第二十七話:燃え尽きる命のすがたを

 流狼はアルカシードの座っている砂山から、少し離れた場所に転移した。

 砂山から伸びる、干からびた魔獣の死骸は随分遠くまで伸びており、その先にはとてつもない長さの鋼の槍が地面に突き立っていた。

 風が焦げた空気を運んでくる。懐かしい海産物の焼けた匂いだ。

 この大陸では、不用意に沖に出ると魔獣に襲われるためか、海産物を食べる文化があまり発達していない。

 トラヴィートやグロウィリアの内海――ベルフォースが地面を撃って作ったというやつだ――では漁が行われているというから、いつかは海産物を口にする機会があるといいのだが。


「ぬう、腹が減ったな」

『緊張感がないよ、マスター』


 呆れ声を上げたのはアルだ。同時に感じる肩への重み。

 とは言え、これ程の激戦を交わした後だ。少しばかり緊張感が抜けるのも仕方ないだろう。

 視線を向こうにやれば、トラヴィート王国の機兵たちがル・マナーハにぞろぞろと近づくところだった。


「武人の最期、か」

『マスター、分かっていたのかい?』

「お前とレフ王の会話を聞けば、嫌でも分かるさ。どうなるんだ?」

『ゼクスターツ鉱は、魔術を発動するとその魔術に応じた感応波を使い手に提供する。今回のレフの魔術は砂に関わるものだからね』


 と、見上げるほどの砂の巨体から、ル・マナーハが押し出されてきた。ゼクスターツ鉱は中に埋まっているようだ。


『凝魔鉱が砂の中に埋まっている。王機兵の精霊殿曰く、触れるのも害がある毒であるそうだ。取扱いは精霊殿達に任せるように』


 ル・マナーハからレフの言葉が聞こえてくる。

 機体自体に損傷はないように見えるが、レフの声は先程と比べても随分とか細い。


「アル。レフ王の姿は拾えるか?」

『ん。衝撃的な姿かもしれないよ』

「構わない」


 流狼の眼前に、ル・マナーハの操縦席と思しき空間が映し出された。

 そこには穏やかな笑顔のレフの姿。ただし、顔の中央にヒビが入り、口を動かすたびに顔から少しずつ何かが剥がれ落ちていく。


「す、な……になっているのか」

『うん。機体もだいぶ浸食が進んでいるね。機兵の方も修理のしようがないな。もう動かないよ』

「そうか」


 強すぎる魔術の代償を見た気がして、流狼の背中に怖気が走る。

 引きつった表情でアルの方を見れば、アルもまたこちらを見ていた。


「アルカシードもゼクスターツ鉱の恩恵を受けている、と言っていたな」

『マスターの懸念は分かるよ。これを見て欲しい』


 次に映し出されたのは、王機兵の図解だ。

 おそらく高度に秘匿されるべき情報なのだろうが、王機兵の乗り手は知る権利があるという事か。 


『王機兵はその素体の中に、液化したゼクスターツを流動させていてね。そうする事で効率的に感応波をエネルギー変換して、周囲の感応波を吸収する事でエネルギーを充填している。鉱石から直接感応波を取り出すのと比べて極めて安定しているし、乗り手にも汚染の兆候はなかった。でも、異空間に操縦席を作って接続する事で、より確実にゼクスターツによる汚染の危険性を排除しているんだ』

