第十九話 武士という在り方

 逃げ惑う人々の激流の中で、アネットは溺れかけていた。

 背後から走って来た男にぶつかられ、アネットは危うく倒れかける。背後に感じる死の感覚から必死に逃れようと走っているはずなのに、他の大人たちはそんな自分を易々と追い抜き、ときにはぶつかりながらそれを気にも留めずに逃げていく。

 同じように逃げる大人たちに追い抜かれながら、アネットは自身の弱さと小ささを嫌というほど感じていた。

 自分には生きる力が足りない。父親を失い、難民としてこの街にたどり着くにあたって感じたその事実を、背後から迫る死を感じながら強く意識する。

 もちろん、同じように逃げる人間の中には自分よりも足が遅い、小さな子供や老人もいる。だが、そういった者たちは大抵が誰かに背負われ抱えられており、結果としては自分より早く逃げていく。

 今背後から迫っている魔力の気配に、アネットは嫌というほど覚えがあった。むしろ忘れられるはずもない。ゼインクルからこちらに来る際に遭遇し、父達が足止めを行うことでようやく逃げきることができた恐怖の魔力。

 父を殺した本当の元凶が今背後に迫って来ていた。


「どう、しよう……、どうしよう、父さん……」


 すでに居ない父親を呼びながら、アネットは必死で群衆に置いて行かれまいと走り続ける。だがどんなに足に力を込めても、背後から迫る死の気配が迫り、周囲の人間は悲鳴をあげながら、自分を置いて逃げていく。

 逃げる足も遅い。一人で生きる力もない。助けてくれる人間もいない。

 その事実に目頭を熱くしながら、アネットはようやく絶望的な答えにたどり着いてしまった。


「死ん、じゃう……」


 思わず言葉にし、次の瞬間には言ってしまったことを後悔する。

 一度言ってしまったらもう止まらなかった。

 自分を支えていた虚勢が決壊し、莫大な量の恐怖と絶望が洪水のように弱った心に押し寄せる。


「死んじゃう……、死ん……、じゃう……!!」


 体に力が入らなくなり、足がもつれてまるで糸が切れた人形のようにアネットの体は地面に叩きつけられる。

 まともな受け身も取れずに転んだことで視界が揺れ、潰されたように痛む胸が自身の体の活動を拒む。

 自身の情けなさに涙が溢れてきた。父親が命まで賭けて助けてくれた命だというのに、今自分はそれをあっさりと失おうとしている。


「や……だ……」


 声を漏らすと同時に、背後まで迫っていた死の気配が、猛烈な轟音を立てて動きを止める。どうやら蛇のような下半身を持つ狼が、勢いあまって四軒後ろの家に頭から突っ込んだらしい。見れば頭を抜くのに悪戦苦闘しているようだが、同時に響く恐ろしい咆哮がアネットに向かって死の宣告を告げている。

 すでにその距離に逃げきるだけの余地はない。化け物がその頭を家から引き抜けば、次の瞬間にはアネットの体はその牙に噛み砕かれるだろう。


「い……や……、や……だ……」


 かすれた声でそう呟きながら、しかし体は震えるばかりで逃げる気配さえ見せない。すでにもうそんな体力は残されていないのだ。

 だが、迫りくる死と己の無力さにアネットが絶望しかけたそのとき、不意に誰かに腕を掴まれた。

 振り返ればそこには見覚えのある、昨晩見たばかりの男が、黒い髪を後ろで縛り、腰に奇妙な剣を差した異国風の顔立ちの騎士が立っていた。


「無事か娘!!」


「え……、あ……」


「立て!! 走るぞ!!」


 どうやら彼は、相当急いでここまで走って来たらしい。全身から汗がにじみ出しているし、息も相当荒くなっている。

 自分などのためにそこまでしてくれたのだと実感しながら、しかしアネットの体はその努力を自分自身共々裏切ってくる。


「え……、そんな……」


 男に腕を引かれて立ち上がろうとしながら、しかしアネットは立ち上がれずに再び尻もちをつく。慌ててアネットはいつもよりもはるかに強く足に力を込めようと意識するが、足にはまるで力が入らず立ち上がるどころか動きもほとんどしなかった。


「そんな……、ダメ……!! せっかく……!!」


 今度こそ思考を混乱と焦燥、そして恐怖で真っ白に塗りつぶされ、慌ててアネットは自身の足へと手を伸ばす。だがどんなに触れても叩いても、足が返すのは無慈悲な『お前は生きられない』という宣告だった。


