悪因悪果伝マガクグツ

木古おうみ

ジャンク人形:ネッドラッド、壱

 困ったな。普通ならこんなとき「何であたしがこんな目に」って言えるのに、両手の指じゃ足りないくらい理由が浮かぶ。

 でも、あたしの指は他人より二本少ないんだから最初からちょっと不利じゃないか。



 八本指のマグピーは肩の傷口を抑えていた左手を開いてみる。血塗れの掌は、本来あるはずの薬指と小指がなかった。


 ––––あたしの盗み癖が酷いのは認める。

 ロンドン一厳しい修道院に放り込まれても治らなかったんだから相当だ。でも、次に盗みをしたら指を切り落とす、なんて神に仕える女の言うことじゃない。


 本当はシスター・アインも脅しのつもりだったんだろう。

 金の燭台を盗んだあたしの前で、薪割り用の斧を振り上げた彼女の手はブルブル震えてた。あのとき平謝りすれば許してもらえたんだろうけど、あたしは手を振り回してしまった。


 結果、錆びた刃にぶつかったあたしの指二本は吹っ飛んで、礼拝堂のマリア像の上に落ちた。ちょうどキリストのおでこの辺り。


 一回の盗みで二本もやられるなんて勘定が合わない。だから、あたしはシスター・アインを殴りつけて、金の燭台をふたつ奪って逃げ出した。

 ああ、やっぱり神罰で死んでない方がおかしい。



 マグピーは感覚の消えた右足を引き摺りながら、ホワイトチャペルの路地裏を塞ぐ錆びた鉄扉を押した。蝶番は修道女の括約筋より硬い。こんな例えをしたらまたシスター・アインが怒るんだろうなと考える。


 追手の足音は労働者たちの猥歌に紛れて聞こえなくなった。

 英国全土を産業革命の波が埋め尽くして以来、夜のロンドンはさらに騒がしくなった。

 機械より安い労働者たちは、日中歯車よりも勤勉に手を動かし続ける。そして、夕刻になると、わずかな賃金を手に、空の胃にジンと屑肉を挟んだパンを流し込むためパブを訪れる。


 夜が更けて労働者たちに酔いが回ったときが、街娼とスリの活動時間だ。

 今夜のマグピーも多分に漏れず、酔い潰れて路地裏で眠る男たちから薄い財布を掠め取るつもりだった。


 木箱が積まれた狭い路地で倒れている人影を探すだけの手慣れた仕事のはずだった。

 だが、今日マグピーが見つけたのは煤で顔を黒く着た男ではなく、寝巻き同然の薄いドレスを纏った女だった。


 一目で安い娼婦とわかる派手な化粧は血の気を感じさせない。宵の口でこれほど酔い潰れる女は珍しい。春を売り始めて間もないのだろうと油断して近づいたときにはもう遅かった。


