慈愛の一片 3



 木立の合間を縫って続く小道を進んでいくと、徐々に精霊の息吹が流れ始めた。静閑として身の締まるような空気が、いまが朝であると教えてくれる。景色は変わらなかったが、緑界に戻ったのだと判った。


 だが、あの家の庭といい、ほかにも理解できない事象があった。

 境界の曖昧さだ。さきほどまでいた空間と緑界は違和感なく溶け合い、歪みもなかった。実際、サユのうしろに扉と呼べるものはなく、来た道を戻ってもあの家には辿り着けない気がした。


 しかし、この道は本当に泉まで続いているのか。サユが不安を覚え始めたころ。辿ってきた小道のさきが、木立に阻まれ途切れているのが視界に入った。かすかな湧水の音にも気づく。そして、木立の向こうには涙花の泉が見えた。


「サユ!」


 下草を踏みわけ涙花の泉に出ると、ひとりの少年が駆け寄ってきた。あるはずのないその姿に、サユは警戒するどころか一瞬で気が緩む。


「……コウキ」


 サユが名を口にした少年、コウキは硬い表情のまま間近までやってくる。サユの両手をすくい取ると、ぎゅっと握り締めた。


「昨日ここでなにがあったの? サユが魄魔に負けて、そのあと姿が消えちゃったって、精霊たちが信じられないことを言って騒ぐから。心配したんだよ?」

「それで、リシュウまで来てくれたの?」


 知りたい情報を精霊から聞き出すのは使族でも難しい。使精とし完全に支配下に置けば話は別だが。契約なしに精霊から進んで情報提供されるコウキは、やはり特別だった。


 そこでふと、思い出す。

 八年前コウキは、どこまで深く事の顛末を聞いたのだろう。懸念があれば教えてくれているとは思うが。話を切り出すにしても、昨夜からいまに至るまでの出来事を含め、自分でも状況を呑み込めていない部分が多く、どう説明していいのか迷う。


 そんなサユのまえで、コウキは安堵の息をついた。


「とにかく、サユが無事でよかった」


 無事——。その言葉を受け、サユの心に喪失への恐れがふたたび湧き起こる。考えるよりさきに、使精との繋がりを辿っていた。


 至天に燎永、そして夏霞。契約はいまも生きている。けれど——。


「枝切を、感じない……」


 月魄の顎門あぎとに囚われた枝切の姿が脳裏に蘇る。

 枝切を感じないのは当然だ。枝切はもう、緑界のどこを捜しても存在しない。


「私のせいよ。私が躊躇ったりしたから……」

「ねえ、サユ。シナキなら風に戻って、いまもサユのそばにいるよ?」

「気休めなら、必要ないわ」


 月魄に喰われた枝切が風に戻れたはずがない。それを再認識する。

 抱えきれない憤りに自分自身も潰れてしまえばいいと、サユは己を責めた。


「サユって、ほんとは泣き虫なんだね。それは知らなかったな」


 コウキがまじまじとした視線を寄越すので、サユは眉根を寄せる。

 その事実を知る人物は限られているし、サユはいま、涙のひと雫も零していない。


「どこからそんな話——」

「サユは人前では絶対に泣かないけど、ひとりになると涙腺ゆるゆるになっちゃうってさ」

「……精霊に、聞いたの?」

「うん」


 真剣な顔で頷いたコウキの腕がサユへと伸びる。その腕に引き寄せられ、サユはコウキの肩に頭を預けて立っていた。


「いま、シナキに聞いた」

「枝切から?」

「そうだよ。サユにお別れを伝えたいんだって。だから、僕が力を貸してあげるよ」


 そのとき、サユの頬をひやりと撫でたのは、思わず首をすくめてしまいそうになる馴染みの感覚だった。頼りなく、無力な気配。声も聞こえなかった。けれど、間違えはしない。枝切はいまも、緑界に息づいている。

 サユの心に、一条の救いの光が落ちる。


「ちゃんと、気づいてあげられた?」

「ええ……。でも、行ってしまったわ」


 サユは力なくコウキの肩に顔をうずめる。


「いまなら僕はもちろん、精霊にも顔は見えない。だからさ、サユ。思いきり泣いてもいいよ?」


 よしよしと、コウキから優しく頭を撫でられる。くすぐったく感じたサユの顔には、笑みが浮かんでいた。


「ありがとう。でも、あんたのまえでは意地でも泣かないわ」


 サユの宣言に、コウキの腕からは力が抜け、すとんと落ちる。


「頼られる男には、まだまだほど遠いかぁ」


 がっかりした声音とは裏腹に、コウキは満面の笑みを見せた。その笑顔にあと押しされ、サユはコウキよりさきに歩き出す。


「あんたがここに来るのを兄さまが許すはずないし。どうせ黙って出てきたのでしょう? ミツミさまは、いまごろきっとお怒りでしょうね。でも、私のために来てくれたのだし。一緒に行って謝ってあげるわ」

「なにそれ、正解なんだけど……。サユには一生、勝てない気がしてきた」


 母親の名を出され、コウキは不服そうに呟いていた。


 一生勝てないだなんて、それはこっちの台詞だ。サユはそう思ったが、口に出して伝えたりはしなかった。

 振り返り、視界が潤んでいることをコウキに知られてしまうのは、やはり悔しいから。





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