第3章 逆さまの手といくつもの手

 午後に何もする気になれずに自室で過ごしているとき、九郎は本を読む以外にすることがない。彼の前ではテレビはおろか旧式のレコードプレイヤーすら動かず、映画や音楽とはとんと縁がない人生を送ってきたのだから当然といえば当然だ。まだ十年ほど前までは娯楽小説に夢中になれたが、結局どれも似たようなものだと達観してしまってからは読む頻度も減っている。飽きないのは思想書と詩集だったのでこのホテルに来てから何冊か買い求めている。今は詩集を開いていた。

 エリが持ってきてくれたコーヒーは冷めていて、添えてあったアーモンドにも手をつけていない。何も口にする気になれない憂鬱な午後は誰にでもあるものだろうが、この日ばかりは読んでいた詩の陰鬱さのせいだった。


いくつかの手――

に似た 不安が

草になりやってきた


素早く――絶望ども 貴様ら

陶工! ―― 素早く

時が粘土をそちらにやるぞ 素早く

涙が得られた――


もう一度 青紫の皹状ひびじょうの草に

僕らは取り囲まれる それが

現在だ


 手のフラクタル構造と「草」とだけ書かれている植物の構造と壁のヒビ……。その相似形にすら不安と絶望を感じさせるとは何事かと問われれば、かの詩人の人生を知らずには語れない。九郎は詩人の評伝を読むことでそれを知っていたが、そうでない者にはどう写るのか。暇つぶしに思考を巡らせてみるが、当然のように答えはない。

 ノックの後にエリが入ってきた。コーヒーはまだ飲むつもりだと告げようとしたのだが、それより先にエリが用件を口にした。

「先生に妙な手紙が来ているんです」

 患者なのに先生とはミスマッチだが、エリは馴染んでからすぐに九郎のことをそう呼び始めた。「なんかそんな感じがする」のだそうだ。

「僕に手紙なんて珍しいな」

 九郎は手紙を手に取った。宛先は《ホテルの患者様》になっている。

「そういえば昔のお知り合いとかからお手紙ないですね」

 屈託のない明るい声でエリは言った。天使のような笑顔である。

「それを友達いない人に言ったなら大変だと思うよ」

 九郎はぼやいたが、ともかく手紙を開封することにした。

「……まぁ僕の場合は逃げてきたようなものだからいいのだけれど」

 その言い訳はエリには聞こえていなかった。

 出てきたのは不思議なほどぼろぼろになった紙だ。もともと紙質が良くなかったのにくわえてかなりの年月が経過したもののようだ。だが、折りたたまれたそれを開いてみるとそれでも文字の青インクは鮮やかだった。

《前置きは控える。宿願の大伽藍完成す。ご承知通り貴殿来ずば動かず。勝手ながら下記日時にて待つ。場所は地図通り。為念に記す。ロンより。》

 内容がよくわからない手紙だった。もちろん九郎にもロンなる人物の記憶はない。

「僕より前の患者さん向けのものだと思うけど」

 エリに見せると、彼も同意した。

「そうでしょうね。先代へのものだと思います」

「そういえば僕は先代のことはまったく知らないし、聞いたこともないのだけれど、どんな人だったんだい?」

「もちろん奇妙な人でしたよ」

 エリはそう言ってから記憶を探るように視線を天井に向けた。

「自分だけが正気で世界が狂っていることを証明しようとした人でした」

「そりゃあ長い道のりだ。しかし、そう生きてみたいものだね。パーフェクトな人には違いない」

 心底からそう思って九郎は言った。

「患者さん同士だとそう思えるものですか?」

 不思議そうにエリは言った。

「君は自分が正気だと思っているだろうか?」

 九郎は聞き返した。

「それは……改めて言われると困りますが、正気だと思っているでしょうね。そうでなければ普段暮らせないんじゃないかと思います」

 エリはきょとんとしつつも素直にそう答えた。

「そう思っているのが普通だろうさ。でも、どんなに普通の人でも、ある局面になると自分が狂っていることがわかる。極限状態では正常な判断はできない。そして日常生活のありふれた風景の中に極限状態は潜んでいる。人はいつも理不尽な選択をしているものなんだ」

