戸原一佐は、今のところその必要性に駆られていなかったので、普通自動車第一種免許を取得していなかった。なので一般的な自動車の乗り心地というものの善し悪しなど判断できるはずもないのだが、それでもこれは精神的に最悪の乗り心地だった。

 二人組の男たちは拘束した一佐を小型バンの後部座席に押し込めると、日没後の夜道をどこへともなくひた走らせていた。運転席でステアリングを握っているのは若い男の方だ。後席、一佐の左隣には、拳銃を携えていた大柄な方が無言で座っている。今この男は拳銃自体握ってはいないものの、代わりに屈強な腕が胸板の前で組まれ、一佐が後部右ドアから飛び出そうものなら首根っこを掴み、あっさりと羽交い締めにできるのだろう。

 この辺りの道路事情に長けているわけではないので、車が今どの辺りを走り、またどこへと向かっているのか想像もつかない。窓ガラス越しの暗がりに流れる風景を横目で追うと、視界に映るのは町灯りの代わりに、背の高い針葉樹林の黒々とした輪郭ばかり。行く手に続く道路は狭く曲がりくねっており、時折彼らを出迎えるのは急カーブの横Gと赤色にきらめく電光道路鋲キャッツアイと段差舗装のガタガタばかりで、行き交う対向車の数はまばらだ。

 祖父の廃マンションから男たちに連れ去られたあと、小型バンはおそらく市街地から人里離れた山間地へと向かっているらしいのだけは一佐にも推測できた。

 ただ意外なことに、自分の心臓を冷たく握りしめ続けていたはずの恐怖心は、車に乗せられている間に幾分和らいでしまっていた。確かに今もプラスティック製の手錠が両腕の自由を奪い続けている。知らない男たちは自分を人気のない夜更けの山奥まで連れ込んで、湿った腐葉土の上に目隠しされたままひざまずき命乞いの涙を流す一佐を残酷にも蹴り倒すと、突きつけた拳銃でこの額をためらいなく撃ち抜くことだって容易いはずだ。即ち、この車の到着地点で、“ぼく”は、死ぬ。奴らの秘密を知ってしまったのだから。

 だが、終末に至る絶望感とは異なる何かを一佐は嗅ぎ取っていた。「消すか」という男たちの言葉は、鈍色に輝く銃口という圧倒的な現実感を伴って一佐を撃ち抜いた。なのに今の彼は、目隠しも猿ぐつわもされていない。彼らはこちらからの質問に一切答えなかったが、手錠まで周到に準備しておきながら何故か一佐を黙らせなかったし、目的地への経路を隠す手立てにも気を遣わなかった。携帯端末は取り上げられてしまったものの、ポーチ内の財布にリングメモ、それに後遺症である喘息の予防吸入薬だってそのままだ。

 単に杜撰なのか、それとも一佐が感染症治療の影響で、実年齢に比べて背丈が低く顔つきも幼く見えるために、子供として甘く捉えられているだけなのか。あるいは、消すというのも単なる脅し文句で、どこか別の場所に一佐を連れ去るのが彼ら二人組の真意なのか。


「おい、ラジオ消せ」


 野太い声でそう言うや否や、大柄な方が後部座席側から強引に身を乗り出すと、琥珀色アンバーに明滅するセンターコンソールのスイッチのどれかを押して、気の抜けたラジオパーソナリティの独白を問答無用に黙らせた。

 フロントガラス越しに、黄色のポリエチレン・ポールの先端が断続的な赤い警告色のライトを回転させている。工事車線規制だ。小型バンは点滅するLEDの仮設信号に従って急減速し、男たちは周囲に作業員などの人影がないかどうかを確認した。


