ぬるめ

津多 時ロウ

 一九九一年、春。

 僕は駆け落ちして、独りになった。



 ――信子のぶこと出会ったのは去年の夏、環七かんなな沿いのファミリーレストランだった。

 贔屓にしているラーメン屋が臨時休業していたせいで、たまたま立ち寄ったそこは、家庭を持っていない僕にも居心地が良かった。ウェイトレスがきびきびとよく働いていたのも印象的で、独り身には広すぎるソファーに腰掛け、ハンバーグを頬張りながら女性たちを眺めるのも楽しかったのだと思う。

 そうして常連の如く通うようになった果てに、僕は一人の女性に恋をした。恋をしていた。胸をときめかせていた。影を探すようになっていた。東京に出て、真面目に働き続けてきた三〇歳の僕には、懸命に働く彼女が眩しく見えた。

 それが信子だった。

 彼女と付き合い始めたきっかけは、まだ、覚えている。

 何かの拍子に行きたい場所の話題になり、八年前、彼女がまだ中学校一年生のときに、千葉県にオープンした大型テーマパークに未だに行ったことがない、お金を貯めて行ってみたいと言ったのだ。これ幸いにと、そのテーマパークに連れていくことを約束し、片手で数えるほどしかないデートに成功したのが今年の一月のことである。

 そうして付き合い始めて一カ月もしない頃、結婚の約束もしていないのに、いや、或いは僕は結婚の話を少しはしたのかも知れないが、彼女が唐突に「響一郎さん、私と駆け落ちして下さい」と言ったのだ。

 今にして思えば、僕には信子が眩しすぎたのかも知れない。きらきらと輝いて、眩しくて、真っ白で、僕の目には、彼女のことが何も見えていなかったのだ。

『両親が心配してると思うので東京に帰ります。さようなら。 信子』

 三月に退職して、長野県の実家の両親にしばらく彼女と泊まらせてくれと電話で頼み込み、そうして電車とバスとタクシーを乗り継いで実家に帰ってみれば、両親は長期の旅行へ行くなどと書置きをして留守にしていた上に、一晩経って、更にこの仕打ちである。

 家の前の道に出て、代掻しろかき前の田んぼばかりの周囲を未練がましく見渡してみたところで、もう彼女の姿はどこにもない。体から力という力が抜け、両膝をついて崩れ落ちた僕の耳に聞こえてくるのは、小鳥たちの軽やかな鳴き声だけであった。

 だが、その小鳥たちの声に混じってどうやら人の声もする。

「ツチクテムシクテクチシブイ、ツチクテムシクテクチシブイ」

 その声は年季が入っていて、どこか楽しそうでもあり、それは僕のすぐ近くで止まった。

「なんだ、近所の坊主か」

 その言葉は誰に向けて投げられたものか。自分に向けられていたと気が付き、記憶の中からがった坊主が顔を出せば、今度はあれは誰だったのだろうという疑問が頭に浮かんだ。離れていく足音を目で追うと、ピンと伸びた背中の上には短く刈り込まれた白髪に浅黒い肌、足腰はしっかりとしているようで規則正しい。

 だが、思い出せない。

 顔を見ていないから、というわけではない。僕のことをがった坊主と呼ぶ人間など限られている。一人しかいない。その一人の名前が思い出せなかった。この人は、僕のことを知っていて、僕もこの人のことを知っている。記憶の中のこの人の、その名前が出てこない。

「お爺さん、ちょっと待って」

 僕はやむなくそう声を掛けた。

 声を掛けられた方はこちらに顔を向け、踵を返す。

「なにか用か?」

 低くしわがれた声は、決して穏やかでは無かったが、敵意が感じられるものでもない。

 それよりも僕には情報が必要だった。

「あの、僕の両親がどこに行ったのかご存知ではないですか?」

「知らん」

 すげない返事も、しかし途端に蘇ったのは両親の書置きの最後。

『田んぼを頼む』

 だから僕は思わずこう言ったのだ。

「それなら田んぼのやり方を教えて下さい」と。

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