吸血鬼の甘い血

そらふびと

第1話 朝と目覚め

「ねえ、寝ちゃった?」


彼女の吐息が肩にかかる。静かな夜に自然と馴染む、優しい声だ。


「ううん。ちょっと眠いけど」


そっか。消えかけのような、彼女の呟き。


「……足りない?」


未だに恥ずかしくなってしまうほど、私の声には明確な期待感がこもっている。


「ふふ、ちーがーう」


まりは夜になると、昼の疲れを癒すみたいに小さく、少しだるそうな声で話す。必要以上に小さな声は、きっと私だけに届けば十分な、そのためだけの言葉。


「寝てもいいよ」


私のための言葉をまりが選んでくれる。独り占めさせてくれる。

ちょっと前まで、こんなこと考えもしなかった。むしろ、少し嫌っていた節があった。

でも今はただ、まりとの関わり全てが嬉しくてたまらない。

私はまりの方を向く。二人の間は五センチに満たない。


「やっぱり、もう少し」


その距離すら遠く感じてしまう。愛しく感じてしまう。


「うん。いいよ。」


まりはそう言いながら、私に覆いかぶさる。

細くて少し癖毛の髪がおでこに触れて、くすぐったい。


「じゃあ、いい?」


髪を払い、嬉しそうに言う彼女の顔を見る。整った目鼻立ちはいつ見ても可愛いという言葉でしか表現できない。

その中でも私が一番好きなのは、目だ。少し茶色を帯びた瞳は、よく見ると濃縮した血液のような赤を含んでいる。それに見合わないほどに真っ暗な瞳孔も、いつまでも眺めていられる。


だけど、こうしてベッドに追い込まれると、扇情的な牙から目を離せない。

4,5センチはある鋭い歯に、血と唾液の混ざった半透明の液体が滴っている。牙を出すときに歯茎を傷つけてしまうことがあるらしい。

気分が高揚しているときは牙を抑えられず、特に多いのだとか。


他者を傷つけるためのパーツだ。よく研がれた刃物みたいに鋭く、貫けない物などないだろう。私すら例外ではない。


人間としての本能的な恐怖は未だ拭えない。


「ちょっと待って。」


すぐにでも噛みつくつもりでいたのだろう。予想外の”待て”に、少し不服そうだ。

さっきまでの笑顔が消える。鳥肌が立つような衝撃が走る。心臓が跳ねるように鼓動が速くなる。


もう、あまりのいじらしさに我慢が効かなくなりそうだ。


「先にキス、したい」


血が好きなのは、彼女だけじゃない。


まりの血には鉄のような苦みがない。その代わりに、この心臓が指先まで広がるような感覚になる。


まりの表情を見る。

喜ぶ顔、悲しむ顔、これまでたくさんの表情を見てきた。だけど、今の表情はそのどれよりも


首に腕をかけ、髪を撫でる。細くて少し癖毛で、綿のように柔らかい。

そのまま頭を引き寄せ、唇に触れる。目を閉じ、彼女以外の一切の感覚を断ち切る。


舌に触れると、いつもよりも強い血の味を感じた。彼女を抱く指に力が入る。自然と、もっと求めているみたいになってしまった。


私は経験豊富な方ではなく、キスの巧拙なんてわからない。そもそも、この行為に意味を感じたことはない。

ただ、キスをしているときだけは、まりの体温を直接感じることができる。まりの血を感じることができる。そのことを知ってからは、求めずにはいられなくなった。


心臓の鼓動が聞こえる。舌は麻痺し、血の味はとっくに感じなくなった。息が苦しくなっていることはわかるのにやめたくない。


葛藤しているとまりが顔を離した。私と同じか、それ以上に呼吸が乱れている。

頭に酸素が回らず、彼女の口元を見つめることしかできない。表情はわからない。手足の感覚もなく、首だけになったのと変わらない。


「いじわる。」


いじわる。誰が


「もう、いいよね。無理だよ。」


何を言っているのかわからない。わかろうとすることさえできない。

首筋に息がかかる。暖かい何かが優しく撫でる。感覚が一点に集中する。全身がふわふわと漂い、そこだけがぴりぴりとしびれる。


「あっ、うっ」


触れ、喰い込み、侵入する。内側でまりを感じる。緊張と力みが抜けていく。収縮した心臓がいつも通りに。徐々に脈が高まっていく。まりの牙から、じわじわと染み込む。何度も。いくつも。重なる。


そして、来た。皮膚を破る、肉を裂く。忘れていた、見ないようにしていた、痛み。鋭く突き刺すような細さはない。抉られるような衝撃を伴う痛み。どこが痛いのか、そんなことが気にならないほどに痛みで満ちる。


私は痛みを捨てない。むしろ、痛みと対面する。当然痛みは増していく。流れる涙は一本の道を作り、そこを汗が伝う。



そして、痛みが限界まで高まったら、彼女を思い出す。意識が保てるぎりぎりまで待つ。そして、痛みで埋まった思考に、まりという存在を押し込む。


まり。まり。この痛みはまりのもの。まりが望んだもの。まりのやりたいこと。

そう思うと痛みは意識の端に追い出され、まりのことしか感じなくなる。首筋に食い込む牙、血が溢れないよう蓋をする唇、そして血を舐めとる舌。それは一方的でありながら、キスを、行為をも上回る。


これが母性か、と考えたこともある。だが、母性にしてはあまりにグロテスクに歪んでいる。かといって単なる愛情と言ってしまうのは安直だ。性欲、被虐性、友情、どれもぴったり合う言葉ではない。

ただ言い切れるのは、私は彼女に没頭し、彼女は私を選んでいるということだ。


「うぁ、う」


自分の声が聞こえ、まりが牙を抜き始めていることを知った。満腹なのかもしれない。でも、もし私のことを心配して止めたのだとしたら、続けてほしい。私が動けなくなるまで、私が死んでしまうまで、一滴も残さず食べてほしい。


私から出ていく彼女を見ていることしかできないときは、次の日どころか一秒先のことすら考えていられない。


ゆっくりと抜かれる牙は浴槽の栓みたいに、私の真新しい血液を溢れさせる。きっとまたシーツに染みが増えただろう。


顔を上げたまりの口元には滲んだ口紅みたいな、私の血がついていた。瞳の深紅とよく合う、きれいな赤色だ。


「おいしかった。」


まりの手が噛み跡を撫でる。痺れるような痛みは感じたが、それだけだ。もう、声も出ない。


「かわいい。」


彼女は最後に何か言っていたが、聞き取ることはできなかった。目はいつの間にか閉じていた。


栓の抜けた私は、空気が無くなりそのまま眠ってしまったみたいだ。


幸せな私は、少し昔の夢を見た。


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