「まるで人間の血液みたいだな」

『そうだね。その姿に近いかも』


 アルの言葉に安心し、視線をル・マナーハに戻す。

 レフの言葉は続いていた。


『私の命は尽きるだろう。だが、私の魂は砂となり、このトラヴィートの大地を見守り続ける。陛下、トラヴィート王国を』

『分かっています、父上。もしもほかに生き抜く道がなければ、エネスレイクの属国となる道を選ぶと』

『本当に、私は良い息子に恵まれました。レイアルフ』

『はい、父上!』

『そなたは私の激情を何よりも強く継いだ。しかしそなたは思慮も、王としての器も陛下に及ばぬ』

『此度、思い知りました』

『ならば良い。陛下を臣として支え続けよ。さあ、皆。離れるのだ』


 言葉に従い、機兵や歩兵達が離れていく。

 ル・マナーハが最後の役割を果たした。操縦席の扉が音を立てて開く。

 差し込む光に目を細め。


『ああ、リリアーレ……イーシャ……!』


 トラヴィート王国前国王、レフ・トラヴィートは風に乗ってトラヴィートの空に消えた。






 エネスレイク軍が戦場だったガルゴッソ平原に到着したのは、魔獣の討伐が終わってしばらく経ってからの事だった。

 王機兵の乗り手二人と、獣王機の乗り手の連れは動けなくなったケオストスと共に最上位の客人として王城に招かれたらしい。

 オルギオとサイアーは連れ立って、惨状と化した平原を機兵で進む。


『ひどいな』

「元々ケオストス様とレイアルフ殿とで戦っておられたからな。この辺りはまだ魔獣による被害じゃないぞ、サイアー」

『そうなのか』

「ああ。この辺りは明らかに魔術で焼かれているな。ふうむ」


 オルギオは散乱している機兵の様子に、小さく唸り声を上げた。

 倒れている機兵の残骸に、不自然なものがあったからだ。


「これもそうだな。あとはレイアルフ殿から話を聞いた方が良いか」


 拾い上げて、連れている騎士に渡す。 

 と、西から歩いて来る機兵がこちらを見て左手を挙げてきた。


『オルギオ殿! オルギオ殿ではないか』

「れ、レイアルフ殿!?」


 オルギオは驚いて身構える。

 内戦に敗れた筈のレイアルフが騎士達を引き連れ、機兵を駆っているのだ。

 その様子に気付いたのか、レイアルフは広域通信ではなくオルギオに個別に通信を繋いできた。


『済まないな、オルギオ殿。気を遣わせる』

「後ろの騎士達は貴殿の配下か?」

『いや、兄上から預かった者達だ。今は代理で対応をしている形になる』


 寂しげな笑みを浮かべるレイアルフに、内心で更に驚きながらもオルギオはそれを表情には出さないように努めた。

 オルギオの知る彼は豪快に笑い豪快に泣く、そんな表情を浮かべるような人物ではなかったからだ。


「ケオストス様はどうされた?」

『城にお戻りいただいた。魔術の酷使で体が参っておられる、王機兵の乗り手殿にも同道いただいたから心配はないと思うが』

「そうか……」


 どうやら、彼の処遇はトラヴィートの国内で決着がついているようだ。これ以上を追求するのはこの場では無理だと判断したオルギオは、ひとまずケオストスの名代であるレイアルフに敬礼を示した。

