魔法工学の隔世人

はむら いおん

プロローグ

第1話 900年前の叙事詩

 そこは、禍々しき装飾に彩られたくらき城だった。


 美しい容貌の長髪の青年が、荘厳な詠唱を紡ぐ。


 ──十界の星辰、閉ざされし門を喚呼せしは、幾億の星霜を超えて紡がれる星唱──


 天蓋が崩れ吹き抜けたような大広間では、凄絶な死闘が繰り広げられていた。

 中心に立つのは、禍々しいまでの魔気を纏った魔神。

 その周囲を囲むように、5人の人影が、それぞれの武器を手に相対していた。


 ──悠久の盟約より我、今ここにその秘蹟を開闢し、その神羅万象を乞呼せん──


 長髪の青年はその5人の内の一人。

 一人離れたところにいて、杖を掲げて術を編んでいた。

 青年を中心に夥しい魔力が渦巻き、青年の長い髪を波立たせている。彼の身に着けた宝石などの装飾品が燐光を放ちながら震え、肉眼でできるほど凝縮した魔力が青白い雷光のように周囲で爆ぜている。


「響け、星々の合唱──皆、離れろっ!」


 青年の声に呼応するように、魔人の周囲を囲んでいた4人の人影は飛び退った。

 直後、閃光が巻き起こった。

 魔神の頭上に幾何学的な魔法陣が生まれたと思った瞬間、そこから凄まじい量の閃光が迸り、驟雨の如く炸裂し視界を白く染めた。

 およそ、常識的な人間では操れない量の魔力の本流に、大剣を担いだ壮年の男が、「やったか!?」と声を上げた。

 が──


『フハハハ。おもしろい! おもしろいぞ! 人間!』


 光の爆発が鳴りやんだ後、魔神は哄笑を上げて片手を上げていた。

 魔神の肉体はところどころ爆ぜるような裂傷を受け、深紅の血液を流してさすがに無傷ではない風である。

 だが、傷は見る間に白い煙を上げながら修復され、十も数えぬ内に魔神の肉体は一切の余韻も残さずに完全再生されていた。

 それもそのはず。

 彼は「魔王」。

 この時代の人間にとって破壊の象徴たる、畏怖いふられたる実在する魔神だった。


『人族たちが結託し、仰々たる儀式を行っていることは知っていたが……。ハハ。まさかのまさかであったわ。世界の行く末を左右する、この世最大の秘術──それがまさか、たったの5人に世界の命運を託し我を討たんとする──《勇者》などという児戯が如き企みだったとは!』


 魔王たる魔神が、常人ならそばにいるだけで発狂死するほどの瘴気を纏っているのなら、それに相対する5人の人間もまた、それぞれ常人とは掛け離れた理力の輝きを放っている。

 神官衣に身を包んだ女は異界の存在である天使に匹敵する聖性を纏って魔王の邪気を討ち払い、先ほどの魔術師などは、並みの人間であれば人の形を保てないほどの膨大な魔力を全身に漲らせている。

 大剣を担いだ剣士は、巨岩すら易々と砕く脈々とした闘気に満ち溢れ、兜に隠れて素顔を見せずに槍を構える槍士は、周りの味方を呪い殺さんばかりの呪力を迸らせていた。

 そして最後の一人。

 5人の中で、おそらくもっとも年若い。

 まだ少年といってもいい細身の体格で、旅暮らしの長い毛先の痛んだ髪を、肩口で無造作に切りそろえた髪型をしている。その素顔は、少年とも少女ともつかない中性的な面差しで、しかしどこか人としての何かを欠落しているようだった。

 目が死んでいるのだ。

 もちろん、死体という意味ではない。

 その年頃であれば生気に満ち溢れているべき瞳に輝きはなく、死期を見通した老人が如き諦観で生気がない。表情もまるで能面のように一切の感情がなく、兜で素顔の見えない槍士はともかくとして、決意と覚悟に唇を引き締めた女や、女性のように整った相貌を緊張させた魔術師の青年、大剣を担ぎ巌のような顔を引き締めた壮年の男と違い、あらゆる感情が抜け落ちた人形がごとき表情をしていた。

 そして纏う理力。

 本来なら相反する力であるはずの聖性と魔性、その両方を滂沱ぼうだするが如き量を湛え、加えて闘気や呪力をはじめとした異種混合されたさまざまな理力を少年は全身から放っていた。


