35  “美幸(妹)の声に似ているから”

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「誤字脱字、文章、音、イラストの抜け無し……最終チェック完了です!」


 薫が幸一に報告し、美湯の特設サイトの公開に向けて準備が整った。


「よし。後は、十二時になったら、サーバーの方にファイルをアップすればOKですね?」


 幸一の確認に平岡が頷いた。現在の時刻は、三月一日の午前十一時。あと一時間後には、美湯の特設サイトがアップされ、美湯とホット・スプリングが正式に公開するのであった。


「美湯ちゃんのお披露目もあと少しですか……」


 既に薫は感嘆な気持ちが込みあげていて、瞳に涙が浮かんでいた。これまでの約半年間、美湯の為に奔走した半年間だった。それは幸一もまた、人一倍に胸に来るものがあった。

 深夜アニメで美幸(妹)に似た声を聴いたことが切掛けではあったが、まさかこんな風になるとは思いもしなかった。


 町興しから、声から、そして萌えイラストから、それに関わる人達の現状を知り、新しい命を生み出す苦労と喜びを知った。

 そして、その命が世に出ようとしている。幸一の握りしめた拳は知らずの内に力が入っていた。


「そうだ、高野先輩。伊吹さんとかに連絡しときましょうか?」


「それなら、さっきしておいたよ。もう、パソコンの前で待っているみたいだよ」


「はは、そうなんですか。いやー、伊吹さんの声をサンプルボイスとかで初めて聴いた時はピンっと来なかったけど、美湯の声で改めて聞くと、ピッタリなんですよね。高野先輩、声優ってすごいんですね」


 幸一は笑って頷く。観光課の職員たちにも美湯の声……伊吹まどかの声は好評だった。


 刻々とサイト公開の時間が迫ってくる。もちろん、その間も通常の業務も行なっているが、今日ばかりは手が付かない。公開十分前になると、稲尾が観光課に顔を出してきた。


「やあ、皆さん。どうですかな?」


「これはこれは、稲尾市長。どうしましたか」


 トイレに行く以外は立つことが滅多に無い茂雄が席を立ち、率先して稲尾を迎い入れた。


「私もサイト公開の立ち会いに参加したいと思いましてね」


「そうですか。わざわざご足労ありがとうございます。ほら、飯島くん。稲尾市長の椅子をご用意して……」


「いえいえ、結構です。私は皆さんの邪魔にならないように立っていますから」


 そう言いつつ、隅の方へ移動する途中で幸一の元で足を止め、話しかけてきた。


「高野くん。いよいよですね」


「はい。準備の方は整ってますので、あとは時間になったら、ファイルをアップするだけです」


「そうですか、それは何よりです。おっと、そろそろ時間ですね」


 幸一も時間を確認すると、


「それじゃ、平岡さん。アップと更新の方をお願いします」


 平岡は頷き、慣れた手つきでパソコンを操作しファイルをアップしていく。そして十二時となり、伊河市のホームページが更新されると、トップ画面に美湯が登場したのである。


 幸一は緊張と興奮で手が震えながらもマウスを操作する。特設サイトへのバナーリンクも正常に機能しており、無事公開されたことを確認した。そして、その特設サイトに掲載されている美湯のイラストにカーソルを合わせて、クリックをした。


『初めまして! 私の名前は伊河美湯と言います!』


 美湯の……伊吹まどかの声が、スピーカーから響いた。幸一は安堵の息を大きく吐き、握りしめていた左手でグッと小さくガッツポーズしたのである。


「やりましたね、高野先輩!」


 薫は涙目になり公開されたことを喜び、平岡もまた満足な表情を浮かべていた。

 そして、稲尾が改めて幸一の元へやってくる。


「お疲れ様です。高野くん」


「ありがとうございます」


「伊河市に新しい歴史が刻まれました。このプロジェクトが伊河市にとって希望や未来を生んでくれるものにするために、これからも、これからの君たちの輝きを期待しています」