 通信を広域に戻し、周囲にも伝える。


「ならば、改めまして。オルギオ・ザッファ率いるエネスレイク王国軍、遅ればせながら貴国への援軍として参りました」

『感謝します、オルギオ将軍。先発していただいた王機兵の乗り手殿によって、我が国の民はその多くが命を長らえる事ができました』

「そうでしたか。では戦後処理の方は我々がお力添えしましょう」

『ありがとう。どちらかと言うと、魔獣よりもその前の内戦での被害ですが』

「では、うちの騎士達を預けます。良いように使ってください。サイアー、お前は残ってくれ」

『はい』


 苦い表情を浮かべるレイアルフには構わず、サイアー以外の騎士達をレイアルフに預ける旨を伝える。

 再び通信をレイアルフだけに絞り、オルギオは少し重い調子で口を開いた。


「ところで、レイアルフ殿。帝国が内戦に介入していたと噂があったが」

『む……。少し待ってくれ』


 オルギオの問いに、レイアルフは素早く騎士達に指示を出して動き出すのを待ってから、こちらの通信に応えてきた。


『ああ、その通りだ。私の陣営に勝ってほしいと言ってきてな』

「ならば、帝国の機兵を?」


 帝国の機兵研究機関は非常に発達しており、現行の機兵の二世代・三世代先を行く機兵が大量に配備されている。

 レイアルフがケオストスの代理という事は、内戦はケオストスの勝利で終わったのだろう。その割には、帝国の機兵が見当たらない。


『ああ。わざわざ外装をヴィエゼ級のものに偽装してな。どうやら連中、帝国が内戦に介入した事実を残したくなかったようだ』

「それはそうだろうな。ああ、そういう事か」


 オルギオはようやく納得し、サイアー機が曳いている大型の台車に目を向けた。


「レイアルフ殿。うちの斥候が逃亡機兵を処断したのだが」

『逃亡機兵とは穏やかではないな。トラヴィートの機兵が大型魔獣を前に逃亡するとは思いたくないが』

「それがだな、ヴィエゼ級の機兵の駆動部のみを狙ったのだが、どういう訳か操縦席を直撃したというのだ。失敗したのだろうと思っていたが、もしかすると帝国の騎士が逃げていたのかもしれんな」

『なに? 面通しをしたいのだが』

「この男だ」


 サイアーが手違いで討ってしまった男の顔は、ノルレスの記憶領域に登録してあったので、そのままケオストスに送る。


『ダミア! 居なくなっていたと思ったら、逃げを打っていたのか!』

「知っている男か?」

『帝国のトラヴィート方面軍の司令官だった男だ。内戦時に私に擦り寄ってきたのはこいつでな』

「司令官だった男を、よく迎え入れたものだ」

『まあ、色々あってね。それにしても解せん』

「何がだ?」

『大型魔獣は確かに脅威だったが、大襲来での逃亡は即時処刑も許されている重罪だ。帝国に戻ってもどうせ殺されると言って近づいてきたのだ、逃げる理由が』


 レイアルフが首を傾げる。そうなると、オルギオにも逃げの理由が分からなくなってしまう。


「そうか。で、済まない。この男を討ってしまったうちの斥候の罪過だが」

『ああ、その事か。我が国はこの件についてエネスレイクの行動を咎めないと宣言しておく。これで構わないか?』

「感謝する、レイアルフ殿」

『構わないとも。では私はもう行くとしよう。オルギオ殿はせっかくだ、兄上の所に顔を出していただけると嬉しい』

「そうさせていただく」

 

 レイアルフの機兵が離れていく。

 倒れている兵士を台車に乗せ、治療所へと運ぶよう指示を出す。

 その様子は紛れもなく王族のものであり、それを受け入れる者達もレイアルフへの対応は王族に対する敬意に満ちている。

 オルギオはもう一度首を傾げるのだった。






 ケオストスは城に着く前に既に昏倒しており、すぐに侍医達によって何処かに運ばれていった。

 流狼が用意された部屋の中で一息ついていると、随分と強くドアが叩かれた。

 こちらが返答する前に、扉が開けられる。


「居るか!?」

「居ますよ」


 入ってきたのは、精悍な顔立ちの青年だった。

 声だけを聞くとルースなのだが、先程の通信で現れたものとは随分と違う。獣と人の中間のような顔だったものが、今は少し毛の量が多い野趣のある美形だ。


「あんた、ルースさんか?」

「む、そうだった。フニルグニルに乗ると顔つきが変わってしまうのだ。改めて名乗るとしよう、ルース・ノーエネミーだ!」

『おいルース。人としてのルールをちゃんと守れと言っただろう!』


 ルースの名乗りとほぼ同時に、ドアの向こうから小型のフニルグニル――つまりは彼がフニルなのだろう――が現れた。その後ろにもいくつか人の気配があるが、どうやらそのまま入ってくるつもりはないようだった。


