第11話 「死ぬかもしれない」
積荷の補給を終えた軍用貨物は北岸市に架かる橋に向かってゆっくりと滑り出した。
山間の東山線のディーゼルよりもずっと力のある機関車のようだ、二階建ての兵員車輌はちょうど家畜を運ぶ柵のついた貨車のような格好をしており、二階には屋根がなくオープンエアになっている。車輌両脇に並んだクッション材のない木の堅いベンチに座ると機関の脈動が腹に響いてくる。
僕はなるべく目立たないように端の方に座っていたのだが、おもむろにさっきの小デブメガネが近寄ってきた。そして横柄な態度で僕の前に立つ。
「おい、貴様、見ん顔じゃがどっから来んさった?」
なんだこの人のこの喋りは、どこかの方言だろうか、でもどこか不自然極まりない。口調から僕を咎めに来たのではない事はわかるが、できるだけ目を合わせないようにして小声で答えた。
「なんね、そんなこって敵に勝てると思うとるか? もっと腹から声だしんしゃい!」
周囲の兵士も、見たところ皆顔見知りというわけではなさそうだ。それぞれ景色を見たり、タバコを吸ったり、音楽を聴いたりしている。皆歳の頃は二十歳前後くらいか。戦闘服を着ていなければ普通の若者に見える。
行きに国道で見たトラックの兵士のような堅苦しい礼儀や規律らしいものもなく、映画やテレビの画面の中で見るような軍人特有の張り詰めた緊張感も感じない。有り体に言えば愚連隊と呼ぶにふさわしい光景だ。それに、この僕に寄り添ってくるこの人だけは特に異質だ。
「貴様の官給服はなんね? 正規のものとちがうじゃろ? これは防衛隊時代のものじゃなかか?」
まずい、そりゃ見抜かれて当然だな。なにかいい言い訳はないものかと周囲を見渡したが、どうも、みんなも微妙に違いはあるようだ。
小デブがなんかぶつぶつ言ってる、所属がどうとか部隊がどうとか……オタクだ、こいつ。年のころ三十、いや三十五は越えているように見えるし、この態度からしてどうもここいらの連中よりかは上官らしい。
「貴様、大野戸島にいたと?」
「は?」
「わしもそうじゃ、南部方面隊 第二教育団 第二百十九教育大隊 第四百五十三共通教育中隊から 貴様と同じ第三師団九百二十九普通科連隊 第三中隊 第三十二小銃小隊じゃから、大野戸島教練じゃろ? なんね、わしの後輩かね!」
「ああ、そう、みたいっす……ぅ」
「にしては随分官給服がくたびれとるね? 若いのに」
「あーえー……自分、訓練……では転んでばかりいましたもので……」
僕はなんとなく戦争映画やテレビで見た口調を真似てみた、これでいいのかな? 訓練でいいのかな、演習っていうんだっけ。僕の斜め向かいに座る長髪の青年がちらりとこちらを見る。ち、違ってるかな、何か間違ってるかな?
「かぁーっかっかっ! ドジじゃのう、そんことじゃすぐに撃ち殺されてしまうばい、きいつけよぉ」
「あ、はい、ですよね。気をつけます」
どう考えても僕のほうがこの小デブより逃げ足は速いと思う。何でもいいから、はやくどっかいってくれないだろうか、こいつがいると僕が目立って仕方がない。
「貴様、若いのに予備役かぁ、わしは 第三師団九百二十九普通科連隊 第三中(省略)で陸曹で退役して予備陸曹やっとった」
陸曹? よくいう軍曹って奴だろうか? どうりでコイツだけ歳食ってると思った。ってことはこの愚連隊の頭がコイツかな。この部隊は全滅するな、それか離散だ。
「よかよか、本体と合流したら装備一式支給されるからな、ここにおるもんは皆予備役上がりじゃ、きんせんでええ」
そう言って小デブメガネの軍曹様は意気揚々と僕の元から去って行った。ともあれ、なんかうまくごまかせたみたいだ。これで安心して北岸市までゆける。皮肉なもんだ、雄輝さんがくれたこの服が僕を北岸市に運ぶことになるとは。
兵員貨車の柵から身を乗り出して進む先を見た。朝焼けの中、砲台や戦車を引っさげた軍用貨物はそれそのものが要塞のように、物々しい体躯をひねらせながらカーブをまがってゆく。
昨日の夕方の僕はのどかな山間を走るローカル線で転寝をしていた。それが今はハッタリの軍服を着て軍用貨物に乗り戦地へ向かっている。
