噺家奇談 ~落語と噺家の不思議なお話~

まんぼう

第1話 圓朝奇談

 「そんな馬鹿なことがあるか! 圓朝作品だけがバカ上手なんて……」

 午後の気怠い編集室に同僚の佐伯の大声が飛んだ。

「いったい何のことだ? 圓朝作品って……」

 佐伯は俺と同じこの「東京よみうり版」という演芸関係の情報誌の編集者だ。勿論、落語にも相当詳しい。そいつが目を吊り上げて怒っているのが俺には奇異に映ったのだ。

「ああ、神山、この高梨がさ。他の噺は下手クソなのに圓朝師匠の噺だけが馬鹿に上手い噺家がいるって言うのさ」

 佐伯から言われた高梨というのはこの雑誌のカメラマンで入社して三年目の若者だ。落語好きが高じて他にも就職口があったのにウチを選んだという変わり種だ。

「高菜、それは誰なんだ? そして本当に上手いのか?」

 俺の質問に高梨は考えながらも慎重に言葉を選び

「『噺家協会』の三遊亭圓盛師匠の所に昨年真打になった盛喬って噺家がいるでしょう。彼なんです。何でも最近急に上手くなったとか……それも他の噺は空っ下手なんです。圓朝師の作品だけ妙に上手いんですよ。今、ちょっとずつ話題になっていますよ。落語ファンの間では……」

 盛喬という噺家は知っている。昨年協会から真打披露した噺家五人のうち一人だけ協会のパーティだけで済ませた奴だ。

 普通、真打に昇進したら合同で行う協会のパーティの他にお旦と呼ばれるスポンサーや贔屓を招待したパーティを開くものだ。呼ばれれば皆祝儀を持って駆けつける。それはそうだ。前座の頃から面倒を見てきた噺家が一本立ちするのだ。駆けつけない訳がない。

 いわば、収入の道でもある。中には祝儀の脱税を追求された噺家もいる。いわばそれぐらい金が集まるのだ。それを放棄した訳だから記憶に新しい訳だった。

 パーティの時に師匠の圓盛師に訊いたことを思い出した。勿論芸の事だったが、流石に歯切れが悪く『うん、あいつも真面目だからね。入門して長いしね』と言っていた。その昔黒門町が口上で『親孝行で』と言う時は芸は不味いと決まっていたそうだ。つまり親孝行しか褒める所が無いということなのだ。こいつもそれと同じだと思った。だが、噂が本当なら確かめなくてはならない。俺は高梨を誘い、盛喬が出ている浅草演芸ホールに向かった。


 幸い、代演と言うことは無く、昼席の「くいつき」で出るということだった。「くいつき」とは中入り後最初に出る演者のことだ。大抵元気な若手が出る。

 三階の一番上に立ちながら出番を待つと緞帳が上がって出囃子が流れて、盛喬が出て来た。簡単なマクラを振って噺に入る。どうやら今日は「転宅」らしい。噺が進んで行くが、駄目だと感じる。これは強盗が女一人の家だと思い上がり込んで脅かすのを女は口先で上手く強盗を騙す噺だ。女の色気に迷う強盗を演じなければならないが、強盗の間抜けさは兎も角、女の色気が全く出ていない。これではリアリティが無い。判ってはいたが、所詮このレベルの噺家だ。それが、圓朝作品だけ物凄いとは、どういうものなのか……出番が終わるのを待って楽屋を尋ねた。


 盛喬は取材と聞いて大層喜びだった。

「楽屋は狭いので、隣に行きましょう」

 そう言って演芸場の隣にある喫茶「ナポリ」に場所を変えた。

「ナポリ」でコーヒーを口にしながら盛喬は

「どんな事でしょう? 「よみうり版」さんが取材だなんて珍しいことがあるもので」

 そう言って喜んでいる盛喬に高梨が

「師匠、最近噂になっている例の事って本当なんですか……その圓朝作品の事なんですが……」

 そう言って盛喬の出方を伺う。ちなみに、若くてもヘタレでも協会が真打と認めた噺家には一応「師匠」と呼ばなくてはならない。中には「君は私の弟子じゃないから『師匠』と呼ばなくても良いよ」と言ってくれる人もいるが、大抵こう呼ぶのが決まりの感はある。

「もう、噂になってるんですか……この前の自分の勉強会でやっただけなんですが……」

「その時は何をやったんだい?」

 俺はその時の演目が気になった。噂になる様な噺とは何だろうと思ったのだ。

「ええと、勉強会ですから、思いきって「鰍沢」と「死神」をやりました。勿論不出来は覚悟で、客席も身内と贔屓筋だけでしたから。でも自分でも驚いたんですが、物凄く上出来だったんです」