『済まない、ルロウ殿。お分かりだとは思うが私がフニルだ。そしてこの野生児バカモノがルース。よろしく』

「ルロウ・トバカリです。よろしく、ルースさん、フニルさん」

「ああ。義弟おとうとよ、同じく王機兵の乗り手として、これからよろしく頼むぞ」

「その、『義弟』ってのは何です?」

「む? 義弟を義弟と言って何がおかしいのか」

『ルース。お前、まだルロウ殿に確認も取っていないだろう』


 先程からずっと義弟と言われていたが、流狼にはこの世界に義兄が出来る宛などなかった。

 もしかして王機兵の乗り手は全員が義兄弟の契りでも交わす風習があるのかとアルの方を見るが、アルも心当たりがないらしく首を傾げている。


「ああ、そうだったか? ルロウ殿、俺の妹であるウィナをお前に嫁がせる事にした。可愛がってやってくれ」

「……は?」

『え?』

『ちょおおおおおっとお待ち! そこの色ボケ乗り手!』


 と。

 横合いから過剰な反応を見せたのは、ここに居ない筈の声だった。


「ルビィ?」

『ああ、そうだよ! 今アルに回線をつなげてもらってね。フニル! あんた、マスターの教育ぐらいちゃんとしなよ!』


 いきなり現れて、珍しく騒ぎ立てているのはルビィだ。

 どうやらルースの事が気に入らないらしく、空中に投影されたモニターに大写しのルビィの顔が現れる。


『この子にはね、うちのベリアを嫁がせる事になってるんだ! いきなり現れて何を馬鹿なことを言わせてるんだい!?』

「そうか、めでたいな」

『は?』

「群のボスは多くのつがいを持つべきだ。義弟はこれで二人か。俺は七人居るぞ、すごいだろう!」

『……こういう奴なんだ、こればかりは何をどう言っても治らなくてだな』

『あんたねえ』


 呆れ返った様子のルビィだったが、何だか毒気を抜かれたようだ。

 勢いをなくして頭を抱えている。

 流狼も頭を抱えたい気分だったのだが、取り敢えずそれは棚上げにして一同に声をかける。


「何はともあれ、お疲れ様。何とかなって良かったよ」

『そうだね、お疲れ様。まあ、あたし達は何もしてないけどね』

『いや、ルビィ達はそれで良かったんじゃないかな』

『そうだな』

「何故だ?」


 頷くアルとフニルに、ルースが疑問を浮かべる。

 流狼もいまいち分からなかったが、そういえば出る前にオルギオとそのような話をしたなと思い出す。


「ベルフォースが魔獣を撃てるってことは、グロウィリアからトラヴィートの隅から隅まで狙い撃つことが出来るって証明する訳だからね。冷静になった後でややこしい話になりそうだ」

