端緒の湧泉 4



「至天っ!」


 本気で命を奪われると感じたその刹那。サユは叫んでいた。最強の盾である使精の真名を。そして同時に、落ちた短剣を拾いに行く。それは誰の目にも無防備と映る体勢だった。しかし、短剣の柄に右手を届かせファイスを睨んだサユの眼前。振り下ろされたはずの剣はぴたりと動きを止めていた。


 そこに、まったくもって緊張感のない男の声が割って入る。


「——っんだよ、これ。ひとりになりたいっつって俺らを遠ざけておきながら、お前はよ。この状況、どう説明してくれるんだ?」


 呆れた顔をしてみせた至天が、サユを見下ろし立っていた。その右手はファイスの持つ剣の剣身を押さえつけ、がっちりと掴んでいる。手のひらは明らかに刃に触れていたが、掠り傷ひとつついていないだろう。物理的な武器では傷つかない精霊だからこそ可能な行為だった。


 サユは短剣を拾い、ゆっくりと立ち上がる。


「至天。手を離していいわ」

「は? よくねぇだろ」


 いまだ気を抜かず短剣を手にしていたからか。至天が眉をひそめる。つぎにはファイスへと顔を向けた。おのずと、彼らふたりの視線がかち合う。


「精霊から剣を掴まれては手の出しようがない。残念だけど、手合わせもここまでかな」


 台詞とは違い、至天を見るファイスの顔には好戦的な笑みがあった。

 精霊をまえにしてこの態度。まだ手合わせを続ける意思が彼にはあるというのか。ファイスについては判断がつかなかったが。至天はというと、案の定、即座に反応を見せた。


「残念——、だと?」

「至天。なにをする気?」


 サユの問いに至天がぴたりと動きを止める。


「使い物にならなくすんだよ」


 予想を裏切らない返答に頭痛を覚える。

 おそらく握る剣に力を込め、ひと思いに砕こうとしたのだ。しかもまだ諦めていないのか、剣身を放さない至天にサユは溜息をつく。警戒を解き、手にした短剣も鞘に収めた。


「手合わせは終わりよ。彼は剣を止めていたわ。あんたが掴む直前にね」

「けどさぁ、こいつの殺気は本物だったぜ」

「手加減をするなと私が言ったの。それに、あんたを呼んだ時点で私の負けは決まっていたわ」


 サユは負けを認める台詞を滅多に口にしない。だからこそだろう。至天は警戒しながらもサユに従うことを決めたようだ。はらいせか、剣を押しやり解放するという粗雑な対応をしてみせてくれたが。

 自由になった剣を、ファイスはサユにならい鞘へと納めた。


「さきに一本取られていたし、負けたのは僕だと思っていたけど」


 その表情と瞳には冷酷さの片鱗すら見当たらなかった。むしろ穏やかで、サユへと剣を振り下ろした人物とは別人のようだった。

 まだ納得のいかない顔をしている至天のまえを横切り、サユはファイスへと歩み寄った。


「傷は大丈夫?」

「掠っただけだから、放っておいてもすぐに治るよ」


 ファイスの正面に立ったサユは喉許の傷が浅かったことに安堵する。血は傷口に添い滲んでいるだけだった。

 とはいえ化膿したり傷跡が残っては寝覚めが悪い。怪我を負わせる気などなかったサユは、至天を振り返り助けを求めた。


「彼の傷を治して」

「その程度の傷、そいつの台詞どおり、放っておいてもすぐ治るだろ」

「お願い、至天」


 サユは至天に向き直り、真名を強く呼んだ。


「……わかったよ。了解だよ、りょーかい」


 至天は応じるも、投げやりな返事を寄越した。そこに愚痴を重ねる。


「俺の力、もっと好きに使えとは言ったけどさぁ、こんな意味じゃねえっつうの」


 倦怠感を言葉のはしばしにまで滲ませた至天に、サユの眉間にも皺が寄る。


「いま使わなくていつ使うの。あんた、治療と防御くらいしか役に立たないじゃない」


 文句ばかり並べていないで早くしてと要求しつつ、ファイスのまえに立っていたサユは至天に場所を譲った。


「はいはい。姫の仰るとおりですよ」


 降参。といった感じで至天は両手を挙げてみせた。

 その姿を見て、ファイスがなにか言いかけたようだが、声になるまえに口を噤む。憤然として至天が邪魔をしたからだ。


「口を開くな。黙ってろ」


 端的に告げた至天の右手のひらはファイスの喉許へ乱暴に押しつけられていた。その挙動は首を締め上げているようにしか映らなかったが、ファイスが苦痛を感じている様子はない。それに至天が与えた束縛はすぐに解かれた。