「そういうものですか」

 特段納得した風でもなくエリは言った。想定していた反応だったので九郎はそれを責めなかった。

「そういうものさ。君たちが普通だと思ってることは僕には無理だったりする。例えば僕は部屋で音楽を聴けない。でも、それもほんの二世代さかのぼっただけで僕の方が普通だったりする。ラジオなんて最近の発明だしね。世界には急激な改革が多すぎる。数年どころか数秒で常識の変わる発明が今も産まれている」

「少しわかったような気がします」

 エリがうなずいた。

「うん。それで先代はずっと正気だったのかい?」

「もう少しで世界の方が狂っていると証明できたのだと思います。自分でそう言っていました」

「なるほどね。それで、どこに行ったのかはわからないんだよね?」

「いつの間にかいなくなっていました」

「もちろん連絡はとれないだろうしね。でも、この差出人にはそれを伝えないと」

 九郎は困ったように手紙を見た。

「私が行きましょうか?」

 エリが手紙に手を伸ばす。

「いや」

 九郎はポケットに手紙を入れた。

「僕が行こう」


                   ○


 指定の場所は街の外れにある山間だ。この周辺の山は明らかに植物を拒んでいた。岩と砂礫だけが連なっている。乾いた空気のせいで山の間を縫うように続く登山道が遠くまで丸見えになっているのだが、山越えのためにはキャラバンを編成しなければなるまいと思えるほどに道のりは遠く思える。地図によれば一山越えたあたりが目的地とのことだが、九郎は早くも水のボトルを持ってこなかったことを後悔しはじめていた。

 これに似た岩山の間にある道は、中東と南米で経験したことがある。そのどちらでも灰色のマントを頭からかぶった一団が無表情で荷物をほぼ持たずに列を作って移動しているのに出くわしていたのを思い出す。宗教的巡礼か難民か感染症患者か。いずれにせよ好んで足を踏み入れる者など皆無なその場所を感情を押し殺して歩いて行く。その先にあるのが少しはましな場所かどうかなどということも考えずに、ただ前だけを見て進む。そういう道だ。

 小石が砂の上に浮いているせいですべる足下を気にしながら坂を登っていく。九郎は坂の途中で振り返り自分がどれほど歩いたかを目測する。見通しが良い場所では小山や丘は思ったよりも遠く感じる。ここでの一山は大した距離ではないはずだ。それでも山間の道を下りはじめて街が見えなくなってからは不安が増した。砂と石しか存在しない世界に紛れ込んだかのようだった。自分があの巡礼になったような心持ちさえしてくる。永遠にさまよっているかのような彼らに。

 そして不意にそれは現れた。坂を下り切ったところが大きめの窪地になっていた。その窪地にすっぽりはまるようにコンクリートの長方形をした建造物がそびえている。それは九郎の故郷、アジア圏によくある小学校の校舎に似ていた。

 坂を下っていくと小学校校舎との印象はいっそう強くなった。五階建てで等間隔に同じ窓が配置されている。同じ構造の部屋が複数並んでいる構造ということだ。ただ奇妙なのは使い道のわからぬ穴が各部屋の窓の斜め下に必ず空いていることだ。雨水の流出口かと思ったが、そうなると雨どいがないことがわからない。

「いらっしゃいましたか!」

 校舎の窓の数を数えている九郎に声がかけられた。校舎の中央にあったガラス張りの戸を開けて出てきたのは痩せた中年男だった。飾りっ気のない工場労働者風ジャンパーを着ていた。いかにも実用的なつくりで開閉部はすべてジップ、胸ポケットにはペンホルダーが縫い付けられている。が、彼は“服に着られている”という形容がぴったりだった。やせ細っていて服はだぶついており、バケツ型のワークキャップが目にかかるほどずり落ちていた。服はこの手のものに似合わずノリがきいており、靴も磨かれているというよりは新品の輝きを放っている。

