大過の因由 3



「あの日は私、母に我儘わがままを言ったの。今年も月紅草を見に行きたいって。魄魔絡みの事件が起きているから、諦めなさいと諭されていたのにね……」


 コウキに支えられ、二階へと戻りはしたものの、サユは横にはならず寝台のはしに座った。その隣に黙って腰を下ろしたコウキが、サユの口からぽつりぽつりと零れる話に耳を傾けてくれていた。


「以前から、父と泉に行く約束は取りつけていたの。だから魄魔の話を聞いた私は、まっさきに月紅草の心配をしたわ。そうしたら母が教えてくれたの。別件から戻りしだい、父が加勢に行くから安心しなさいって。だったら——、父が一緒ならば、私がついていっても大丈夫だろうって」


 結局、父と同じくらい頑固だった母が我儘を聞いてくれるはずもなく、そうでなくとも承諾できる願いではなかったのだ。魄魔相手の仕事を経験してきたいまならば、サユにも理解できる。


 真相を知って見えたものもあった。母が涙花の泉へ向かった本当の理由だ。


「母が泉へと向かったのは、リシュウが父と母にとって大切な場所だったからだと、私はずっとそう思っていたわ」


 だが、それは思い込みにすぎなかった。


「少し考えれば解ったのに。いくら大切な場所でも、父に負担を強いるかもしれないのに、無力な母が行くわけがないと。それを押してでも、母には泉へ向かわなければならない理由があったのだと、私ならもっと早く気づけたはずなのに——。だって私は、母がかなりの強者だったという事実すら、知らずにいたのだから」


 戦地に立つ母の姿など、いまだに想像がつかないわ。そう呟き、かすかに苦笑を浮かべ、サユは母の想いを口にする。


「母は本当に、あのふたりを心配して泉へと向かったのね」


 忘れられない母の声が、サユの心に響く。


『今年が駄目でも、これからさき何度でも、皆で見に行く機会はありますから』


 あの夜。最後にそう伝えてきた母の顔を思い出そうとしても、サユにはできなかった。ひねくれた態度で、母に背を向け眠ってしまったからだ。


 サユは膝の上で組み合わせた両手を、痛みを感じるほど、強く握った。


「兄さまは、本気で復讐を考えているの?」


 だとしたら、自分はどうすればいいのか。


「サユ、今日はゆっくり休んで。それから考えよう?」


 ね、そうしよ。と、優しくつけ加えたコウキの顔が、サユの視界にひょいと入り込んだ。その気負いのない表情に、強張っていた心が緩むのを感じる。


「……コウキ」

「うん?」

「そばにいてくれて、ありがとう」

「うん。でもさ、サユ。僕は、いままでサユからしてもらって嬉しかったことを、見習ってるだけだよ?」


 そう言って笑顔をくれたコウキの存在を、サユはあらためて心から有り難いと感じる。そしてコウキに促されるまま、寝台へと上がったあとのこと。


「ファイには、僕がきっちりお説教をしておくから。サユは安心して眠って」


 サユが横になるのを確認すると、コウキはそんな言葉を残し、部屋を出ていった。





   *****





「ファイでも落ち込むことがあるんだ。ギニーが面白がるのも納得だよ。よかったら、僕が相談に乗るけど?」


 窓ぎわの食卓。他人の悩みを親身になって聞く、という姿勢が欠片も見られないむくれた表情で、コウキが正面の席に腰を下ろした。

 さきに席に着いていたファイスは、それを苦々しい笑みで迎え撃つ。


「僕が? 君に? なにを相談するんだい」


 ファイスが買い言葉で返せば、コウキはさらにむくれ、そっぽを向いてしまった。


「いいよもう。べつにファイの悩みなんか聞きたくもないし。でもさ、こうなることは予想できてたでしょ?」

「深入りするまえに、魄魔だと明かして手を引くつもりだったんだ」


 そう口にしたあとで、ファイスは自嘲する。

 いまさら言訳にもならない。初めから関わるべきではなかったのだ。なのに、彼女から目が離せなくなっていた。


 涙花の泉にある大木の上に、泣いている彼女を見つけた瞬間。まざまざと胸に蘇った想いは、苦い過去をも連れてきた。

 八年前の古森での邂逅——。無防備に体を預けて眠る少女に抱いた、あの、救いのない想い。いままで、姉以外に大切なものなどひとつもないと思って生きてきたのに。そう思い込もうとしていただけだと気づかされた。


 だからこそ、彼女のそばにいるべきではないと、ファイスは己を戒めた。


「もう二度と、彼女とは会わないつもりだったのにな……」


 いつしか彼女を自分だけのものにしたいと思うようになっていた。だから、惜しくなった。彼女から向けられる好意を失ってしまうことが。


「うわっ。いい大人が最悪だね」

「他人の心を勝手に読まないでくれないか」

「心なんか読めないし。見れば解るくらい、気持ちがだだ漏れなんだよ。ファイは」

「君と姉くらいだよ。僕にそんなことを言うのは——」


 溜息をついたファイスが真っ暗な窓の外へと視線を逸らせば、注意を引くように食卓を叩き、コウキが立ち上がった。


「とにかく! ファイのせいだからね。サユにいま、心から信用できる人がいないのは。いい? ちゃんと最後まで責任取りなよ」


 その煩い口を塞いでやろうかともファイスは思ったが。それは実行されずに終わる。人の動く気配を二階から感じたからだ。コウキはいち早くそれを察知し、対応しようと立ち上がったのだろう。

 二階で動いたのは間違いなくサユだ。けれど、サユが居間に下りてくることはなかった。


 どこまでも彼女らしい。


 ファイスの口許に笑みが刻まれる。


「——ファイ。聞いてるの?」


 苛立ちを孕んだ声にも、ファイスはコウキを見ないまま、更けていく夜陰を静かに眺めていた。


「責任の所在など、君に問いただされるまでもない」





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