40 「新しいことに挑戦するということは、必ず困難にぶつかるものだ」

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 伊河市のサイトは、前のように質素な画面が広がっており、掲示板が一時利用不可になっていた事に対してのお詫び文と、美湯について一時掲載を見合わせる旨の一文が掲載されていた。


 幸一は、いつもの休憩室ではなく、市役所の屋上に来ていた。


 屋上は一般市民には開放されていないが、役所勤めの人たちは立ち入ることが出来る。だが、滅多に人がやってくる所ではなかった。


 幸一は手すりに体を乗っけて、力無く項垂れていた。

 自分の無力さと、周りの理不尽な命令に対して、不甲斐なさを感じていた。


 ふと、自分の携帯を取り出し、ディスプレイに表示された着信履歴を見る。そこには、“伊吹まどか”と表示されていた。

 伊吹から電話が掛かってきたことを示していた。


 美湯が伊河市役所のサイトから非公開になって三日目辺りで、伊吹から連絡があったのだ。もちろん、美湯について。


 幸一は戸惑いつつも、伊吹に今回の一件についてのあらましを伝えたのであった。


   ~~~


『……そうですか。そういうこと…かなと、思っていたんです……。すみません……ご迷惑をお掛けしまして……』


『声のお仕事って、色んなのが有るんです。でも、前に高野さんにお話した通り、アニメやナレーターなどの仕事は中々受かることがないんです。それで役を中々貰えなくなっていたところ、機会があってああいった仕事をすることになったんです』


『だけど……声優としての誇りを持って、一生懸命に声を出して、演じてきました。あの仕事を、徹するのも悪くありません。私の先輩や後輩たちもそういった仕事をしていますから……。』


『だけど、やっぱり。何かが違うと思い始めてきたんです……。声優として、声の仕事に携わる者として、声の仕事はどれも立派だと思います。でも人前で堂々と言えるものでは無いですよね……』


『だから、高野さんから伊河市の……美湯のお仕事を頂いた時に、抵抗はありました。でも、これが自分の、声優としての、最後の仕事ならと……やりたいと決意して……』


『でも、私の声が、高野さんの妹の声に似ていると知った時、胸を突かれる思いでした……。妹さんが、そんな仕事をしていたら、イヤだと思います。でも、私の声は、私の声です……』


『だけど、思ったんです。妹さん……美幸さんの声を聴いた時、美湯の声は、美幸さんの声で演じようと……。伊吹まどかではなく、美幸さんとしての声で。それを胸に秘めて、収録に望みました……』


『だけど……。すみません……高野さん……』


   ~~~


 伊吹が涙混じりの声で、独り言かのように話しているのを、幸一はただ黙って聞いていた。伊吹の言い分も思いも理解出来た。だけど、なんて言葉をかければ良いのか解らなかった。


 伊吹が、その手の仕事をしていると事前に把握していれば、今回の騒動の件は想定できていたかも知れない。それを考慮すれば、伊吹まどかは美湯の声優として選んでいなかった、はずだ。


 だけど―――


 幸一の胸の中で渦巻く、何とも言えない、行き場のない思いをぶちまけるように、両手で手すりを強く叩いた。

 鈍く重い音が響く。


 だが、それだけでは幸一の気は晴れなかった。


「違う……。美湯の声に、伊吹さんを選んだことは間違いじゃないんだ!」


 思いの丈を叫んだ。屋上には、自分しか居ない。

 内に秘めた思いを吐き出した所で、誰にも聴こえてもなければ、伝わりはしない。だけど、言いたかった。

 自分の本音を。


「ええ、私も間違いでは無いと思っています」


 背後からの突然の声に、幸一は心臓が口から出そうなほど慌てふためきつつ、後ろを振り返った。

 そこには――


「い、稲尾市長!?」


 優しい笑みを浮かべ、手を上げて挨拶をする稲尾。そして、すぐに険しい表情になり、幸一に話しかける。


「話しは秘書の松山さんから聞いたよ。私が居ない時に、勝手に物事を進められたもんだね」


「……大変申し訳ありませんでした」


 幸一は市全体に迷惑をかけたことに対して、深々と頭を下げた。


「今回の件に関しては、誰が、何が、悪いなんてないよ。ただ、今回は、ある人達にとっては間違っていたと判断されてしまったかな。ただ声が似ていただけに過ぎないのにね……」