 およそ、常識では考えられないことわりに縛られた少年。

 少年こそが《勇者》。


 およそ荒唐無稽とされる──世界の行く末を、たった5人の戦士に託すこの世最大の秘術。

 この秘術を成すため、人族の国は神話の時代から語り継がれる祭器を持ち出し、本来排他的なエルフ族が助力し秘匿する神秘の一端を人族のために貸与した。

 そして5人は奈落を覗く死地と表裏一体の艱難を旅して、儀式を成すための様々な霊地を来訪して数々の幻想種が課す試練を突破し、そして結実した。

 救世魔法──《勇者》。

 それは、この年端のいかない少年──《勇者》を儀式起点セプターとする儀式魔術である。人族が持てる様々な秘蔵を出し合い、繰り返しても二度と再現することはできないこの世最大の秘術。

 もちろん、欠陥はある。──目に余るほど。

 たった5人に世界を託すのも馬鹿げた話なら、その中心となるのが年端のいかない少年であるのもおかしな話である。

 儀式起点を少年とする以上、この少年が討たれてしまえばそれで儀式は破綻し他の4人も加護を失う。そしてもしこの少年がその力を私利私欲のために振るおうとすれば、それを止めるべくもない。

 仮に魔王が「世界の半分をやるからこちらの味方になれ」と言って、それに少年が応じようものなら、世界を救うべき勇者は世界を滅ぼす覇者となる。

 だが見方を変えれば、それら諸々の欠陥が、この儀式魔術を強め補強する意味もあった。

 最強の霊獣と言われるドラゴンが、灼熱の血潮に逆鱗という致命的な欠点となる弱点存在を兼ね備えることでその鱗があらゆる魔術も刃も跳ね返す生体結界として機能するように、欠陥ともいえる少年という存在が、代償存在としてこの《勇者》という儀式魔術を補強する。

 そしてただ一人の人間、それが世界を救う可能性とすることで、《勇者》は人類の希望の象徴としてわかりやすい偶像となり、出自も不明な少年への祈りが、その存在を神格的な存在にまで高める。

 そのように、《勇者》とは、論理さと非論理さを併せ持つことで成す、実在する寓話であった。


 魔術師の青年が、落ち着いた声音で言った。


「あなた達魔族は、私たち人間たちの国の内部に入り込み、その動向を監視していました」


『左様。後は言わずもがなわかる。我らの監視の目を欺くために、あえて《勇者》などという非合理な手段を取ったのだな? 我々が放った尖兵、そのことごとくを返り討ちにした後、お主ら人族はヘイズミル平原に集結し、それらしい神殿を建立し、その大軍こそが決戦の儀式場と見せかけて──我ら魔族の本隊を誘き寄せた。だが本命は、こうして我が喉まで迫った貴様ら5人と! フハハハ、短命種たる人族は我には理解の及ばぬ行動をよくとるが、これこそ望外の極みよ!』


「ここであなたを討ち取らせていただきます。それで、この千年戦争を終わらせます」


 聖気を纏った女が、強い決意を込めて言った。

 哄笑を上げていた魔神は、笑みをひっこませて、さきほどに比べては淡々とした物言いで言った。


『──いいだろう。人族は貴様らに全てと言っても過言ではない秘蹟を授けた。貴様ら5人の首を跳ねて送り返せば、人族は絶望に包まれ、世界は我らの闇に包まれる』


「この剣に賭けて、そうはさせぬ」


 大剣を構えた男が、鉄塊のような巨剣の握りを確かめると、振りかぶった。


「ここで貴方を凋服ちょうふくします。魔王」


 聖気を纏った女が凛として言う。


「すべての人々の悲願を、此処に」


 魔術師の青年が詠うように言うと、詠唱を開始した。


「殺す……。終わらせる……。ここで……」


 槍士が初めて声を吐き、耳をそばだてねば聞き取れぬようなかすれた声音で言って四肢に力を漲らせた。


「………」


 《勇者》の少年は、一言も発さず、剣を構える。

 生気のない様子であるが、渦巻く理力の本流が、如実に少年の闘志を伝えていた。


 今までのやりとりは、ともすれば生死を分かつはずの敵同士の無駄な雑談にも見えたが、少なくとも人間たちには意味があった。

 魔王との死闘と、魔術師の青年の大魔法を発動した直後により、人間たち5人には疲労が蓄積していた。それぞれの理力を回復するための時間を欲したのだ。そのために魔王との話を引き延ばした。