「……無人らしい、行け」


 身を乗り出したままの大柄な方が指示する。運転手役は仮設信号の指示を無視し、封鎖された車線から対向側にはみ出すと、前輪を危なっかしくブレさせながら急加速させた。

 音が聞こえ始めたのは、そのタイミングだった。


「なんだよ、この音……?」


 口をつぐむ大柄な方に、運転手役がステアリングを握ったまま躊躇いの声を上げる。

 音。ごうと大気が唸りを上げるような、と形容するのが似つかわしい、異質な何か。

 歯が軋む。大柄な男の、運転席の肩を掴む手に力が込められるのがわかる。

 速度を感じる。音源は移動しているのだ。それも進行方向からではなく、背後から。

 指数関数的に距離を縮め接近する音源は、撒き散らすそれを轟音へと変調させ、複雑に重なり合ってユニゾンを始め、

 今や耳をつんざくほどの爆音へと変貌したそれが、三人を乗せた小型バンの背後から貫かんばかりの速度で迫り、窓ガラスを空気の鳴りと地鳴りとで酷くガタつかせて、

 青白くまばゆいばかりの閃光と赤や青の明滅を伴った巨大な物体が夜の大気を割き、異常な速度で車体の上空を――――


「なん……だ、ありゃあ……」


 ――――――――――――――――通過した。

 一機だけではない。続いてもう一度、今度はより大きな噴射音の多重湊。突き抜けるドップラーの余韻。暴力的な風圧に叩きつけられた小型バンはコントロールを失ってふらつき、何度かセンターラインを割る。

 フロントガラスの向こう側、暈けた薄闇の頂に、急上昇してゆく青白い何かの閃光と、ジェット推進のノズルが吐き出す排気音とが混じり合い、まるでアクロバット飛行でもするかのようにして去ってゆく。そんな一部始終を三人は目撃していた。


「三機……いや、四機だ」


 飛び去った機影に言葉を失っていた大柄な方が、我を取り戻して続けざまに呟く。


「後続した三機、兵装まで視認できなかったが、要撃機にしては機体が小さすぎる。おそらく無人航空機UAVだろう。翼端灯を消していた。あんなモノが峰と高圧送電線だらけの超低空で戦闘行動中なのか……それともこの空域で機体訓練……まさか……」


「いいけどよ旦那、そんな物騒なもんが何でこんな山中の上空をかっ飛んでやがるんだ? 大体、自衛隊にあんなの配備されてた噂も聞いたことねえし、あちらさんの海兵隊にしろ、軍用滑走路を備えた基地なんざこの近辺にゃねえだろう? どっから飛んできたんだって」


 そもそも何らかの緊急発進命令スクランブルがかかったとしても、この国で飛ばす機体にはもっと別のものが選ばれたに違いないと彼らは考えていた。


「現行世代の中型UAV開発計画の中に、移動用トレーラーのコンテナに可変カタパルト積んで局地射出可能な統合型システムを見た覚えがある。ただあれがどちらさんの所属にしろ、県警の持つような装備じゃない。自分たちには無関係ということだ、安心しろ」


 めくるめく理解不能な専門用語が一佐の前を飛び交い続けた中で、ふと混じった『県警』という響きに、瞬く間に現実に揺り戻される。眼前に繰り広げられた異変が更なる規模の衝撃で上書きされて、全てがまるで他人事のようだ。だが当の一佐は震え乱れる鼓動を押さえるのに必死で、この場に異議や疑問の言葉を絞り出すことすら叶わない。


「へえ、さぁっすが元本職――じゃなくてよ旦那、んなことよりも……先頭のえらく眩しい方の一機、アレは、あっちこそ一体何なんだって……」


 むしろそちらの方こそが異常だった。あの青白く輝く機体こそが所属不明機アンノウン。さながらUFOのような、とにかくイカレたビジュアルを纏っていた。まず機体をあんな色に光り輝かせる設計意図が、航空工学知識の欠片もない一佐にすら疑問を覚えさせた。

 再び前方の様子を窺う。夜空の雲がおぼろげに晴れ、月下に連なる山脈がいつの間にかその輪郭を浮かび上がらせていた。上空を巡航速度で通過していった所属不明な四機の機影は、ジェット噴流の低い残響のみ置き去りに、今は跡形もない。


