロットマシンの間を通る。

「カジノのゲームを二種類に分けてみますと、一つはプレイヤーの選択肢がほとんどないものになります。運に左右されるものと考えて問題ありません。スロットマシンはこの手のゲームの代表ですね。他にはルーレットやバカラ、クラップス……」

「ルーレットはなんとなく分かります。ボールが落ちる数字や色にチップを置くゲームですよね」

「日本では赤か黒かに賭ける人が圧倒的に多いですね。

 数値に賭ける場合、当たるところに賭けるスタイルと当たらないところに賭けないスタイルがあって真面目に勉強すると面白いのですが、まだその面白さが理解できるほど浸透していませんね。

 うちではヨーロッパ式を採用しています。1~36までと0が一つある37区分式がヨーロッパ式。0が二つあればアメリカ式です」

 私たちはルーレットの森を抜ける。

 次に訪れた場所はカジノの中で、一段盛り上がった場所だった。気のせいか、ここではディーラーも客も立派な格好をしているように見える。

 私は自分の貧相なコートを見て、気後れした。

「バカラです。バカラはカジノの王様と呼ばれています」

「ああ、これがあの……」

「知ってますか?」

「名前だけはよく聞きます!」

 私が強く言い切ると春子は口元だけで笑った。

「バカラはトランプを配るゲームなので、未プレイの方には駆け引きのゲームだと思われています。しかし、実際には全部自動的に進行します。プレイヤーにできるのは親と子,バカラではバンカーとプレイヤーと呼びますが、そのどちらが勝つかを賭けることだけ。他にも細かなルールはありますが、まったく知らなくても、賭けには影響ありません」

「自分の手札を勝たせるゲームじゃないんですか?」

「勝てるように働きかける。そういう要素は一切ありません。ただ、お客様に直接そう伝えるとクレームになります。バカラのお客様は『しぼり』と呼ばれる技術で、自分が勝てるカードを持ってきたんだ! と強く思い込みたがる傾向にあるからです。ちょうどいまあのお客様が『しぼり』をしています。見てみましょう」

 春子が指さした台では、一人の男性が裏返しになったトランプを前に緊張していた。荒い鼻息がここまで聞こえる。周辺にたたずむ人々が、息を凝らして男と同調する。男が裏返しになっているカードのポジションを変える。トランプの短い辺がゆっくりとめくられていく。

 絵柄の端が見えた瞬間、男はため息を吐きながら、カードをディーラーに返した。

「あれは?」

「『しぼり』で狙うのはたった一種類のカードです。よくなるカードでも悪くなるカードでも、狙っていないカードが来たら『しぼり』をしていたお客様は、あのようにカードを返します」

「よくなってもダメってのは変な感じですねー」

「最高のカード以外は、自分で引き当てた! という感覚が得られないので興味がないのです。『しぼり』はカジノの王様であるバカラのそのまた華。ゆえに『しぼり』がやれるのは、そのとき最もお金を多く賭けていた人です」

 さきほど『しぼり』をした男性は、あの立派な格好の人々の中でも最もお金を賭けていた人というわけだ。

 燕尾服やタキシードの中に、たった一人だけセーターを着ている青年がいた。ビリジアンの濃いセーター。彼だけ二十歳ぐらいと抜群に若い。

「あの人は、どうしてああラフな格好なんでしょう?」

「逆です」春子が首を振る。

「逆?」

「カジノ側からすると、バカラには過度の高級なイメージを持ってもらいたくありません。実はバカラはルーレットよりもシンプルなゲームです。だから、もっと競技人口を引き上げられるはずなんです。そこまで格調高い格好をする必要なんて本来はないんです」

 説明している間に、ビリジアンセーターの青年にカードが回る。今度はあの青年が最もお金を賭けたのだ。周囲の人間が『しぼり』を期待していると、ゲームに参加していない私にも分かった。

 しかし、青年はなんでもないようにカードを手に取り、さらりと裏返しにした。

「負けたんですか?」

「ちょっと待ってください」春子はじっとカードを見る。「……勝ってますね。それも一番いい札が来ています」

『しぼり』をしていたとき、テーブルの客はみな固唾を呑んで見守っていた。しかし『しぼり』をせずに一番いいカードが来ると、彼らはどうでもいいように次のゲームに移行する。すでに配られているカードなのに『しぼり』があるかないかだけで、盛り上がり方が全然違ってしまう。

 ビリジアンセーターの青年がウェイトレスを呼ぶ。端から見ると、青年だけは他の客から離れていた。孤立しているのに、その表情は明るい。

「どうやらあの方、一人で勝っているようですね」

「見ただけで分かります?」

「対立の雰囲気があります。他のお客様はあの青年を負かすために団結しています。それでも結局は青年が一人で勝っている。普通なら勝ちが続く人に他のお客様も乗るものですが、青年はあえてバカラのマナーを無視することで、他の人が追従しづらい雰囲気を作っています」