 まあ、勉強会という身内の小さな会なら練習代わりに披露するということもある。だがそこで自分でも驚くほど上出来だったとは……

「どっちが良く出来たと思った?」

「そうですね。『鰍沢』が特に良かったです」

 俺は、その噺を聴いてみたくなった。いや、何か変な衝動が突き上げて来て、聴かなければならないと思い始めていた。

「なあ、師匠、きちんと出演料は払うから、何処かで聴かせてくれないかな。その『鰍沢』を……」

 俺の提案に驚いたのか盛喬は

「ええ、神山さんがですか! わざわざ私の噺をですか? 冗談じゃ無いですよね?」

 目の玉を大きく開いて驚いていた。

「本気だ、何故かは判らないが自分がそれを聴かなくてはならないと感じてるんだ」

 俺自身にも上手く説明はつかない。本来の噺のレベルは大した事はない。それは本人も判っていることだろう。だから、勉強会での出来に驚いたのだろう。

「そうだな、せめて二十~三十人は居ないと師匠も調子が出ないだろうから、会場はこちらで用意するよ。また連絡するという事でどうかな?」

 盛喬は面食らっていたが、そこは腐っても噺家だ

「判りました。そこまで仰って戴けるなら、この盛喬一世一代の高座を務めましょう!」

 そう芝居ががって言った。


 日時は一週間後の午後七時からと決まった。場所だが本当は蕎麦屋の二階なんて乙な事を考えていたが昨今の蕎麦屋には二階がある店が無く、仕方ないので近所の集会場を借りた。

 そこは三十畳ぐらいの広さの畳の部屋で、小さいながらも舞台があった。これを利用すれば高座をわざわざ作らなくても良い。おまけに大きめの座布団もあった。

 肝心のお客だが、編集部から来てくれる奴や知り合いに頼み何とか二十人は確保した。更に盛喬の後援会から幾人かが来てくれる事になり何とか体面は保った感じだ。お客が少ないと演者はやり難いのだ。

 

 当日は、皆早めに仕事を切り上げて、編集部近くの集会所に集まって来た。盛喬も早く楽屋入りした。

「考えたのですが、最初は口慣らしで『野ざらし』をやって、それから一休みして『鰍沢』をやろうと思うのですが」

「良いと思います。それから”めくり”がありませんが、代わりにこれを横に貼っておこうと思いましてね」

 そう言って魅せた長い紙には「三遊亭盛喬独演会」と書いてあった。これは編集部の大型プリンターで勘亭流のフォントで印刷したものだ。家庭用ではこうはいかない。

「それから出囃子はCDラジカセでどうでしょうか?」

「それで結構です。まあ顔馴染みの皆さんの前でですからリラックスして出来ますから」

 そう言った盛喬の感じからはこいつが圓朝作品を上手に演じるとは思えなかった。


 出演者の盛喬始め、編集部の皆には弁当とお茶を渡す。出演料と合わせ結構な出費だが、何か俺にはこれは金銭ずくでは無いような感じがして来たのも事実だった。佐伯が近づいて来て

「この前から一体どうしたんだ? 急に積極的になって……単なる圓朝ものをちょっと上手く演じる噺家って事じゃ納得出来ないのか?」

 確かに周りから見ればそうなんだろうな、と思うが、俺には何かそれを自分の目と耳で確認しなければならないと思い始めていた。

 七時近くになり集会場に編集者以外のお客も入って来た。開演時刻になる頃には三十人を超えるぐらいだった。盛喬の後援会の人が「今日は『鰍沢』をやると触れ回ったそうだ。後援会の人の話では、稽古でも二三ヶ月前から急に圓朝ものが上手くなったそうだ。原因は本人を含め誰も判ら無いそうだ。

 七時になり盛喬が出て来た。俺はラジカセを動かして出囃子の「二上りたぬき」を掛ける。するとその出囃子に乗って盛喬が高座に登場した。

「え~ようこそのお運びで。ありがとうございます! 本日は「鰍沢雪の夜噺」がメインでございますが、その前に口慣らしで「野ざらし」を一席。その後十分の休憩を挟んで本編へと移って行きたいと思っております。

 よくご気性が違うように、食べ物の好みが違ってまいります……」

「野ざらし」の出だしのマクラが始まった。「野ざらし」は、隣の長屋の尾形清十郎が夜な夜な美女を招き入れているのを知り、自分も向島へ行き報われ無かった骨を手向ければ自分にも夜な夜な美女がやって来ると勘違いした一八が色々とおかしな行動をする噺である。三代目の春風亭柳好が得意として、絶賛の嵐を浴びた。後半やる「鰍沢」が笑いの無い噺なので、今日は打ってつけである。

