ベッドの上で寝返りを打とうとして、今そうすることが困難な状況であると、意識より先に身体が警鐘を鳴らした。まどろみのさなかにあるにもかかわらずである。

 既視感のある場所。天井を見れば、厭でもあの瞬間を思い出し身構えてしまう。本能に植えつけられた恐怖。

 一佐は目覚めた瞬間、不自然な体温を感じた。それも右隣と左隣、何故か両側からである。そんな無茶な構図になるのを許す特別サイズのベッドだ。それをここに持ち込んだ主犯がそのどちらかなのだろうとぼんやり考えながら、おぼつかない意識の正常化を待つ。

 左側の生暖かい何ものかが先に飛び起きると、ひとしきり伸びをしてからこちらを覗き込んできた。一佐が何か不自然だと感じたのは、そもそもこのシチュエーションについてではなかったのを思い知らされた、衝撃の瞬間だった。


「――――おや、おはようございますイッサ。そんなお顔で、一体どうなされまして?」


 眠たそうな声を上げる。先に目覚めた彼女のやや短めに揃えられた巻き毛が、桜色のグラデーションと、髪の表層をスクリーンのように飾る花弁の模様テクスチャを鮮やかに見せつけ、近くから鼻先をくすぐってきた。起きぬけの汗と熱気を帯びて彼女自身の頬にも纏わりつくそれが、一佐にはどことなく扇情的に見えて、思わずごくりと唾を飲み込んでしまう。

 ここは三〇二号室のベッドの上だ。そして自分の傍らに眠っているのは、先日からしばらく行動をともにしていた小晴とアーチルデットだと、本能的にそう決めつけていた。

 まじまじと〈彼女〉の顔を、そして姿を眺めてしまった。澄み渡るような翠玉エメラルド色の瞳。その虹彩の内部にも、不思議な花弁模様が、投影された映像のようにくるくると踊っている。ただ、そちらも声色に違わず、随分と眠たそうな目つきをしていた。そして何故なのか服を着ていない。代わりになけなしで巻きつけられたバスタオルからこぼれるように、本来の〈彼女〉になかったはずの大きな乳房が双丘を露わにしていた。


「なっ、誰……君はチル子じゃ……ない!?」


 アーチルデットではない、別な誰か。一体何が起こったのか咄嗟には理解できない。


「…………わあ!」


 今頃になって、思い出したかのような声を上げる。聞き覚えのある肉声。


「びっくり、元に戻っちゃってました」


 ミィヤの声で、その少女は、しかしさして驚いた表情を見せず、気だるそうな視線を一佐に向けて浴びせてきた。


「え、え……君は……どうなってるの!? ……そのかっこ、何が起こった!?」


 混乱させられる一佐の思考。そもそも最初に知り合ったミィヤは、あの布の塊か毛玉みたいな謎の生物だったはずだ。

 認知できそうにない現実から目を背けるように、もう片方に眠る誰かを見る。そちらで安らかな寝息を立てていたのは小晴だった。小晴の方はいつの間にやら一佐の寝間着を窮屈そうに着ており、あれから無事にここへ帰り着けたのだと、少しだけ安堵させられる。

 と、バイブレーション機能から生み出される振動が、どこからともなく耳に入った。

 ふいに背中を突かれて、一佐は仰天の声を上げる。


「あのう、これ、ししょーからでして」


 シーツの中から取り出された、濃紺色ネイビーの携帯端末。ミィヤを名乗る謎の少女が、それをぐいとこちらに押しつけてくる。


「これ、ぼくの端末だ……」


 ソーサルの二人組に奪われたかと思ってた携帯端末がここにあるのも腑に落ちないが、耳に馴染み始めた「ししょー」なる響きの方が気がかりで、慌てて通話を繋いだ。彼女の呼ぶ「師匠」とは、つまりあのアーチルデット何某を指しているに違いなかった。

 端末のスピーカーに耳を近づけると、


『おーーーいっ! ヤバイよっ! あたしヤバイのマジでっ!!』


 朝っぱらから怪気炎を吐くような口調で、いつもながらのチル子があちら側から吼えた。


「わわっ、なにがやばいんだよっ」


『ドジったっ! あたしやらかしちゃったの、どうしよう!!』


「わかりやすく言ってよっ! 何が起こったの? ていうかチル子、今どこ? あとこの女の子、誰なのさっ!?」


『えー? 女の子ってどのコ? ピンクいのなら、ミィヤよ。素っぴんのミィヤ。それよか、チョーシこいて月にブッ放したせいなのかわかんないんだけど、とにかく〈姫君〉の動力炉が絶不調になっちゃったんだってば――』


「スッピン? どゆこと?? ええと、その姫なんとかが壊れたら、どうなっちゃうの」


『ごめーん、これ以上そっちとの交信無理、切れる。しばらくそっちよろし――――』


 そこでアーチルデットとの通信が途切れた。

 今更気づいたが、一佐の携帯端末には、今までに見たことのない表示がされている。おそらくは、衛星軌道上に浮かぶアーチルデットたちの母艦――彼女らが〈姫君〉と呼称するあの巨大構造物との通信装置にいつの間にか改造されてしまったのだろう。

