悔悟の告白 2



「——は……なしてっ!」


 サユは不快に顔を背け、自由の利いた右手で拳を握った。しかしサユの拳はファイスに掠りもせず空を切る。代わりに、投げ捨てられるようにあっさりと解放されていた。

 支えを失い後方へと倒れそうになりながらも、なんとか踏みとどまる。手の甲で唇を拭い、サユはファイスを見据えた。


「どういうつもり?」

「君がくれた質問の、これが答えだよ。君は僕に力では抗えない。それを君が納得しやすいよう実践してみせたまでだ」

「まさかこの程度のことで、私があなたに膝を折るとは思っていないわよね? だとしたら、納得どころか答えにもなっていないわ」

「どうしても、説明が必要かい?」

「ええ、そうね」

「そう……。君の言葉どおりだよ。僕は君に触れたくないし、怖いとも感じている。理由は単純だ。欲望のたがが外れれば、僕は君を、躊躇いなく傷つけてしまえるからね」


 ファイスの唇が笑みを刻む。


「ここまで言葉にすれば、いいかげん君にも解っただろう?」


 微笑み、まっすぐに視線を返してきたファイスに、怒りではなく、やるせない想いが胸のうちを占領していく。サユは無言で、ただ、ファイスを睨み返すしかなかった。悲痛に沈む群青の双眸を見てしまったから。


 それはあまりにも、卑怯ではないか。罵声を浴びせる相手を失ったサユのまえで、ファイスが口を開く。


「僕のなかには穢れた血が流れている。常に闇の淵に立っているようなものだ。ときおり自制が利かなくなって、闇に身を委ねろと誘われる。ひと思いに君を壊してしまえとね。それがすべての悲哀から君を遠ざける、もっとも簡単な方法だし、なにより君が消えてしまえば、君を想い悩む必要もなくなって、僕自身、楽になれるだろう?」

「……最低ね」

「だから僕は、歯止めのつもりで君に真名を教えた。君が望めば、君は僕のすべてを支配できる。しかも、これはすでに成立している契約だ。君が、僕の真名を呼んだ時点でね」


 彼はどこまでも、卑怯で狡い。


「もっと、優しくして欲しかった?」


 ふたたび伸ばされたファイスの腕を、サユは反射的に叩き落とす。けれどファイスの腕を払い除けるために使った手だけでなく、心にも痛みを負っていた。着実に育ちつつあった想いがなんと呼ばれるものなのか。名前も気づかないまま行き場を失い、感じた歯痒さだったのかもしれない。


 その想いごと捨て去るように、サユはファイスを置いてふたたび歩き出す。

 だが、感傷に浸っていられる時間はなかった。


 空気の流れが淀んだ気がして、数歩も進まぬうちに立ち止まる。周囲に満ちる精霊の息吹を不快な気配がじわじわと浸食し始める。その異変を感知しながらも——。いや、感知したからこそファイスへと視線を戻し、サユは言い放つ。


「私はもう二度と、あなたの真名は呼ばない」

「真名を呼んで僕を拘束すれば、いまならまだ、聖家に戻れるかもしれないのに」


 だとしてもだ。ファイスの思惑に乗せられ、同じ過ちを繰り返したくなかった。


「あなたを手土産にして、日常に戻れとでもいうの? だったら無理な話だわ。聖家の不正を知ってしまった以上、見てみぬ振りはできないもの」

「それが君の選択なんだね」

「ええ。それにきっと、もう遅い——」


 すでに、無数の月魄が四方を取り囲んでいた。


 誰が月魄を森に放ったのか。このような真似をすれば、すぐに碧天都から使族が駆けつけてくるというのに。魄魔である可能性は限りなく低いだろう。そうなると、サユが思いつく人物はサハヤしかいない。


 古森で仕掛けてくるなど強引にも程がある。それゆえ復讐を口にしていた兄の心情も気懸かりではあったが。同時にサユは思い出していた。吹麗から眠らされるまえに、トウゴが見せていた歪んだ笑みを。あのときトウゴから感じたのは執着心のようなものだった。あれは勘違いではなかったのかもしれない。


 力業に訴えてまで手駒を増やしたいのか。脅威となりそうな気配はないものの、数の多さにサユは焦る。武器はおろか封石のひとつも持ち合わせていないのに。その危機的状況に気づいていないはずはないのに。サユと同じく武器を持たずに出てきた様子のファイスは、どう見ても満足げな微笑みを浮かべていた。


 この場を切り抜けられる自信があるのかもしれない。実際、逃げるくらい彼ひとりなら簡単なはずだ。ならばすぐにでも行動して欲しいところなのだが。

 ファイスは耳を疑う発言をする。


「彼女も答えを出しているようだし。シテン、ここは僕に、済覇を貸してくれないか」

「シテン……ですって?」





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