 そう聞くと、あのセーターも格調高い格好の客を挑発するための小道具に見えてくる。

 金のある場所には一癖も二癖もある人間が集まる。その中でも、ここで一番癖の強い人間は、あの青年なのかも知れない。

 ウェイトレスに向けている青年の軽い笑顔が、私には不思議と恐ろしく見えた。


 バカラテーブルを離れ、続いて向かったのも、トランプを配るテーブルだった。

 数枚のトランプが、規則正しくテーブルに並ぶ。

「ブラックジャックだ!」

「ルールは知っていますね?」

「21を狙うゲームですよね。小学生の頃やりました」

 泊まりがけの旅行で、私たちはちょくちょくトランプをした。ババ抜き、スピード、ポーカー。いろんなゲームをしたが、最終的にはいつも大貧民に落ち着いた。

 私にとって、最も面白いトランプのゲームは大貧民だった。大貧民には、運があり、戦略があり、順位がある。

 ふと思った。

 そういえば、なぜカジノではブラックジャックが好まれるのだろう。ブラックジャックはルールこそ有名でも、そこまで盛り上がるゲームではないと思う。

 春子が言う。

「カジノのゲームを二種類に分けた場合、一つは運で左右されるゲームになりました。そして残ったもう一つのゲームは実力で勝てるゲームです。ブラックジャックはこの実力で勝てるゲームの典型です。唯一カジノを潰せるゲームでもあります」

 この大きなホテルがブラックジャックで潰れる?

「誇張ではありません。実際にブラックジャックで潰されたカジノも存在します。

 ブラックジャックはディーラーとプレイヤーの勝負です。ポーカーなんかも実力で勝てるゲームですが、ポーカーにおけるディーラーの役割は札を配るだけで、ディーラーがゲームに参加するわけではありません。損をするのは必ずプレイヤーの誰かになります。その点、ブラックジャックはプレイヤーが勝つとカジノがお金を払う形式になので、プレイヤーが勝てば勝つほど、カジノがお金を払うことになります。

 しかし、ブラックジャックで一番重要なのは、ディーラーとプレイヤーの勝負という点ではなく、プレイヤーの勝てる確率が1/2を超える瞬間があることです。

 カジノのゲームはどのゲームもカジノ側が有利になるように作られています。そこはブラックジャックといえど例外ではありません。ゲームの最初のうちはカジノ側が有利です。しかし、ゲームが進むにつれてデッキ内のカードにばらつきが生じます。有名な例を挙げると、絵札がたくさん残っていると、ディーラーがバーストしやすくなり、その分プレイヤーが有利になることですね。ディーラーは自分の手札を常に17以上にしなくてはいけない制約上、プレイヤーと違ってバーストを回避できませんから。

 いままでに出たカードはなにか。いまヒットしたときにバーストしない確率は何パーセントか。これらの計算を続けられるプレイヤーを『カードカウンター』と呼びます」

「じゃあブラックジャックが盛り上がってるカジノだと、経営はやばかったりするんです?」

 春子は首を振る。「そんなことはありません。面白いことに、カードカウンターのほとんどは自称です。まともに計算ができるカードカウンターなんてほとんどいません。せいぜいが本で読んだことを鵜呑みにし、絵札の枚数を必死に数えているレベルですね。

 そういう人ほど、自分は他のプレイヤーとは違う。このゲームを完全に理解している、と万能感を持っているので、無茶な賭けを行います。実はほとんどの自称カードカウンターよりも、そこらのディーラーの方がよっぽどブラックジャックに精通しています。次はどうすればいいと思う? そうディーラーに訊けてしまう酔っ払いの方が最終的には勝ったりします」

「もし実力のあるカードカウンターが来たら、カジノは打つ手なしですか?」

「そのときにはフィジオが活躍します」

 私は門にいた仁王像を思い出す。

「ま、まさかブラックジャックで勝ったお客様を、叩きのめして……」

 春子はさすがに苦笑する。「そんなことはしません。まあ、昔のカジノはしていましたけど。

 いまのフィジオは、ただお客様の顔を記憶するだけです。その人が本物のカードカウンターかどうかは、まともな教育を受けたディーラーなら賭け方で大体分かります。ディーラーが報告すると、フィジオが顔を覚える。次回、そのお客様が入場しようとすると、フィジオが止めます。そして責任者が交渉します」

「テメー、コノヤロー。モー二度ト顔見センジャネーゾー」

「ふふふ」春子は笑ったあとできゅっと顔を引き締める。「交渉内容はこうです。ブラックジャックをプレイしても構わないけれど、賭け金を増減しないフラット・ベットでプレイしてくれ。私たちが本物のカードカウンターに求めるのはこれだけです。この条件さえ飲んでもらえれば彼らの技術、カードカウンティングは意味をなさなくなってしまいます」