 盛喬は得意演目らしく、お客を良く笑わしている。演じてる本人も気持ちよさそうである。

 好評のうちに「野ざらし」が終わり休憩に入った。次の「鰍沢」は短くて四十分、長ければ一時間は掛かる噺である。

 俺は楽屋に行き盛喬に

「次の出囃子は『中の舞』にします?」

 そう尋ねた。『中の舞』はその日の最後の噺家が使う出囃子で、寄席や落語会等では良く使われる。噺家個人でも複数の演目を演じる独演会等では最後にこの出囃子を使う事が多い。

「そうですね。じゃあお願いします」

 盛喬も了解して次の出囃子は『中の舞』と決まった。


 今日最後の演目の「鰍沢」とは正式には先ほど盛喬が言った通り「鰍沢雪の夜噺」と言い、三遊亭圓朝が「酔狂連」という集まりで出された三題噺で即席で作ったとも言われていて、その題とは「卵酒・鉄砲・毒消しの護符」と言われている。

 その噺を弟子たちが磨きあげたのだという。最も有名なのは弟子の橘家圓喬で、真夏にこの噺を寄席で掛けて、お客を寒さで震えあがらせたという。かの古今亭志ん生も、その名人芸を絶賛していたほどだ。この噺に限っては師匠圓朝を凌いだとも言われている。

 やがて休憩が終わり、時間となった。俺はラジカセのCDを操作して「中の舞」を掛ける。すると出囃子に乗って盛喬が高座に現れたが、俺にはその姿が盛喬には見えなかった。何処かで見た記憶があるのだがその時は思い出せなかった。

 座布団に座りお辞儀をすると盛喬は徐ろに話しだした。

「これは三題(だい)噺(ばなし)でございます。卵酒・鉄砲・毒消しの護符という三つのお題を戴きましてかの三遊亭圓朝師が作ったと言われております……」

 上手い! しかも先程の「野ざらし」とは口調も違うし、声も違う感じがする。いったいこれは……


 この噺のあらすじは……身延山の参詣の帰りに大雪で道に迷った旅人が、山中の一軒家に宿を頼む。そこにいたのは妙齢の美人。上がらせて貰い今夜のお礼にと幾ばくかの金銭を包む。女主人のお熊に卵酒を勧められて話をするうち、その女が旅人が昔遊んだ、吉原の遊女であったことが分かる。色々と話を訊く旅人……

 旅人は疲れて横になると、お熊は外に亭主に飲ませる酒を買いに行く。そこに帰ってきたのがお熊の亭主、残された卵酒を飲んで苦しみ出す。そこへお熊が帰って来て言うには、旅人に毒入りの酒を飲ませて殺し金を奪い取る算段との事。それを聴き、毒が回った身体で必死に逃げる旅人。

 たまたま持ち合わせていた身延山の毒消しの護符を雪とともに飲み込み身体の自由が利くようになり表に逃げるが、お熊が胸まである雪の中をかき分け、鉄砲を持って追いかけて来る。

「おのれ亭主の仇、逃してなるものか……」

 お熊は毒が完全に抜けきっていない旅人に火縄銃の狙いを定める。

 盛喬の仕草は扇子の要を俺に向けて狙いを定めている。俺にはそれが本物の火縄銃に見えて来て、火縄の赤い火も見える気がした。

「まあてーい……逃がさじ……」夢中で逃げる旅人の気分に俺はすっかりなってしまい、その火縄銃から逃れようともがくが、客席はいつの間にか雪の山になっており思うように身動き出来ない。早くしないとお熊がやって来る。火縄銃の射程距離まで縮まればきっと発砲してくるに違いない。そう思い俺は雪の中をこけつまろびつ歩いて行く。だが、そこはお熊も慣れたもの、おまけにガンジキを履いてるので、俺よりも早く間隔を縮めて来る。

「かぁ~くご」

 そう言ったかと思うとお熊の銃口が俺に狙いを定めた

「やめろ!」

 思わず大きな声で叫んでいた。


「大丈夫ですか……」

 見ると、高座の盛喬が心配して俺を見つめていた。ふっと我に帰り

「あ、ああ大丈夫だ。いいところで叫んで申し訳ない。続けて……」

 噺がまた再開された。

 そり立つ絶壁。眼下には、東海道は岩淵に流す鰍沢の流れ、四~五日降り続いた雪で水勢が増したものか、ガラガラと流れる急流、切りそいだような崖、ここが名代の釜が淵。前は崖、後ろはお熊、合掌するのみであった。そこに雪崩が起こって、川底に投げ出された。幸い筏の上に落ちると、つなぎ止めてあった藤蔓を切る。

