咎を背負うもの

 最深部に辿り着くまで、そう時間はかからなかった。なぜかその道中、【蜘蛛】に遭わなかったのが不思議であり同時に不気味でもあった。


 蜘蛛は巣を張り、餌がかかるまで待つ。


 どう考えても自分がその餌であり、自分から巣にかかりに行っているような気がしてならない。


 ゼノは歩きながら飄々とした奇妙なあの騎士のことを考えていた。


 彼は、このランタンを見てすぐにゼノが【巡礼者】と言い当てた。


 では、彼は【巡礼者】ではないのだろうか。


 彼に聞けば、何かわかるかもしれない。


 そう思っていた時、鼻を突く異臭が辺りに漂い始めた。


 それに比例して、骨の量も多くなっているような気がした。


 嫌な予感がゼノの胸に渦巻く。


 異臭は、その闇の奥から濃く臭っていた。先程の比ではない。血が、死肉が、全ての生きるものが腐敗し、それを溜め込んだような、そんな臭いだ。


 兜の奥で、奥歯を食いしばり、吐き気を必死にこらえる。松明の火が、闇の奥を照らした。そこは、地底湖までとは言わないが、ある程度の高さと広さがあるようだ。


「うっ!」


 たまらず、ゼノが呻いた。


 薄明りに紅く照らされて、最初に見えたのは、腕だ。白骨ではない、半ば腐り落ち、骨が所々見えているが、それは細い腕であった。いや、それはほんの一部に過ぎない。


 腕が、足が、胴体が、頭が、腐った肉がついたまま、幾重にも折り重なっている。胴体など破裂寸前に膨らんでいるものも多くある。


 その中に、奇妙な楕円形の物体があるのに気がついた。よくよく見てみると、小さな【蜘蛛】が蠢いている。


「これは……卵か……」


 呆然と呟くと、松明の火を【卵】に近づけてみた。すると途端にボウ!と燃え上がり、耳障りな悲鳴と、異臭を放ちながら、それは燃え落ちていった。

 周りを見ると、卵らしきものが沢山あるではないか。ゼノはそれを見てぞっとした。これ全て孵化したら、自分はどうなるのか。


 その時であった。


 ——ああああぅうおおおおおおお!


「な……!」


 この世の全てに絶望しているかのような咆哮が、慟哭が、洞穴に響いた。鼓膜が破れるかと思うほどに、その咆哮は空気を震わせゼノを恐怖に陥れた。


 すぐに死体の山の陰に身を隠した。松明の明かりが見えないように慎重にマントの陰に隠す。


 恐怖に蝕まれつつある心を無理やり奮い立たせて、暗闇を見透かすように五感を研ぎ澄ませる。


 微かに何かの足音が、聞こえる。重い足音に合わせて、金属を引きずるような音がじゃらりと鳴っていた。


 無意識に、視線が其方へ向く。


 何故か、松明がないのに明るい光を放っている。黄緑色の光だ。


 それが、動いている。蠢いていると言ったほうが正しいか。


 ゼノの呼吸が荒くなる。剣の柄を奮い立たせるように握りしめた。


 ——おおおおおぁああああああああ!


 闇に眼が慣れてきたのか、うっすらと、その輪郭が見えてくる。足が八本。大きさは洞窟で遭ってきた【蜘蛛】の比ではない。その倍以上だ。


 それよりも悍ましいのは、それが、人間の手足が絡み合ってできているということだ。


「ひっ……」


 その姿を見て、ゼノは思わず声を上げてしまった。


 どのようにすれば、このような醜悪な怪物が出来上がるのだろうか。


 これが神が造り給うたものではないことは明らかだ。いや、これを神が造ったとものだとしたら、それは罪を贖うための罰なのかもしれない。

生臭い吐息が、ゼノの顔にかかった。


「化け物め……」


 それ、は形だけは蜘蛛によく似ていた。


 この世の醜悪な物が集まったかのような異形。腐肉に包まれたその脚や胴体は、人間の其れをいびつに絡み合わせた姿で、頭部に至っては幾つもの人の頭が眼のように並んでいる。

長い手足には罪人の証である鎖の枷が付けられ、巨大な鉄球を引きずっていた。

 その口からは呪詛の如き叫び声が放たれ、悍ましきそれは聞くものの背筋を凍てつかせる。


「うっ……」


 吐き気を催すような姿に思わず顔をそむけたくなるが、もはや後になど引けないのは分かっていた。


 剣を抜き、盾を構える。


 ——ぎきぃいいいいああああ!