「それはそれでクレームになりません? せっかく儲けに来たのに、うがーまともにプレイさせないつもりかー、って」

「最初のうちは納得しません。フィジオに止められ、門で暴れる方もいらっしゃいます。それでも、最終的には受け入れます。皮肉なことに、カードカウンターはカジノがどれだけ儲かるか。自分の勝率を考えていくうちにカジノの勝率も考えてしまうんです。必然、カジノ側に共感しやすい状態にある。

 どうも私の見たところ、カードカウンターは普通のお客様よりも強くカジノを愛しているようですね。もちろん勝てれば嬉しいのでしょうが、彼らが得たがっているのは、お金よりも雰囲気です。それに、せっかく覚えたテクニックですから、賭け金を増減できなくともゲームで実際にこの戦法が通じるかを試してみたい。そういう欲望もあるのでしょうね」

 春子はそう話を切った。

 難しそうなゲームがシンプルなゲームだったり、知っているはずのゲームが深かったり。カジノのゲームは説明を聞いているだけでも面白かった。

 今度はなんのゲームを教えてくれるんだろう。そう期待していたら、春子はカジノホールを出てしまった。といっても、フィジオの構える門に向かったのではなく、その反対側、ホールとつながっている細長い廊下に入っていった。

 廊下に並ぶガラス製の扉の一つを春子が指さす。

「レストランです。食事中にもキノというゲームができます。要するにナンバーズくじのことですが、キノはカジノの中では最も損するゲームだと言われています。それでも、宝くじよりは払い戻し率がいいんですけどね。ブラックジャックやポーカーなど、頭を使うゲームに疲れた方が、食事とリラックスを兼ねてここに入ったりします」

 実際に中にまでは入らず、春子は廊下をさらに進む。

 続いて現れたのは複数のテレビが天井から吊り下がった部屋だった。大きい部屋に背もたれつきの椅子がずらりと並ぶ。

 その中では、みながなにやら紙を持っていた。彼らは紙を手汗で濡らしながら、テレビを睨んでいる。

「スポーツ・ベッティング。totoの全スポーツ版です。

 ここのお客様は、いまこの時間の、世界中で行われているスポーツゲームをああやってテレビで観戦しています。賭け方は簡単ですが、チームの強さに応じてハンデが生じます。例えば、強豪チームと弱小チームが戦う場合、三点以上差がついて終わるかどうかなどの賭け方をします。ここはルーレットなど、短時間で終わる慌ただしいゲームに疲れた方が賭けますね」

 骨までしゃぶり尽くす、という文句が頭に浮かぶ。さすがにこのまま口にすると春子の気分を害するだろう。私は「息抜きもギャンブルで行うんですね」と丁寧に変換して言った。

「そこが経営の面白いところでもあります。ジャンルの違うゲームを複数用意して、朝から晩まで長時間お金を賭けられる環境を作る。違う種類のゲームがしたいならこういうものを用意していますよー、ゲーム自体が嫌なら外に出てお土産を眺めてはいかがですかーと提案し、いろんな場所でお金を出してもらうのですね」

 スポーツ・ベッティングの部屋を過ぎ、春子は廊下の奥にまた進む。

 これまでは一部屋一部屋がかなりの広さを持っていた。しかし、ある段階を過ぎたとたん、カラオケルームを思わす狭い部屋が並ぶ形式になった。

 私は部屋の一つを覗いてみた。そこには正方形のテーブルが置かれていた。

「カジノなのに雀卓もあるんですね」

「雀荘は全国にありますから、わざわざ置く意味もないんですけどね。プレイを望むお客様がいらっしゃるなら、私どもは用意します。面白い話だと、そうですね。お客様の国籍によって、好みのゲームは違ったりします。例えば中国人のお客様は大小というダイスを振るゲームを好みます。日本人なら花札を見せると喜びます。麻雀以外にも、将棋やチェス盤を貸すこともできますし、チンチロリンやちょぼいちなんかもやりたいとおっしゃられる方がいます」

 ずらりと並ぶ小部屋。そのうち一部屋だけ、ドアが開きっぱなしの部屋があった。部屋の前で、入りきれていない人がうらやましそうに中を覗いている。

 私は自分の高身長を活かして、人混みの上から部屋を覗いた。

 小さな木の板を大事に手ぬぐいで包む男の姿がちらりと見える。

「ここは?」

「ああ……」春子は少し口を濁した。「……手本引きです。任侠映画マニアのスペイン人にどうしてもプレイしたいと強くせがまれ、試しに置いてみたところ、思いの外、人気になってしまったゲームです」

「手本引き? 初めて聞く名前です。どういうゲームですか?」

「とてもシンプルなゲームです。六枚の木の札があり、それぞれに1~6と数値が書かれています。親はその一枚を選びます。子は親の選んだ札を当てます。ただそれだけのゲームです」