可笑しかった、なにもかもが。声を上げて笑うわけにはいかなかったが、大声で叫びたい気分だった。
周囲の景色が開けて橋が見えた、あの向こうが北岸市、強固な鉄橋を轟音を上げて走り抜ける。朝日はまじないをかけるかのように鉄橋を斜め四十五度からトラス状の影を幾重にも僕らに降らした。
風が瞳の中にどんどん入ってくる。一睡もしていないせいか冷えた空気が目にしみて涙が自然と湧いてくる。それを拭う右手の甲が眉の絆創膏に触れる。
恵美さん、ごめん。さっそく僕は言いつけを守らなかった。二人よりも僕は先に戦地に入ることになるだろう。
もし僕が向こうで、彼らに見つかって捕まるならそれでもいいと思った。ずうずうしいけど、できるなら僕の両親に伝えて欲しい。一つを除いて全てを話した彼らに、今何故僕がここにいるのかということを。そして僕にだってやるべき事があるんだってこと、大したことじゃなくても、人から見ればどうでもいいことだと言われても、僕はやっている、出来る、やった、やろうとしたんだってこと。
「貴様、何ニヤニヤしとる?」
またあんたか、ひまなんか貴様? 何で僕に付きまとうんだ。もしかして僕以外誰もこいつの事相手にしていないとか……そう思ったが、気を取り直して再び僕は映画で見た軍隊口調を真似て、小デブ軍曹様に応える事にした。
「いえ、なんでもありません」
「実戦ははじめてじゃろ?」
「そうでありますね」
「わしもはじめてじゃ」
「そうでありますか」
「ここにいるもんも、国軍全体を見ても誰一人として実戦経験した奴なんぞおらん」
「そうでありますか」
「戦争はむごいもんじゃぁ、怖いじゃろう。わしはこの国を守るために志願して防衛隊に入り再びこうして国防軍として参戦できることを誇りにおもっちょる。陛下の御許で戦い散るならばそれ以上なんもいらん、玉砕も覚悟の上じゃあ」
「そうで……それは……いやですね」
この後、僕は小デブメガネの二オクターブ上の音域で軍隊調に檄を飛ばされ、延々皇民意識と栄えある旧国軍の功績と戦陣訓とやらを一通り聞かされたあと、皇居の方角に向かって腕立て伏せを百回やらされた。走っている列車の上だぞ? 意味がわからない。周りの兵員はそんな僕を見て気の毒な顔をしながら他人のフリをした。その気持ちは解るから恨まないでおく。
「オイオイ、大丈夫かぁ」
腕立て伏せなんてせいぜい二十回までだろう、中学生相手に無茶させるなよ。小デブメガネは七十回でへばった僕の体たらくに満足して立ち去った。
バテて床に突っ伏す僕に声をかけてきたのは丸刈りの二十代前半くらいの若者、髪は金髪で耳にピアスをしている。ナンパな風貌だが端正な顔立ちと、その中心を支配する目は深く黒く輝いていて、鍛えられた体躯をかがめて僕の顔を覗き込んだ。
「お前、後藤っていうのか?」
「え? 後藤?」
「ほら、ここに名前書いているだろ? 袖のところ」
後藤……後藤、そうだ雄輝さんだ、これは雄輝さんにもらったんだ。
「ああ、そ、そう後藤です」
「ちっ、やっぱりな。大方どっかで拾ったか、軍物のアウトレットで買ったんだろ、それ。こんなところで何やってんだよ?」
青年は小声で僕にそういった。ばれた? いや、ひっかけじゃないか、名前なんかどこにも書いていない。くそっ、一日のうちに二度も同じ手に引っ掛かった、馬鹿だ。
僕は観念してベンチに戻り深くため息をついた。青年は僕の隣に腰を下ろしてタバコに火をつけた。どうやら僕をすぐにとがめようという気はないらしい。
「そりゃわかるぜ、君は若すぎる、とてもじゃないが兵士の教育を受けているようには見えない。高校生か?」
「いえ、中学……です」
「はあっ? 中坊がなんでこんなトコに潜り込んでるんだよ? あのオッサンは騙せても、本隊じゃすぐ見抜かれる」
「はい、すみません」
「でも駅にいるときから見てたけど、軍物マニアって訳じゃなさそうだし。北岸市に行くのか?」
「いえ、もっと先、樫尾町です」
「なに? なんだってそんなところに行くんだ、死にたいのか?」
「友達がいるんです、止めても無駄ですよ、もう後戻りだって出来ないんですから。もう足止め食らうのはうんざりしてるんだ。いい加減……」僕はそういいかけて思考が引っ掛かった。
