穏やかな5月の陽気。田舎町の自然に包まれて僕たちはお互いに好きを確かめ合っていた。そんなときにあいつはやってきて僕の彼女を寝取って捨てた。そして全てが崩壊した。
ネムノキ
第1話 穏やかな5月の自然
僕は自然のなかでずっと過ごしてきた。都会が自然とは対極の位置にある現代の価値観において、自然に囲まれて生きるということは田舎者のひとつの特権みたいなものなんだと思う。あくまで、それを特権と思えるのは都会から離れたいと思っている人たちに限った話ではあるのだが。
朝。
起きると空高くをヒバリが小刻みな鳴き声を発して飛んでいる。僕は母親が作り置きをしてくれた朝ごはんを一人で食べて、コーヒー豆を挽いてアイスコーヒーを淹れて飲む。時間のあるときは、ベランダから見える一面の田んぼの景色をただぼんやりと見つめながら、朝鳥のさえずりを聞きながら、ゆっくりとコーヒーを流し込む。とてもおだやかな時間が僕のまわりでは流れている。
今日は時間が少しだけある日だった。朝の部活動がなくて、今日はいつもよりゆっくりと丁寧に朝の準備をした。余裕のある朝を迎えられた日は、今日という日が無条件にうまくいきそうな予感がする。
風が吹いている。
植えたばかりの背の低い稲が、風速を計測できるくらいに順番に優しく倒れていくのが見える。
「風速3m/s といったところかな。今日は行き道が少し楽そうだ」
追い風が吹いている。何もかもがうまくいきそうな予感。高校生の僕は根拠のない、輪郭のない自信にあふれていた。
それはたぶん、君がいてくれるからなんだと思う。僕の傍にいて、ずっとずっと離れないで僕のことを好きでいてくれる、そんな君と高校で会えるからなんだと思う。
君との会話が、君の笑顔が、君の温もりが、今の僕の幼い幸せを形作っていた。
「誰が風を見たでしょう。僕もあなたも見やしない……。そんなふうな言葉が確かあったけど、僕は風を見るすべを知っている。田んぼがあれば風の方向を見失うことはない」
間接的な風を体で、目で、感じる。
広大な自然のなかにぽつんと立つ、僕の家。
周りには田んぼと山と川と……生き物と。
自然のなかの小さな存在でしかないことを、毎日の早朝に僕は、様々な自然の切れ端を感じることで実感する。
『ケンッケーンッ!!』
遠くでキジの鳴く声がした。
僕はアイスコーヒーを一気に飲み干して、ベランダを離れた。
……
……
……
一面に広がる田んぼの、緑が繊細に風に吹かれて踊っていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「おはよう」
「おはよう!今日は少しだけ暑いね」
「そうだね。僕も自転車を漕いでて汗ばんじゃったよ」
「はは、ほんとだ。汗で肌が透けてる」
僕は同じクラスの ―― 僕たちの公立高校は本当に田舎にあるものだからクラスが一つしかない ―― 君と朝の学校でそんな話をしている。窓からは、海が見える。綺麗な海だ。太平洋に面している町だが、内海であるために穏やかな海面が太陽を反射している。
「乳首も見えてる。駄目だよ、ちゃんと下着を着ないと。擦れて痛くなっちゃうよ」
君はそういって、教室のなかで『乳首ドリルすな』を僕に言わせようと、乳首ドリルの動作をする。
「母さんにも同じこと言われてる。でも、中でシャツがクシャっとなるのが僕は耐えられないんだ。ゴワゴワするのが嫌いでね。だから下着は着ない派なんだ。大丈夫さ、ここは『ド』が付くほどの田舎だから、誰も僕の乳首に発情することはない。いたとしても、それは田舎のおばあちゃんたちさ」
「うわー、すごい自信。ちなみに私は発情してると思う?」
「僕の乳首なんて飽きるほど見てるだろ。この程度で君が発情するとも思えないけど。それとここは教室だし、発情したら駄目だろ」
「どうする?私がこんな状況で興奮しちゃうような、変態な女の子だったら。常識的な恋ができないアブノーマルな女の子だったら、どうする?」
「そのときはそのときだな。僕もアブノーマルになっていろいろと楽しむと思う。でも今までの君は清楚だったから」