 魔王の方はわからない。青年の大魔法を浴びた魔王もまた、体や魔力を修復するのに時間を必要としたのかもしれないし、あるいはそんなものも関係なく、人間たちとの会話の応酬を楽しんだのかもしれない。

 どちらにしろ、人間たちの息は整い、これ以上時間をかける理由はない。

 ここは魔王殿──本来、魔族領とされる魔族たちの住処にある魔王の居城である。

 人間たちの城塞とは違い、城というよりはどちらかというと儀式を執り行う神殿のような存在が本来の用途らしく、もともと詰めていた魔族の数は少なかった。ヘイズミル平原に陣取った囮の人族軍本隊も陽動として大きな効果を発揮していたのだろう。

 とはいえ地理の関係上、いくらでも援軍が駆けつけてもおかしくない状況である。

 5人にとってそれは当然都合がいい話ではなかった。


 凄絶な死闘が再開された。

 魔王の爪刃が風を切り裂いて振り下ろされ、渦巻く瘴気がただそばにいるだけで5人を蝕む。

 聖性を纏った女が絶えず加護をかけ、癒しの秘術を連続して使用しながら、それでも癒しきれない傷が5人に蓄積していく。

 5人の斬撃、刺突、そして魔術が、度々魔王に突き刺さった。

 だが魔王にふさわしい魔の祝福を受けた魔王の体躯は強靭で、闘気を十分に練り込めた武技アーツでなければ有効打とならず、例え傷を負わせたとしても、たちどころに修復される。


『かゆい! かゆいぞ! 人間! 人類が存亡を賭けたこの世最大の秘蹟がこれか!』


 疲労の陰りを見せはじめた5人に対して、魔王は健全そのものだった。

 むしろ5人を鼓舞するように言葉で煽る。


『ふんぬ!』


「きゃっ!」

「ぐぅっ!?」

「……っ!」


 魔王が魔力を振り絞り、衝撃波を放った。

 それに神官衣の女性、大剣を振るう男、兜で素顔を隠した槍士が遠くまで吹き飛ばされる。

 無事だったのは、一人離れていたところで魔術を詠唱していた青年と、衝撃波の直撃を受けながら一人踏ん張った《勇者》の少年。


『《勇者》……』


 剣を地面に突き刺してこらえる少年を前に、魔王が感慨深げに漏らした。


『その齢。その年齢で、この秘蹟の支柱となるには、相当な修練と試練とおよそ我には想像できぬ世界を覆すほどの願望が必要だったはず。お前をそれほどの妄執に駆り立てたのはなんだ? 我を悪と憎む正義感か? 世界を救わんとする使命感か? それとも……』


「……言葉は、いらない」


 初めて少年が言葉を漏らした。

 高い声だった。

 少年は幼いが、さすがに声変わりはしているはずの年齢である。

 装具に身を包んでいるせいで体の線では判別できないが、少年はおそらく、男ではなく少女。


「私にはもう何もない。からっぽだ。私はただ《勇者》という記号として……お前を斃す」


 ぽつりと言葉を紡ぐ少年に代わって答えたのは、魔術を編む青年だった。


「あなたは覚えていないでしょう。エルミオール山脈のふもとにある、レヴェントという小さな村を。彼女はその生き残りです」


『レヴェント。……その武技、見覚えがある。そうか。アウダール流の生き残りか』


 魔王の言葉に、少年の肩がぴくりと動いた。

 それは初めて少年が見せた、感情の動きだった。


『《勇者》。アウダール流の最後の継承者よ。その名を教えよ。我は貴様の名を記憶にとどめておきたい』


「……彼女に名前はありません。それが秘蹟の代償。《勇者》という称号の代価。《勇者昇華》の儀式を経て、彼女には過去も、そして未来も無くなりました。彼女は人としての真名を捨て……それは長く彼女と旅をした私でも、思い出すことはできません」