「人気になる理由がいまひとつ分かりませんね」話を聞いても、まるで面白くなさそうだ。

「それが……」春子は言いよどんだ。「……このゲーム、実際にやってみるとすごく面白いんですよ。一瞬で理解できるルールの中にじっくりと楽しめる奥行きがあるから……。

 最初のうちはそんなでもないのに、長時間プレイしていると、そろそろこの数字が出てくるんじゃないか? と考えるようになってしまう。その自分との対話がとにかく面白い。昼休みから戻ってこないスタッフを探すと、大抵ここで手本引きに熱中しています」

「だからそんなに困った顔をしているんですか」

 春子はため息を一つ吐く。「……実は私も以前、ハマりすぎて遅刻して」

 それは苦い顔もする。

「……お金がかかるものは魔物、って言われるけど、手本引きはダメなのよね。手本引きは本当に魔物だから。親に勝手に使われたお年玉の返却要求をして以来ずっと、春子はお金に関しては貪欲だなぁ、って言われ続けて。もう茶化されないようにしてたのに、手本引きだけは全部パーにしてしまうの」

 ハマりすぎてトラウマになっているようだ。

 春子は壁に背中をつけてカニ歩きした。横向きなのに、すごい速度で廊下を戻る。

「カ、カジノはこんな感じになります」結局、その勢いのままカジノホールにまで戻ってしまった。「なにか実際にプレイしたいゲームはありましたか? ……手本引き以外で」

 釘を刺された私は、仕方なしにホール内を見渡した。

 ブラックジャックは難しそう。スロットマシンはわざわざやりたいものでもない。ルーレットは飽きそうで、バカラは空気がちょっと怖い。

 説明されたゲームを目に入れながら、私はディーラーの顔をチェックする。

 あの人は違う。あれも違う。あの人は似てるけど多分違う。

 目的の人はここにいるはずなのに。

「……ありませんか」悲しそうな春子の声が聞こえ、私は脳を切り替えた。慌てて腕を伸ばし、適当な台を指さした。

 それは、ベッドほどもある大きな直方体の台だった。上部が沈んでいるデザインの台。プレイヤーの姿はなく、ディーラーは三人もいるものの、全員所在なさげにたたずんでいる。

 指さしたあとで、私は必死に考えた。該当するゲームの名前を口にしようとして、あのゲームに関してはなんの説明も受けていなかったのを思い出した。

「……あれって、なんですか?」

「クラップスですね」

「ああ、運に左右されるゲームの例に名前が挙がった……」

 春子は咳払いをする。「そういえば、クラップスの説明はまだでした。ちょうどいいですね。クラップスはダイスを振るだけのゲームですが、賭け方が豊富で、実際に自分でやってみないと覚えにくいゲームです」

 私たちが台に近づくと、春子に気づいた年配のディーラーが「やあ、ハルちゃん」と気さくに声をかけてきた。

「いまは仕事中ですよ」そうたしなめたあとで、春子は言う。「この子にゲームをやらせても構いませんか?」

「どうぞどうぞ。他に誰もいないと近寄りがたいし、一人サクラになるかって話をしてた」

「好都合ですね。じゃあ、天田さん。そんなに離れていないで、来てください」

 呼ばれて私は台を覗く。沈んだ台の上部で、線と数字が複雑な形状に並んでいた。

「まずはシューター。これはお客様のうち実際にダイスを振る人のことですが、いまは天田さんしかいないので天田さんが自動的にシューターになります。このシューターが勝つ方に賭ける『パスライン』か、それともシューターが負ける方に賭ける『ドントパス』かを選んでください」

「私が負ける方にも賭けられるんですか?」

「ダイスを投げる人が負ける方に賭けると、勝つ気がないのか、と周囲から思われるのでオススメはしません。しかし、シューターが負ける方に賭けるのが確率だけ見れば最も損をしない賭け方です。運で左右されるゲームのうち、一番効率のよい賭け方はクラップスのドントパスだと言われています。他のお客様がいる場合はドントパスは止めた方が無難ですが、いまは一人だけなので構わないでしょう」

「だったら私、自分が負ける方に賭けます!」

「……高らかに宣言する必要はありません。練習ですから実際にはチップは置きませんが、ここに置いたものとします。いま、ディーラーが天田さんの前に五つのダイスを置きましたね。そのうち二つを取ってください」

 目の前にまったく同じ形状、同じ色のダイスが五つ置かれる。どれを選んでもなにも変わらなそうだった。

「そのダイスを二ついっぺんに片手で持ってください。ダイスは隠さず、手のひらに載せるだけにして。そうそう。で、台の反対側の壁に当たるようにダイスを放ってください」

「おりゃーです!」

 勢いよく投げて、ダイスを転がす。

 出た目は2と4だった。

「お。いい数字」ディーラーが呟く。

「でしょう!」得意がる私。

「一回目のダイスで7か11が出たら、その時点でシューターの勝ちになってゲームは終了していました」

「ああ、しまったー。7を出せばよかった」

「君、ドントパスだから、シューターの勝ちってことは、勝負に勝って賭けには負けたって意味だよ?」

「ど、どうすれば!」

「なんかこの姉ちゃん、面白いな」

 春子が咳払いする。私はテンションをやや下げた。

「ちなみに一回目のダイスで2、3、12のいずれかが出れば、シューターの負けになってゲームが終了します。今回は6なので勝負続行です。もう一度ダイスを振ってください」

