Report.6
僕は大きなアパートの一室の前で最終確認を行っていた。部屋の番号は間違っていない。ヘッドホンも忘れてない。一応ファイルと暇つぶし用の紙と筆記用具も持ってきた。腕時計を見ると5時を指していた。遼太郎の仕事が入っていたら困るのでかなり早めに来たつもりだ。陽はまだ出ていないが、肌がベタつく程度には暑かった。あまりじっとしていても得はないので合鍵で鍵を開けた。こんな他愛もない動作すらおどおどしていた頃が今では懐かしく思えた。
僕は扉を勢いよく開けた。心地よい風が足元を通り抜ける。僕はすぐに部屋に入り、鍵をかけた。部屋の扉からは冷気が漏れ出していた。扉をゆっくり開くと、熟睡している遼太郎が目に入った。だが、僕の寝ていた布団は、誰かが寝た痕跡はあるものの、誰もいなかった。部屋を見渡したが、あの弁当のおじさんは見当たらない。
「……あの」
足元で僕に話しかける声が僅かに聞こえた。視線を落とすと目の前におじさんが正座で座っていた。反射的に僕は後ろに距離を取ろうとして、扉に頭をぶつけた。鈍い音が部屋に広がった。ぶつけた箇所を抑えながらおじさんに向き直ると、凄いしかめ面をしていた。思い返せば、おじさんの僕に対する印象は、迎えに来た時といい、今といい、騒がしいの一文字に尽きる。
「随分早いですね」
声を潜めたまま、おじさんは話を切り出した。顔はそのままで。
「少し心配でして」
遅れることは僕の懐に直結するので。
「精が出ますね。では、お願いします」
おじさんはゆっくり立ち上がり、丁寧に一礼してから部屋を後にした。僕は部屋の角に正座をしようとした。ふと、目の前に楽園が広がっているのが目に入った。僕は荷物を置いて、何も考えずに楽園にダイブした。少々ジジ臭いが気にせずにそのまま寝た。
しばらく布団を被って寝ていた。部屋自体が少々肌寒いので、布団を被るとちょうどよく、また心地よいのであった。何かが耳元で囁いてる気がしたが、僕は全く気にならなかった。突如、被っている布団が剥がされた。
「……っっふあぁっ」
情けない叫び声が耳に入った。
「……え?仁志?」
そうだ。寝させろ。
「いつきたの?」
いつでもいいだろ、もう少し寝させてくれ。
「ねえ仁志ぃ〜〜」
だああぁぁぁぁ、もう。
「おはよ」
「え?あ、うん。おはよ……」
僕は剥がされた布団を再び被った。
「……仁志いいぃぃぃぃぃ」
僕の楽園は終わりを告げた。
今日は仕事はないらしい。なので、家で練習をするらしい。素晴らしいと思う。結構なことだと思う。だから楽園を返して欲しいと思う。
「仁志ここ読んでくれる?」
僕は台本のようなものを渡された。それは2人の会話のシーンであった。
「俺がこっちやるから、間違ってたら言ってね」
そう言って遼太郎はムシャムシャと食パンを齧り始めた。休日はめんどくさいので食パンを焼いて適当に食べるそうだ。遼太郎が食事を取っている間に僕は軽く台本を読んでおいた。
遼太郎はコップに残った野菜ジュースを飲み干した。
「っし、やるか」
「ん、はいはい」
遼太郎は軽く咳払いした。
「えっと、俺の最初のセリフ言ってくれる?」
「はいはい」
しばらく練習に付き合っていると、不意にインターホンが鳴った。遼太郎の元に訪れるとすれば仕事関係か家族あたりか。どちらにせよ遼太郎に来客があること自体が僕にとっては驚きだった。遼太郎の方を見ると僕以上に驚いていた。
「変だな……。僕に用がある人なんかいないはずなんだけど……」
そのセリフ言ってて悲しくないのか。遼太郎はモニター越しにドアの前の様子を伺った。すると、遼太郎はピシッと動かなくなった。
「どうした?」
遼太郎はモニターを見たままぽつりと返答した。
「前に付き合っていた……彼女……」
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