『そういうこと。よく分かっているね、マスター』

『本当だよ。フニル、あんた確か、この色ボケが幼児の時から育ててたわよね』

『面目ない』

「お、お前ら」


 フニルにすら擁護されずに、ルースが頬を引きつらせる。

 と、ドアが乱暴にノックされた。向こうからいきり立った女性の声が響く。


「ちょっとルース! いい加減こっちも紹介しなさいよ! それと何かあんたが馬鹿にされてる気配がするわ! うちの亭主を馬鹿にする奴は許さないわよ!」

「リ、リズ」

「アル、開けてやって」


 怒鳴り声を上げてはいるものの、無断でなだれ込んで来ない程度の分別はあるらしい。

 アルがドアを開ければ、一人の女性が勢い込んで飛び込んでくるところだった。


「ええと、あなたは?」

「リスロッテ・ノーエネミー・エーレットよ! うちの亭主を馬鹿にしている奴はどこ!?」


 憤怒の形相で周囲を見回す赤紫色の髪の美女。

 当然ながら、流狼と目が合う。


「あんたが!?」

「違う違う、落ち着けリズ」


 掴みかからんとしたリスロッテを、ルースが抑えた。

 何とも爆竹のような女性だと思いつつ、経緯を見守る。


「この男はルロウ。ウィナの夫になる男だ」

「ウィナの? じゃあこいつが」

「アルカシードの乗り手だ。つまり、現状この世界で唯一俺と対等の男だと言える」

「へぇ。よく見ると可愛い顔をしてるじゃない」


 にっ、と笑う笑顔はなんというか男前だ。たぶん、女性にもてる女性というやつなのだろう。

 リスロッテはふん、と息を吐いて胸を張った。


「ルールウ、と言ったわね! 私はルースの幼なじみにして副官、そして正妻よ! よく覚えておきなさい!」

「それは聞き捨てなりませんね」


 と、開け放したままの扉の向こうに、これまた美しい女性が姿を見せた。

 今度はこちらに入ってくる様子がない。


「ええと、今度はどちらさまでしょう?」

「セティーダ・ノーエネミー・ザインと申します。ルース様の妻の一人で、四領連合ザイン領の領主であるナフティオルト・ザインの孫娘でございます」

「はあ、これはご丁寧に」


 腰まで伸びた金髪、柔らかな笑顔をたたえ、確かに姫様と呼ぶに相応しい気品である。

 口元を掌で押さえ、柔らかい表情を見せる。


「突然乱入するなどして、申し訳ありません。リスロッテさんは育ちが市井だったからか気品とマナーが足りておりませんから」


 だが、吐き出された言葉は猛毒だった。


「それに『第一次』正妻決定トーナメントで優勝したと言っても、そもそも種目に偏りがありまして」

「正妻決定……?」


 自分の言語翻訳が上手く行っていないのか、と聞き直すが、セティーダはさも当然のことのように頷いて見せた。


「ええ、正妻決定トーナメントです。お優しいルース様は私達七人に序列をつけるのを嫌がられまして。その座を自らの手で勝ち取るべし、と画期的な方法を考案されたのです」


 まず、この時点で流狼はルースの評価を一段下げた。


「ルースさん?」

「……正妻に選ばれなかったら自害する、って全員に泣かれたらお前にも分かるぞ、義弟」


 その言葉に、流狼は更にルースの評価を一段下げた。


「俺、元の世界では一夫一婦制だったから一人いれば十分なんだけど」

『それはあんたが困るんじゃないかい? ルロウ』


 ぼやいた言葉に返してきたのはルビィだった。

 そちらを見れば、落ち着いたのか彼女はモニターから少し離れている。先程まではその頭で隠れていたが、向こうには当然のようにミリスベリアが座っている。


『ベリアだけを娶るっていうなら問題ないけど、あんたが今住んでいるエネスレイクだって嫁の一人くらい斡旋するのは義務だと思ってるだろう?』

『姉様、その件は』

『何だい、いい機会じゃないか』


 どうやら味方は居ないようだ。自分の置かれた状況で最も難しい問題に直面したかもしれない。

 リスロッテは何やらセティーダと言い争っている。心底どうでもいい事なのだが、第二回の開催やら内容やら前回の不正やら、ここでしなくても良さそうな事についてであるようだ。

 そして、ドアの前で二人で口論していると向こうにいるであろう残り五人の姿は見えない。

 ルースも二人の口論を止める手段はないようで、何とか威厳を保とうと難しい顔をしている。その様子に、成程これが彼らの日常であるのだと理解した。

 この時点で、流狼はルースの評価を更に一段下げた。もう底値だ。


「まあ、取り敢えず、ですね」

「ん?」


 目じりが震えるのを自覚しながら、流狼は努めて平静に声を上げた。

 それ程大きな声を出した覚えはないが、全員が言葉を止めて視線を向けてくる。


「我々はここトラヴィート城に招かれている立場ですし、戦で亡くなった方たちを悼む時ではないかと思うんですが、いかがでしょう」


 どうにか笑顔に見えるように口角を上げて告げれば、流狼に顔を向けた一同が一斉に首を縦に振った。


「わ、分かった! ではフニル、戻ろう」

『ルース……。済まなかったな、ルロウ殿』


 わたわたと出ていくルース一行。

 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、流狼は何とか話をうやむやに出来たことに安堵の息をつくのだった。