 先ほどと同じように、手のひらに載せた二つのダイスを、反対側の壁に当てる。

「2出ろ。2出ろ。2出ろ」気持ちを込めて何度も呟く。

 すると祈りが通じたのか、転がったダイスが両方とも1を上にした。

 ピンゾロの2だ。

「やった、2出た!」

「おー、おめでとう。全然まったく欠片も意味ないけど」

「これで、私の負けで終了ですよね?」

 春子は首を振った。「それは一回目に振ったときだけのルールです。二回目以降は勝ちになる条件が変化しています。一回目に振ったときはシューターの勝ちだった7ですが、二回目以降では、今度は7を出すとシューターの負けになります。なお、7と同じように初回ではシューターの勝ちだった11は、二回目以降は勝敗に関係なくなり、出しても意味がなくなっています」

「ってことは、しまったー。7が出るように祈ればよかった!」

「祈らなくても、確率的には7が一番出やすいよ」

「逆にシューターが勝つには、一回目に出た数をもう一度出さなくてはいけません。今回のケースでは6が出たらシューターの勝ちです。さ、もう一回ダイスを振ってください。ちなみに、二回目以降は何度ダイスを振っても条件は変わりません。つまり、もう一度2が出てもシューターの勝ちになったりはしません」

「わたしー、まけろー。わたしー、まけろー」

 ダイスを振る。7を祈って振った三度目のダイスは、3と3で見事に6を出した。

「ああー、しまったー。勝っちゃったー!」

「ちなみに6は、7の次に出やすいよ」

 春子がもう一度咳払いした。「クラップスの基本的な流れはこのようになります」

「もう一回。もう一回やらせてください! なんかよく分からなかったので、今度は私が勝つ方で!」

 春子が返事をする前に、ディーラーが五つのダイスを置いてくれる。私はそのうちの二つのダイスを手に取った。

「それでは、今度は天田さんの勝つ、パスラインですね。どうぞ、投じてください」

 私はダイスを壁に当てた。

 転がって出た数字は4と6で10だった。

「今度はさっきと逆だから、えーと、7が出る前に10を出せばいいんですよね」

「ダイスを投げる前に、せっかくなので『プレースベット』もしてみましょう」

 新しい単語が出てきて、私は混乱した。

 ディーラーが素早く口を挟む。

「ゲームの流れは変わらないよ。クラップスは、ゲームの途中でも新しい賭けを始められるゲームなんだ。プレースベットってのは、次に7が出る前に特定の数字が出るかどうかを当てる賭けのこと。6か8のどちらかに賭けるのが割がよくてオススメだな」

「じゃあ6にプレースベットします。これで、10だけでなく、6が出ても私は儲かるわけですね」

「そうだけど、プレースベットには注意点がある。6と8はね、確率的に一番出やすい分、配当は低くなっているんだ。百円チップを六枚かけて当たっても七枚分しかもらえない。カジノは端数切り下げだから、6にプレースベットする場合は、六の倍数額だけ賭けるのが基本だね」

「こ、こんがらがってきました。4に賭けちゃダメですか?」

「4だと配当は1.8倍だから、五の倍数額、賭けるのが基本」

「なぜだかもっとこんがらがる事態に!」

 私が頭を抱えても、ディーラーは淡々と言った。「4はとりあえず止めておけば? 数字がいっぱい並ぶからこんがらがるんだ。複雑そうに見えても、簡単に言えば『よい数字』は出して『悪い数字』は出さない。クラップスってのはただそれだけのゲームなんだ。クラップスはいろんな賭け方があるけど、その中でも得なのは『パスライン』と『ドントパス』と『6か8に対するプレースベット』だ。それだけ理解したら、あとは機械的に覚えればいい。

 まず最初はパスラインかドントパスかを選ぶ。次に6か8に六の倍数額プレースベットする。他にも『オッズベット』っていうめちゃくちゃお得な賭け方もあるんだけど、この配当も複雑だから、ある程度ゲームに慣れてからの方がいいかもね」

「……はあ、なるほど」

 覚えようとする気持ちを私は削る。

 パスラインで、6にプレースベット。パスラインで、6にプレースベット。パスラインで、6にプレースベット。同じ文句を頭に入れてダイスを振る。

「あ、6出た」

「おめでとう」

 もう一度ダイスを振る。

「あ、また6出た」

「……すごいな、君」

 そして四度目のダイス。

「あ、10出た。え? これ、勝ったの?」

「うん、勝ったよ。土浦市がアメリカにあったら客全員で国家斉唱するぐらいとんとん拍子な勝ち方だったよ」

 春子の方を見ると、彼女は彼女で呆然としていた。

「……あーあ、まーたハルちゃん意識飛んでるよ」とディーラーの呆れ声。

「よくあるんですか?」

「この人、カジノが珍しい負け方するのを直接見ると、金額に関係なく意識飛ぶんだよ。一日何万回とゲームすれば、確率的に珍しい負け方だってちょくちょく発生するから、慣れるんだけどなあ」