 恐ろし気な女の金切り声が聞こえた時、ゼノの体は後ろに吹き飛ばされていた。


 幸い盾に当たっただけで済んだが、長い腕の素早い一撃はいとも容易くゼノの体を宙に舞わせた。


 べしゃりと死骸の山に背中から突っ込み、痺れた腕を押さえて呻く。酷い臭いの粘液が体に纏わりつき顔を顰める。


 じゃらりと鎖が鳴る音に我に返ったゼノは、急いで起き上がろうとしたが、図体に似合わず素早い【蜘蛛】は重たい鉄球など意にも介さず、あっという間に距離を詰めていた。


 異常なほど長い指と爪を持った腕が、ゼノの顔めがけて振り下ろされる。


 ずぶり、という嫌な音が辺りに響いた。


 だがそれは、死骸の山の中の死体を貫いた音であった。


 盾にしていた死体の陰から剣を思い切り突き出し、その剣先は【蜘蛛】の顔の一つに突き刺さった。


 鼓膜を突き破るかのような絶叫が辺りに響き、洞窟内に反響した。


【蜘蛛】は痛みと怒りからか滅茶苦茶に腕や脚を振り回し、巨大な鉄球が周りの物を粉砕した。


「くそ!らちがあかん!」


 鉄球や腕から逃げ回りながら、ゼノが舌打ちした。振り回された鉄球が、死体の山にぶつかり、嫌な音を立てて腐肉や骨が飛び散った。


 蜘蛛の鉄球が何かに引っかかったのか、一瞬動きが止まった。


 すかさずゼノが間合いを詰め、後ろから【蜘蛛】の胴体を斬りつけた。腐肉を斬る濡れたような音と、嫌な感触が剣を握る手に伝わる。


 だが、さほどダメージは与えられていない。【蜘蛛】が怒りの唸り声を上げながら、ぐるりと振り返った。


「しまっ……!」


 地面に広がる死体の脂に脚を取られ、一瞬ゼノの動きが鈍る。すぐ目の前に鉄球が迫ってくるのが、何故かゆっくりと感じた。



 盾を構えたが既に遅し。


 ゼノは鉄球の一撃をもろに受け、吹き飛んだ体は洞窟の端に叩きつけられていた。全身に鎧を着こんでいなければ、即死だったであろう。

 だが、それでも体に受けた損傷は大きい。


「うぐっ……かはっ」


 衝撃で少しの間気を失っていたゼノは、全身を襲う痛みで我に返った。


 盾を持っていた左腕の感覚がない。息をすると突き刺さるような痛みが胸を襲った。少しでも動かすと痛みで呻きが出そうになるほどに。


 盾はさっきの衝撃で手放してしまったようだが、まだ剣は握っている。


 気力を振り絞り、ずるずると体を引きずって壁を伝いながら立ち上がる。


【蜘蛛】が酷くゆっくりと鎖を引きずる音が聞こえる。弱い獲物を嬲って楽しむ猫のように。徐々に徐々に近づいてくる。


 霞む目で周りを見ると、崩壊した壁の一部から光が漏れているのが見えた。

 ゆらゆらと揺らめくオレンジ色の光は恐らく松明だろうか。

 一縷の望みを託して、ゼノは傷ついた体を精一杯動かした。


 穴は、腕が入るくらいの大きさで、その向こうには松明の炎が揺れている。


(サラマンドラの胆石はよく燃える……)


 アルガから言われた言葉を思い出し、松明めがけて穴に右腕を入れた。

 だが、あと少しで届かない。指先が松明に触れるが、掴むことが出来ない。


「くそぉ!届け!」


 鎖の音は無情にもじゃらりじゃらりと大きくなる。

 死骸を踏み潰す湿った音が、間近に聞こえた。


 ——るぅうおおおおおおああ!


 死者たちの、慟哭が、咆哮が、空間を震わせた。


 無理やり肩当てを捻じ込む。壁に擦った頬から血が滲んだ。


 あと、少し。


「ぐぅ!」


 左肩と頭を掴まれた。折れた左腕が凄まじい力で横に引っ張られる。


「うぁあああああ!」


 ミシミシと鳴っているのは鎧の音ではない。骨と筋肉が引きちぎられそうに痛み、絶叫が喉の奥から迸った。


「あああああああ!」


 ぶちぶちと、何かが切れる音がした。目の前が赤くなるほどの激痛が肩から全身に駆け抜けた。


 それと同時に、松明に指がかかり、穴から松明が引き抜かれる。


 赤褐色の石が、腰の革袋から濡れた光を放って零れ落ちた。


 がしゃ、と自分の体が倒れ伏すのをどこか遠くで感じていた。


 左肩が燃えるように熱い。鼓動に合わせて何かがどくどくと流れ出ている。


「う……あ……」


 青白い腐肉を纏った腕が、顔の脇でカチカチと爪を鳴らして、憐れな羊をその爪で八つ裂きにしようと待っている。


 右手の側に、松明が炎を爆ぜさせながら転がっていた。


 全ての力を右腕に込めて、松明を動かす。


 じりじりと、少しづつ。


 嘲笑うかのように、【蜘蛛】が左足を掴んだ。鋼鉄のグリーブがひしゃげる音が響き、その中の骨も同じような末路を遂げる。


 痛みに奥歯が砕けるほど食いしばった。


 痛みと恐怖に右腕が痙攣し、転がっていた赤褐色の石に炎が触れた。


 ——瞬間。


 全てを震わせるような衝撃と、熱風がゼノを襲い、それきりぶつりと意識が途絶えた。




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