『……ほう。そうか。そなたは、真の意味で《勇者》という象徴きごうになり果てたのだな。その神格級の霊気も、頷けるものよ』


 魔王はなぜか、言葉の一抹に寂寞せきばくとしたものを含んだ物言いで言った。


『憐れよの、《勇者》。手のひらで踊らされる偶像人形よ。だが、我は魔神の王。貴様が何を代償にし、何を背負い、何を願おうとも、それを砕かねばならぬ』


憐憫れんびんは、いらない」


 少年が声を漏らした。


「私は《勇者》。お前を──《魔王》を斃す触媒もの


 少年を含めて、5人たちの消耗は色濃く見えている。

 一方、魔王は健全そのもの。

 度重なる攻撃で、力の何割かはそぎ落としただろうが、力の差は歴然だった。

 それでも。


「──クローヴィスっ!」


 少年が、地面に突き刺さった剣を勢いよく振り抜きながら、声を張り上げた。

 少年の声に、魔術を編んでいた青年が、顔を上げる。


「ここで終わらせようっ!」


「……やるのですね、絶!」


『……? 何をするつもりだ?』


 魔王は、少年とクローヴィスと呼ばれた青年の空気が変わったのを感じた。

 しかしこの状況で何か打てる手があるというのか。《勇者》という儀式には、まだ隠された秘奥があるのか。

 しかしこの土壇場まで隠したのはなぜだ?


「援護します、勇者様!」

「おおおおおお!」

「………っ!」


 壁際で傷を癒やしていた3人も、《勇者》の号令に呼応するように、魔王へと躍りかかる。

 遮二無二の猛攻が魔王を襲う。

 それは後先の考えない、死力を尽くした連撃の応酬だった。

 再生の前に魔王を倒し切ろうと思ったのだろうか? 自分たちの理力が尽きる前に削り切れると思ったのだろうか?

 ──否。

 ここまでの手練れだ。力の底を見誤る人間たちではない。


(何を企んでいる……⁉)


 狂奔とも言える4人の強硬に、魔王は初めて、うすら寒いものを感じた。

 だが、《勇者》の加護を受けた4人。その全力を賭した武技の連撃に、さしもの魔王とて防戦に徹するしかない。小細工や反撃に転ずる隙を見いだせない。


『ヌウウウ!』


 戦士の大剣、槍士の連撃の刺突。

 それらを受け止めながら魔王は見た。

 二人の背に隠れるような位置で、特殊な呼気で闘気を編んで、剣を構えた少年の姿を。


「アウダール流奥義──」


 アウダール流。

 それはかつて、魔王が配下に命じて滅ぼさせた剣技の流派であった。

 アウダール流は、現在世に広まりつつある武技アーツのはじめの提唱者だ。

 元々、優れた戦士とは、魔術に対する知識がなくとも、本能的に体内のマナを練り上げ全身に張り巡らし、武器に導通させることを直感的にしていた。

 これにより、本来なら筋力に劣るはずの女性であっても男を超える怪力を誇る場合があったし、強度的に同じぐらいの鋼同士の打ち合いでも、鋼に導通した魔力の多寡で片方が断ち切ったりした。


 言い換えれば、戦士たちも、知らず知らずの内に魔術を行使していたのである。


 アウダール流の開祖はそこから一歩踏み込んだ。

 剣を振るうにも魔法の理とは無関係ではない。なら、剣術に魔術的なアプローチを加えることで、より強力な技を繰り出すことができるのではないか?

 はじめは、特殊な呼吸法による体内での魔力の錬磨で身体能力を引き上げること。

 俗に言う『闘気』の誕生である。


 そしてアウダール流の最大の発明とされるのが、武技アーツという概念。

 魔術において、『儀式』というものはきっても切り離せない存在だ。

 特殊な祭場で触媒を用いて行う儀式魔術は、魔術師単身では不可能な規模の超常を可能とする。そうでなくとも一つの魔術を行使する場合でも、魔術師は儀式的な意味合いを加味して、呪文を唱えたり、舞い踊るような仕草をとったり、装具を整えたり一種無駄な代償行為を挟むことで魔術を補強する。


 そして武技とは、『武術で行う魔術』。

 闘気の練り方、剣の振り方。

 それを特定の手順を踏み、繰り返すことで儀式化し、それによってただの剣技が魔術的なブーストを受ける。

 無駄な動きをする必要があったり、動きが定型化し、相手に剣筋が読まれやすかったりなどの弱点もあったが、こうして開発された武技は、一つの魔術と同じと言っていい。

 ただの斬撃が飛躍的に威力が高まり、一撃必殺の威力を誇る。

 魔王はこの武技が普及するのを怖れた。そして一つの着想から、次々と新たな武技の型を生み出すアウダール流を怖れて、滅ぼすことを決めた。

 すでに武技の概念自体は広まってしまったため、アウダール流が滅んだ後も、独自に自らの武技を見つける者、騎士たちと宮廷魔術師が協力して新たな武技を開発する動きは避けられなかったが、それでも開祖となるアウダール流を滅ぼしたことで、武技の普及は数十年は遅滞したはずだった。

