二度目の死

棘の道は、石の道とは違い、鬱蒼とした木々と蔦に覆われて、足元すら見えぬほど暗く、油断するとうねる様に蔓延った蔦や木々の根に足を取られそうだった。


「暗いな。ランタンか松明でもあればいいのだが。」


忌々しそうに足元の障害物に舌打ちしながら男は歩き続ける。パキパキと自分の足元で枝が割れる音が、一足ごとに響き渡る。


息苦しいほど薄暗い闇の中で、男は、明らかに自分の足音とは異なる音を聞いた。


「誰だ!」


その声にも、何も反応はない。返ってくるのはひやりと湿った空気と、闇だけだ。だが、確かに人のものではない、異質な気配を感じた。


咄嗟に男はその場に這いつくばり、地面に耳を付けた。


男の後を辿る様に、パキパキと小枝を踏みしめる音が微かに聞こえる。


ぞわりと、恐怖が男を襲い、縺れる様に駆け出した。


蔦が顔に当たるのも、木の根で転びそうになるのも気にせず、一心不乱に走り続ける。言いしれない恐ろしさに、冷汗が噴き出るのを感じた。


気配は、未だぴったりと男の後ろをついてくる。がむしゃらに動かしていた重い脚が何かに躓き、思い切り倒れこむ。


痛む身体を無視して、そこに手を這わせれば、丁度木のウロになっているようで、慌ててそこに這いつくばりながら隠れた。


小さな虫が一斉に散る気配と湿った泥が腹の下でぐちゃりと嫌な音を立てたが、そんな事に構っていられなかった。ふいごのように荒くなった息を押し殺し、朽ちた樹皮の隙間から、外を見た。


ぱきり、ぱきりと音が近づく。

目が闇に慣れ始め、少しずつ辺りが見え始める。


それと共にしゅうしゅうと空気が漏れ出すような異音が聞こえ始め、その姿を現した。


男は、それを見て息を飲んだ。


それは、あまりに異様な風体ではあったが、辛うじて蛇だと認識できた。だが、男の知っている蛇とは全く違う。

大きさは羆よりも大きく、その太い鎌首を持ち上げていた。そしてその体表を覆っているはずの鱗は、全て針のように鋭い棘であった。


なんという、悍(おぞ)ましき場所だ。


恐怖が、再度男を襲った。震える歯を噛みしめ、ともすればあげてしまいそうになった悲鳴を押し殺す。


《蛇》は、男を捜しているのか、うろうろと首を巡らせている。男は、何かないかと、必死にあたりを見回した。

すると、木のウロからほんの少し離れたところに、干からびたような枯れ枝に絡まった、鋼鉄製のランタンが落ちている。


男の脳裏に、あの子供の声が蘇る。


男は意を決した。


鎧が音をたてないように細心の注意を払って、男はゆっくりと手を伸ばした。空気は冷たいのに、脂汗がにじみ出る。必死に手を伸ばす。あと、数センチだ。


パキリ。


男の膝下の小枝が割れた。男の背筋に冷たいものが走り、すぐにウロの中へ入って身を縮ませた。


ぐるりと、《蛇》が首を巡らせ、ばきばきと枝を踏みつぶしながら、こちらへ来るのが嫌でも判った。


しゅうしゅう。蛇の鳴き声がすぐ近くに聞こえた。もはやこれまでと、震える手で剣の柄を握りしめ、その時を待った。


しかし、一向に《蛇》が攻撃を仕掛けてくる気配はない。恐る恐る見上げると、すぐ真上に巨大な蛇がとぐろを巻いていて思わず息を飲みこんだ。

なにかがおかしいと、男は訝しんだ。《蛇》は男の近くに来たが、またウロウロと首を巡らせているだけであった。


もしや、眼が見えぬのか?


男は、そばにあった小石を、音をたてぬよう気を遣いながら放り投げた。かさりと遠くで小石が音を立てると、途端に《蛇》が気を取られたように向こうへ這って行った。


安堵しながら、男はランタンへ手を伸ばす。絡みついた枝を外そうとして、ぎょっとした。


枯れ枝だと思っていたのは、干からびた人の腕で、その茶色の萎びた指は、しっかりとランタンの取っ手を握りしめていた。おそらくは、男と同じような迷い込んだ者なのだろう。


ランタンを手に取り、そろそろと立ち上がった。《蛇》の気配はない。男は漸く息をついた。


早く、ここから離れよう。


しかし、ランタンを点けたら《蛇》がやってくるかもしれない。男はランタンを腰に釣り下げ、その場から離れようとした。


その時だった。


かしゃん、とランタンが鎧に当たり音を立てた。向こうの方で、大きなものが蠢き、藪を切り裂くような勢いでこちらへ向かってきた。


「くそ!」


男は悪態をついて、剣を抜く。黒鋼の盾を握りしめ、敵の来襲に身構えた。


そして、《蛇》がその目の前に姿を現した。



対峙してみれば、その威圧感と大きさに圧倒された。無数の棘に覆われたその躰に、無数の鋭い牙の生えた口からちろちろと出る舌。どう見ても、悪魔やその類である、異形だった。


―― こんなモノに、勝てるのか……?


