雨上がりの交差点と感情の色彩

前編


雲が重く垂れ込めていた空から、ようやく光が差し込み始めた。


アスファルトの匂いが、雨に洗われた街の空気と混ざり合い、独特の香りを放っている。僕は美大に通う学生で、スケッチブックを抱え、今日の課題「雨上がりの風景」のために交差点に立っていた。


こんな日には、不思議な光が差し込む。そう信じていた。


「この光、この匂い、すべてが絵になる。…よし、どこから描こうか」


初めは、気のせいだと思った。交差点を渡る男性の肩から、淡いピンク色の光が揺らめいているように見えたのだ。


「…疲れてるのかな。変なものが見えるなんて」


まばたきをすると消えたので、そう納得しようとした。

けれど、次に視線を向けた若い女性の頭上からは、太陽のように輝く黄色の光が放たれていた。


「…うそだろ?これは、気のせいじゃない」


僕は思わず声に出していた。周りの人々の様子が、まるで色を纏ったオーラのように見える。

楽しげな水色、憂鬱そうな灰色、深い紺色、そして鮮やかな赤色の閃光。

それぞれの色が揺らめき、彼らの感情の動きを映し出しているようだった。


「すごい…なんて鮮やかなんだ…!」


僕は、その光景に魅了された。今まで白黒だった世界に色が満ちていく感覚。

美大生として、こんなにも豊かな色彩を目の当たりにするのは初めてだった。


スケッチブックを取り出し、ペンを走らせる。


ピンクのオーラを纏った男性は、電話口で優しい声を出している。

きっと恋をしているのだろう。そのピンクは、朝焼けの空のような、温かく、柔らかな色だった。


黄色のオーラを放つ女性は、子どもへの深い愛情と喜びにあふれていた。その輝きは、周囲のグレーがかったオーラを少しだけ明るくしていた。


「人の感情って、こんなに美しいのか…」


けれど、美しさだけではない。

負の感情も、はっきりと色として見えた。


口論しているらしき女性のオーラは、どす黒い紫色に染まり、インクが滲むように広がっていく。その色は、不快で、目を背けたくなるような色だった。


「…なんて脆いんだろう、人の心って。こんなに簡単に、汚れてしまうんだ…」


誰もが、心に傷を抱え、隠している。

それが、こうして色として見えてしまうなんて。戸惑いと好奇心が、心の中で交錯する。雨上がりの交差点で、僕の新しい人生が始まった。


「僕は、これからどうすればいいんだ?この力と…」


◇◆◇◆◇


感情の色が見えるようになってから、僕はスケッチブックから離れられなくなった。


街に出れば、カフェにいても、電車に乗っていても、人々の纏う色の波が、僕の目を奪い、心に直接流れ込んでくる。感情が激しく揺れ動く人々のそばにいると、僕自身の視界も揺らぎ、特定の色の感情に引きずり込まれる感覚に陥る。


「…いやだ。もう見たくない…」


ある日、僕は強い青い光に導かれて、路地裏で泣く女性を見つけた。

彼女の悲しみの色は、深く、澄んだ青だった。

その青色は、僕の心に強く共鳴し、僕まで悲しくなってしまった。


「…ああ、駄目だ…このままじゃ、僕まで壊れてしまう…」


僕は慌ててその場を離れた。この不思議な現象を誰かに話すこともできず、僕は一人でこの「力」と向き合うしかなかった。


それ以来、僕は人混みを避けるようになった。キャンバスに向かっても、あの混沌とした色の波が目に焼き付いて離れない。

鮮やかな色も、汚れた色も、すべてが僕の心に流れ込んできて、筆を持つ手が震えるようになった。


「僕の絵は…もう、描けないのかもしれない」


そんな絶望的な日々を送っていた。









僕は、何か手がかりを探すように、図書館の片隅に座り込んでいた。


膨大な本の海に、この現象のヒントがあるかもしれない。必死に本を読み漁るうち、古びた民俗学の本に、僕は希望を見出した。そこに記されていた「色彩の共鳴者」。


僕と同じように感情の色を見、それに共鳴し、時に影響を与える者たち。


「僕だけじゃなかったんだ…」


僕は震える手で、その本を握りしめた。

そして、本に挟まれていた、一枚の写真に目が留まった。満開の桜の下で微笑む、一人の老人。彼の顔は穏やかで、写真なのに温かい光が放たれているようだった。写真の裏に書かれた住所を頼りに、僕は小さなアトリエを訪ねた。


扉を開けると、油絵の具の匂いが広がり、キャンバスには信じられないほど鮮やかな色彩で描かれた抽象画が並んでいた。どの絵も、温かさや、希望、優しさにあふれていて、まるで生きているかのようだった。奥から出てきた老人は、僕を一目見るなり、穏やかに微笑んだ。


「いらっしゃい。…君も、見えているのかい?」


彼の名はハルカさんといった。彼は僕と同じ「色彩の共鳴者」だった。


「どうして…僕と同じだと、わかったんですか?」

「君の纏う色が、私と同じ色をしているからさ」


ハルカさんの言葉に、僕は安堵した。彼は、僕が体験した現象を丁寧に説明してくれた。


「感情の色に引きずられないように、自分をコントロールしなければならない。それは、自分の心を『無』にすること。そして、相手の感情の色をただ『観察』することだ」


「…ただ、見るだけでいいんですか?でも、それはあまりにも無力じゃないかと…」


「君は、見えていることに意味があると考えているようだね。だが、力は使い方次第で毒にも薬にもなる。まずは、その力を受け入れることからだ。色に意味を求めすぎてはいけない。ただ、そこに存在する、美しい光として受け止めればいい」


ハルカさんの言葉は、僕の心を軽くしてくれた。


僕は彼のアトリエに通うようになり、感情の色彩との向き合い方を少しずつ学んでいった。僕は、この「力」が、単に色を見るだけでなく、何かを「描く」ことと繋がっているような気がしていた。


ハルカさんの絵画は、感情の色をそのままキャンバスに落とし込んだようだった。彼のアトリエで、僕は自分の「力」を、どう生かすべきか、深く考えるようになった。

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