 その言葉に、幸一たちは力強く「はい!」と返事した。


 役所で働く人達で、市のサイトにマンガのようなキャラクターが掲載されていることに、快く思っていない村井のような人達もいる。

 だが、幸一のような若い世代は、こういった大きな変化に新しい可能性を感じていた。


 稲尾はニッコリと笑い、自分の仕事を片付けるために、その場を後にした。幸一たちも通常業務に戻った。


 すると幸一の胸ポケットの中に入れていた携帯電話機のバイブレーションが作動する。相手は伊吹からであった。トイレに行く振りをして幸一は、いつもの休憩室へと向かった。


「はい、もしもし」


『高野さんですか? 伊吹です』


 伊吹が電話をしてきた理由を、幸一は何となく察していた。


「伊吹さん、サイトの方を見てくれましたか?」


『はい、見ました。なんというか、その、感動しました。私の声が……ああいう所で、本当に、聴こえてきて……』


 涙混じりの声だった。


「……自分で言うのもアレなんですが、とっても良いものが出来たと思います」


『そう言って頂けて、美湯ちゃんの声を務めた冥利に尽きます』


「あとは自分たちが宣伝して、盛り上げて行かないといけませんが……。確信を持って大丈夫だと思いますよ」


『高野さん、本当にありがとうございました……』


 少しい寂しい声であった。だから、改めて幸一は訊く。


「伊吹さん……。やっぱり、声優のお仕事を辞めるつもりなんですか?」


『……ええ。今回、このお仕事をお受けして、サイトを観覧して、自分の声を市役所のサイトで聴いて、決心が出来ました。もう迷いはありません。事務所の方に辞めることを伝えます』


「あ、あの! 自分が、こういうのもアレなんですけど、伊吹さんには声優を続けて欲しいと思っています。もし、美湯の評判が良ければ、新しい台詞とかをまた伊吹さんに言って貰いたいと思っていますし……。それに……」


 “美幸(妹)の声に似ているから”


 その理由を述べようとしたが、まるで美幸の為に生きてくれと言わんばかりである。他者である、伊吹に思いを託すのは勝手な願い。幸一は、その後の発言を堪えた。


『そう言って頂けて……本当にありがとうございます。胸を張れるお仕事が出来た……。この気持ちを抱いたままで、良い思いのままに辞めておきたいんです』


「そうですか……」


 伊吹の心は揺るがないようだ。そのあと幸一たちは、名残惜しくも言葉少なげに電話を終えたのだった。


「仕方ない……」


 どんな世界でも業界でも、去る者は追わず。ただ、美湯の声は伊吹まどかにしか出せない。美湯はもう、伊吹まどかである。代わりはいない。だからなのか、幸一は仕方ないという言葉で済ませたくなかった。