「……要ら、ない」


「なに?」


 襲い来る絶望の前に、アネットがどうにかそんな一言を絞り出す。このままでは目の前のこの騎士も、自分のために命を散らしてしまう。自分の父親がそうであったように、だ。ろくに生きる見込みもない自分のために、わざわざ自分を助けに来てくれた人間を死なせる訳にはいかない。


「助けなんて、要らない……!!」


 嘘だった。本当は助けてほしかった。今だけではないこれまでもずっとだ。

 情けない話だとは思っている。自分勝手な話だとは分かっている。だがそれでも、アネットは誰かの助けが欲しかった。

 しかしだからと言って、自分のために誰かに死んでほしかったわけではない。


「私はっ、騎士なんかに、助けてほしくない……!! どうせ私は、助けてもらったって何も返せない!! 生きてすらいけない!!」


 言って、今度こそ目の前が真っ暗になる。胸の中心から何かが抜け落ちたような感覚に襲われ、その空虚さが痛みのように疼く。

 だが、覆しようのない真実だ。だからこそ、そんな自分のために誰かを危険に晒していい訳がない。


「だからっ、だから私なんかのためにこんなところまで来ないで……!! 私なんか置いて、一人で行って!! 今なら、まだ、間に合うから……!!」


 恐らく目の前の男一人ならば逃げられる。自分が喰われているうちに町を走れば、安全な場所まで逃げきれる。それは恐ろしい未来ではあったが、アネットが自分のせいで他人が死ぬ事態を見ずに済む唯一の道だ。

 少なくともこのとき、アネット自身はそう思っていた。


「騎士には助けられたくないといったな」


「え?」


「ならば俺は対象外だ。俺は騎士じゃない」


 驚き、アネットは思わず男の顔に視線を向ける。そこにあったのは恐れも己の無力さも知りながら、それでも折れていない人間の顔だった。


「俺は騎士じゃない。武士だ。武士の、武内忠継だ」


 腰の剣の鞘を掴みながらそう言い放ち、男はあろうことか化け物のもとへと歩き出す。

 アネットが見たその背中には、死ぬ直前に父が見せたのと同じ覚悟が見えていた。






 世界から音が聞こえない。なのに、自身の鼓動と無様な呼吸の音だけがやけに大きく耳に響く。

 目前には、煉瓦で造られた建物に頭を突っ込んだ化け物が一匹。エルヴィスが【妖魔】と名付けたその化け物は、しかし初めて見たときと違い前半分が狼で後ろ半分が大蛇の姿をしていた。

 今自分は死地に向かっている。やたらと遅く感じる速度で歩を進めながら、忠継は静かにそう確信する。結局忠継は、ここまで何も考えずに来てしまっていた。

 街でこの異常を感知したとき、忠継はまだアネットを探している途中だった。その場所はここなどよりよほど避難もたやすく、忠継自身避難した方が賢明だろうと思った。

 この国の騎士は、自分などよりよほど強い。

 確かに剣による立会なら忠継に分があるが、それは魔術という技術を生身で使える彼らとの差を埋められるものではない。

魔術を使えない。彼らより弱い自分に何ができる。大人しく避難していたほうがよほど賢明だ。

 それこそ、ここですぐさま踵を返し、街の中心部、騎士達が防衛線を張る避難場所まで逃げてしまうべきなのだ。

 相手はこんな化け物だが、忠継の足の速さなら他人を囮にすれば逃げきることも可能だろう。

 そして防衛線の内側にまで逃げ込んで後は全てが終わるまで頭を抱えてうずくまっていればいい。

 そうなればもう武士だなどとは名乗れないが、それだってたいしたことはない。元よりもう家督は継げぬ身なのだ。今さら武士であることにこだわってもいいことなどないだろう。ひと思いに刀など捨てて、最近突然身についた身の軽さを生かして鳶職にでもなればいい。何者にも成れずに武士でいるより、よほど楽な生き方だ。

 忠継の本能が、そしてどこかにある確かな理性が、そんな言葉を耳元で囁いてくる。


「バカバカしい」


 そう頭では考えていながら、忠継はついにこの、逃げる人々の最後尾にして、襲い来る化け物の眼前まで来てしまった。

 忠継のそんな実感に応えるように、遂に【妖魔】は頭を引き抜き、近づくこちらに視線を向ける。


「まったく。手に余る化け物だな貴様は」


 騎士達は、おそらく間に合わない。

 自身の敗北は、すなわちこの化けものの腹に収まることを意味している。

 魔術など使えるはずもなく、頼りにできるのは己が体一つと刀のみ。

 そんな絶体絶命の要素を数え上げ、迫りくる死のにおいを肌で感じてなお、忠継は逃げるという選択を取る気にならなかった。


「逃げられる、ものか……!!」


 死への恐怖は絶大だ。だが、今の忠継の内にはそれを上回る激情がある。

 アネットは忠継に逃げろといっていた。『助けはいらない、おいて逃げろ』と。

 アネットがそう言い放ったのには恐らく彼女なりの理由があったのだろう。だが忠継には、あんな小娘がそんな台詞を吐くのが許せない。彼女にそんな台詞を吐かせた状況が許せない。そして何より、彼女がそんな台詞を吐くまで本分を見失っていた自分が許せない。