「いや……自分にも全くわからん……見た感じ、先頭の光ってた一機はあり得ないでかさだった。UAVと編隊を組んでたのか、あるいは追撃だったのか……どちらにしろ、あんな規格サイズの倍近い全長の機体を開発する意図一つ取っても自分には理解できない……」


 およそ動揺とは無縁と思われた屈強な男も、状況を冷静に分析して見せつつ、青白く光る飛翔体の正体が本当にわからないといった躊躇いを口調に覗かせた。

 否、それは彼自身に確信がないから見せた躊躇いなどではなく――


「あいつは一体…………光――――」


 は、遙か彼方、尾根の向こうに急上昇して、空域から離脱したはずだった。

 青白光の幾何学模様、うねるような明滅を纏ったアンノウンが、消えた夜の天涯から光源の軌跡とアフターバーナーの閃光を鮮やかに残しつつ、垂直ループの急旋回を見せる。満月がその機体の陰影を照らし、六枚の巨大な前進翼を生やす有機的なシルエットが月面を背景に、彼ら三人の眼前にさらけ出された。

 UAVの追撃をかわしたのだろうか、やがて機体を水平に戻し終えたそれは再び高度を落とすと、超低空からこちら目がけて一直線に向かってきた。


「って、おい、あいつ、こっちに来んのか? ちょっと本気かよッ!?」


 泣き言を叫ぶ余裕も神に祈る猶予もなく、再接触はわずか一瞬の出来事。轟く低周波と高周波ユニゾンが彼らの鼓膜まで届く頃には、超低空飛行で迫るアンノウンの衝撃波が小型バンをルーフすれすれにかすめていった。


「――――――――よけろぉぉぉーーーーーーーーーッッ!!」


 男のうちのどちらがそう叫んだのかはわからない。身を乗り出した大柄な方がステアリングを引っ掴んで強引に右回転させると、運転手役は慌ててブレーキペダルを底まで踏みつけた。どうせ突っ込むのなら、左方のガードレールを割った先の谷底よりも右方の雑木林を選択したのだろう。ロックして悲鳴を上げたタイヤに電子制御が即時介入し、テールを振ったままの車体が不愉快な断続振動を繰り返す。

 制動限界を超え、舗装路の境界を突き抜けて、雑木林に飛び込んだ小型バンは落葉で湿った地面の凹凸に数十回はバウンドし乗員の頭をしこたまぶつけさせ、避けきれず眼前に立ち塞がった樹木の一つに鈍い速度で衝突し、コンマ数ミリ秒で展開されたエアバッグの火薬とガス臭とを車内へと盛大にぶちまけ、暴走した小型バンはようやくその場所に停止した。


            ◆


 意識が揺り戻されるまでに、どれほどの時間を要したのかわからない。断続する電子クラクションのホーン音。酷い有り様になった車内。充満する異臭で思わずむせ返りそうだが、それでも一佐はただ一つ実感する。

 生きている。良かった。指先が何かの粒子でざらついているのがわかる。無事に生き延びられたけれど、でも気持ち悪い、ただひたすらに。

 大柄な方の男は車内の真ん中あたりに巨体を俯せにさせ、フロントガラスに頭部を突っ込ませたままピクリとも動かなくなっていた。ガラスは細かくひび割れているが、後席側から血の痕跡ははっきりと視認できない。運転席側の若い男は、ステアリング上で萎んだエアバッグの成れの果てに顔を埋めた姿勢で、時折朦朧としたうめき声を上げている。

 一佐は脱げた片っ方の靴を履き直すと、とにかく車外に逃れようと後部ドアのノブを引っ張った。ドアロックのレバーも押し引きしてみるが、衝突時の衝撃でドアパネルそのものが歪んでしまったのだろうか、ドアはガタつくのみで開く気配はない。