「あ、いや……。それは……」


 幸一は稲尾には真実を述べるべきかと躊躇っていたが、稲尾は話しを続ける。


「まぁ、仮に本人だとしても、そこまで目くじらを立てるほどではない。と、私は思いますけどね」


 稲尾の思いがけない一言に、幸一は稲尾の顔を見つめ「えっ?」と短くも驚きの声をあげた。


「そもそも、何か悪いことをしていたのですか?」


「そ、それは……」


「たかが、エッチなゲームの声をあてていただけ。そんなことで文句を付けられたら、冗談の一つも言えはしない。そんなこと言ったら、昔グラビアアイドルだった芸能人が、公明正大な政治家なんかやっているんですから。しかし、特に今は、そういったことに厳しくなっていますから、やむを得ない、だったかも知れませんが……」


 稲尾は自然と幸一の隣まで近づき、自分も手すりに腕を乗せる。そして、おもむろに呟く。


「非現実青少年法……」


 非現実青少年法――ただしくは『東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案』で登場する、創作された文字・視覚・音声情報で、未成年と認識される創作上の架空のキャラクターを意味する法制上の専門用語である。


 幸一も、それぐらいは耳にしたことはあるが、詳しくは知らなかった。


「先日の遠出(出張)の会議で、その手の話が議題に挙がっていましてね……。他の県も取り入れてはどうかと……。しかし、想像上の生き物に規制をかけるのは、如何なものかと思いますがね。まぁ、そんな感じで少々世知辛くなっているのが、今の世の中ではあります」


「はぁ……」


「ですが、私的には美湯の方向性は悪くないし、初動の盛り上がりもまずまず。いや、市役所の主導で、ここまでの反響があったのは、近年では稀でしょう。それが、些細なことで水を差されては、そっちの方が損失だと思います」


「稲尾市長……」


「ですから、一刻でも早く美湯の公開を再開したいと思っています」


「ほ、本当ですか!?」


「ええ。ただ……。今回、問題になっているのは、なにはともあれ伊吹さんの声だ。もし、一刻でも早く再開をするのであれば、伊吹さんの声を外す、という処置を取ったりしないといけませんが……」


 稲尾の提案は、確かに妥当なものであった。


 美湯のキャラクターイラストには、物言いがあった訳ではない。それにイラストを描いて貰った野原風花は、その手(十八禁に関係する)の仕事をしたことも無く、そういった類のイラストも描いてはなかった。


 そのお陰ではあるが、美湯のイラストについては横槍が入らなかった。だから志郎は言う。


『野原に人気が出なかった要因だよ。苦手だとか言って描かなくてよ。もし、描いていたら、それなりに人気は出ていただろうに……』


 だが、今は志郎の独り言は横に置いて、本題に戻る。


 伊吹の声を使用しなければ、美湯は再開できる可能性は高まる。だが……。


「稲尾市長……。大変申し訳無いのですが……。伊吹さんの声は外せません。これは個人的な我侭なのかも知れませんが、外したくありません。あの声あってこその、美湯だと思うのです」


 幸一の返答に、稲尾は優しい笑みで返す。


「……そう言うと思っていましたよ。私も、あの声を聴いてから、あの美湯に命が宿ったような感じがしましたから。で、確信を持ちました。このプロジェクトは成功する、と。それは、君もそうじゃないのかね?」


 その言葉に幸一の胸にこみ上げてくるものがあり、瞳に涙が浮かぶ。そして無言のまま頷いた。


「新しいことに挑戦するということは、必ず困難にぶつかるものだ。この困難を乗り越えて行こうじゃないか、高野くん!」


 稲尾は幸一の肩を強く叩いた。幸一と同じ気持ちを、稲尾市長が持っていてくれている。それだけで幸一の肩が軽くなり、励まされたようだった。そして幸一は自分が為すべきこと、成し遂げるべきことが明確に見えてきた。


 十八禁ゲームに出演している――


 それがなんだ。それが悪だとしても、美湯は健全なものだ。それとは関係無い。それならば伊吹まどかが、どんな役を演じても関係無い。

 伊吹まどかが、美幸の声に似ているとかも関係無いのだ。必要なのは、美湯の声。それだけなのだ。


 幸一の涙が浮かんだ瞳に魂が宿ったかのように熱い眼差しになり、「はい!」と力強く返事をすると、居てもたっても居られずに、稲尾を残してその場を後にしたのだった。


「走れ、若人。ですね」


 稲尾は優しく細い目で幸一の背を見つつ、ポツリと呟いた。

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