   ~~~


 都心に立ち並ぶ高層ビルが遠くに霞んで見える場所。ここに志郎の職場があった。


 都心からやや離れているものの交通の便が良く、近くに商店街があるため、日頃の食事に困ることは少なかったが、志郎はカップラーメン(とんこつ味)の麺を啜りながら、仕事場の自分のデスクのパソコンで伊河市のサイトを観覧していた。


「本当に公開されているよ……。しかし、自分も少し関わっていたとは言え、地元の市役所のサイトにこんな萌えキャラクターがいるなんて、なんか違和感があるよな。それに、なんか変な笑いが出てしまうな……」


 誤字脱字などがあれば指摘しようと、確認がてら特設サイトを巡回していると、


「あら、シローちゃん。仕事中に、なに見てるの? エロサイト?」


「あ、原始さん。おはよーっす。それと、違いますよ」


 声をかけてきたのは渋い感じの男性――名前は長原始。

 その名前を略して“原始”と周りからは呼ばれ、アニメ監督を務めている人でもあった。


「ちょっと故郷の市役所に勤めている知り合いと携わったモノが、今日公開されたんで、それを見ているんですよ」


「携わった?」


 原始は志郎のパソコンを覗きこみ、美湯のイラストを目視する。


「なになに、このキャラクターは? へー、良いデザインじゃん。今度の次回作とかのキャラクターにしたいぐらいだ」


「伊河市の……まぁ、自分の地元なんですけど、その市のマスコットキャラクターみたいなもんですよ」


「へ~、ほ~。ああ、なるぼど。この市の観光地について説明などをするのか……お、声入りか。これは珍しいな」


「でしょう」と、志郎は思わず得意げな(ドヤ)顔を浮かべるも、原始はそれを無視して操作を続け、美湯の音声をスタートさせる。


「……ほー。しかも、キャラと声が合っているな……。誰だ、この声優さんは? 何処かで聴いたことがあるような、ないような~」


「伊吹まどか、という声優ですよ。ご存知ですか?」


「う~ん。聞いたことが有るような、無いような~。何のアニメに出ていた?」


「ドリーミー☆マスターで、ちょい役で出ていましたね。メインを張った作品はまだありませんけど……」


「アニメは知ってるが……う~ん。記憶に無いな」


「だったら、アレです。“クリアレス・マーメイド”というゲームを知っていますか?」


「ああ、知ってるぞ! 人魚姫を題材にしたアレだよな」


「流石は原始さん。そっちの方面も詳しかったですよね」


「まぁな。どんなに忙しくても、一ヶ月に一本は必ずやっているからな」


「で、それの美原美希のキャラの声の人でもあるんですよ」


 原始は「ああ!」 と、芝居がかったように手をポンっと叩く仕草をした。


「通りで、聞き覚えがあったのか」


 聴き覚えがある理由が判明して、原始は頭の中のモヤモヤが晴れて上機嫌になる。


「へー、こういう仕事もやっていたのか。なに、シロ―ちゃんの紹介?」


「いえ、声優の選考に関しては、一切口は出してはいませんよ。ただ、キャラクターに声をあてるのなら、絶対にプロを雇えってのを言ったぐらいです」


「なるほど……。役所がこういう事をやるんだ。ほー……。しかし、温泉か……温泉……。イケるな……。もし掘って温泉が出たら……」


 ブツブツと独り言を呟きだす原始。


「そういえば、原始さん。今日は何しに会社に?」


「今、オレが監督を務めているヤツで、そろそろテコ入れ回をしないといけなくなってね。で、八話のアイディア出し会議」


「テコ入れ……エロ回ですか」


 アニメ業界でテコ入れと言えば、所謂水着や入浴といったお色気シーンを入れた回のことである。


 本来、人気や注目度アップを狙う措置ではあるが、そういったシーンを必ず入れるということが、最早お決まりになっている。テコ入れという名のエロ回ということである。


「ザッツライト! さっきまで、水着だ! 海だ! いや、ふんどしだ! と、話し合っていた訳なんだけどな」


「イイですね。楽しそうで……。って言うか、今頃八話って、締め切りがヤバイじゃないですか!?」


「いや~盛り上がりが悪いらしくてね。上から、もっとお色気を入れろと、お達しがきてね」


「えっと……今が、一日だから……」


 志郎はカレンダーで進行日程……八話の放送日を確認し逆算すると、背中にイヤな冷たい汗が滴る。正味な話、この時点で八話の絵コンテが出来上がっていないといけない日程である。


「だ、大丈夫なんですか?」


「大丈夫じゃないよ。でも、それをなんとかするのがプロってもんだ。で、この美湯っていうキャラを見ていたら、良いアイディアを思いついたわ。伊河市って、温泉で有名な所だよね?」


「そ、それなりには……」


「だったらさぁ、地面を掘ったら温泉とかが湧いたりする場所とかない?」


「うーん。確か、そんな場所が有ったような気がしますね」


「よしっ! 決まった! シローちゃん。ヒマだったら、伊河市の資料をまとめておいてくれない。至急で!」


「えっ!?」


「それじゃ、よろしんこ~」


 チープなギャグを言い放ち、原始はそそくさと去っていた。


「おれ……この後、動き確認があるんですけど……」


 志郎は溜め息を吐き、渋々と原始に言われた通りに資料をまとめることにした。作業をしつつ再び、美湯のページを見る。


「さてと。あとは、これが良い方向に盛り上がってくれれば……」

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