慈愛の一片 1



 あと少し、もう少しだけ……。


 涙で頬を濡らし、泣き疲れた幼い少女は、少年の膝を枕に眠っていた。

 穏やかで護られているような安心感のある眠りに、いまが永遠に続けばいいとさえ思った。目を覚まし現実と向き合わなければならない瞬間が来るのを、可能な限り先延ばしにしたかったから。


 優しく髪を梳く、少年の手から伝わる温もりの心地よさに身を任せる。

 ふと、頬に触れた少年の指先が、流れた涙の筋をなぞった。


「君に力を貸すことはできないけど、教えてあげるよ。僕の真名を——」


 そのとき、少女は微睡まどろみのなか、少年の囁きを確かに聞いた。





   *****





 サユが重たいまぶたを開くと、見覚えのない天井が目に映った。

 剥き出しの梁を見て、緑樹亭の客室かとも思ったが。こちらのほうが天井も高く、倍の広さはある。横になっている寝台も、硬すぎず寝心地がよかった。


 なぜ、このような場所に寝かされているのか。窓にかけられた薄布を通し、部屋には仄かな光が射し込んでいるが、いまが朝なのか、昼を過ぎているのか、目覚めたばかりのサユには判断がつかなかった。


「至天。ここはどこなの?」


 額に手を当て、ふたたび瞳を閉じる。ここに至るまでの記憶が曖昧だった。そのうえ、いくら待っても至天からの返答がない。


「至天、聞こえないの? ねえ……、至天?」


 そこでようやく異状に気づく。常に身内に在るはずの使精との繋がりが、ぷつりと途切れていた。緑界に満ちている精霊の息吹すら感じ取れない。


 今度こそ本当に、精霊から見限られ、精霊使の力を失ってしまったのではないか。その可能性に考えが及んだサユの胸のうちに、言い知れぬ不安と焦燥が渦を巻く。

 じっとしていられず、重たい体を無理に起こした。切れてしまった繋がりのさきを必死に辿る。だが、焦りだけが先行し上手くいかない。


「至天、お願いだから応えて。応えてよ……、至天っ!」


 絞り出した声が、悲痛な叫びへと変わったそのとき。


「精霊がいないと、そんなに不安かい? それとも、シテンが特別なのかな」


 聞こえたのは穏やかな男の声だった。その声には覚えがあり、咄嗟にサユは動揺を抑えようとする。だが、取り繕うことはできなかった。


「ファイス・ランドルフ……?」


 いつから同じ部屋にいたのか。開いた扉のすぐ横。壁に背を預け、腕を組んで立つ青年は間違いなくファイスだ。しかし彼の顔に表情はなく、その姿は纏う空気ごと一変していた。


「あなた……。本当にファイス・ランドルフなの?」

「僕以外の、誰に見えるというんだい?」


 口調は相変わらず穏やかだった。けれど、栗色だった髪は闇に染まり、サユに向けられた双眸は、陽光すら届かない底なしの黒い淵へと変わっていた。


「それにしても。目のまえで、たとえ精霊でも、ほかの男の名を連呼されるのはいい気がしないね」


 ファイスから漏れ届いた力に気圧され、体ごと後退しそうになる。


 涙花の泉で腕試しの申し出を受けたときから抱いていた疑念。それを肯定する材料が目のまえに揃っていた。

 ひしひしと感じるのは忌々しい魔力。黒瞳が真実ならば、群青は偽りの色。その色を選んだのは偶然か、作意あってのものなのか。明白なのは、彼が断じて屈するわけにいかない存在だということ。


 いまならば確信を持って言える。


「やはり、魄魔だったのね」


 我ながら情けない。そう自覚しつつ、サユはようやく確認の言葉を口にできた。それを見抜いたうえであろう痛い指摘が投げられる。


「君は疑いを持ちながら、見逃してくれていたんだね」

「それは——」

「心のどこかで、僕に気を許していたからかい?」


 サユの言葉を奪ったファイスがこの場で初めて表情を見せた。それは、冷たく嘲るような笑みだった。


「そうね、そのとおりよ。自分の甘さが悔やまれるわ」

「なら君は、その甘さが原因で、貴重な使精を犠牲にしてしまった自覚もあるのかな。しかも、無意味にね」

「見て……いたのね。私の使精が月魄に呑まれるのを——」


 サユは、意識を失う直前の出来事を明確に思い出していた。だからこそ蔑みの言葉としか受け取れず、ファイスを睨む。それでも彼の黒瞳からは一片の感情も見いだせなかった。


 彼が、あの魄魔の女を差し向けたのではないか。そんな疑いが心に浮かぶ。ならばけして赦せはしないが、女は単独で動いていたように思えた。

 彼はといえば、信憑性のない噂話を聞かせたり、紅い花を咲かせた月紅草を見せたりと、聖家への不信感を植えつけ、八年前の事件に疑惑の目が向くよう仕向けていた節があるのは確かだが。それも魄魔だと明かしてしまっては意味がない。


 それとも、不可解きわまりない行動でも、彼には得るものがあるのだろうか。もともと魄魔の考えなど理解しがたいものばかりだが、この状況に楽しめる要素があるとは思えず、目的も、その理由も、依然として見えてこなかった。


 だが、現実に目を向ければ、部屋の出口である扉の横には魄魔がいる。窓はあるが、そのさきに逃げ場があるとは限らない。しかも使精との繋がりは途切れ、ここがどんな場所かすら判らない。

 ファイスに悪意があるのなら、サユにとってこれほど絶望的な状況はない。


 だとしても、魄魔からいいように扱われるのは我慢ならない。その感情がサユを奮い立たせる。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る