 グロウィリア公国南西、イェリング領。

 いかなる魔獣が現れても、撃王機が撃ち滅ぼしてくれると信じている公国民たちは特に緊張感もなく日々を過ごしていた。

 とは言え、撃滅令が解かれればわずかな緊張感も霧散する。

 領内が安心に包まれたことを喜ぶ領主館では、領主の妻であるリリアーレ・イェリングが庭に出て北を見つめていた。


「どうされました、奥様?」


 大公ソルナートの従妹であるリリアーレは一時期心を病んでいたこともあり、専属の侍女が数人つけられている。


「あの方が、亡くなられました」


 呆然と呟くリリアーレの頬を、涙が伝う。


「どの方でしょう? 奥様」


 この年若い侍女は最近イェリング領で雇われた者で、リリアーレの過去を知らなかった。

 あるいはこの場に夫であるイェリング騎士爵がいれば事情に気づきもしただろうが、リリアーレの涙の意味を知らない者しかいないことが災いした。


「声が届いたのです。わたくしの名を呼ぶ、あの方の声が」

「奥様?」


 問いには答えずじっと北の空を見続けるリリアーレに、侍女は彼女が心の病を再発したのかもしれないと腰を浮かせた。

 そうなれば自分では手の打ちようがないからだ。上役に声をかけなくてはと屋敷の方に向かった、その時。


「ああ、レフ様。来てくださったのですね」

「え?」


 リリアーレが、明らかに夫であるイェリングではない人物の名を愛おしげに呼んだのだ。

 侍女が振り返ると、リリアーレがどこから現れたか砂塵を逆巻く風に包まれるところだった。


「奥様⁉」


 その悲鳴に気づく様子もなく、リリアーレは風に向かって語り掛ける。

 不思議なことに、勢いよく逆巻く砂の中にあって、リリアーレの体が傷つく様子はまったくない。


「嫌です、レフ様。二度もあなたと別れるのは」

「どなたか! どなたか! 奥様が、奥様が!」


 確かにリリアーレは誰かと会話をしていた。侍女は半狂乱で人を呼ぶが、間に合わない。


「別れを告げられるだけなんて嫌です。連れて行ってください。あなたのいない世界にわたくしだけを残さないで」


 リリアーレの体が風に抱き寄せられるように浮かぶ。

 侍女の目には、砂が人の体のような形を取ったように見えた。まるで砂の掌が、リリアーレの頬を撫でるように。


「ああ、嬉しい。愛しています、レフ様。リリアーレはいつまでもあなたと一緒に」


――仕方がないな、リリアーレ。では私と一緒にあの子たちを見守ってくれるかね?


「ええ。あなたの隣にいるだけで、わたくしはそれだけで幸せなのですから――」

「奥様! きゃああっ!」


 逆巻く砂塵が弾けて、更なる強風が吹き荒れた。

 侍女は風に飛ばされないように這いつくばり、収まるのを待つ。

 ほどなく風は収まり、侍女が目を開けると。


「おく、さま? リ、リリアーレ様⁉」


 リリアーレの姿はどこにもなく。

 侍女の声に慌てて駆け付けた屋敷の者たちが三日三晩探し回ったが、結局その姿を見つけることは出来なかった。

 この一件で処罰された者はなかった。ソルナート大公からもイェリングに対して見舞こそあれ、咎めはなく。

 後日、侍女から様子を伝え聞いたイェリングは寂しく笑いながら、報告を受けたソルナートは苦虫を嚙み潰したような顔でそれぞれ呟いたという。


「やはり大公家の女性はどこまでも一途に過ぎるのだ」


 と。

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