「清楚なふりをしているだけの、ただの淫乱JKっていう路線も……」
君が止まらなくなってしまうまえに、タイミングよくチャイムが鳴った。君はそれを合図に、僕にウィンクをしてから廊下側の席へと離れていった。
今日の一限目は、数学だった。積分定数を『大谷翔平』にしたら、花丸をくれた野球好きで、子供好きの教師の鏡みたいな人が、今日はリーマン積分とかルベーグ積分とかの解説を熱心に黒板に向かってしている。
「先生たち公務員のやる気は、大谷翔平のHR一本で大きく変わってくるんだ。そして今日のHRを祈願して授業をすることでもやる気は維持できるんだ。僕たちにとって大谷翔平選手はそういう存在なんだ。かけがえのない人なんだ!!」
先生は途中、そんな私的な小言を挟みながら生徒たちとの双方向のコミュニケーションを図る。しかしあいにく、このクラスには野球好きは少なかった。僕もそのうちの一人だった。
「先生、私たちの町の廃校寸前の小学校にも、うわさのグローブってきてるんですか?」
クラスメイトのおしゃべりな子が、そんな質問をした。先生はもう、それはそれは。目をキラキラさせて熱く、グローブについて語り始めた。
「おお!!!!あるぞ!!どうだ!今日見に行くか!?」
「え、間に合ってるので大丈夫です」
「寝言は寝て言えぇえええええええええ」
元気な魂の雄叫びが、教室を通り抜けて、広大な自然へとこだましていった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
放課後。
少しだけ眠たい目を擦りながら、僕と君はまだまだ明るい18時という時分を、神社のなかで過ごしている。
海が近いということもあって、ここは海上安全の神様を祀っている神社だった。高校からは歩いて20分ほどという、山奥にあるこじんまりとした場所。
鳥居はうっそうとした木々に隠されるように、控え目にその存在を主張しているためか、それとも現代における地方の小さな管理人のいない神社のうらさびしさのためか、人はほとんど訪れなかった。来る人といえば、僕と君。ほんとうにこの二人くらいというものだった。
僕たち子供が二人きりになれる場所といえば、自然のなかしかなかった。近くには、そんな都会みたいな立派なホテルなんてない。そしてもちろん、ホテルに泊まるようなお金も持ち合わせていない。
僕たち田舎っ子は、そういう場所をうまい具合に見つけてきて、そしてこっそりと自然のなかでお互いの存在を確かめ合うように、エッチをしている。
それが僕たちの普通だった。
神社の、木の葉が散りばめられた縁側に腰を掛けて、僕たちはぼんやりと自然を眺めている。
そして、今日あったとりとめもない出来事、主に高校であったおもしろいこと、いらついたこと、驚いたことなどを思いつく限りお互いに話し合う。そして時々、将来のことなんて、たいそうなことを話してみたりする。
そんなゆっくりとした時間が流れている。
「三日月が見えるね。正確には三日月からちょっと過ぎた月だと思うけど。ほら、月の欠けてる部分がぼんやりと見えてる。あれって、どうしてかしってる?」
「どうしてなの?」
「月で反射した光が、地球でもう一度反射して、月に当たって。それがもう一度反射して私たちに見えているんだって。長旅をしてきて、光も疲れちゃったんだね」
「ははは、なんだか園児みたいな言い方」
「詩的でしょ。園児的な詩的表現が私は一番好きかな。純粋で飾らない感じがして」
「わかる気がする」
「ねぇ……来て」
僕は君が広げた腕のなかに、入っていった。
今日も君の体は汗ばんでいて、少しだけツンと鼻を刺すような香りがした。
足元に置いた蚊取り線香の香りも、ほんのりと風に流れて漂ってきている。
「いつまでもこうしていたい」
「ね……」
木々の葉がこすれ合う音が、サワサワと心地よく耳を撫でるように、あたりを満たしている。
なんでもない日々の瞬間が、今日もそこらじゅうに漂っていた。
【続く】
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