03 餌に食いついた

 弱気な言葉を発しながらも飄々と会話を楽しむ様子を見せるバルバトスに、バアルが片眉を跳ね上げた。

 そのまま「仲が良いな」と笑うバアルに、彼は帽子を目深に被り、今度は目元だけではなく顔全体を隠す。


「勘弁してくれ、ご覧のとおりこき使われている身さ」


 表情は見えないが、苦い顔をしているだろうことは安易に想像のつく声色だった。

 それにもう一度バアルが笑い、それから右手を大きく掲げる。


 男の右手にきらびやかな光の粒子が集まったかと思えば、それはたちまち銀の槍へと姿を変えた。それに、黒乃は改めて驚き目を丸くする。


 鋭い刃が窓から入る僅かな光を反射して鈍く光った。おおよそ普通に生きていれば目にすることはないだろう大きさの凶器を前に、再び黒乃の体を恐怖が支配し始める。


 ぽすん。

 バアルが黒乃の頭に大きな手を乗せた。そうしてまた笑う。大丈夫だと、細められた青い目が語りかけていた。

 わけもわからないままに頷く黒乃を見届けて、バアルは笑みを消し前に向き直る。

 槍を握り直すと、刃とは反対側、柄尻から伸びる長い鎖がジャラ、と重そうな音を立てた。


 それを合図に、バルバトス、白雨の両者が地を蹴る。大きくバックステップを取るバルバトスを追うように、バアルも一気に間合いを詰めた。

 振られた槍の切っ先がバルバトスの鼻頭をかすめる。


 そんな二人を尻目に白雨は一直線に黒乃へと飛び込んできた。予想はしていたもののいざ向かってこられると焦りだけが体を支配する。黒乃は壊れかけたテーブルの下に逃げこむのが精一杯だった。


 震える足を叱咤し、テーブルの下をくぐり抜け窓辺に垂れ下がっていたボロボロのカーテンを思い切り引き下ろす。

 ガシャ、と大きな音がしてカーテンレールごと落ちる。大量の埃が舞う中、黒乃はそれを盾にするように右腕へ乱雑に絡め体の前へと突き出した。


 白雨が握るナイフの刃渡りでは、丸めたカーテンを貫くことは出来ない。ひとまず急所は守れそうだと、黒乃は僅かな余裕を取り戻し始めていた。


「随分と冷静な判断じゃねーか」


 白雨がバカにしたような笑みを浮かべる。それに何か言葉を返す余裕まではない黒乃は、ぐっと奥歯を噛み締めて白雨を睨みつけた。

 それすらもバカにしたように一つ笑い、白雨が腰へと手を伸ばす。直後振り上げられる腕を黒乃が目で追う。


 その一瞬、ちり、と黒乃の頬に鋭い痛みが走った。状況を理解するより早く、液体が頬を伝う感触に気付く。

 知らず頬へと触れた指先に、ぬるりとした不快な感触を得る。

 頬から引き離した手に視線を落とした。指先には赤い液体。血だ、と認識するのと同時に視界の端で白雨が動くのを見た。


 ほとんど反射的に黒乃はカーテンで顔を隠す。ナイフはカーテンの端をかすめていった。それなりの厚さを持っていた布を引き裂いて、それは背後の壁へと突き刺さる。


 壁に止まったナイフを一瞥し、黒乃は早くなる鼓動を誤魔化すようにして動きに出た。

 さっきから視界の端に映っていたものがある。一メートルほどの長さをした木片だ。おそらく、かつてはバーテーブルの脚かなにかだったのだろう。今はすっかりと役目を終えて、ただの木片に成り果てている。