「なんかよく分からないけど、クラップスって楽しいですね」

 勝った嬉しさから気持ちをありのままに伝えると、ディーラーはにやりと笑った。

「だろう? 複雑な数値は僕たちディーラーが把握してるから、知ったかぶって格好つけずに、全部任せちゃえばいいんだよ。実際にお金を賭けていれば、よく分からないって気持ちも吹き飛ぶぐらい楽しくなるよ」

「お金かぁ」

 財布の中を確認すると、そこには二万円が入っていた。

「……決めた! 今度は実践で。お金賭けてやってみます」

「お、いいね。じゃあちょっと待ってて」

 ディーラーがウェイトレスを呼び止めた。私は彼女に二万円を渡した。ウェイトレスはすぐにその分をチップに換えて持ってくる。

「賭け方はどうする?」

 ディーラーが訊ねる。

「もちろん、私の勝つ、パスラインで!」


 なんだかんだで、とんでもないことになってしまった。

「……あ、あれ?」

「は、春子さーん」

 数分ぶりに春子の声が聞こえ、私は彼女に助けを求めた。

「これは……チップですね。実際に賭けたのですか?」

「はい、賭けちゃいました」

「……大体のところは分かります。大損したのですね」

 春子はどこか呆れた口調で言う。

「違いますよー。もっと大変なんですよー」

 怪訝な表情を浮かべる春子。台の向かいにいるディーラーが楽しそうに言った。

「ごめんね、ハルちゃん。負けちゃった。資金二万の客に十五万も取られちゃった」

 えー、と低い声が春子の喉から漏れる。確かに直接見さえしなければ、春子の意識は飛ばないようだ。

「いったいどういう賭け方をすれば資金が七倍以上に増えるのですか……」

「多分、想像している通りの賭け方だよ。この子、ワンゲームに全額突っ込みやがった。負けたらなくなるのにそんな配慮しないの。本物だわ、この子。本物のアレだわ。あっはっは」

 ディーラーは笑った。しかし、裏表のない発言に嫌みはなかった。

 確かにいま思うと、私の賭け方は刹那的だった。勝ったとはいえ、ディーラーが笑うのも無理はない。

 そして、その結果できたこの資金に、私は悩む羽目になっていた。

「勝って悩むのも馬鹿馬鹿しいですし、とりあえず天田さんは素直に喜んでいてください」

「わーい、やったー」と、私は適当に喜んだ。

 別に金があったところで、欲しいものなど私にはない。

 やりたいことはある。会いたい人はいる。

 しかし、そのどちらにもお金なんて必要ない。

 せっかく大勝したにも関わらず、私はこのお金を持て余していた。

 なにか優れた使い方でもあればいいのだが……。

「……あ、思いつきました」

「どうしましたか?」

 私は言った。

「あのー、今日泊まる部屋のグレードをこのお金で上げてもらうことってできますか?」

 春子が驚く。「……いまはシーズンオフで空きも多いからできなくもないけど、天田さんはそれでいいの?」

「カジノで勝つ人ってどうするのかなー? って考えたら、豪華な部屋と美味しい食事が浮かんだんです。だからきっとこの使い方が一番いいのです」

 もちろん、私には別の狙いがあった。

 春子がサイキ・グランド・ホテルの損得に人一倍敏感なのは間違いない。だからカジノで得たお金はホテルで使う。遊ばせておいては一円の得にもならない部屋に、私が泊まる。この提案によって、ホテルも私も春子もみなが得することになる。

 顧問秘書の春子と仲よくなれれば、上の覚えもよくなるはずだ。カジノ内に誰か強力な味方を作る。それは私の目的に沿っていた。

「本人がこう言ってるんだ。せっかくだし、こっちも太っ腹なサービスをしてあげれば?」

「そうですね。足りない分は大幅にサービスして、一番いい部屋を取りましょう」

 春子はスマートフォンを取り出す。

 ディーラーの笑い声が再度響く。私の馬鹿勝ちとディーラーの屈託のない性格で、いつしかクラップスの台に注目が集まっていた。

 こちらを見る複数の人々。私はそこにあの人の顔を探す。

 あの人。天田家の、運命の人。

 ここにいるはずのたった一人。

 あの人は違う。あの人も違う。あの人も。あの人も……。

 ……はあ。

 ダメ、か。初日に見つかるわけないか。

 諦めて、私は春子に顔を向けた。

 電話でなにか指示を出している春子。

 彼女の背後。

 ずっと奥のホールの隅。

 そこに設置されていたブラックジャックテーブルで、私は横顔を見た。

 その男の歳は四十になろうとしている。やつれた頬に、細い双眸。唇は小さく、肌は血が薄くて青白い。

 髪は短くなっているが、その顔は間違いない。

 あの人だ。

 ほし定男さだおだ……。

 忘れたくても忘れられない、あの人の顔がブラックジャックテーブルにあった。

 ずっと探し求めていたあの人がいる。ディーラーの制服に身を包み、あの人は噂通り働いている。

 私の心臓が大きく鳴る。血管が震える。心が一つの感情に溺れた。

 あそこにいる。あのブラックジャックテーブルに、ずっと探していたあの人がいる!