 その生き残りが今目の前にいる。


「その身に刻め! 魔王!」


 《勇者》の全身が極彩色の光を纏った。

 練り上げられた理力が唸りを上げ、全身から迸っている。

 そして魔術的な加護を受けた少年の体が雷光のように瞬き、魔王の反射神経をもってしてもコマ送りのように灼き付くような残像しか見えなかった。


「雷花創爪!」


『グハァァッ!?』


 皮膚を割らせても、決して肉に食い込ませなかった魔王の肩口に、少年の剣は深々と突き刺さった。

 臓腑を抉られたか、魔王は喀血し、口から深紅を迸らせる。


『み、見事……。我への憎悪でこれほどの武技を編んだか。……だがっ!』


 魔王は、深々と突き刺さった剣を握りしめた。


『仕留め切らなんだな! 《勇者》! 汝がこの神剣、離さぬぞ!』


 魔王は看破していた。

 《勇者》とは、様々な儀式的な概念の複合体である。

 それは少年の身に着ける様々な装備もそうであり、中でも手にした美しい長剣は、いかなる名工が鍛えた物をも凌駕する、神代の作品。

 おそらく人間ごとき短命種には再現不可能で、なにがしかの神話的存在に下賜された、神剣とでも呼ぶべきものだっただろう。

 その神剣が、少年の《勇者》の魔術的礎点として機能していることを魔王は見抜いた。

 すなわち、この神剣を奪い少年の手から離させれば──少年は勿論、その加護を受ける他の4人も、大幅に弱体化する。


『終幕の時が近いようだな! 《勇者》!』


「ああ。ここで終わろう。魔王」


『ぬ……?』


 魔王と少年の目があった。

 感情のないはずの少年の目。

 痛みに顔をしかめることや力を込める時にゆがむことはあったが、この死合いの中、その瞳は一切の怒りも、絶望も、憎しみも、映すことはなかった。

 その瞳がこの一瞬、魔王にはなぜか安堵しているように見えた。

 束の間。


『グハァ!?』


 魔王に深々と突き刺さった神剣、そしてそれを握った少年。

 その全身から、夥しい理力が迸った。

 様々な色彩を帯びた極彩色の光が、火花のように二人の周囲で爆ぜて荒れ狂う。

 いつの間にか、剣士も槍士も聖女も魔王から距離をとって、一人離れていた魔術師と合わせて、魔王を四方から囲むように布陣していた。


『これほどの理力………⁉ 制御せずに暴走させるつもりか⁉ 我とともに自爆するつもりか!?  《勇者》!?』


「違います。その程度ではあなたは滅ぼせませんから。魔神の王よ。その御方は、あなたを繋ぎとめるくさび


 聖女が、どこか悼むような表情で告げた。どうにか少年から身を離そうともがきながら、魔王は罵るような絶叫を上げた。


『楔だと……!? まさか、《勇者》とは……! 真のお前らの目的とは……!』


「魔王。あなたはここで眠るの。私とともに。そして私とあなたの終わりは、救世の叙事詩となる」


『ありえぬ!? それでいいのか人間!? 貴様が切望した願望は! 神の座にまで上り詰めて果たしたい宿願は! ただの終わりだというのか!? それでいいのか、《勇者》よ!』


