05

 うん、信じられないことは世の中にたくさんあると思ってたし現実は小説より奇なりとかいう格言も知ってたけどなぁ。まず異世界は存在しないと思ってた。性転換は人類に限って言えば外科手術およびホルモン治療がなければできないと信じてた。魂は存在しないし感情は脳内物質の分泌量云々、思考もシナプスやら電気信号やら云々。科学は万能じゃないかもしれないが、科学的な手法が物事を知る一番の方法だと思うぐらいには科学万歳。神秘主義系は物語として読む分には良いけど熱心に信じてる人を目の当たりにするとちょっと居心地が悪い。

 もっとこう、異世界とかに夢見てる子に今の私の体験をさせてあげたいよ。


 厚手の布で作られたシンプルなロングドレス。シンプルだけど縫製はしっかりしているし(ミシンじゃないな、手縫いだ)色は地味なブルーグレイだが綺麗に染まっている。もちろん染めてあるのじゃなくてもともとこの色合いの素材がある可能性もあるが。着ているのは怜悧な顔立ちをした、正直宝塚の男役が似合いそうな女性だ。赤い髪に緑色の目。髪は結い上げているけど光沢があってとてもきれい。名前はエスター・ヴィアトール・ケッセルシュラガー。なんでもヴィーのいとこで、貴族なんだそうだ。貴族!というかヴィーが貴族って!レンのほうが貴族っぽいのに、と思っていたんだがレンは平民らしい。ファーレンハイト村出身のレン、っていう名前でファーレンハイトは名字じゃないとか。

 まぁそんな異世界の勢力図は後々覚えるとして。美味しいお茶菓子を頂いたあの話し合いの結果、私はしばらく団長さん預かりになることになったらしい。団長さんは貴族ではないが、一種別の愛し子っていう階級……生き物?で、私もそうだと思われている。その団長さんは、他の騎士団の団員と違って団舎ではなく近くに家を構えて住んでいるから、そこの客室にお邪魔。食事も大量に出してくれててお肉も食べられましたご満悦。食べたいだけ食べなさいって言ってくれたので遠慮なく。どれだけ食べても、微妙に満足には届かないのが不思議だけど。団長さんは野菜ちょっとに、稀にお肉ちょっとな食事でどうやってその食事量でその筋肉を維持しているのかが不思議で仕方がない。


 ……話題がそれた。


 そう。保護、という言葉に恥じない勢いで皆が寄ってたかって私の面倒を見てくれているわけだ。既製品で悪いね、と言われていた服もお邪魔した翌日に呼ばれた仕立屋に採寸されて翌々日には簡単なズボンとシャツが届いたし。革靴はしばらくかかるらしく、布の靴で歩いているけれども。

 そうして七日目。エスター・ヴィアトール・ケッセルシュラガーさんがやってきたわけです。綺麗な人だなぁ。なんで来たのかなぁ、と思ったら何にもわからない私のための先生としてやってきたとか。普段から上流階級の子女に勉強や礼儀作法を教えているのだそうだ。


 「エスター・ヴィアトール・ケッセルシュラガーと申します、ノーチェ様。非才なる身ではありますが、よろしくお願いいたします。どうぞエスターとお呼び下さい」


 綺麗な礼とともに少し硬い声で言われた。格好良いお姉さまに勉強を教わることが出来るとは!何と言う素晴らしさ!


 「ノーチェです。よろしくお願いします」


 私もきちんと挨拶をしておく。簡単なことはこの一週間で団長と団長の家を取り仕切ってるらしい執事さんやメイドさんに教わったからね。まず何から始めるのだろう、と思ったら文字でした。


 「文字を覚えることは、記憶や思考を外に保存できる、ということなのですよノーチェ様。思考の幅が広がりますし何よりその場に赴き話を聞かなくても様々な知識を得ることが出来ます」


 素晴らしいね!まさしく私の考えと同じだ。文字を得たからこそ人間は記憶力という枷をはずし、寿命という枷をはずして連綿と物事を考えることが出来るようになったんだよ。そうか、この世界にも本はあるんだな。言葉から考えるに学問、という分野が成立していると見て間違いないだろう。一時的にいるだけの世界なつもりだが、本はぜひとも読んでみたいな。異なる世界での思索。きっと思いがけない視点や常識がたくさん……!


 渡されたのが、五十音字表のような、文字の一覧。文字数は全部で25。なるほど、一文字ずつになると音も意味も伝わってこない、ということはおそらく組み合わせによって発音が多少変わるんだろう。一文字ずつ指さされて、名前を教えられる。記憶力はそこまで良くないんだけど、と思っていたらするりと入ってきた。え。ん?よくよく思い返してみたらこちらに来てからの会話、一字一句思い出せるな。





 二十五の文字とその名前を覚えたら、エスター先生がお茶を淹れてくれた。ご褒美扱いなんだろうな。値段とかが気になるけど正直私に財産なんてないし気にし始めたらきりがないのでもう諦めてごちそうになる。


 「美味しいです」

 「光栄です。……流石愛し子様ですね。一度で覚えていただけるとは思いませんでした」

 「愛し子、ですか。たまに言われるのですが、どういう意味なんでしょう?」


 私が尋ねるとエスター先生は少し微妙な顔になった。


 「誰にも説明されていない?」

 「髪と目の色が同じだとは、言われました」

 「それは愛し子の見た目ですね。簡単に説明すると、世界や女神に愛されているようだということから愛し子、と呼ばれるのです」

 「あいされている?」

 「ええ。見目麗しい、記憶力が良い、身体能力が優れている、老化が遅く寿命が長い」


 それは……また。髪と目の色が同じであれば無条件でそう、思われるのか……?というか童顔ってだけじゃないのか、老化が遅いって。寿命とか……人類という同じ種族ならそう変わらないだろう?