 筏は流れ、岩にぶつかった拍子にバラバラになった。ようやく一本の材木につかまって「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えると、崖の上から、片ひざついたお熊が、流れてくる旅人の胸元に十分狙いを込めている。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と再びお題目を唱えていると、ダーンという銃声とともに弾は旅人の髷をかすめて後ろの岩にカチィーンと当たった。

 「ああ、この大難を逃れたのも御利益。お材木(お題目)で助かった。まず今晩はこれぎり、これぎりでございます」

 それで終わりのはずだったが、俺の耳に

「どうです、清次郎、これがセツの噺ですよ」

 確かにそう聞こえたのだ。後になり、盛喬に尋ねても、そんな事は言ってないと否定されてしまった。


 確かに、盛喬の噺は凄かった。落語を散々聴いている俺でも全くの新体験だった、あそこまで噺にのめり込んだ事は無かった。そして最後に聴いた言葉……どうです、清次郎、これがセツの噺ですよ……清次郎って確か……

 落語会は無事に終わり、皆、盛喬の「鰍沢」の凄さを語りながら帰路についた。

 最後の言葉は俺に向かって言ったのだろうか? それを確かめるべく次の休日に俺は車に乗って実家を目指した。俺の実家は金は無いが歴史だけはある家で、江戸時代は一応幕臣だったらしい。

 実家に着くと俺は親父に確かめる。

「なあ、清次郎って確か曾祖父さんの名前だったよな?」

 俺の問に親父は当たり前という顔をして

「ああ、そうだ。神山清次郎は俺の爺さん。お前の曾祖父さんだ」

「どんな人だったの?」

 親父は遠くを見つめながら思い出すようにして

「俺が親父から訊いた話では、雑誌の記者をしていたらしい。何でも「百花園」とか言う雑誌の編集部に努めていたらしい」

 親父の言葉で見えて来たものがあった。「百花園」は金蘭社という出版社から出されていた本で、当時流行っていた落語の速記を載せていたのだ。だが、最初に出されたのは一八八九年の事だった。曾祖父さんの歳を考えるとそこが出発点なのかも知れない。

 もしかしたら、曾祖父さんは圓朝師と知り合いでは無かったのか……俺は大胆な推理を立てた。すると親父がとんでもない事を教えてくれた。

「確か、曾祖父さんの日記が納戸の奥にあったな……子供の頃出した記憶がある」

 その言葉に俺は直ぐに納戸に行き、奥の古そうな荷物を片ぱしから出した。苦闘三時間で遂に曾祖父さんの日記を見つけた。もうもうたる埃を払って読み始める。


 そこで判った事を書いておこう……

 曽祖父は明治十八年に東京稗史出版社に入社して落語速記に関わる。

 明治二十一年に金蘭社に転職して「百花園」の創刊に関わる。この時既に圓朝師とは顔なじみになったいた模様。

 更に、圓朝師と親しくなり、色々なアドバイスを求められるような関係になる。

 そして明治三十一年に神田白梅亭に出演した際に「鰍沢雪の夜噺」を演じる。この時のことが日記に書いてあった。

 それによると、出来は余り良く無かったそうだ。そのことが書かれていて、曽祖父は何処か体でも悪いのか? と尋ねたらしい。

 圓朝師はその時の出来が自分でも不本意だったみたいで、曽祖父に

「必ずいつか蘇り、お前の子孫にでも聴かせる」と語ったと書いてあった。やはりあれは圓朝師が盛喬に乗り移って演じていたのでは無いだろうか?

 神山清次郎の子孫で落語関係の仕事をしている俺に本当の実力を判らせる為に蘇って乗り移ったのでは無いだろうか……俺はそうとしか思えなかった。


 家に帰る時にその日記帳を持って帰った。帰ったら谷中の全生庵に詣でて、墓に報告するつもりだ。それがきっと師匠が望んでいた事だろうから……


 その後、盛喬は普通の噺家に戻った。神懸かったような圓朝作品の高座は出来なくなり、地道な修行でのみ向上を目指す何処にでも居る噺家になった。

 俺は夏真っ盛りの全生庵で曽祖父の日記帳を墓前に備えた。

「圓朝師匠、確かに聴かせて戴きました。一生の思い出、宝物です」

 そう言ってお線香を供えるとその煙の中に笑顔の圓朝師が浮かんだ。

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