「すまない。僕は……」

 九郎が口を開くと、彼の顔に落胆の色が浮かんだのがすぐにわかった。額が張り出しており眼窩が深くほお骨が張りだした神経質そうな顔立ちがさらに厳つく歪んだ。

「あなたは……?」

 敵意とさえ見える目線が注がれた。九郎は不快感を抑えてあらかじめ用意していた言葉を並べることにする。

「手紙を見て来ました。先代の患者は現在行方不明で、僕がカークブライド・ホテルの現在の患者です。このことを伝えようと思って」

 相手の敵意に似たものは消えたが、落胆はまだかなりのものだった。肩を落とし深くため息を吐く。こうなってみると、この男、意外に背が低い。さらにやせ細っているためとても小さな存在に見えてきた。

「残念です……。お伝えくださりありがとうございました。そうですか……あの方らしい」

「あなたがロンさん?」

「はい。この建物をお見せする約束だったのですが、果たせず残念です」

「先代とはお知り合いで?」

「勝手に弟子を名乗っておりました。が、私淑していたところで、彼は自由人でした。誰よりも自由なあの人ですので、私などではとても把握しきれない。つまり知り合いだったというとそうなのですがそう名乗るのもおこがましいというか……」

 帽子を脱いだロンの回りくどい言い方に九郎はうなりかけたが、ともかくその言葉にうなずいた。

「とまれ立派な方だったと」

「偉大な、ですな」

 自らの中で何かを消化したとみえて、ロンは帽子を胸に抱いて背筋を伸ばした。

「僕は会ったことがないので」

「そうでしょう。そうでしょうとも。そうであったならそのように気楽な物言いができるはずもない。あなたはあの方に比べれば、知性、品格、その他足りない者が多すぎる」

 ロンは大げさに首を振って帽子をかぶり直した。今度はあみだに額にひっかけるかぶり方でったので、その陰険な顔がはっきりと見えた。

「初めて会った人物にそのような態度とは紳士とは言えないでしょうに」

 さすがに九郎も苦情を口にした。ところがその言葉尻を捉えられる。

「紳士とは! はっ! また古い概念ですな。何をもってそう言うのかよく考えた方がよろしい。本質的な会話を避けるために生み出された文化概念で、資産なき者をあざ笑うための方便に過ぎません。品性下劣な俗物が自らの失敗を糊塗する言い訳に使った言葉だ。この場にはふさわしくない。この大伽藍の前では」

 急にロンは饒舌になった。

「大仰な言い方はあなたの癖ですか? この小学校が宿願の大伽藍?」

 九郎も手紙の言葉をあげつらう。

 ロンはさらに声を大きくした。

「これを小学校と見たのはあなたの目を認めましょう。そう、これは小学校をモデルに建築しました。ですが、これの素晴らしき機能を見抜けぬことは嘲笑されてしかるべきです。これぞ宗教無用の時代における最後にして究極の伽藍。宗教否定者の私があえてこの言葉を使わざるを得なかったほどの完成品なのです」

「宗教否定者?」

 狂人を見る目をロンに向けた九郎に、同じ視線が返ってきた。

「そうですとも! あなたも人種からするに無宗教でしょうに、何をそのような目を! いや、あなたの国にはナショナリストが多かったはず! あなたも所詮は主義者に違いない。どんな主義であれね!」

 もはやかける言葉はないようだった。九郎はこの場を去るべきだと思ったが、一方でこの建物への無用な興味を感じはじめてもいた。

「僕を主義者と非難したところで、あなたは何だと? あなたも何かを信じてこの建物を作ったのでしょうに」

 そう水を向けると、ロンは目を輝かせた。

「では仕方ない! あなたも患者の資質がある人だ! この建物の機能を見れば、私と世界標準となるべき完全なる思考方法を実行するためにどうすればいいか理解できるでしょう。そして理解していただいた暁には、あの方に見えた景色があなたにも見えるかもしれない!」

 何を言っているのか聞き返す間もなく、九郎は校舎の中央入口に向かって手を引かれた。ガラス戸の向こうは床がコンクリートで固められたホールだった。小学校でいえば下駄箱が並んでいるであろうそこは、ジグザグの列を作れるように木製のついたてによって区切られていた。もし人間が並んだなら最前列にあたる場所にレジスターのような機械が複数備え付けてある。

