サワダ姉弟の体育祭

宇部 松清

第1話

 五月。

 からりと晴れた日である。


 はぁ、と小さくため息をついて、沢田さわだ真知子まちこは赤いハチマキを締めた。


 絶好の体育祭日和だが、運動に苦手意識のある――そしてそれは『意識』のみにとどまらず、能力面にもしっかり響いているのだが――真知子は憂鬱で仕方がない。


 救いなのは、これが中学の体育祭であるという点だろうか。真知子とその弟の義孝が通う中学は、体育『祭』と銘打ってるものの、一般公開していない。保護者が応援に来るのを禁止しているわけではないが、観覧席などを設けていないのである。つまりは、競技を外部の人間に『見せる』仕様になっていないのだ。だから、情けないところを親に見られないで済む。


 とはいえ、生徒にとっては『祭』である。多少は捻りの効いた競技もあるにはある。生徒間ではそこそこに盛り上がるイベントではあるのだ。


 ただしそれは、運動が得意な生徒にとっては、というのが大前提である。


 だから運動に苦手意識のある真知子は、毎年憂鬱だった。

 

 それでも今年は一つだけ楽しみがある。


「あっ、あれ真知子の弟君じゃない?」


 小学校からの友人である星川ほしかわ詩織しおりがとんとんと肩を叩く。指差す方を見れば、背の高い学友達に囲まれた、小柄な弟の姿がある。詩織のその言葉に近くにいる女子が「えー、何? 沢田さんの弟?」、「弟いたんだ? どれ?」とざわめき出した。


「ほら、あれだよ。一番端の」


 真知子に代わって詩織が説明すると、応援席から数人が身を乗り出す。その中の誰かが言った。


「ちっちゃ。可愛いね」


 と。


 二歳下の弟、義孝よしたかはまだまだ成長途中で、クラスの中では小さい方だ。身長は真知子よりもまだ小さい。


「うん、可愛い弟」


 恐らく、その誰かが放った『可愛い』とは違う意味合いでの『可愛い』を、ぽつりと返す。事実、可愛い弟なのである。どこへ行くにもお姉ちゃんお姉ちゃんの『お姉ちゃん子』だったのだ。それは、食堂を経営している多忙な両親の代わりに、彼の面倒をあれこれと見て来たからかもしれないが。


 思春期になれば、姉なんて邪魔者扱いされるだけだと思ってた。友人とつるむ方が楽しくなるだろうし、そのうち彼女も連れて来るかもしれない。義孝は優しいし、運動も出来る。姉の欲目かもしれないが、見た目だってカッコいいはずだと、真知子は思っていた。


 が、さすがに中学一年生はまだまだ『子ども』であるようで、一向にその兆しは見られない。とはいえ、友人とつるむのは楽しいようである。同じ小学校の子だけではなく、中学で初めて知り合ったのだという子も、ちょいちょい家に連れて来るようになったのだ。それで、彼らにお菓子とジュースを運ぶと、義孝は「姉ちゃんはそんなことしなくて良いのに」とちょっと恥ずかしそうな顔をするのである。それが可愛くて、ついつい世話を焼いてしまう。


 でももしかしたら、本当に迷惑がっているのかもしれない。そう考えて控えたこともあるのだが、けれど、どっちにしろ「姉ちゃん、なんかない?」と声をかけてくるのである。きっと、運ぶまではしなくても良いけど用意だけはしてほしいということだろうと理解し、ダイニングテーブルの上に準備しておくと、必ず真知子の分を取り分けた状態で持っていくのである。そういうところがまた可愛い。


 そんな可愛い弟と一緒の体育祭である。高校は同じところに通うかわからないため、これが最後になるかもしれない。そう考えるとちょっとしんみりしてしまう。


「あっ、走るよ、弟君」

「えっ、ほんと?」


 しまった。

 ついつい感傷に浸ってしまったと、真知子は慌てて顔を上げた。自分と同じ赤いハチマキを締めた弟がスタートラインに立っていた。クラスごとの縦割りでチームが分けられるため、A組の真知子と義孝は同じ紅組である。


「沢田さんの弟君って、足速いの?」


 隣からそんな声が聞こえる。

 普段はほぼかかわりのないクラスメイトである。それでも交流が0というわけではない。話しかけられれば答えるし、向こうも恐らくは同様だろう。もしかしたらこれがきっかけで交流の輪が広がるかもしれない。


「うん、私なんかと違って、速いよ」

「そうなんだ」


 そう言ってから、彼女がちょっと微妙な表情をしたことに気付いて『私なんかと違って』は余計だったかもと反省する。いまからでも訂正した方が良いだろうか? でも、なんて言えば良い?


 そんなことを考えているうちに、パァン、とピストルが鳴った。びくりと身体を震わせてグラウンドに視線を戻す。義孝は小さな身体でびゅんびゅんと風を切り、瞬く間にゴールした。順位はダントツの一位である。


「ちょ、っや!」

「何? いまの沢田の弟? 速くね?」

「おい加藤、陸上にスカウトしたらいんじゃね?」


 驚いた声を上げるクラスメイト達に、なぜか詩織の方が「でしょ?」と得意気だ。同じ小学校の詩織は義孝の足の速さを知っているのだ。


 でもさ、と誰かが言った。声質からして、女子だ。


「身長あれば足の長さもだいぶ違うし、、ってだけじゃない?」


 それにつられて数人が笑い、「かもね」と同調した。そうかもしれないけど、と真知子は膝を抱えて下唇を噛む。きっとここで「そうだね」と笑えば仲間に入れる。あの輪に入れる。それはわかるけど、したくなかった。例えその場限りであっても、大切な弟を貶すような集団の仲間にはなりたくなかった。

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