「あの、死にたいのかって、どういうことですか?」
青年はちらりと周囲を見やると口端を歪めて大げさに手ぶりを添えてこういった。
「樫尾町は今一番ホットな戦場だ、あんなとこ自分から行きたいなんていうヤツは自殺志願者か殺人鬼かジャーナリストくらいのもんだ。俺たち予備役招集組はそこへ投入されるために呼ばれてんだよ、はっ、笑うよな、捨て駒だぜ?」
「やっぱり、そうなんですね、樫尾町は」僕が声を落として静かに言った時には彼はもう真剣な顔をしていた。
「お前は、何をしている、何を知っているんだ」
「友達が、いるんだ」
彼の黒い瞳を凝視した。吸い込まれそうだ。彼も僕をにらみつけた。肩の筋肉が張り詰めて、奥歯に力が入った。
昨日の昼から今までのことを瞬時に思い返していた、南洋の町で平々凡々と受験生であり塾の夏期講習に追われる毎日を過ごしてきた僕が、両親を近所の爺さんを山内を、列車の中でであった老婦人をバスで同席した皆川を、横断歩道で話した青年を輸送トラックから敬礼をくれた国防軍兵士を、盗んだ自転車を、田舎の祖父を、二人の警察官を、峠でスクラップにしたバイクを、雄輝さんと恵美さんを。
その時々において僕はそこから前に進もうと、悩みながら選択し、振りきってきた。もう、今更立ち止まり踵を返すことなんてありえなかった。
「ちっ、わかったよ、とりあえずここの皆には説明しておくぜ、いいな? 到着はあと三十分そこそこだ、駅に着いたらすぐ俺たちから離れろ」
青年のやけにあっけないその反応はやや拍子抜けだった。つるし上げられて放り出されるのではないかと内心焦っていたから。
「すみません、ありがとうございます」
「俺に礼なんていうな、俺より若い兵士でもない奴が、死ぬかもしれないところに行く事を黙認してるんだ。それがてめぇで決めたどうしようもないことだからこそ、余計に腸が煮えくり返る思いだけどな!」
青年は半ば投げやりな口調で僕に言い放ち、階下に降りた小デブの隊長が来ないことを確認して、愚連隊に簡単にあらましを説明して回ってくれた。
それを聞いた愚連隊の方々から「ひゅー、恋人でもいるのかよ?」「うひょーかっこええ、映画みたい」「いいねぇ若いってのは」感心したような口笛とか、がさつな笑顔とか、なんだか照れるようなものをたくさん向けられた。
あんたたちは本当に愚連隊だ。恋人を助けにゆく、まあ、そういうことでもいいか。ここはこれで乗り切れたらいい。
彼らは予備役という立場上嫌でも召集される半官半民の軍人だ、その点では雄輝さんと立場は同じなんだろうけど、彼は僕を行かせまいとして強引に戦地の外に降ろした。そして雄輝さんや恵美さんのような冷静な分析や議論もここにはなく、やっつけ仕事のような、日雇い労働に向かうかのような雰囲気すらある。
偉いトップが決めたことに従うことを過去に一時でも約束したが為に、本来ならば家族や生活や仕事もあるだろうに。それらを投げて命の駆け引きを行わなければならない戦場へ向かうことになるとは、これまでの平和な時代からは想像もしなかっただろう。
貨車に積まれる兵装はカーキ色を基調とした一般仕様、市街地戦用のカモフラージュ塗装は施されていない、急揃えで近くの基地から積み込んだ為だと、先ほど小デブメガネとのやり取りの中で僕をにらんできた長髪の青年から説明された。
その青年もまた普段はクラブバーでホストをやっているのだそうだ。ホストってなんだか知らないけどウェイターみたいなものだろうか、お洒落な雰囲気が感じられる。街でもし彼とすれ違っても、きっと銃を構える姿なんて想像できなかっただろう。
他にも、会社づとめのサラリーマン、植木屋をやっている、自動車整備をやっている、長距離トラックの運転手、美容師、看護師まで、多種多様な職業に就いている人が一様に軍服に身を包んでいる。皆普通の人なのだ、僕らの親や少し年上の先輩なんかと同じように普通の生活をしていた人たちばかりだ。そう、あの老婦人の旦那さんだって反物屋の青年だった。