 もう一つの異変に気づいたのは、後部右ドアからの脱出を諦め別のドアを試そうと思い至った、その瞬間である。

 鳴り止まないクラクションの合間に、異なる音源が混じっていた。足音だ。規則的なそれは、積み重なった落葉と枯れ枝とを踏みならし、こちらにゆっくりとくる。

 そう、その足音は、この緊急時にもかかわらず何ら焦りを見せていなかった。自動車事故の目撃者が負傷者を救助するため慌てて駆けつけるにしては、悠長な足取りだ。

 シャツの下の脇に、冷たい汗が流れ落ちるのを一佐は感じた。先ほどの未確認機体アンノウンから降り立った殺人部隊か何かが、三人のうちの誰かの留めを刺そうというイメージが脳裏に浮かんでしまい、怖くなって思考から押しやる。

 後席の窓越しに、恐る恐る車外の様子を覗き込む。枝葉を揺らす木々。走行中は気がつかなかったが、いつの間にか風が出ていたのだ。月明かりは再び幾層もの薄い雲によって覆い隠され、雑木林の織り成す陰影を不気味に照らし出している。

 光量を損ねた月光はしかし、この場所に存在した四人目の正体をも暴いていた。

 木立の狭間に浮かび上がる人型のシルエット。人型の背丈はそれほど大きくない。細身の肢体をライダースーツに収め、頭にはヘルメットを被っている。暗がりではっきりしないが、おそらくフルフェイスだ。相手の表情どころか顔つきすら読み取ることができない。

 オートバイで偶然通りがかった人が事故を起こした自分たちの元に駆けつけてくれたというよりも、状況的には一佐をさらった男たちの仲間である可能性を強く想起させる。であれば、この機に逃げ出す算段だった一佐は、もはや八方塞がりなのかもしれない。

 走行不能に陥った小型バンの傍まで辿り着いたライダースーツが、不気味に足を止めた。

 そこで、不自然に演出過剰な光景が映し出された。月を覆っていた雲が夜風に流れ、ライダースーツの正体が眼前にさらけ出される。

 はライダースーツでも、フルフェイスでもなかった。どこか別世界から来訪した、異形の何か。の肢体に張りつくような赤黒い素材が、アンノウンの機体と同じ青白の幾何学模様を表層に宿して、複雑な輪郭を描いている。頭部を覆うヘルメットは、いつだったかの古いホラーSF映画に登場した、異星より襲来した狩猟種族めいた威圧的形状で、点在する計器か何かのランプがこちらを捉え明滅を繰り返している。

 エイリアンだ、と思わず一佐は呟いていた。エイリアンは妙に細身で乳房はなく、男性のようだが筋張っているようにも見えない。だが、腕や膝の関節や全身のあちこちを流線型の突起が鎧のごとく覆っており、そいつが敵性存在となる地球人類を狩って殲滅するために送り込まれたのを、暗黙裏に主張している。


「…………う……うわ……」


 恐怖心のあまり、惨めな呻き声が喉から漏れ出てしまった。

 エイリアンは一旦止めた足を再度進め始める。間違いなく自分のことを見たのだ。それでも腰が抜けてしまい、身体が思い通りに動かせない。かといって、今更ドアの影に伏せて身を隠しても手遅れだろう。

 一佐はのびた大柄男をまたいで左後部ドアに飛びつくと、無我夢中でノブを引いた。幾度も、幾度も、幾度も。


「開け、開けっ、開けッッ――――!!」


 数度つっかえた果てに、ようやく開いたドア。それはしかし、恐るべき力で押し戻される。どうやって移動したのか、いつの間にか目の前にエイリアンが立ち塞がっていた。

 みっともない悲鳴を上げてドアにロックをかけ直すと後ずさり、一佐は動揺に震えきった手で大柄男の懐をまさぐる。銃は、銃はどこだ。死にものぐるいで。

 だが、最後に残された反撃の機会を探り当てるよりも早く、蝶番のねじ切られたドアが吹き飛んだ。

 伸びた黒い手に襟首を掴まれると、恐怖に張り上げる悲鳴もなく、一佐の意識はそこで途切れてしまった。

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