「ここで主義者たちは機械による審査を受ける。その機械は正確無比にその者が主義者かどうかを判定するのです!」

 レジスターのような機械には右手を押しつけるのであろう箇所があり、その左側にディスプレイが設置されていた。

「表示される質問に答え、その際の動揺を手と声から判定します」

「いや、その主義者、とは何の主義の持ち主のことで?」

 九郎が聞いた。

「主に宗教的な盲信を持っている者のことを指します。本質を歪んで捉えている者。狂気に侵されている者のことですな。国粋主義者、共産主義者、その他、様々おりますが、いずれも真実に目を向けていない者の総称です」

「しかし、大半の者は特に思想がないのではないですか?」

「そういった者は掘り下げた質問を何度も繰り返せばファシストとわかりますな! 思想がなくとも真実を知るものを排除するのがファシストは得意ですからね。彼らは特にすぐに主義者とわかるのです」

 ロンは自信たっぷりに言った。

「すると、ここは……」

 九郎が胸騒ぎに口ごもる。

「思想矯正施設です」

 一方のロンはきっぱりとした断言であった。

「使うことがあるとは思えないですが……。ねぇ、そんな機会はないでしょう」

 九郎が不安になって聞くと、ロンはそれを笑い飛ばした。

「ははっ! すでにあったのですよ。だからこそここにこうして以前のものをモデルにさらに素晴らしい機能を持たせた! 当時我々は祖国にこれを建築しました! 必要だったのです! ファシズムに傾倒していく愚民達を更生させるために! 無様な領土拡大主義で平和を忘れ、人々は軍拡と周辺国への挑発を行う政治家を支持し右翼団体を結成したのです。それを抑制すべき左派も非現実な共産主義者へと堕し、むしろ反平和的手段をもって右翼団体と対立した。つまり内戦と侵略戦争を同時に行う可能性すらあったのです。実際に主義者と判定された者は国民の九八パーセントに及びました。我らは人類の上位二パーセントにあたる知能を選抜対象とした知的団体を結成、科学的な絶対平和主義思想を創始したのです!」

 ロンは言葉の後半にはもはや九郎の質問に答えてはいなかったが、それでも聞き手は必要だとでもいうのか、部屋の案内をすべく校舎の奥へと九郎を導く。

 手を引かれて踏み込んだ一直線の廊下には、等間隔に扉が並んでいる。扉の上部にはそれぞれ部屋が何かを示すプレートがつけられていた。《教育室》、《特別教育室》と書かれた部屋が複数ある。

「一階はすべて教育のための部屋です。ここで座学を行います」

 《教育室》の扉をスライドさせる。学習用の机と椅子が並び、正面には黒板が設置されていた。何の変哲もない教室に見える。

「ただの教室だ。ここで何を学習するって?」

「思想ですとも、もちろん! それまで学校の一般的なカリキュラムに哲学は含まれていませんでした。それが間違いだったのです。多くの宗教の根本を理解し、迷信を廃するにはそれしかありません。自然科学も平行して教育します」

「ここで学んで……思想が変わるって?」

「変わったかどうかは再判定すればわかります。過去にあった施設では再判定をパスした者は入学者の一パーセント以下でしたが、現在では教育カリキュラムはさらに優秀に改良されています。おそらく倍近い向上が望めるでしょう」

「最初に国民の九八パーセントがここに入ったんじゃないのか? その一パーセント以下しか出られない?」

「ですからカリキュラムが改善されたと言っているじゃないですか。それに過去でもここから段階的に学習強度を高めていく工夫はありました。そこで次の特別教育室をご覧に入れましょう」

 ロンが隣の教室へと移動した。

 《特別教育室》は構造こそ《教育室》と同じだが、机と椅子のセットはベニヤ板で作られた箱状のものに替わっていた。箱は人がしゃがんで中に入れる程度のもので、現にかがんで入るための簡素な扉がつけられていた。それが四十ほども並んでいる。

「この中に人が?」

 九郎はすでに言葉少なになっている。精神の敏感な表面をアルコールで染ませた綿で撫でられているような気がしてきた。ひやり、ぞわり、と緊張が背筋を固める。

「そうです。箱の中には小さなモニターとスピーカーがあり、繰り返し映像と音楽が流れます。生徒は座ったままそれを眺めるのです。学習に集中できるよう彼らには薬品を飲ませています。強制と見えるでしょうが、ご覧の通り箱はあまり丈夫ではありませんので、すぐに外に出ることができます。皆、自主的に中で学習するわけです」