「なあ、訊いてもいいか? 気を悪くしないでくれ」ホストの長髪の青年は遠慮がちに僕に言う。
「なんでそこまでして、誰かから命令を受けているわけでもないのに、危険を冒すんだ?」
「なんでって、友達がいるから、それで……じゃ理由になりませんか?」
「いや、それは立派だけど、否定することも出来ないんだけど、なんつーか、俺的には立派すぎるっつーか、カッコよすぎる感じ?」最初たどたどしかった青年の口調は徐々に崩れてゆき堰を切ったように話し始めた。
「俺はさ、あんま人のことなんて心配しないほうなんだ、普段からさ。それをわざわざ安全な南岸にいる、マスコミでもないただの中学生の君が友達を探しに戦場まで出張るなんて俺にはちょっと理解できないんだ」
それはそうだろう、彼の言うことはもっともだ。僕だって最初から今と同じような気持でいたわけじゃない、けど今更それを順を追って話すには煩雑すぎて気が萎える。
「そうですね、おかしいと思います、僕も」
「ま、とは言えど、俺も今は言いつけ守って律儀に国防軍に復帰して、命かけて国を守ろうってんだからお人よしには違いないのかもしんねーけどな」そう言って彼は笑った。
「でも、それもかっこいいことだと思います」嘘じゃない、僕は本気でそう言った。
「そ、そうかな? 俺、かっこいいか?」髪を掻き揚げてはにかむ。そうだよ、あなたたちはみんな、みんなかっこいいよ、逃げずにここへ来たんだから。
それにしても、まあ呑気な集団だ。こんな光景って確かに戦争映画で見たことはある。今から死ぬかもしれないというのに。ふさぎ込んで床をじっと見つめている者もいたが、ほとんど皆べちゃべちゃといらない話ばかりで、兵員車輌は冗談と猥談とこれから自分が記すであろう武勇伝ばかりが飛び交っていた。
僕に最初に声をかけてきた金髪の青年の名は島田薫という。現国防軍の前身、防衛隊を退役後、俳優業を単発的にこなしながらのフリーターだという。
「ああ、実感なんてないね、今でも映画のエキストラになってる気分だ。去年公開された『生還』っていう戦争映画知ってるか? おれ、最初のワンカットで撃たれて死ぬ役だったんだ」島田は笑いながら話した。
「その映画の中で生還できる奴は一流の俳優だけなんだ、皮肉だろ? でもな、俺はこの戦争では生還するつもりだ、死ぬつもりなんかない。ここにいる皆だって死ぬことなんか考えちゃいない、死ぬかもしれないってだけだ」
彼のリズムのいい口調に思わず僕はインタビュアーのように軽口を叩いてしまった。
「あの、戦争はこわいですか? 皆そんな風には見えないんですけど」
「さあ、どうだろう。演習なんかの模擬戦闘は経験して、ある程度のリズムやスリルみたいなものは感じているけど、実際の戦闘じゃ『島田兵長死亡!』なんて言って首から札下げて悠長なことで済まないんだからな。死んだら終わり。それが怖いといえば怖い、死んだ事がないからな、初めてのことは誰だってビビる。ドーテーがいざ本番でおっ立たなくなるのと一緒さ」
「そんなもんなんですか」
「ああ、そんなもん、そんなもん! 早く終わらして帰りてぇよ。できれば交戦もなけりゃそれでいい、自分が見てない間にどっかで戦闘にけりがついていればいい、土嚢袋に砂詰めて遠くで爆音聞いてるのが俺らにはお似合いさ、途中でケツ割った半端もん、皮もむけ切ってないドーテーの集まりだよ」
彼はタバコに火をつけ、大きく息を吸った。そして吐いた。
僕はその自嘲的に吐き捨てた彼のセリフに笑うしかなかった、面白かったわけじゃない。合わせるしかなかったんだ。
しばしの沈黙が二人の間に流れる。手持ち無沙汰になんとなく、僕は自分の携帯電話を取り出して開いた、ディスプレイには何も映らなかった。電池切れ? いや、まさか故障? 今は判断できない、そういえば山鍋市から最後に開いたのは雄輝さんの車の中だけ。その後は取り出して確認するような暇もなかった。
「それにしても、ずいぶん簡単に許してくれたんですね、僕のこと」
「別に許してなんかいねぇよ、黙認って言わなかったか? お前の言うとおりさ、後戻りなんか出来ねぇ、貨車を止めてお前を放り出す訳にもいかねぇ、この貨車が途中で一時停止することのリスクを考えればお前のことなんて大したことじゃないって判断しただけだ」島田は明らかに僕から目をそらして言い捨てた。
