はなのかんむり(藤原道長✕明子)

りくこ

はじまりのおわり

 此度は病が重いらしい。


 市井の者どもまで残らず、栄華を極めた男が終わるときを噂している。入道になって以後も明瞭な影響力を持っていた彼が、ついにこの世を去るのだ。


 ある者にとっては、それは長年の閊えが消え失せる僥倖だ。別の者にとっては、期待していたことのような、寂しいような評しがたい感情。また、ほかの者にとっては埋めようのない大きな欠落だった。


 家族にとっては、種類はあれど悲しみに違いない。なかでも、彼女は彼の不在が耐えられない痛みになることはわかりきっていた。


 本当なら決して離れずに彼の息遣いを聞いていたい。が、彼女にはそれは許されていない。四十年もの歳月によって、彼女と彼とはそう隔てられてしまった。


 病に斃れても看ることすらできない自分を、妻と呼べるのだろうか。


 そんな自嘲などは後でいくらでもできるだろう……、どうせ嫌になるほど長い空虚が彼女を待ち受けているのだから。


 彼の看病をしていた、もうひとりの妻が休息のためにその場を離れる。報せを受けて、入れ替わりに彼女は彼が創建した広大かつ壮麗な寺院の北端に向かった。


 不在は彼女への配慮と思いやりだ。愛情ともいえるかもしれない。その温かい心に感謝しようと考えるのに、今更。今このときになって、妻として競う心が生じてくる。その場所には、私こそがいたかったのに、と。


 妬心なんて。


 もうとっくになくなったと思っていた。忘れていた。


 いいえ、ずっと私は彼の女だったのだ。当たり前すぎて意識しなかっただけで。


 予定が少し遅れてしまい、去り際、その人は目立たないように参入してきた彼女の姿をちらりと垣間見てしまった。当然ながら知らぬ仲ではない。視界の隅で捕らえて、綺麗な方、と呟いた。


 人目を避けつつも小走りに彼の許へ急ぐ。自分と年はそれほど変わらない。尼僧姿であるのも同じ。


「かの方は、今でもあれほどに匂うようだわ」


 夫が愛でた、焦がれた花。


 ふっと微笑して、妻は静かに下がった。この場はふたりにしてあげよう。儚い逢瀬のため。


 急な病で僧形になって八年ほど。その姿には慣れたけれども、やつれた彼を見ると、やはり彼女の瞳は潤んでしまう。昔から朗らかで、陽の光のような人だったのに。


 彼女は枕元に控え、眠っている彼を見つめた。衣から伸びる手の甲は痩せている。辛いのだろう。苦しいだろうと、その手をさすっていると、ふっと彼が瞼を開けた。


「明子」


 一瞬輝いた目は、少将だった頃のよう。子どものように素直に彼女を見つけて喜んだ。


「はい」


 彼女も微笑む。来たのか、と起き上がろうとするので、彼を助け起こそうとして背中に手を回し、病魔の爪先を察知して思いとどまった。掠る程度でも酷く痛むだろう。


「ご無理をなさいませんよう……。お身体に障ります」

 では、向きを変えるだけにしよう、と言って、彼は彼女に膝枕をさせた。


「ありがたいお堂で罪深いお方ですこと」

 彼女は優しく額の汗を布で拭う。彼はその手を取って、頬に寄せた。往時の力強さは消えている。


「なに、観音の代理だ。これも君の功徳になるだろうよ」

 まあ、畏れ多い、と彼女は涙をごまかして笑った。


 病身だというのに、不自然なほど小ざっぱりしている。汗の臭いもない。明子のために、片付けて身支度をさせたのだろう。衰えた姿は見せたくないというので。


 そういう方だもの。

 彼女を守ると誓った強い男君のままでいよう、と。


 この訪問によって無理をさせているのでは、と彼女の胸は痛む。生きてあれば、彼女にとってはどんな形でも安堵になるというのに、男と女の間にはどんなに時間が流れても繋ぎようのない断絶が横たわっている。


「姫宮が、お爺さまにこれを、と」


 彼女は気を取り直して、袖から造花の枝を一本取り出す。亡き娘・寛子が生んだ孫・儇子内親王が手づから作ったものだった。忘れ形見の姫は新年で九歳になる。日に日に夭折した娘の面影を宿すようになっていた。


「お優しいことだ……」


 腕を上げて受け取るのはつらそうだ。彼女は彼の掌に枝を忍び込ませて、それはどうでしょうか、と寂しさを笑顔で覆い隠す。


「宮は弥生になったら、また桜を所望される心づもりなのですよ。これは、その催促です」


 少女は、祖父が連れて行ってくれる花見をとても楽しみにしている。それまでにお元気になって、と願いを込めて一生懸命小さい手で作っていた。器用ではあっても幼女のすること。ところどころ不恰好な作りは、老人の脳裏に少女の一途な眼差しを浮かべさせた。


