第2章

端緒の湧泉 1



 幼いころの記憶を辿り、サユはひとり夜道を歩いていた。


 至天に諭され緑樹亭へ戻ったのは昨夜、夜半過ぎのこと。倒れ込むように寝台で横になるとすぐに眠ってしまった。仕事が残っていると気を張っていたうちは自覚がなかったが、本当に疲れていたらしい。それを使精たちは主よりも正確に把握し、負担にならないよう気遣ってくれていたのだ。


 思い返せば前回の仕事を片づけたあと、至天がすぐに碧天都へ帰りたがらなかったのも自分を休ませようとしていたのかもしれない。そういまになって気づく。


 おかげで熟睡できたサユは早朝には目を覚まし、しっかり朝食をとると、残った仕事を片づけるため至天を呼び出していた。

 もっと寝てりゃあいいのに。と、至天には渋い顔をされたが。それでも魄魔が穿った道と扉、そのすべてを塞ぐ作業は夕暮れまでかかった。けれどこれで、残る仕事は道と扉が破綻なく閉じられたか時間を置いて確認するだけ。

 そこで空いた時間に、これまで避けていた場所へ行くことをサユは決めた。


 夜空には薄雲が流れていたが、月明かりを完全に遮るほどではなく、目的の場所へと続く道も迷いなく見つかった。

 村外れの小道を逸れ、林道を進み森に入る。しばらく行くと途切れた道のさき、木立に囲まれた芝草の広場に辿り着く。水音に誘われ視線を巡らせば、砂底からこんこんと湧く清涼な水が広場の半分近くを満たしていた。


 ある一点を除けば、それはサユの記憶にあるのと同じ。降り注ぐ月光が見渡すものすべてを青く照らし出す、幻想的な景色だった。


 涙花るいかの泉。父と母はこの場所をそう呼んでいた。

 父母が亡くなる一年前。この泉は父母と兄、そしてサユ、家族四人が揃って訪れた最後の場所だった。その日は珍しく家族が揃い、今宵は特別だと父が連れてきてくれたのだ。


「……まだ、咲いていないわね」


 サユは溜息とともに呟いた。目に映るのは、緑の芝草に混じりぽつぽつと顔を覗かせる白く小さな蕾。まだ硬く閉じていて、それだけが記憶と違う点でもあった。

 白い蕾をつけているのは月紅草つきべにそうという名を持つ草花で、年に一度、満月の夜にしか花を咲かせない。けれど清らかに花開いた光景の記憶がサユにはある。あたり一面、いっせいに咲き乱れた花は青白せいはくに輝く絨毯のようで、兄を巻き込み、はしゃいだのを覚えている。


 過去の自分を追いながら、サユは泉へと足を向けた。水ぎわに一本だけ立つ常緑の大木に目を留める。泉に張り出し伸びた枝まで、どちらがさきに登れるかを兄と競い負けたことを思い出す。

 いまなら、この大木も簡単に登れる。


 幹に手を触れたサユは、人ひとりが乗ったくらいではびくともしない太い枝まであっというまに行きつく。その枝に腰掛け、泉を見下ろした。砂底を覆い隠す黒い水面には湧水により幾重にも波紋が描かれ、そこに落ちた月の光が絶えまなく揺れていた。


 物悲しくも、美しく懐かしい光景。だが、サユの心はわずかも浮き立たなかった。涙花の泉はサユにとって大切な家族との思い出の場所。それと同時に、父たちが命を奪われた場所でもあったから。


『君が精霊使の道を選ぶのならば、イスズの教えを心に留め置き、指針とするように』


 脳裏を巡るのは、少年の姿をした風精が伝えてくれた母の遺言。サユはもう何度も、その言葉を繰り返し胸に刻みつけてきた。


 母は遺言で、復讐心を持って挑むような戦いかたを禁じたかったのだとサユは考えている。精霊使が精霊の存在意義も考えずに力を揮い、私情に流され魄魔を狩る。それがサユの知る、父がもっとも嫌った行為だったから。両親の仇だという理由も父は認めてくれない。無論、母もだ。


 太陽神旺妃は、復讐を遂げ私怨を晴らすだけの戦いなど望んでいない。そうでなければ、魂を浄化する精霊の存在は必要ない。


 理解はしていた。だが、今回だけではない。命を奪うには至らなかったが、過去にも感情のままに月魄や魄魔を斬ってしまったことがあった。そもそもサユが涙花の泉に足を運ぶのを躊躇っていたのも、父母の死を再確認させられ憎しみが増すのを恐れていたからだ。