 それを拾い上げた黒乃は、刀をそうするようにして構えてみせた。

 長さも重量も、ちょうど慣れ親しんだ竹刀と近い。それが黒乃にいくぶんかの自信をもたらした。


 小学校に入ってすぐから今に至るまで、黒乃はほとんど毎日のように竹刀を握っていた。

 剣道の腕前は上々だ。中学では主将も務めたし、部活に所属しなかった高校でも助っ人に呼ばれては優勝に導いていた。


 慣れた獲物で白雨を捉える。


「意外と根性座ってるよな、お前」


 ささくれだった木片は十分に凶器になり得たが、それでも白雨は顔色ひとつ変えはしない。

 それにまた恐怖を煽られそうになるが、それは木片を握ることでなんとかやりすごした。


 すり足で間合いをとり、攻撃の範囲に収まったと見るや強く一歩を踏み出す。

 相手が目を見開くのを見た。尖った木の先端が白雨の首をかすめる。避けられた。向こうがぼーっとしていれば、確実に喉を割いていただろうに。


 悔しそうに唇を噛んだ黒乃だが、すぐに返す刃で白雨の側頭を狙う。それも避けられた。いや、防がれたと言うべきか。


 頭を守るために出された腕に、木片がぶつかり鈍い音を立てる。次いで、白雨の低いうめき声が上がった。


 黒乃は視線を下ろす。腕は頭の横にある。胴ががら空きだ。

 半歩後ろに下がり、すぐに反動をつけて前へと躍り出る。


 隙だらけと見た白雨の腹へ木片が届くことはなかった。黒乃が既(すんで)のところで動きを止めたからだ。


 怖気づいたわけではない。慈悲を向けたわけでもない。

 あと一ミリでも動いたなら、自分の喉元に伸びたナイフの刃が食い込むことに気付いたからだ。


 黒乃は速さには自信があった。いつでも先手を打って、相手に反撃の隙も与えずに一本を取っていた。自分より速い相手は居ないんじゃないかと、そんな風に思えるくらいには自信があった。


 けれど試合ではそうでも、実践では違ったようだ。

 顔の下で鈍く光るナイフを見て黒乃は息を止める。呼吸の為に動くことすら恐ろしい。なんせ、刃は肌に触れているのだ。


 隙はわざと見せたのだろう。相手が踏み込んできた瞬間、首を落とせるように。黒乃はそう相手の算段を読む。いまさら理解したところで、どうこうなる話ではないけれど。


「餌に食いついたのは褒められたもんじゃないが、ギリギリで気付いたのには感心するぜ。さて、指輪をもらおうか」


 はく、と喉が張り付いた。白雨の表情は十数分前と同様鬼気迫るものになっている。彼は再び自分を殺す気でいるのだ。


 またしても恐怖が体を駆け巡る。一度大きく戦慄いたあと、黒乃は力なくその場に座り込む。幸い、ナイフは慌てたように引いていったので血を見ることはなかった。


 頭は冷静に動いている。一刻も早くこの場から立ち去らなければならないと、せめて抵抗しなければならないと、そう理解していた。


 けれど体は脳の命令を上手く処理できずにいる。震える足が言うことを聞く様子は一向になかった。


「さぁ……今ならまだ間に合う。だから、早くその指輪を渡してくれ」


 左手にナイフを持ち替えた白雨が、穏やかな声でそう告げる。そっと差し出された右手もまた、声と同様に穏やかだ。


 まるで子供に言い聞かせるようなその声音、仕草に、黒乃はどこか懐かしさを感じていた。思わず伸ばされた手をじっと見つめる。

 今はそんなことをしている場合ではない。分かっている。分かってはいるが、どうしようもなかった。

 カーテンで包んだ右手を抱える。薬指にはめられた指輪の存在を感じた。それだけが、自分の味方であるような感覚に陥る。


 しびれを切らしたか。目を細めた白雨が、黒乃の腕に手を伸ばした。


 けれど彼の動きはそこで止まる。動きたくても動けないのだ。体を縛る銀の鎖が邪魔をして。


「っ……てめ、バルバトス! 何やってんだ、何とかしろ!」


 響く怒声に応えるように、低い唸り声が上がった。見れば鎖を引っ張るバアルの傍らに、バルバトスが片膝を着いてうずくまっている。

 すぐには動けそうもない彼に、白雨が再び怒声を浴びせる。

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