 ロンがやせこけた顔に微笑みを貼り付けた。鈍く重い空気が彼を取り巻いていた。九郎はその笑みが解かれるまで動くことができなかった。

「こちらは過去にも成果があがっています。ここでは約一〇パーセントが学習したそのままを行動に示せるようになります。残念ながら、その後にも継続的に学習する機会は必要ですがね。つまりここで学習成果があった者は上階で自己改悛のための労働を行うこととなります」

 ようやくロンの笑みが解けた。が、彼はさらに上階へと進むつもりだった。

「他の者は?」

 九郎は聞かずにはいられなかった。

 ロンは振り返らず廊下の行き止まりの階段に足をかけた。

「もはや改悛しようのない主義者ということになります。彼らは、まぁ、いわば、改悛者たちのさらなる自己改悛のための手伝いをする、というところでしょうか」

 九郎がその言葉をかみ砕くまでに一瞬あった。自己改悛のための手伝いとは……。

 ロンが階段をのぼる足音が高く響く。

 見上げると緑色の階段は上空に浮かぶ洞穴に向かってのびているかのように感じられた。清潔で静かで、まだ使われていない茫漠とした虚穴へと。

 ――この先はこの世ではあるまい

 予感ではなく確信だった。それでも足を運ばずにはいられなかった。

 階段をのぼる。ふと気づくと足音が複数になっていた。ロンの分。九郎の分。そしてさらに続く音があった。足音が増えている。振り返らずに数えてみようと思ったが、それはいつしか多すぎて数えきれなくなっていた。

 ぞっとして九郎は立ち止まった。ロンがややあって足を止めた。もはや行進とばかりに響いていた足音が一斉に止まった。

 ロンが勢いよく振り返った。彼は九郎の背後のそれに気づいて急に笑顔を浮かべた。凶悪さのない、実に無邪気なものだった。

「おお、やはり!」

 ロンは歓喜の声をあげた。九郎も振り返る。

 背後に行列ができていた。見下ろすと短く刈り込まれた頭が並んでいるのがよくわかる。毛と頭皮は黒と灰が混じり合った色で、まるで水のない河底がそこにあるかのようだった。一様に伏せられた顔の表情は見えず、ただ灰褐色の皮膚が骨に貼りついているのがわかるばかり。眼窩は落ちくぼみ、瞳すら見えず鼻梁の軟骨だけが干し魚のヒレのように突き出ている。全員が揃って着ている薄いパジャマ一枚だけの身体は一様にやせ細って肋骨が浮いており、布巾をかけた古い鳥かごにしか見えなかった。パジャマのボタンの千切れている者は情けなく下腹を晒していたが、使い古した空の革バッグのようにくたびれてへこんでいて、それが緩い呼吸のたびにかすかに波打っていた。

「やはり帰ってきた! これを見たかったのです! 患者がいれば彼らは帰ってくると思っていました! 患者様々ですな!」

 その生者とも死者ともつかぬ列をロンは満足そうに眺めていた。九郎が視線だけで疑問をロンに向ける。

「これが先代の見た光景です! 彼ら? もちろん主義者どもですとも! ファシスト! ナショナリスト! レイシスト! コミュニスト! 彼らはここに来なければならなかった者たちだ!」

 ロンのやせ細った顔は紅潮していた。背後に続く彼らに比べれば何倍も精気があった。再び足音高く階段をのぼりはじめた。そこには歌うようなリズムがあった。

 ロンの歩くリズムに同調してしまうのはあまりに不快だったので、注意して自分の歩幅で階段を続く九郎だったが、背後の主義者―捕囚―たちは弱々しくもロンと同じリズムを奏でていた。自然、九郎の足も揃ってきてしまう。