 変わり果ててしまった端末をぷらぷらと振ると一佐は、


「切れちゃった。よくわかんないけど、動力炉がどうとかで、しばらくよろしくって」


 それをベッドに放り投げて、床の上に正座していた少女姿のミィヤの前に腰を下ろした。

 一佐の脳裏に不安がよぎり、変なため息が出てくる。無事に地面へと足がつく場所へと戻って来られた安堵感。しかしそれも実はぬか喜びでしかなく、まだあの騒ぎは終わってなんかいないという疑念さえくすぶり始める。


「ごめん。最初、君をチル子かと思っちゃった。でも君はチル子じゃなくて、ミィヤ。じゃあ、チル子はどこへ……まだ宇宙にいるの?」


 ミィヤは恥ずかしそうに頬を上気させつつバスタオルを巻き直すと、


「ししょーからの通信から推測するに、何らかの要因で障害が発生し、〈姫君〉の動力炉が停止したものと思われます。そうなってしまいますと、おそらくししょーは……」


「チル子が……何かなるの?」


「ししょーは高次精神体・イミュートと言って、本来はイッサやミィヤのような肉体を持たない種族なのです。代わりにこのミィヤの身体と同化することで物質世界に顕現しておられる特別な存在で、あのお方の本体はこの惑星の周回軌道上に浮かぶ〈姫君〉の中枢部に。ししょーは〈姫君〉と一心同体と言って差し支えない存在なのです」


「チル子が、ミィヤと……同化……」


「そうです。このミィヤは万象粒子〈天使型パーティカ〉を統べる、〈天使型パーティカ集積体・クラスタ。今までイッサと接してきたししょーは、ミィヤとネイティブリンクすることで、ミィヤの身体を介してとった物質世界用の姿なのです。ですから、〈姫君〉側にトラブルが発生すれば、ミィヤとの繋がりも断たれ、ししょーはこの地上側には出現できなくなってしまいます……」


 そんな説明だけでは、やはり一佐の理解は完全には追いつかなかった。人工湖での一件で、アーチルデットは自身の肉体そのものを宇宙船・アンノウンへと変身させて見せた。でも、それらの正体は全てミィヤなのだと、目の前の彼女が説明する。

 それを聞いた一佐の内に、新たな焦りが生じた。思えば衝撃的に姿を露わにしたミィヤにばかり気を取られていた。もっと早く事態に気がつくべきだったのだ。さっきまで別段気に留めていなかったヘリコプターのローター音が何を意味するのか。

 慌ててベッドから飛び出し、力任せに窓のカーテンを開ける。早朝の眩しい太陽光が、侵入者らに破られた窓ガラスから差し込み、マンション外界に広がる変わり果てた日常を、四角いフレームにくり抜いて映し出した。

 人気の消え失せた周囲の道路、その更に向こう側に、見覚えなどあろうはずもない、うずたかい壁がそびえ立っていた。金属の骨組みと足場とを組み合わせ、不揃いな色のビニールシートで側面を覆い、クレーン車で急ごしらえに築き上げられたなけなしの防護壁。それが、高さ自体はまちまちながら、西から東にかけて必死に何かを覆い尽くそうとしている。まるでこのマンションを外界と分かとうとする、巨大な鉄の檻のようにも見えた。

 そして上空を巡回するヘリの機影。報道陣のものか、駐留軍のものか、あるいは政府の差し金――あの〈外交官達3rd〉なのか。

 ビニールシートと骨組みの隙間から覗く向こう側に、群衆達のひしめく姿が垣間見える。それは、壁を敷設する者たちだけでない。宇宙人を一目見ようと集まった民衆の姿もだ。


「あは…………はははは、なんだよこれ……本気なのか……」


「ええ、おそらくは。国家レベルで喧嘩売りましたしね、あのお方」


 一佐はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。

 偶然手に入れることになった、祖父の形見の古いマンション。そんな場所を巡って、悪党が、宇宙人が、国家権力が殺到し、勝手に引っかきまわして。めくるめく逃避行の果て、ふと気づいた時には月にハート形の穴が開き、星と文明とを跨いでの冷戦状況がこのちっぽけなマンションを中心に沸き起こっていた。

 目の前に打ち立てられた壁を彼らの国境とするならば、さながら籠城戦の様相。これから始まるであろう混迷の第二幕に打ち震えていると――――


「ところでイッサ、あのう……実はミィヤ、とてもおなかがすきまして……」


 くぅ、と。

 辺りに淀む戦慄の色を塗り替えるように鳴り響く、ミィヤの腹。それでも真新しい冷蔵庫は、相変わらず空っぽなままの中身を、彼らをあざ笑うかのごとくさらけ出すのだった。

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