「どうしました? 天田さん」

 電話を終えた春子が声をかける。あの人がいるのは春子の後ろだ。春子は自分が見られていると思い、反応した。私はあえて春子の勘違いを正さない。

「……あ、ちょっと疲れたかなあって」

 私が言うと、春子は話を進める。

「では、フロントに戻りましょうか」

 春子が言って、門へと向かう。

 ああ、あの人の顔をもう一度見たい。カジノの奥のブラックジャックテーブルをもう一度見たい。

 私は沸き上がる衝動を抑える。

 振り返ってはいけない。振り返ってはいけない。何度も自分に言い聞かせて、春子のあとを追った。

 チップを換金し、カジノを出た。それでも衝動は消えなかった。

 荷物を受け取り、フロントに着くと、春子が言った。

「ここで私とはお別れです」

「……そうですか」

「天田さんが働き出すのはまだ先なので、今日と明日はゆっくり休むといいですよ。今夜の夕食は、展望レストランを予約しておきました。VIP客専用のレストランですが、私からの就職祝いです。明日の朝食の分も予約しておきました」

「いいんですか? 本当、なにからなにまでありがとうございます」

「こちらこそ。バンドエイド、ありがとう」

 春子がフロントで話を進めてくれるのを、私は他人事のように観察していた。


 春子と別れ、先導がベルマンに代わる。エレベーター前で、スターターがボタンを押す。

 わずかな移動中にも、何人ものスタッフの手があった。手があるならば目だってある。いろんな人に私は見られているというわけだ。

 長いエレベーターの移動中、私は無言でベルマンの背中を見続けた。それは何年も同じ仕事をしながら、いっかな自分のあり方に疑問を持っていない背中だった。貫徹される意思がその背中から漂っていた。

 エレベーターが到着し、絨毯敷きの廊下を歩く。靴越しに絨毯の柔らかさが伝わる。

 通されたのは三十五階のスイートルームだった。

 ベルマンは荷物を置くと部屋を去った。

 ようやく一人になれた私は、あてがわれた部屋を見て回った。

 スイートルームには二つの寝室があった。ベッドは全て天蓋つきで、その上ダブルベッドだった。備え付けられている分厚い枕は、実際に頭を乗せてみると骨格に応じて緩やかにへこんだ。

 ソファーはカバーに上品なキルトが施されている。横になってみると、すぐに清潔な香りが私の鼻をくすぐった。その香りは、私にはあまりにも心地よすぎるものだった。

 私は優しい香りを振り払って、立ち上がる。

 湖に面した壁は、広いガラスになっている。

 霞ヶ浦は高所からでも対岸が見えないほど大きい。日が落ちかけて薄黒くなった湖面を、白いフェリーが優雅に泳ぐ。

 高所から地面を見下ろすと、ホテルの低い位置から、トタン屋根が張り出ていた。このトタン屋根のせいで、遠くは見通せるのに、ホテルの近くだけが見えないようになっている。

 湖と陸との境を隠すトタン屋根。絶景といえる眺めの中、直下だけが薄暗くて、雰囲気が悪い。

 いったいあのトタン屋根はなんのためにあるのだろう?


 スイートホテルの調度品。窓の外の絶景。

 めぼしいものを一通り見ると、私の心はわずかに弛緩した。するとその弛緩を待っていたかのように、小さくなっていたイメージが、再び大きくなりだした。

 やつれた頬。細い双眸。小さい唇。青白い肌……。

 考えまいと、強く願えば願うほど、私はようやく見つけたあの人の元へと駆けつけたくなる。

 心が、揺れる。

 ……ダメだ。

 ……いまはまだ、ダメだ。

 私はもう一度心を殺す必要があった。

 心を殺すために、私は服を脱いだ。

 洗面所とバスルームの仕切りは透明度の高いガラスでできていた。

 私は全裸になって、ガラス戸を引っ張った。

 壁から突っ張っている青いハンドルをひねる。冬の冷水がシャワーから飛び出る。足に水が当たり、身体が反射的に後ずさった。足の裏に力を入れて、冷たいバスルームの床を踏みしめる。徐々に前進していき、冷水を足から腰、腰から胸、胸から頭に当ててゆく。冷たさにまぶたは閉じることを忘れ、口から小刻みに声が漏れ、凍えた歯の根は合わなくなる。