 二階に到着する。今度は部屋を示すプレートに記されているのはナンバーのみで、扉すら取り付けられていなかった。中には丸太が三列だけ転がされており、それに平行して鉛の管を半分に切ったものが床に埋め込まれていた。他にはブリキのバケツがいくつかと、積み重ねられた木の器があるばかりだ。捕囚たちの列はロンと九郎を追い抜いて先へ進み、整然と列を崩さず、次々と部屋に吸い込まれていく。彼らは部屋に入るや木の器をひとつ抱えると、丸太を枕に順番に横になっていった。

「彼ら主義者の寝所です。教育に成功した改悛者は主義者らの生活を世話し、そこで思想を変えぬ主義者たちの愚かさを振り返り、改悛を繰り返し、やがて完全なる常識人となるのです」

 その言葉通り、丸太一列が埋まると、やや血色の良いだけの捕囚が一人、丸太の横に立った。九郎の側からは見えぬ壁から両手で握る大きな木槌を手に取ると、それを構えて直立不動となる。

「常識人……」

 つぶやく九郎にロンが答える。

「そうです。我ら上位二パーセントの者に従うだけの常識人です。改悛し目覚めたとて知性は一度は主義者となってしまったという程度に低い。我らに従い、市民となるべき人々はせめて常識人にはなってもらわねば! そのために彼らはこの木槌で丸太を叩き、主義者たちの日々を管理します。従わせ、従うことを学ぶのです!」

 胸を張るロンと動くことを忘れた九郎の前を捕囚の列が途切れることなく過ぎていく。やがて二階の部屋が捕囚たちで埋まってしまうと、列は階段をのぼって三階へと続いていった。

「五階まで?」

「そうです。人数は計算されています。ちょうど五階までで埋まります。行きましょう、外から素晴らしいものが見えます」

 ロンは来た道を戻りはじめた。九郎も続く。

 一階の誰もいなかった《特別教育室》と《教育室》は満員となっていた。カーテンが閉められ暗くなった《特別教育室》の箱の中からは規則的な音声と悲鳴に似たうめき声が同時に聞こえていた。箱を内側から蹴っている者もいるようだが、監視についていたロンと同じ服の者――すなわち知的者――が箱を外部から乱暴に叩いてそれを制していた。隣の《教育室》ではやはり知的者が淡々と講義を行っているのが見えた。生徒たちはメモを取ることを許されず、ただただ静かに座っているだけだった。

 エントランスホールも人で混み合っていた。下着だけになった人々がうなだれて列をなし、機械の検査を受けるべく並んでいる。先頭の者が機械に手を置くたびに電子音が不正解とでもいいたげなブザー音を立てる。それが不適格のサインなのだろう。音を聞いた者は静かに押し殺した表情のまま機械を離れ再び廊下に列を作った。廊下にはいくつか椅子が並んでいてそこでパジャマを受け取りバリカンによる剃髪を受けるのだ。ホールには激しい感情も絶望もなかった。ただ表情のない諦念だけが無色無臭のガスのように充満していた。

 ホールの人々の脇を抜けて外へ出る。そこにも列が出来ていた。知的者たちが指導する中、捕囚となる人々が自らの服や眼鏡や時計を外してそれらの山に放り投げていた。そして両手を高くあげて、何も持っていないことを証明するために知的者たちの前で二度ほど回転した。その手がひらひらと舞うように見えた。そこではいつまでも手が、いくつもの手が回転していた。衣服の山の前で舞う手を先頭に、手を上に掲げた列は山を越えて向こうまで続いていた。巡礼者のように。難病感染者のように。

「どれほどの人がここに……」

 九郎は思わずつぶやき、ロンの言葉通りなら人が多すぎることに気づいた。いや、そう考える方がどうかしていた。これが現実であるはずがない。自分は二度もこの世ではないところに踏み込んだと感じたではないか。

 とはいえ、もちろんこれは幻想でもない。列に並んでいる者の顔を見る。幻想や夢と違い、その顔たちには確かに個性があった。個人の判別が確かに可能だった。彼らの顔には各々の人生が刻まれていた。彼らは確かに実在した者たちなのだ。