 「本当にご存じないのですね。一体どのような育ち方をしたのです?」

 「どのような?」


 異世界から来ました、なんて言えるわけもなく。そもそも私の国は大体の人間が同じ黒い髪と黒い目をした大和民族だったし、そんなに美人でもなかったし……。


 「記憶にないのですか?」


 いや、言えないなぁと思っただけで。あの湖で目が覚める前、私は……え?あれ?何をしていた?手が震える。記憶がないわけじゃないんだ。地球、日本。私の名前も家族の名前も。友人たちも仕事内容も、思い出せる。おしゃべりの内容だって、進行中のプロジェクトの内容も。ただ、記憶が断絶していると認識できない。私はいま、慣れ親しんだ環境にいないのに、その直前に何があったのかがわからない。記憶の中ではどこまでも日本での日常が続いている。



 怖い。気持ち悪い。でも何より気持ち悪いのが。



 私は、なんで。尋ねられるまでそれに気付かなかった?異世界に来るという異常事態に思考が止まっていたとは言わせない。落ち着ける環境までもらって十分に思索にふける時間はあったのだ。それに。なぜ言葉がわかる?日本語に聞こえるという状態ならまだしも、違う言語を話して聞いているという自覚があったのに。


 「ノーチェ様!?」


 カップが手から滑り落ちる。気持ち悪い。吐きそうになって口元を押さえた。

 違う言語を、それと理解して話すことができる。それは、その言語を習得しているということだろう。学んでもいない知識が、私の中にある。努力することなく、刷り込まれている。私が、自分で、習得しようと選別したのではない情報が、知らない間に詰め込まれている。

 言葉は、思考するための道具だ。思考をある程度規定できるモノでもある。そんな重要なものが私に植えつけられていたのに、なぜ今のいままで、拒否感を抱かずに好都合だとしか思わなかった……!?


 「ノーチェ様、思い出そうとしなくて結構です」

 「……きもち、わるい」


 そうつぶやく言葉も、この世界の言葉だ。喉の奥がひきつる。人は一人じゃ生きていけない。他者がいないと自己を確立できない。わかってる。でも、それでも私は私を作り上げたい。私は私でありたい。自分で意識できない自分があることに我慢がならない……!手足が冷えるこの感じは、貧血だろうか。エスター先生が背をさする。メイドを呼ぶ鐘を鳴らしてからすぐに自分の外套を私の膝のうえに広げる。


 「ノーチェ様、大丈夫です。思い出さなくて結構です。吐きそうなら我慢せずに吐いてしまってください」


 はは、流石に綺麗な女性の前でそこまで醜態をさらす気はない。ないけど、あー本当に貧血みたいだ。寒いし視界が暗くなる。怒っているのだから頭に血が上っても良いだろうにと少しのんきなことを思いながら、私は意識を手放した。





 ふと目を開けるとアルドさん(団長さんの家の執事さん)が夕日の差し込む窓に向かっていた。眩しいなあと思っているとカーテンを閉める。夕日?


 「アルドさん……」

 「ああ、ノーチェ様!目が覚めましたか」

 「おはようございます……?」


 ん?目が覚めたのに夕方?どうぞ、と差し出された水を飲む。あー、そう言えば朝起きて、午前中にエスター先生が、来たよな。文字を教えてもらって……雑談中になんだか気分が悪くなった、んだった。


 「ご気分はいかがですか?」

 「特に、なにも。あれ、体調を崩したんでしたけ?」


 なんで気分が悪くなったんだっけ、と考えようとしたらアルドさんが気分がよろしいのでしたらどうぞ、とお茶菓子を差し出してきた。マカロンだ!口の中でほろほろ崩れていく感触がお気に入り。


 「美味しいです」

 「それはようございました。旦那さまも心配してらっしゃいました。体調が良いようでしたら夕食をご一緒にいかがですか?」

 「わかりました、お願いします」


 団長さんと向かい合って食事とか至福の時だよね!美味しいものを見た目麗しいオジサマと食べられるんだから!




 大げさなまでに団長さんは私の事を心配してくれていた。不謹慎ながら嬉しい気がする。後、エスター先生が謝ってたって伝言を聞いたが別に彼女のせいで体調不良ってわけじゃあるまいし、と言ったらにっこりと笑ってくれた。他の先生が良いか、とも聞かれたけど彼女みたいな格好良くてお茶いれるのが上手な女性がたくさんいるとも思えないので却下。これから先、しばらくは一日置きで会えることになりました。やったね!

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