BiteRing〜この傷が愛の証〜
月神 奏空
第1話
何も、初めから彼に好印象を抱いていたわけではなかった。
興味や関心と呼ぶべきものすらもなかったかもしれない。
何度か顔を合わせている内に視界に入れば観察するようになって、その内に姿を目で追うようになった。
彼のほうからわたしに話しかけてくることはない。
わたしも彼に話しかけることはほとんどない。
そんな関係だった。
見上げるように首を伸ばさなければ、彼の瞳を見ることはできない。
他人の瞳を見ることに慣れていないことや彼が眼鏡をかけていることも相俟って、わたしは彼の瞳の色すら知らない。
それなのに気になって仕方がない。
どうやらわたしと同じで、彼も漫画やアニメを好んで見るらしいことは話を盗み聞きして得た情報。
好みの傾向からいくと彼とわたしの年の差はそう離れていないように思える。
その割には白髪混じりのくすんだ赤毛で老けて見えるな、などというのは正直にいってあまり褒められたものではない感想だろう。
しばらく立ち尽くしていたわたし、
「そこの弁当、取ってもらっていいですか」
「あ、これですか?」
こくりと頷いたわたしに、彼は嫌な顔一つせずに軽い弁当袋を取って手渡してくれた。
わたしは学生時代からうんと背が小さくて、「前ならえ」の号令がかかると、自身が基準であると主張するために腰の横に手を当てる癖がついている。
そんなわたしはいつも腕をいっぱいに伸ばしてようやく置いたロッカーの上に弁当を置いていた。
ちょっとでも元の位置から動いてしまえばもう自力で取ることはできなくなってしまうのだけれど、昼休憩の度に預かってもらっているロッカーの鍵を渡してもらう度に人に話しかけなくてはいけないのが嫌で置き場所を変えることはしない。
椅子か踏み台でも用意して自分でとることも考えたけれど、わたしは極度の高所恐怖症。
万が一怪我をしても大変だし、と思い直して背が高い人が通りかかるのを待っていたのだった。
「もしかして、ここで10分も待ってて……いや、さすがに……すみません……」
はっと時計を見てそう言ったのは
わたしが最近観察している相手だ。
決して睨みつけたりしたわけではなくて、ただ黙って見つめて東雲サンの言葉を聞いていただけだったのだが、何を勘違いしたのか彼はバツが悪そうに押し黙った。
「12分ですよ。おれ、終わるの早かったんで」
少しの訛りとちょっとした理由からわたしは一人称を意識して変えている。
もちろん、丁寧に接するべき相手に対してはきちんと普段通りの一人称を使っているけれど。
一方的に観察しているだけで親しいわけでもない彼に対しては丁寧に接するべきだと気付いたのは少し経ってから。
とはいえさほど気にならない失敗を誤魔化すために苦笑いをすれば、東雲サンも薄く笑みを浮かべた。
愛想笑いというほどにはわざとらしくなく、それでいて本心からの笑みとは言えないような、ぎこちない笑顔。
笑うのが下手だな、とまじまじと観察しながら、わたしはお弁当を頬張った。
「ご飯、それだけですか? 随分軽いと思ったら……」
彼の言葉に、食べているブロック状に固められたバランス栄養食を見つめる。
3回ほど咀嚼してカフェオレで飲み下し、弁当袋の中に空袋を入れて口を縛った。
「少しでも食べてりゃ職員さんも許してくれますもん」
わたしたちが働くのは一般企業とは異なり、就労支援事業所という障がい者向けの作業所だ。
A型とB型という分類があり、A型は仕事でB型はお手伝いといった認識してもらえればわかりやすいかと思う。
職員さんというのは上司にあたるような人達で、指導や介助をしてくれる存在。
あまりにも不健康な食生活を注意されたことがないわけではないのだが、わたしに元々昼食をとる習慣がなかったこと、家ではきちんと食事をしていることを何度も伝えたために今ではこのブロック状のバランス栄養食2本の食事だけでも黙認されている。
ほぼ同居状態の親友がフォローしてくれたおかげでもある。
「職員さんにも言い出せなくて。ほんと助かりました。ありがとうございます」
半ば投げるようにしてロッカーの上に袋を戻しながら感謝を告げる。
職員さんの中にはわたしよりもずっと背の高い人が何人もいる。
しかし、元々立場が上の人と話すのはあまり得意ではないわたしは頼むことが出来ずにいた。
ちなみに、東雲サンとわたしは同じ日に入所した同期である。
あと3分も待つことになっていたら、紅月は弁当を諦めて早々にタバコを吸いに外に出ていたことだろう。
さすがにそれは職員さんに注意されてしまうので避けたいところだった。
「置き場所を変えたらどうですか?」
「別に困ってないんで」
「まさに今困ってましたよね?」
困っていない、困っていた、と不毛なやり取りを数度繰り返し、二人で笑い合った。
ふつりと黙って頭を下げて挨拶をしたところで東雲サンが職員さんに声をかけられる。