 これは怖いな、と彼も力なく笑う。

「なんと、可愛らしいが、賂だったか」


「私も、楽しみにしておりますもの。桜の少将さま」

 彼は目を細めて、彼女を見つめた。


「随分と、抹香臭い近衛がいたものだ……」

 ふう、とため息をついて彼は頷く。


「次の春も、ともに花を愛でよう。その次も」


 約束ですものね、と彼女は囁く。


「ああ……」

 私はこれまでも、約束は守ってきた……。


「ええ」


 彼女は、自らに言い聞かせるような呟きを掬い取って返事をする。


 ぼんやりとした視界に彼女がいる。涙を見せないよう、悲しみを伝えぬよう微笑みを絶やさない。優しい女だ。


 私の佐保姫。

 いや、咲耶姫の方が合っているだろうか、と彼は思い返す。どうしても手離したくなくて。妾でもない、召人でもない、妻として置きたくて無理を通し続けた。


 その歳月、私は誠実な恋人で良い夫だったはずだ。彼女の望む形とは違ったかもしれないけれども、できることを可能な限り、いや、そうする、という強い意思でやり遂げてきた。古い約束のままに彼女を守り抜いた。


 ほんの幼い頃から政に翻弄された身の上だったからこそ、無用に権勢を求めることのない女だった。彼女が欲したのは、ひとりの人間として愛されること。


 ―― 恋人を妻とするのは愚か者の所業だ。


 いつだったか聞いた言葉。貴族に生まれた男たちならば、骨身に叩き込まれている現実だ。


 ならば、私は天下一の愚か者なのだろう、と彼は自嘲する。


 彼だとて、他人のことならばそう言って止めることだろう。実際、つい数ヶ月前に末の息子を同じように押し留めた。


「男の立身は妻がらで決まるもの」


 それは頂点に立つまでの段階で彼が得た実感であり、教訓であり、動かしようのない事実だったから。


 ―― 父上だけには言われたくありません!


 やんちゃで甘え上手、家族みんなに愛されている末息子は、父が驚愕するほど頑強に縁談を拒絶し通した。


 ならば、何故、高松の母を妻としたのです。


 愛した女に良く似た目で、そう責められると、もう彼は何も言えなかった。あの子はまだわかっていない。恋を貫くにはそれなりの覚悟と犠牲が必要だ。それがどういうことなのか、恵まれて育った青年は知らないでいる。


 だが……。


 彼に、息子を教え諭す時間は残されていなさそうだった。心残りではあるけれど、人は万能ではない。すでに彼は多くを手にし、ほとんどを思うままに収めてきた。


 真面目な長男は豪胆ではないがゆえに慎重に物事を進め、世間を騒がせることはないだろう。


 華やかな次男は推し量りにくいところもあるけれども、不思議なことに亡くなった姉に似ている。間違いは犯さないだろう。


 頑固なところは誰に似たのか、四男は危うい面があるものの、非常に実務能力に長けている。彼が文官たちに信頼を得ていることはわかっている。


 浮ついた性格で心配させられた五男は正妻を失って、彼なりに思うことがあったようだ。近頃顔つきに変化があるという。


 娘たちもみな結婚した。母親そっくりに育った長女は、きっと妹たちをよく後見してくれるだろう。一体、どんな前世があってあのようによくできた娘が生まれたものなのか……。


 忙しい身の彼は常に子どもたちの側にいられたわけではないのだけれども、それでも幼い頃からの彼らの姿が幾つも浮かんできた。次いで、先にこの世を去った四人の子どもたちも思い起こす。来世で、またあの子たちに出会うことはあるのだろうか……。


 気が遠くなりかけ、彼はまた現世に戻ってきた。


 美しい女がいる。


 美しい女だ、と彼は思った。


 彼女はいつまでたっても、変わらずに美しい。それはずっと彼女に恋をしているからだ。


 ただ一度の、ただひとつの恋。


 それを手にするために、どれほどの努力が必要だったことか……。はじまりは、あの春の日……。


 彼は、すうと寝息を立て始めた。

 彼女は静かに夫を見守る。もっと一緒にいたいと思う。ずっと、ずっと……。代わってあげられたらいいのに。この苦しみから自由にしてあげたい。


 彼女もかつて母を見送り、我が子もふたり失った。彼が解放されるには、その肉体を離れる以外ないだろうと察している。


 私を、残していかないで。


 こみ上げる想いをぐっと飲み込む。それは叶わないことだ。切望しようと得られぬ願いだ。


 二日ほど彼の傍らにいて、彼女は来たときと同じように密やかに寺院を出る。境内に木枯らしが吹いていた。


 もう一月もすれば新しい年になる。騒がしくも晴れがましい正月の行事が終われば梅が花開く。その次の桃が過ぎれば、また桜になるだろう。


 どうか、せめて。それまでは。


 彼女は天に願った。


 しばらくして、娘の忘れ形見と暮らす彼女の許に朝早く訃報がもたらされる。喪に入る彼の息子たちに伝えるため、使いは彼女の返事を待たずに辞した。


 彼女を気遣う同じく尼姿の乳母子に、鈍いろの喪服を用意するよう命じると、彼女は孫たちに伝えるためにすっと腰をあげた。くらり、と眩暈がする。支えようとする乳母子を制して彼女は空を仰いだ。涙は流れない。


「やっと……。終わったの……」


 四十年も昔。桜と鶯とが結んだ恋が。


 嘘つき。本当に残酷な人。


 彼女が愛した、たったひとりのひと。


 彼は彼女を置いていなくなってしまった。

 彼女からも、すうと魂が抜けていくようだ。悲しみなのか、安らぎか。


 ただ、穏やかに彼女は微笑んでいた……。

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