 マグピーは女の腹の下に手を差し入れ、ぐじゅりと不快な感触に触れた。

 酒や吐瀉物で濡れている訳ではない。切断されたばかりの鉄のような匂いがした。

 雲間から月光が差し、女の全身に貼りついた血糊を浮かび上がらる。女は腹を開かれて死んでいた。



 しくじった、と思うより早く、甲高い悲鳴が響いた。路地奥の娼館から胸元を大きくはだけだ娘が飛び出し、金切り声で叫んでいる。

 マグピーは咄嗟に死体から離れて弁解した。

「あたしは殺ってない! 来たときにはもう死んでたんだよ!」


 また、しくじったと思った。娘が叫んだのは死体を見たいではない。

 素朴な赤毛の娼婦の背後には、黒い人影があった。髪を真ん中に分け、高価ではないが手入れされたスーツを纏った紳士だ。


「これは失礼。恥ずかしいところをお見せしました」

 彼は品のいい苦笑をマグピーに見せると、娼婦に向き直った。

「アン、機嫌を直しておくれ。浮気なんて誤解だよ。奥でゆっくり話し合おうじゃないか」


 マグピーは引き攣った笑みを浮かべる。

「どうぞごゆっくり……」

 紳士は娘の肩を抱いて扉を閉めようとした。彼の腕の隙間から娘の瞳が覗く。

 三度目、しくじったと思った。



 彼女を知っている。修道院に放り込まれる前、マグピーの近所に住んでいた顔見知りだ。

 アンはいつもぼんやりしていて、娼婦の母に仕事の邪魔だと蹴り出されても微笑んでいる娘だった。

 誰もが盗癖を疎んで仲間に入れなかったマグピーにも話しかけ、嘘の不幸話を信じ込んでパンを与えてくれたこともある。


 アンは扉が閉まる直前に呟いた。

「マグピーだよね……?」

 答えを待たず、アンが唇を震わせた。

「助けて! このひとは客じゃない、脅されてるの! わたし見ちゃったの。あの娘を殺した……」



 アンが悲鳴を上げて倒れ込んだ。木の床が大きく軋む。

 マグピーは一歩後退った。半開きの扉から月光を反射する刃の輝きが見える。大振りなナイフを握った紳士が蹲るアンを見下ろしていた。


 アンが泣き叫ぶ声が響いた。

「マグピー!」

 突如扉が開け放たれ、突風のように黒い影が飛び出した。事態を飲み込む前に、マグピーの左肩に鋭く痛みが走った。

 涙で滲む視界に、ナイフを刺突の形に突き出した男の姿が映る。


 ––––嘘でしょ。やりやがった。本当に人殺しなんだ。

 男がナイフを上段に構える。マグピーは痛みを堪えて彼の顎を蹴り上げた。


 予想外の反撃に男が大きく仰け反る。

 マグピーは身を捻って逃げ出すと、肩を押さえて駆け出した。



 重厚な革靴の足音が追ってくる。

 待てと叫ぶこともせず、手負の獲物が失血で倒れるのを待つ狼のようにぴったりとついてきた。


 傾いた屋根から突き出す看板。路地の上に垂れる赤い敷物。明滅するガス灯。高速で流れていく。


 マグピーは激痛と息切れで混乱する頭を回した。

「信じられない、あいつ……切り裂きジャックだ!」

 今ホワイトチャペルを震撼させる連続殺人鬼。売春婦ばかりを狙い、初めは首を掻き切ったが、現在は遺体を切断して臓器の一部を奪うなど、犯行を重ねるごとに猟奇的になっていった。

 ロンドン市警ヤードから自警団までが捜査を行っているが、依然犯人は見つかっていない。



 路地裏を飛び出したマグピーは、真下に暗澹たるテムズ川が流れる橋の欄干に辿り着いた。足音は更に迫っている。


 マグピーは欄干に縋って叫んだ。

「娼婦しか殺さないんじゃなかったの!」

 闇の中から声が応えた。

「認識が誤りがある。私が殺すのは消えても誰も気にしない人間、そして、美しい骨格の者だ」


 男の声に重なるように、微かな機械の駆動音が響き出す。男の背後にもうひとつ人影があった。闇の中でも浮き出して見える、玉のような白さだった。

 人間ではない。

 マグピーが小間使いとして雇われ、三日で追い出された貴婦人の屋敷で一度だけ見た、白磁の人形に似ていた。


「ボーンチャイナを知っているかい」

「……ボーン清国チャイナがどうしたの?」

 男は呆れたように苦笑すると、人形を引き寄せた。

「彼女は気位が高くてでね。紛い物では満足してくれないんだ。この滑らかな肌には本物の人骨が使われている」

 マグピーは喉を鳴らした。人間大の白い人形の継ぎ目には、茶色ずんだ罅と乾いた血が見て取れた。



「数多の人形遣いを出し抜くには完璧な作品が必要だ。やっと彼女のお眼鏡に叶う腰骨を持つ娼婦を見つけたんだ。邪魔をしないでくれないか」

 男の声に呼応して白磁の人形が身を屈める。滑らかな腕が刃物のように尖り、闇を掻いた。


 脇腹を刺し貫かれる寸前、マグピーは欄干を蹴って飛んだ。

 夜風が全身を包み、テムズ川の急流とホワイトチャペルの胡乱な光が回転する。



 マグピーを受け止めたのは、堕ろされた胎児の死骸が浮かぶ河水ではない。硬質で鋭い感触だった。


 彼女は呻きながら身を起こし、真横から突き出した瓦礫の先端に悲鳴を上げる。あと少し着地点がずれていたら背面から胸を穿たれていただろう。


 辺りを見渡すと、闇の中に錆びた金属の塊が浮かび上がった。

 ここはテムズトンネルの入口だ。数十年前、川の北岸と南岸の間を新たな交通手段として掘られた地下道。そこに流れ着いた廃材が集まり、小島を作っている。


 マグピーはへし折られた車輪や発条を伸ばした機械の残骸を眺める。遥か昔、産業革命への反抗から職人たちが機械を打ち壊した、ラダイト運動の遺物だろう。


 河口に降りる階段から足音と駆動音が聞こえた。

 追ってきている。

 マグピーは瓦礫を押し退け、隠れる場所を探した。指先が毛髪のような感触に触れ、ブゥンと低い音が鳴った。


 一瞬、切り裂きジャックの人形が迫っているのかと思った。だが、ふたつの影はまだ段上にある。

 マグピーは八本の指で瓦礫を払った。

 金属の山に、男が埋まっていた。


 錆びと同化した赤毛から覗く頭皮は真鍮色で、左の眼窩は穴のように陥没している。

 所々焼け跡の残る肌は古い皿のようにひび割れていた。人形だ。

 擦り切れた作業服の胸元に名前が縫い付けられている。


「ネッドラッド……?」

 マグピーの声に応えるように、人形が目を開いた。緑の眼光が闇を裂く。

 それと同時に、マグピーの背後でふたつの足音が止まった。


「手間をかけさせないでくれ」

 男が掲げたナイフが振り下ろされる。闇に火花が散り、鋼と鋼の撃ち合う音が響いた。


 ジャンク同然の人形がナイフで貫かれた腕を振るい、壮絶な音を立てて立ち上がった。

「気に食わねえよなあ……勝手に作って勝手に壊しやがってよお……!」


 錆びついた全身が震え、軋む歯車が鳴る。

 人形の背面から噴出した蒸気が、テムズ川の霧と混じった。

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