 身体の震えが激しくなったところで素早く冷水をお湯に切り替えた。かじかんだ指先は瞬時にほぐれ、それに合わせて、気持ちもまた、弛緩していく。

 私は首を上げて体内にお湯を取り込んだ。口中に温かな液体が含まれては落ちる。

 飛沫がバスルームの湿度を上げる。透明だったガラスが結露して白く濁る。バスルームが変わったように、私の心身もまた新しいものに変わっていた。

 スイートルームだけあって、ケア用品も充実していた。私はそれらを一つずつ試していった。こういうとき、女性の時間は男性よりも消えるのが早いなと思う。

 落ち着いた心と身体でバスルームを出ると、すでに日は沈みきっていた。春子の予約したレストランの時間も近くなっていた。

 着替えを終え、スイートルームをあとにする。

 私は廊下を抜けて、エレベーターのボタンを押した。エレベーターは四階分だけ上に移動した。春子は四十階建てと言っていたが、四十のボタンは見当たらなかった。客の身分で行ける最上階はどうやら三十九階までらしい。

 半円状のサイキ・グランド・ホテルは上階になるにつれてワンフロアが狭くなる。スイートルームのあった三十五階も客室数はあまりなかった。これが三十九階にもなると、展望室とレストランだけしかないほど狭くなっていた。エレベーターから見て右側が展望室で、左側がレストランだ。

 私はレストランの入り口に立った。しばらくして、やって来たウェイターにルームナンバーを告げた。

 他の席は全て埋まっていた。私が着席すると、向かいの客と目が合った。客は四十過ぎの男性で、髪に白いものが混じっていた。着ているものはよれたスーツ。一人で水を飲んでいる。グラスを握る指が異様に太い。耳は半ばで内側に曲がっている。

 私を見るその左眉に傷跡があった。なんとなく、格闘技をやっている人だなと思った。柔道の先生あたりだろうか?

「……」

 男性は私から視線をそらさない。私の顔になにかついているのだろうかと、右手で頬をなでてみるも、これといって妙な感触はない。

「お飲み物はいかがなさいますか?」

 いつの間にか近寄ってきたウェイターが言う。私は手渡されたリストから適当なものを注文する。

 ウェイターが去り、顔を戻すと、男性は前菜に手を伸ばしていた。

 彼はもう私を見ていなかった。


 デザートが出る頃には客の数も減っていた。

 悶着はいつでも時間を見計らって発生する。

 私が名前も分からない果物を舌の上でとろけさせていると、入り口がやにわに騒がしくなった。威圧的な音を立てながら、集団がレストランにやって来る。集団は先頭の一人を除き、全員青い制服に身を包んでいた。

 ……警官だ。

 彼らは客席に目もくれず、まっすぐ厨房へ向かっていった。先頭で案内をしていた人は、ウェイターでこそないものの、サイキ・グランド・ホテルの制服を着ていた。

 何事だろう?

 デザート皿が空になっても、私は席を立たなかった。

 時間が経って、厨房のドアが開く。

 一人のコックが青い制服に囲まれて出てきた。手錠はないものの、コックがなにかやらかしたのは、その血の気の失せた顔が十分に物語っていた。

 制服以上に顔が白くなったコック。その足取りは覚束ない。

 警官の一人に小突かれながら、コックがレストランを去る。

 警官が全員いなくなると、騒がしさはさらに増した。話題は一つしかなかった。上着を羽織った老婦人が席を立つ。彼女は入り口でウェイターに話しかけた。他の客も似たり寄ったりの反応で、知らないもの同士、訳知り顔にうなずき合った。

「指名手配犯じゃないか?」

「そんな人間雇わないよ。案外、窃盗とか」

「その割には物々しい気がする」

「ホテルからしたら、クリーンなイメージを保つために厳しい処分が必要なのさ。見せしめだよ。見せしめ」

 好き勝手な推測が、至るところから飛んでゆく。

 私は知りたかった。

 連れられたコックがなにをしたかではなく、それを見た野次馬がどんな反応をするのかを私は知りたかった。

「人が増えれば、犯罪も増える。ただそれだけの話だ」

 淡々と呟いたのは、対面の強面の男性だった。

 再び私と男の視線が合う。私は頷いて男性の意見を肯定した。


 部屋に戻り、ベッドで横になる。

 脳が今日一日で得られた情報を処理するので、いっぱいいっぱいになっていた。鼻をかむと、脳汁も一緒に出てきそうだ。頭が重く、それでいて言葉だけは無尽蔵に出てくる。

 ワインの働きで目尻が熱い。冷たい指でまぶたを押さえる。

 やるべきことはたくさんあるし、知るべきこともたくさんある。

 しかし、今日のところはひとまず眠ろう。明日からの長い一日を気にかけて――。

 私は夢の世界に落ちていく。

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