「それには答えられないわ。私はもう空っぽだもの。《勇者》となる前の私が何を願ってこの座についたのか、私本人でも思い出せないの」


『やめろ! 考え直せ! 貴様は……! ただの短命種が如き理を飛び越え、神の座まで至ったのだぞ! そうだ! 貴様らは踊らさているのだ! まだ間に合う!』


「土壇場になったらあなたもさえずるのね。五月蠅うるさいわ……。クローヴィス」


 《勇者》の少年──少女は、遠くに佇む魔術師の青年の名を呼ぶ。

 魔術師の青年は、女性と見まがうかのような長髪と端正な顔に、懊悩を滲ませて、悲痛な表情をしていた。


「何を躊躇ためらっているの」


「ですが……! ぜつ!」


「やって」


 少女の言葉に後押しされる形で、青年は何かを飲み込むかのように肩を震わせると、杖を掲げ、朗々とした詠唱を開始した。


「………。我、乞呼する悠久の律命。仰堯たる天蓋の落星に万感の宿願を託さん」


『聞けぇ! 《勇者》よ! 貴様らをけしかける王侯貴族、その本音は──!』


「五月蠅い。黙れ」


『ぐおおおおおおおおおお! 聞けと言っているううううううううう!』


 迸る理力に、のたうつ魔王を視界にとらえながら、青年は言葉を紡ぐ。


「悲愴たる宿願を携えて星界に木霊する。久遠の彼方より大宇を見守りし星霊たちよ。その子らである我らの願いを聞き届け給へ。

 そに願うは希望。そに託すは未来。そに捧げるはここに在りし一人の英雄の御霊。

 どうか──」


 聖性を纏った女性、大剣を担いだ剣士は、瞑目するように目を閉じていた。

 槍士は兜で見えぬが、目線を下げた様子から同じく目を閉じているのだろう。

 そして魔術師の青年は──片目から落涙し、嗚咽をこらえて呪文を詠唱していた。


「どうか……。どうか、その久遠の静謐にこの者らを微睡ませ、永久の安息を──!」


『やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!』


「大願よ、今ここに。救世の法よ──。名を刻もう! そが叙事詩は星界の勇者として歴史に名を刻む!」



「君の聖称悠久とこしえに──《救世の勇者の法エインヘリアル》!」



 その瞬間、光の柱が立った。

 それは、この大広間はおろか、半壊した魔王殿の全てを飲み込む巨大な光の柱となり、はるか遠くの人間の国からでも視認できるほど巨大で、星界まで届くかのような高い柱となって、雲に吸い込まれるまでそそり立ち──しばし、闇夜を照らした後。


 光の柱が途絶えた後には、大広間には一つの彫像が残されていた。

 先ほどまでそこにあったように、絡み合うように立つ魔王と、それに剣を突き立てた一人の少年。

 異なるのは、その全身が万年氷のような半透明の結晶体で凝固し、微動だにせぬことだった。


「やった、のか……」


 大剣を担いだ剣士が、その大剣をゆっくりと下ろしながら、噛み締めるように言った。

 その顔は、どこか拍子抜けするような、呆気ないものだった。


「ええ……。終わりました」


 男に応えたのは、聖性をまとった女性であった。


「魔王は封印されました。《勇者》の手によって」


「動きだしたりは……しないのか。このまま、放っておいてもいいんだな?」


「ええ。この結晶はこの星海にあまねく存在する理力の結晶体。そこには聖性も含まれます。魔族の手では……いえ人間でも、生半な方法で解呪できるものではありません」


「そうか……。ならば魔族が押し寄せてくる前に、退却するのがいいか。……大丈夫か? クローヴィス」


 魔術師の青年はというと、杖を地面について、顔をうつむかせていた。

 すでに泣き止んでいる風であったが、その表情には沈鬱さがありありとあった。


「……大丈夫です。帰りましょう。人々が吉報を……魔王封印の報を待っています」


「…………」


 魔術師の青年の言葉を待たずに槍士の男が、無言のままざっざっと小石を蹴散らしながら、外へと通じる道を歩み始めた。

 それに剣士と聖女が続き、魔術師の青年も億劫気ながら歩き出す。


 ところが青年の歩みはふらりと横に逸れて、魔王と相討つ形で結晶となった少年の元へと歩みよった。


「絶……」


 青年は沈鬱な様子で口にした。少年とのやりとりでも何度か口にした言葉だ。

 《勇者》は名前を捨てたと言った。だが少年と青年の間でなにがしかのやりとりがあって、《勇者》となり名を失ったはずの少年をそう呼ぶように取り決めたのかもしれない。

 青年は、彫像となった少年に体重を預けるように額を押し当てた。

 その唇が、かぼそく動いて、擦り切れるような言葉を紡いだ。


「きっと……この後は、世界をよりよい方向に導いてみせます。あなたの献身が、無駄にならないように」

「そしていつかきっと、あなたを目覚めさせる方法を見つけます。それまで健やかに……眠っておいてください」



 そして900年後の極東──。

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