いつからこの瞼が開いていたのかという疑問について思案を巡らせていた。そう思えるくらいには、己の意識が覚醒を始めているのを確認する。

 細く、そして白い指先。視界にそれが映り込んでいる。関節を滑らかに駆動させてみる。五本だ。ぶれていた焦点がフォーカスする。肉眼越しの自分の肉体。代理身体サブ・アバターとしてのリボン・モンスターや光学イルカに自意識を退避させている時なんかの、うざったい視覚情報レイヤーの介在もない、鮮明な物質世界の光景。

 指先同士をこすり合わせてみる。爪が伸びかけだ。地球人の女性たちがやるように、化粧を施してみたいという感覚について、思考は更に更にと緩慢に脱線してゆく。

 壁掛け時計の秒針が歯車を一つ噛みあわせる間に、脳裏に揺らいだアイディアも、他のあらゆる好奇心とない交ぜになり霧散していった。額からこぼれた幾房の巻き髪を指先で絡め取ると、白い皮膚に溶け込むような、明朗な桜色をしている。それを弾いて振り解いた彼女は、果たしてこんな自分が皆に愛されるだろうかなどと、うんと他愛もない不安に思案の矛先を行き着かせていた。

 四肢の自重がベッドのマットレスに仕込まれたスプリングコイルに押し返されようとする浮遊感。眠たい、という意味の感想を舌に乗せる。と、爪弾かれた弦よりも早く声帯が急いて、申し訳程度に唇がその仕事を引き継いだ。

 頬が埋まる柔らかな枕の温度。自分が分泌した汗のにおいを嗅ぐ。これすらも自分の個性を表すものになるのかもしれないと、そこで一つ仮定する。

 穏やかな風に揺らぐ遮光カーテンの隙間から、防眩ガラスを通さない太陽光の紫外線が、フローリングの木目調テクスチャーをゆっくりと焼いているのを眠たげな片目で眺めて、そろそろ起き上がらなければという決断にようやく彼女の思考が至った。


            


 ミィヤは自らの内に血が通うのを感じていた。生命の種として、あるべき原則的な形を定義づけられていない自分を前提にすると、それはおかしな現象だ。〈天使型〉の重層構造体が儀礼的にヒトの型をなしているだけの身体に、数多の集合意識が宿って一つの個をなしているにすぎない〈ゆうれい星のミィヤ〉にとって、睡眠や食事のような生活周期に身体を馴染ませる科学的根拠自体ない。ミィヤという個を特徴づけ、そこに息づく存在を維持し続けるために、ただひたすら彼女の生はそれらしく再現されているだけなのである。

 ベッドから床に下ろした素足がひんやりとわだかまる冷気を感じ取った瞬間、いつしか目元に溜まっていた涙の冷たさに、ふと気がついてしまった。寂しいな、悲しいなと感じた。自分だけ硬質な地面の上に置き去りになってしまった孤独感からか、均衡を綻ばせた情緒が一縷の痛みを帯び、本来の痛覚を介さずに胸の奥底にきぃきぃと軋んでいた。

 アーチルデット艦長。ルシオン級の主概念。“わたし”をわたしらしく表現できる、わたしだけのマイスター。再びあの存在と“わたし”が繋がる因果に辿り着きたいと、ミィヤは最優先事項として願望した。


「し、しょー…………」


 主の名を音にする。室内には現在、誰の姿もない。他の二人は、今晩と翌朝の食料と生活用品の調達のため、彼女を部屋に残して外に出かけてしまっていた。

 あれから二日あまりの時間が過ぎ去っていた。この星の文明系の主体的種族、人間というのは悠長なもので、その程度の経験を経れば、持つべき警戒心もあっさり薄れるものらしい。たとえ政府と敵対関係にある状況とはいえ、それでも相互の関係は信頼の上に成り立っているからというのは彼女にも理解できる。けれども単独では自身の身すらまともに守れもしないあの二人が、それよりも幾分かは抵抗能力を持つ自分を差し置いてこのように独走してしまうというのは、今後の協調関係維持を考えても戦略的に回避されるべきだろう。そういう結論に、彼女は何度思案しても至るのだった。

 よし、あのお二人の後を追って、彼らの自由意思に差し障りない範囲で支援しよう。そんな決断の言葉を頭の中で噛みしめて、ミィヤはベッドから飛び降りた。そして自らを鼓舞させ、確かな意志を体現するために、わけもなくこぶしを握り締めた。

 途端、視界がスパークした。彼女の瞼と、その向こう側に広がる世界が連動しなくなったかのように、暗転の帳が黒く覆ってしまった。

 わっ、と危機感の抜けた悲鳴が、思い出したように喉から漏れた。そして、それがわずかながらの遅延の経て自分の耳に届いたのに気がついた頃、慈悲なき地球の万有引力がミィヤの頭蓋を床目がけて打ちつけていた。

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