聖獣人アルファは事務官オメガに溺れる
白
第1話 あの人の記憶
あの人は低く穏やかな声だった。
その声で名前を呼ばれると、マイネは心地よさに蕩けそうになり、笑みが溢れた。
あの人の柔らかく黄金の毛は、獣の尖った耳と長い尾が動くたび、輝きを増し、同じ黄金の瞳で見つめられてしまうと、目を逸らすことができなかった。
あの人の手がマイネに触れ、胸の中で眠りについた日。
あの人に婚約者がいることは知っていた。
あの人とのすべての記憶を胸にしまい、マイネは時々、思い返している。
「起きて」
「起きて」
幼い声がする。
マイネは、ゆっくりと瞼を開け、目の前のカスパーの顔を見て、小さな身体を腕の中に閉じ込める。
「おはよう」
「お父さん、おはよう」
男オメガのマイネが四年前に出産した獣人の息子カスパーだ。
カスパーの三角の耳がマイネの頬を擽り、長い尻尾がベッドのシーツをパタパタと叩いた。
ベッドからするりとカスパーが降りる。
マイネは伸びをしながら、カスパーと一緒に朝日が差し込む寝室を出た。
小さな台所で朝食のパンと卵を焼き、テーブルで向かい合って食事をとる。
「いただきます」と手を合わせた。
小さな頬を膨らませて食べるカスパーはマイネの宝物だ。
「ゆっくり食べろ」
マイネは笑って、カスパーの頬を指で突く。
カスパーは飲み込むと、口を開けた。
「パン、美味しい」
カスパーの瞳の色は黄金で、マイネの菫色の目とは似ていない。
髪の色もマイネは鳶色でカスパーは黄金だ。父親に似たのだ。
父親は死んだとカスパーに伝えていた。
カスパーはそれを信じている。
カスパーのもふもふな金色の尻尾が、嬉しげに動く。
獣人のカスパーと人間のマイネの違いは、三角の耳と長い尻尾があるだけだ。
十歳ぐらいまでの獣人は、カスパーのように人間との差異は少ない。
成長すると獣型の姿にも変化できるようになり、身体能力も上がる。
カスパーも六年後には、父親と同じ獣型にも変化できるようになるはずだが、そのことをマイネは考えないようにしている。
カスパーには父親は獅子獣人だったと教えているが、それも嘘だった。
あの人は、特別な獣人だ。
「ごちそうさまです」
カスパーが両手を合わせた。
マイネの家は、質素な寝室と台所があるだけの狭いものだったが、今はそれだけで十分だった。
着替えて、外に出る。
石畳に舗装された道路を、カスパーと手を繋ぎ歩いた。
ここアンゼル王国は、獣人と人間が暮らす広大な国である。
馴染みの果物屋の店主と「おはよう」と挨拶を交わす。店主は人間だ。
その隣の店主は虎獣人で丸い耳と長く細い尾がある。
マイネとカスパーが手を振ると、にこやかに手を振りかえしてくれる。
獣人も人間も隔たりがなく、性格に差異もない。
人間のマイネが獣人から差別を受けることもなく、反対に差別することもなかった。
聖獣人のディアーク王が統治するアンゼル王国は王都を中心にして、東西南北に区切られ、マイネは北部に位置するアプト領で暮らしている。
アプト領は比較的広大な土地を所有しているが、山と湖に囲まれた地形のため、人が住める場所は限られる。
北は隣国ガッタとの国境があるが、二つの国に諍いはなく、自由に商売ができるほどの友好関係だ。
そんな山間の長閑な景色のアプト領に移住したのは、カスパーの妊娠中のことだった。
男女の性別に加え、アルファとベータとオメガの3つのバース性が存在し、オメガであれば、男のマイネであっても直腸の奥に子宮があり妊娠が可能であった。
生まれながらに容姿と頭脳と体力に優れ、カリスマ性をそなえたアルファ。
七十パーセントの割合を占め、もっとも人口の多い平凡なベータ。
そして一番希少であり、優秀なアルファを出産する確率が高いオメガ。
十歳になるとすべての国民に血液検査が実施されてバース性を知ることになる。
二十分歩き、アプト領で一番大きな屋敷の門の前を通りすぎ、隣の病院に辿り着く。
「おはようございます。ゲリン」
掃除中のゲリンに声をかけた。
三角の尖った耳と長毛に覆われた長いもふもふな尻尾のゲリンは狼獣人だ。
「おはよう。マイネにカスパー。今日も元気そうだな」
ゲリンは、マイネと同じような華奢な身体をしているが、オメガでありながら剣の達人だ。
ゲリンがカスパーの頭を撫でる。
ここは、オメガ専用病院でマイネがカスパーを出産した場所でもある。
オメガのみが受診でき、発情期中の保護病棟と出産病棟が共にあり、アンゼル王国屈指のオメガ専用病院に違いない。
マイネとカスパーは重い扉を開けて中に入ると、十脚の椅子が並ぶ白い廊下を進む。
マイネは出産後、職を探していたところ、この病院で運よく雇われることになった。
医療の知識はないがマイネでもできることは多い。
奥の扉の院長室を開ける。
「おはようございます」
重厚な机の後ろに座る院長エモリーが顔を上げた。
「おはよう」
エモリーは病院の隣の大きな屋敷に住んでいる。
熊獣人の男オメガで、アプト領主の人間のアルファと同性間婚姻をしている。
オメガとアルファの同性婚も、獣人と人間の婚姻も珍しくなかった。
「今日もよろしく。保護病棟に五人入ってるから、世話を頼む。あと出産が一件あるから、部屋の準備をお願い」
「はい。わかりました」
机の影から小さな顔がぴょこぴょこと飛び出した。
エモリーの双子の子供だ。
獣人と人間の六歳の女の子の双子だった。
カスパーの尻尾がブンブン揺れる。
仕事中、エモリーのお屋敷に預けているカスパーは双子と大の仲良しだ。
カスパーと双子が駆け出して部屋を出ていくのを見送ると、マイネも退室して仕事を始める。
五年前。
二十三歳だったマイネが大きな鞄一つだけでアプト領に移住し、診察を受けるため、このオメガ専用病院を訪れた。
そして、思った通りの答えが院長エモリーから返ってきたであった。
「妊娠してますね。順調に育っていますよ。そうですね。六ヶ月後には出産できます」
エモリーの説明を聞きながら、マイネはお腹に手を添える。
ここに、あの人の子供がいる。
産みたい。育てたい。
あの人から離れて暮らすことを選んだマイネは、すでに挫けそうになっていた。
でも、あの人の子供がいれば、これからも生きていける。嬉しかった。
だが、ふと産まれてくる子がもし獣人だった場合を考える。
一生、隠していられるだろうか。
でも、あの人に似た獣人の子が産まれたら、なんて可愛いだろうか。
そう考えたら、マイネに不安などなかった。
そして、六ヶ月後にカスパーが産まれた。
オメガの赤ん坊は、腹を切って取り出す方法で産まれてくる。
産まれた赤ん坊を見たマイネは、初めてオメガでよかったと思えた。
あの人と同じ金色の目をカスパーが開けた時、抱き寄せて頬ずりをしたマイネの瞳から涙が流れ落ちた。
感謝した。
目まぐるしい子育ての時間は、マイネに生きる気力を与え、あの人との別れの記憶は、愛おしいカスパーに癒されていく。
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