萎えそうな膝を叱咤し、それを睨みあげる。


膠着を破ったのは、《蛇》だった。


その巨大な口を開け、《蛇》は真っ直ぐに突進してきた。男は咄嗟に横に転がって間一髪それを避ける。


その牙は先程男が隠れていた倒木をがぶりと捉え、いともたやすく粉砕した。


「喰らえ!」


その隙をついて男が剣を《蛇》の胴、棘に覆われていない部分に思い切り突き刺した。


剣は半ばまで突き刺さり、硬いが柔軟に形を変える骨に当たった。ずぐりと嫌な音を立てて肉が切り裂かれる。


筋肉が収縮して抜けなくなる前に、剣を引き抜く。ぶしゅ、と生臭い何とも言えない悪臭が立ち込める。


シャア!と《蛇》が躰を波立たせ、怒りに満ちた様に鎌首が男に向けられた。


―― 勝てる。これならば。


そう、確信した時だ。


ずしゅり。


「……え?」


激痛が胸を襲った。熱い塊が喉の奥からこみ上げ、鼻と口から鉄臭い液体が溢れ出た。


おそるおそる胸を触ると、何かが胸の真中から突き出ている。


ぬらぬらと何かに塗れたそれは固く鋭い錐のようであり、男の背中から胸を突き刺していた。よく見ればそれは《蛇》の躰へと繋がっているのだが、

今の男にはそれを知るすべはない。


「な、なぜ……?」


何に問うたのか自分でもわからなかった。手足が痺れる様に冷たくなり、膝からがくりと力が抜けたが、自らの体を貫いている錐が、地に伏すことを許してはくれなかった。


躰が、ふわりと浮き上がる。激痛が、胸から全身に駆け抜けた。


「いやだ……やめろ……死にたくない……」


男の懇願など聞き届けられる筈もなく、唯々その眼は残酷な光景を映し出していた。


巨大な口が開かれる。地獄の窯の蓋が開くかのように、その奥は真っ暗で。急激に襲ってきた死の恐怖と、痛みで男はなりふり構わず喚き、滅茶苦茶に四肢を動かした。


ぎしぎしと貫かれた鎧と肉と骨が音を立てるが、《蛇》にはそんなものは些細なこととばかりに、その巨体の糧とするべく、目の前の贄を飲みこんでいった。




「やめろ!いやだあああああ!」


がばりと起き上がった男は、悲鳴を上げながら、泣いていた。

腰が抜けたかのように、鎧を地面にこすりながら無様に後ずさる。


しかし、周りの風景をみて唖然とした。


「……なぜだ……何故!私は!」


あの分かれ道。そして全く同じ風景。そして……。


「何故、私は死なないんだ……!」


貫かれた傷も、噛み砕かれた頭も、鎧も、全て綺麗なままだった。


「石の道を行きますか?それとも棘の道を行きますか?」


あの、声が聞こえた。一言一句、全く同じだった。



くすくすと不気味に笑う灰色の子供の前で、男は立ち尽くしていた。


まったく同じやり取りが3度繰り返され、頭がおかしくなりそうだった。


「……なぜ、私は死んでいないのだ。」


「お前は死なない。お前は《巡礼者》だ。死は終焉ではない。」


死は終焉ではないだと?この恐ろしい死が繰り返されるのか。


「私は望んでいない!」


「お前の意志は関係ない。そんな事はどうでもいい。」


薄氷の刃のような声音に、思わず男は怯んだ。ひとかけらの人間味も感じさせない無機質な雰囲気。灰色の空。墓標のように立ち枯れる木々。


男は、自分を取り巻く世界全てが恐ろしく感じた。なのに、何故、こんなにも《前に進まねば》という焦燥感が恐怖よりも先に立つのだろうか。


「だが、私は…私は進まねばならんのだ。《彼女》の為に。」


無意識に出た言葉に、男は狼狽えた。


《彼女》とは誰であったか。思い出そうとすればするほどに、霧の迷宮に迷い込んでしまう。


「なれば、石の道と棘の道、どちらを選ぶ?」


やはり面白そうな色を滲ませて、子供は言った。


男は、少しの間逡巡した。もう二度と、あのような目には遭いたくはない。自ら望んで殺されに行く奴など何処にいようか。


ふと、頭の片隅にある考えがよぎる。そうだ。何故道が二つだけだと決めつけていたのだ。


「どちらでもない。」


静かな声が、灰色の森の中に響く。


「なに?」


「悪いが、罷り通るぞ。」


肉厚の片手剣の刃が、子供の丁度首の辺りを一閃した。一切の隙のない一撃を浴びた小さな頭は、悲鳴すら上げることもなく、フードを付けた頭だけが吹き飛び、小さな胴が軽い音を立てて地に伏した。


その後ろには、藪に紛れた細い獣道が続いていた。


「この道を真っ直ぐ。か。言い得て妙だな。」


あの老人の言葉を思い出して男は苦笑した。すると、後ろで何かが動く気配を感じて素早く剣を構えた。そこには、死んだはずの子供が、いや、子供の様なものの頭が男をにやにやと見つめていた。


「あーあ。ばれちゃった。あーあ。だがお前は辿り着けない。その心が折れた時、それが見物だ。はは、はははははははは。」


狂ったように笑い出す頭に男は歩み寄る。そしてゆっくりと、剣の切っ先を下に向けた。



笑い声が止み、風の音と枯葉の舞う音だけが響く。フードの中身は、塵となり風に消えてしまった。


束の間、ほっと息をついたが、何やら腰に提げたランタンがカタカタと鳴っているではないか。


「な、なんだ……?」


驚いた男は、急いでランタンを取り外し、乱暴に地面に置く。すると、ランタンがひとりでに淡く光りだした。その光は、死沼に誘う蒼い鬼火の如く、不気味な光だった。


「なんと奇妙な……。」


おそるおそる近づき、鞘で突いたが何も起こることはなかった。男はそれに少しだけ安堵すると、蒼い光を放つランタンを腰に提げた。


「……行くか……。」


そして、男は目の前の獣道へと足を踏み入れた。きっとこの道は《茨の修道院》へと繋がっていることだろう。


「……私は、進むしかないのだ。」


自らに言い聞かせるようなその声は、苦行の道を往く巡礼者そのものだった。

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