 それは自分の役目だ。民を守り、逃がすのは武士たる自分が負うべき役目なのだ。

 ならばこそ、忠継には逃げるなどという選択肢は存在しない。武士とは主君のために身を捧げ、民を敵から守るもの。忠継が武士であろうとするならば、とるべき手段はたった一つしかない。


「……斬って、捨てる」


 全身に緊張を行きわたらせながら、忠継は腹に力を込めてそう漏らす。それは目の前の敵への宣言であると同時に、己を鼓舞する決意の言葉だった。


「斬って、捨てるぞ……!!」


 左手で腰の刀を掴み、鯉口を斬って右手を構える。腰を落として身を構え、いつでも動けるように意識を研ぎ澄ます。


「斬る……、斬ってやる……斬ってやるぞ……!!」


 己を一本の刀とし、民を守り、敵を斬る。そう在るために努力し続けてきたし、そう在るために生きてきた。


(そうだ。これが俺だ。この在り方が俺だ!!)


 |たとえこの身が家督を≪・・・・・・・・・・≫|継げなかったとしても≪・・・・・・・・・・≫、|この生き方だけは≪・・・・・・・・≫|曲げられない≪・・・・・・≫。


「斬って捨てるぞぉっ!! 化け物ぉぉぉぉぉぉっ!!」


 瞬間、同時に忠継と妖魔の両者が相手に向けて跳びかかる。

 妖魔はとぐろを巻いた蛇身がバネのように爆ぜ、忠継は鯉口を切った居合いの構えのまま、体勢を低くして駆け抜ける。


「――――――!!」


 両者の距離は一瞬で半減し、【妖魔】が咆哮という名の攻撃を忠継めがけて浴びせかける。聴覚が意味をなさない、どんな声かも判別できないほどの音の暴力。

 だが、


「キィェアァァァァァァァッ!!」


 忠継は自身も声をあげ、気迫を込めて叫び返す。

それは【妖魔】のそれに比べればか細く、小さな声だ。だが忠継は一度は臆したその咆哮に、今度は気迫を持ってそれに抗った。抗うことができた。

 そうして、両者の距離が零になり、【妖魔】が忠継に食いかかる。対して、忠継は身を低くし、さらに体を強引に横向きにすると、すんでのところでその牙から逃れ、【妖魔】の懐めがけて飛び込んだ。


(斬って――)


 そして――、


(――捨てる!!)


 ――その紋様が浮き上がる。

 抜刀と共に妖気が収束し、忠継の右腕で刀身状の紋様が輝きを得る。抜きはなった刀身に妖気が走り、それに応じるように刀の根元から切っ先にかけて流した魔力が迸る。

 効果は考えるまでもない。その効力は忠継の意思によって既に設定されているのだから。


「キィィィィィェアァァァァァ!!」


 再び腹の底から声を上げ、忠継は妖気を纏った刀を妖魔の横っ腹めがけて叩きこむ。刀が妖気の体へと滑りこみ、肉を斬って骨を断つ。

 生き物を斬っているというのに明らかに軽い、しかし確かな手ごたえ。腕の妖気が刀を通じて妖魔の体を駆け巡り、その身の妖気を消し飛ばす。

 やがて、刀は妖魔の体を斬りぬけて、日の光を浴びて煌きを取り戻す。勢いあまって忠継の体が一回転し、円を描いて着地しながらその刀身をピタリと止める。


「ハァ……、ハァ……、ハァ……、ハァ……」


 世界から音が聞こえない。なのに、自身の鼓動と無様な呼吸の音だけがやけに大きく耳に響く。

 だがそれは、忠継が今この時、確かに生きている証だ。


「フゥゥゥゥゥゥゥゥッッッッ!」


 そして、

 大きく息を吐いたその瞬間、忠継の背後で巨大な妖魔は跡形もなく霧散し、あれだけの猛威をふるった【妖魔】は、死骸というには明らかに少ない肉片となってあたりに散らばった。

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