 至天の手が離れた場所に、今度はファイスが指先を当てる。


「すっかり治ってるね」


 感心してみせたファイスの喉許からは、あったはずの傷が跡形もなく消えていた。

 傷を治すのは、魄魔によって穿たれた道や扉を塞ぐ作業と同じ原理だと、サユは至天に聞いたことがある。生命が持つ本来の姿に戻ろうとする回復力を、助け導き促進する。

 それが、ひと握りの地精だけが有する治癒の力だった。


「ありがとう」


 ファイスが礼の言葉を口にする。だが、それは明らかにサユに向けられたものだった。

 ただでさえ不機嫌だった至天が、眉間にできた皺をひときわ深くする。その無愛想な態度にも目敏く気づいたサユだが、咎めはしなかった。むしろ怒るのは無理もないと、至天に同情していた。


 とはいえこれ以上、事を面倒にしたくない。そう思ったところにまたしても、挑発としか考えられない言葉が聞こえてくる。


「すまない。どうやら、彼を怒らせてしまったようだね」


 誰のせいで至天が旋毛つむじを曲げたと思っているのか。原因のすべてが彼にあるとは言わないが。謝罪しながらも楽しげな色を瞳に覗かせたファイスを、サユは訝しんで見やる。

 至天を怒らせるような言動を故意に取っているのは間違いなさそうだった。


「本当は面白がっているのでしょう? だったら心にもない謝意を口にしないで」

「手厳しいな」


 肩を竦めたファイスだが動じた様子はなかった。


 こんな、なにを考えているのか解らないような奴に勝ったと思われるは癪だが。彼の強さが本物だということだけは認めなければ。そういう条件で手合わせを受けたのだから。サユは自身にそう言い聞かせた。


「泉だけど、明日はつき合うわ」


 怒ったような口振りになってしまったが、予想外にファイスの顔が綻ぶ。


「それは、僕を認めてくれたと思っていいのかな」

「そう思ってくれて構わないわ。だから、月魄が出ても私は手を出さないわよ」

「君を護ると言ったのは僕だからね。口にした言葉には責任を持つよ」


 いまさら月魄程度で諦めるとは思っていなかったが。サユは目を伏せ小さく息を吐く。


「命までは……、懸けないでよ」


 そしてふたたび上向けた視線のさき。微笑みながらも冷たい印象を受ける群青の瞳を見つける。


「君は思ったとおり、可愛いね」


 脈絡のないファイスの囁きは、気のせいか切なくも聞こえた。

 だが、真意を確かめようと群青の瞳に見入るほど、八年前に一度会ったきりの風精の顔が霞み、思い出せなくなりそうで——。どうせ、誰にでも言う挨拶のようなものだ。そう結論づけたサユは、軽く受け流すことにする。


「可愛いだなんて、言われ慣れていないからお世辞でも嬉しいわ」


 なんの感慨も含まないその台詞にファイスが苦笑する。


「本心から出た言葉なんだけどな……。君の使精も睨んでいるし、今日はこれで退散するよ。宿は緑樹亭だよね?」

「そうだけど——。迎えにくるつもりなの?」

「もちろんだよ。日が暮れるころには行くから、待ってて。約束だよ、サユ」


 なにが勿論なのかはさておき。最後に名を呼んだファイスの声は、耳に優しく響いた。


 天にある月を、サユは仰ぎ見る。


 傷つき流れた血。迷いなくサユへと向けられた殺気。それは彼が精霊でないことを明示していた。だが、手合わせをするまえとなんら変わらず、群青の瞳はサユの心を掻き乱し、苛立たせた。


 そして、新たな疑念を生んだ。





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