「冷たいか? そうだろうよ、死にたくなけりゃ駅についてもそこでじっとしているこった。まして樫尾町に行くなんて考えるべきじゃない。北岸市の現地部隊が手一杯で部隊を展開する事が出来ないんだ、丸腰のお前一人がどうがんばろうと先に進むことすら出来ねぇよ。んなこったから俺たちみたいな愚連隊をわざわざ寄せ集めても樫尾町に送り込まなきゃならねぇのさ」
「えっ?」予想外の彼の言葉に、僕は思わず口から漏らしてしまった。
「そうさ、北岸市は既に交戦状態だ、駅に着いたらお前に構っている暇なんてない、いきなり機銃掃射のお出迎えかも知れねぇ、こん中でどいつとどいつがその弾に当るのかさえ考えている暇なんてないんだ。それにそんなこと今から考えたくもねぇ、みんな最後の時間を堪能してるのさ、音楽聞いて今を忘れたけりゃそれでもいい、タバコを吸って少しでも落ち着くならそれでもいい、携帯電話で直前まで彼女と話すのでもいい、本隊に合流したら全て没収、戦争が終わるまでチェスの駒として上の命令に従って動くのみさ。人間としての最後の三十分間だ、ここにいる者は生き残れても今と同じ気持ちのまま悠々と自宅に戻れないことは解っている。お前以外はな」
気がつくと車輌の皆が黙って語気を強める島田の話に耳を傾けていた。陽光が刺し、オープンエアの兵員貨車の床を輝かせ始めた。僕は目を細めてその床を見続けた。光の中に埋もれて行くような感覚に陥る。車輌全体がシンと静まり返り、誰もが誰かの次の言葉を待っていた。
そこでお調子者のコメディアン志望の、小柄で目鼻立ちがしっかりした男が笑いながら言う。
「ははっ、まあ今はぱあっとナンボでも好きな事してたらええけど、死体になっても六文銭は必要なんや、生きて帰るつもりがある奴は電車賃くらい懐に隠しとかなあかんで、国防軍の奴らネコババしよるかもしれんからな!」
乾いた笑いがそこここから沸く。昨日の朝刊の見出しを思い出した“国防軍予算不正流用発覚”それで僕もほくそ笑む。
呑気に見えていた彼らの言動やしぐさの中で完全に安心しきっていた。僕は戦争をなめているんだ。戦火の中をくぐり抜けることをまるでゲームのように考えていた。
そこには敵もいて、人死にもある、無差別な爆撃もあれば掃射もある、いつ自分が名も知らぬ敵兵士に、見分けもつかぬ肉片にされるかすら解らない。あるいは血しぶきをあげてもだえ苦しみながら土に埋もれるかもしれない。自分は死なないなんて自信の根拠はどこにもない。僕も死ぬかもしれない、何故今までそんな単純なことに気づかなかったのだろう。
無邪気な英雄譚だっただろうか、何か自分に出来る事がしたくて、机に向かって受験勉強している自分が認められなくて、自分がやれば出来ることを証明したくて。
稚拙な自尊心だった。彼女を助けられると、何の根拠もないまま飛び出した。周りが制止するのをことごとく拒否した。何度も何度も立ち止まり振り返り引き返すチャンスはあった。
確実に前に進んでゆくことに一種のカタルシスを感じ、大冒険を経て再び町へ、両親のいる自宅に帰り着く自分というものにロマンを感じ、理由付けていた。
僕の膝が震えだしていた。
向い側のベンチに座る島田青年は神経質に眉間にしわを寄せ、目を閉じてタバコを吸っていた。彼の片方の掌は自身の震える膝頭を懸命につかんでいた。
日が昇り、車輌は橋を渡り北岸市へと滑り込む、戦争が起こっていると知らなければ北岸市はまだ目覚めを迎えて間もない青白い空気に包まれた灰色の街にしか見えない。
マンションの窓際に歯を磨くパジャマ姿がいたって、犬を連れて散歩する老人の姿やコンビニ店の前を掃き掃除する眠そうな店員がその景色に紛れ込んでいたって、不思議じゃない。そのくらい、普通の静寂がこの街を支配している。
ただその中で、今かすかに、確かに、爆音のようなものが僕の耳に届いた。
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