 過去にあったことが繰り返されているのだ。

 どこかの国ですでにあった光景がここで再現されているのだ。

 あの顔もこの顔も実際にここに入った者たちだ。いやこの建物は新品だが、同じ“ここ”に入ったのだ。

「幽霊……? いや……」

 九郎はつぶやいた。誰に聞くでもなかったが、それにロンが満足げな顔で答える。

「然り、か、然りでないかわかりませんが、彼らは患者であるあなたのおかげでここに蘇ったのです。わかるでしょう? 幽霊であろうとなかろうと、いや私は幽霊などは信じませんが、彼らは主義者である自分たちを悔いてここに並んでいる! 何度でも並ぶでしょう! 何度でもここで教育されるために! 素晴らしい! そして彼らが主義者をやめるまで、愚かさを捨てるまでここに並び続けるのです! 本当に素晴らしい! これぞ最後の大伽藍! これを建てることを示唆してくれた先代も素晴らしいが、やはりあなたも患者ではあった! ここを機能させてくれた! そして、ご覧ください! その働きを!」

 ロンが大きく腕を広げて建造物を、収容所を見上げた。その壁面を注視せよと。

 それを合図に、排水のための穴と見えたものから、一斉に血が流れはじめた。脈打つように壁面の穴からあふれ出してくる。丸太を枕にした人々が一斉に首を切られ、その血が床に埋め込まれた鉛管に流れ込んだのだ。

 血が壁面に枝分かれしたいくつもの筋を描く。暗く赤い。鮮血と濁った古血が混じり合っているとしか思えぬ複雑な赤だった。夕陽のようであり炎のようであり赤土の濁りのようであり鉄錆のようでもあった。それら複雑な赤の血は壁に痕跡だけを残して大地に染み込んでいった。逆さまになった人間の手の形だけが残った。

「彼らは死に、また列に並ぶ! そしていつか常識人となるでしょう! 割合が少なくとも、これなら人類はすべて変化できる! ああ、完成したのです! ついに! ついに!」

 やせた顔に熱情と歓喜を浮かべ、ロンは感涙を流していた。

 列は続いていた。何度でも殺されるために。

 もうあの階段で見たのと同じ顔の捕囚が服を脱いで手をあげていた。後列にも先ほど見た顔が並んでいる。望んでそうしているのか、囚われているのか。そのどちらであれ、彼らは永遠に“ここ”で殺され続けるのだ。

 ここに立っていればこの光景はいつまでも続くのだろうと九郎は思った。

「あなたはあの機械にかかったことは?」

 九郎はロンに聞いた。

 ロンが笑顔のままうなずいた。

「ありますとも! 何度も! 私が主義者だったことなどありません!」

 浮かれたようにロンは跳ねた。スキップに似た歩みで列をかき分けて扉をくぐると、機械に並ぶ者の先頭に割り込んで、右手を手形に押しつけた。

 否。

 と機械が告げた。主義者め! とブザーが鳴った。

 信じられない、という表情でロンが九郎を振り返った。が、その表情は驚きのみを示しており、絶望してはいなかった。

「どうやら、私はいつのまにか先代を……患者を信仰していたようです。……そうです、そうだ……あなたの先代を神のように思っていた。だからこそ宗教用語などを使って……」

 言い訳のようにつぶやいた後、納得した、とロンはうなずいた。その表情が段々と消えていく。並んでいる者たちと同じく諦念に表情を支配されていく。やせた知的者の顔はみるみる捕囚らしい顔へと変わっていった。

 ロンの目が何かを確認するように九郎を見た。

 九郎はただうなずいた。

 ロンはうなだれて奥へと入っていった。

 捕囚の列は、いつの間にか消えていた。

 ただ静寂がそこにあった。

 九郎は外へ出た。そこは一面を青紫色の花を持った背の低い草に囲まれていた。瞬時に時が過ぎ去ったかのようだった。草花をかきわけて建物を離れる。その指のように枝分かれした先端は離れないでくれとでもいうように九郎につかみかかり、まとわりついてきた。

 草むらを抜けて建物を振り返る。それは到着した時に見たそれと同様、ただコンクリート製の味気ないものだった。

 建物の中から奇妙な音が小さく響いた。二階のひとつの穴から血が流れた。その血は瞬時に乾燥し、赤黒い痕跡だけを残した。そして、その筋とまったく同じ形に建物の表面にひび割れがはしった。

 残ったのはひとつの逆さまになった手と風に舞ういくつもの手。

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