 それでも最近では、感情を上手く抑制できるようになったと自負していたのに。肉親の仇をまえに、それは思い上がりだったと痛感させられた。愚行を繰り返しては後悔ばかりする。そんな自分がもどかしく、腹立たしかった。精霊に見限られ、精霊使の力を失ったとしても、それは然るべき罰だ。そう思いつめるほどに。


「父さま、母さま……。私はまた、言いつけを守れませんでした……」


 呟いたサユの瞳には涙が溢れていた。そうやってすぐに緩んでしまう涙腺も、己の弱さが露呈しているようで許せなかった。

 やるせなさに俯き、両の拳を強く握ったそのとき。泉へと近づく何者かの気配を感じ、来た道を振り返る。


「——誰っ?」


 誰何すいかの声を上げ、上衣の袖で涙を拭い目を凝らした。するとすぐに男の声が返ってくる。


「君こそ。こんな場所でなにをしているの?」


 穏やかな問いかけに続き、木々の陰から月明かりの下に姿を現したのは、腰に剣を佩いた青年。ファイス・ランドルフだった。

 なぜいま、選りによって彼が、この涙花の泉に現れるのか——。サユの暗澹とした気持ちに拍車がかかる。


「クアジから話は聞いているわよね? 依頼なら解決済みなのだし、私がどこでなにをしていようと、あなたには関係ないでしょう」


 サユは冷たく言い捨て、ファイスに背を向けた。それなのにだ。


「だからって、放っておけないだろう」


 ファイスは逡巡の欠片も見せず歩を進める。大木の根許まで来て腰の剣を外し、地に置き身軽になると、おもむろに大木の幹に手をかけた。


「いいから構わないでっ!」


 驚いたサユは対処に困り叫んでしまう。それが聞こえなかったはずはないのに。


「木登りなんて子供のころ以来だな」


 ファイスは見事にサユの言葉を無視してくれた。ぼやきながらもやすやすと木を登ってくると、サユの座る枝に足を置き、頭上にある枝には片手をかけた。

 サユは不快に眉根を寄せ顔を上げる。それでもファイスは気後れなくサユを見下ろしていた。


「隣、いいかな?」

「ここまで私の言葉を聞き捨てておきながら、いま、それを確認するの?」


 無視をした自覚はあるのか、苦笑を浮かべたファイスだったが、都合よく解釈したのだろう。遠慮も見せずサユの横に腰を下ろした。


「ここからだと枝葉が邪魔になると思っていたけど、泉に映る月影は見えるんだね」


 感心した様子で水面を見つめるファイスがなにを考えているのか。サユにはまったく読めなかった。

 この世界でもっとも美しい存在と称讃される精霊を見慣れているサユですら、ファイスの容姿は綺麗だと感じてしまう。


「どういうつもり?」

「女の子が、こんな場所にひとりでいるのを見過ごすわけにはいかないだろう」

「女の子って……」


 どこに——? と、耳慣れない女の子という形容に、ここには自分以外にも誰かいるのかもしれないと、サユは本気で探してしまいそうになった。


「念のため確認するけれど。見過ごすわけにはいかないって、それは私が使族だと承知のうえでの言葉なの?」

「そう、だけど?」


 なぜ、そんなことを訊くのか理解できない。そう言いたげな顔をしてファイスは応えた。


「心配など不要なのに」


 サユは溜息混じりに零した。

 なんと言えば、彼はこの場から消えてくれるのか。そればかり考えていたサユのまえで、ファイスが真面目な表情を見せる。


「ひとりで泣いていたのに?」

「私が? なにを証拠に——」

「目が赤い。それに、雨も降っていないのに袖口が濡れているように見えるけど?」


 咄嗟にサユは、涙を拭った袖を反対がわの手で覆い隠す。しかし探るようなファイスの双眸に行き当たり、その真意に気づく。


「やっぱり、泣いていたんだね」


 言われて確信する。鎌をかけられ、しかも自分は疑いを覚えもせず引っかかってしまったのだと。だいたいこの葉陰で目の色まで見わけられているのか、それすらも疑わしい。

 サユはファイスを睨み、言葉に苛立ちを含ませ放つ。


「だとしたらなおさら、あなたがここに居続けるのは迷惑で思慮が欠けていることだと気づくべきよ」

「どうやら、無用な心配をしてしまったようだね」


 ファイスは気分を害するでもなく柔らかな笑顔を見せた。そして続ける。


「それとも僕は、君に嫌われているのかな」


 その揺らぎのない群青の瞳から、サユは目が逸らせなくなる。

 やはり同じだ。そう感じるとともに、ファイスの双眸が記憶のなかの少年と重なる。





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