彼はわたしより15分遅れの今からお昼休憩だ。
タバコとスマホの入ったポーチを抱えて、耳までついた猫のスリッパを脱いで持ち上げる。
元々は猫好きの親友が履いていたスリッパだけれど、わたしが入所した日にスリッパを忘れてしまったことから彼女に譲ってもらったものだ。
顔を上げた時、思いの外東雲サンの顔が近くにあった。
急に黙り込んだことを不審に思ったのか、顔を覗き込もうとしていたのかもしれない。
弾かれたように二歩下がったら、ロッカーに差さりっぱなしになっていた鍵の一つに背骨を打ち付けてしまった。
恐怖とも歓喜とも悲哀ともよく似ていて、しかしそれらとは全く異なるようなものを感じて戸惑ってしまう。
やけに心臓が高鳴り、呼吸すらままならなくなるようなその感覚をなんと呼ぶべきなのか、思いつかない。
未知の感覚に怯えながらもなんとか名前を付けようと足掻く内に休憩時間は終わってしまった。
咥えていたものの火をつけ忘れていたタバコを箱に戻して事務所の中へと戻る。
午後の作業の時間は思った以上に何も手につかず、ぼんやりと考え事をしていた。
わたしは異性の声に一番魅力を感じるという声フェチなのだが、最も好きなのは中音域の声。
気だるげな話し方をする人にはますます魅力を感じる。
東雲サンはまさしくそういう話し方をする人だ。
そんなことを考えながら三角形のパーツを量産していたら、水分補給の時間を告げられてハッとした。
そして同時に天啓のようにその言葉が降りてきたのだ。
「恋、だ」
音にしてみればなんと単純なことか。
パズルの残り1ピースがかちりとハマったような爽快感。
学生時代のかわいい後輩たちも既に結婚したり子供がいたりと少々の焦りを覚え始めていた30歳の夏。
わたしは初恋を知った。
とはいえ、どうしたものか。
常用している薬の副作用で訪れた眠気から欠伸をしながら考える。
あの人はその人が好きで、その人はこの人が。この人はあの人のことが好き。
恋など知らなかったわたしには少々複雑すぎたその関係のせいで、社会人一年目の秋にアルバイトをやめることになったことを思い出した。
社内恋愛なんて面倒なものはごめんだ。そう思っていたのにな、と悲観する自分とここは会社じゃないからいいか、なんて楽観する自分。
1ヶ月ほど前、わたしは親友のアズこと
『付き合うとか別れるとかで作業効率悪くなったらどうすんだよ』
『おれに迷惑かけんなよ、冗談じゃねえ』
『なんでもいいけど、普段と少しでも変わるなら反対だよ』
自分の声が頭の中で反響して、アズの泣き顔が浮かんだ。
『うちはソラじゃないんだよ。何も感じないソラとは違うの』
自分の言葉を後悔する暇もなく告げられた言葉。
今でも胸の奥に残った棘。
チクチクと痛みだし、呼吸が浅く速くなっていく。
「 」
言葉は音にならなかった。
それでも、側に寄ってきたアズはちゃんと拾ってくれた。
「大丈夫。大丈夫だよ、ソラ。ゆっくり話して」
優しく抱きしめられて、盛大に泣きじゃくった。
漸くしてから落ち着いて、好きな人が出来てしまったのだと微かな声で告げた。
アズの顔を見るのが怖くて俯いていたけれど、彼女によって顔を上げられる。
「よかったじゃん! 相手は誰?」
アズはまるで自分の事のように喜びはしゃいでみせた。
「ねえ、教えてよ。うちら親友でしょ?」
そんな風に言ってくるズルいアズに、わたしは「優しい人だよ」とだけ答えておいた。
例えば、わたしか東雲サンのどちらか、あるいは両者が普通であったなら。
告白なんかして、幸せになりましょうと将来を誓い合ったりするのもいいかもしれなかった。
例えば街で偶然出会っただけの関係だったなら。
ちょっと食事にでも行きませんかと声をかけられたかもしれない。
例えばの話。
そう、例えば。
そうやって考えることで、少し落ち着こうとしていた。
ありもしないことを想定して、そこに当てはまらないのをいいことに諦めという名のゴールを目指していくのだ。
アズは『うちはソラじゃない』などと言っていたが、何も感じないでいることなどわたしにだって出来やしない。
現にこうして胸の高鳴りを抑えるのに必死になっているのだから。
作業だって出来ていると言っていいのかわからない。
ひたすらに作り上げた三角形のパーツを組み上げながら、いっそのこと嫌いになってしまえば話は早いはずだと東雲サンの嫌なところを探し出すことにした。
結論から言うと、無駄な努力だった。
嫌なところを探そうと思って観察していれば、どうしても大好きな声とぎこちない笑顔に胸を貫かれてしまう。
観察し続けて1週間、1ヶ月、半年が過ぎ、あっという間に1年。
冬の寒さを乗り越えた想いは、猛暑と共に更に熱を上げ、2度目の冬に差し掛かる頃、爆発した。
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