蘇莫者

吉田なた

第1話 高陽院にて

 外から入る風に乗って、龍笛りゅうてきが流れてくる。少しばかり興味を惹かれ、道雅みちまさひさしを出て簀子縁すのこえんに降りる。

 蘇莫者そまくしゃか。誰が奏しているものやら、見事なものだ。今日の客人に名手は何人もいる、その一人だろう。足音を忍ばせて、笛の音の方に向かう。そしておもむろに歩を止め、幾度か目を瞬く。

 われは何を見ているのか、自問する。縁の端に座した人物は、庭に焚かれた篝火かがりびに体を向けて笛を構える。その者の目の前、白木の欄干の上に、一尺にも満たない小さな影が乗る。影は龍笛の音に合わせて舞い狂う。楽曲も舞も蘇莫者だ。正体を確かめたい衝動に、思わず一歩踏み出したところで笛の音が途切れる。

 肩越しに半ば振り返った奏者の顔には見覚えがあった。つい先程まで、廂の内にいた若者だ。源隆国みなもとのたかくにと他愛のない話に興じて笑いあっていた。関白は先の天文博士てんもんのはかせの孫だと言っていたか。

左中将さちゅうじょう様にあられますか」低い声で若者は聞く。

 若者からは道雅の姿は影になるが、こちらからはかがりの側の様子はよく見える。年の頃は二十歳を幾つも出てはいまい。もしかしたら、更に若いのかもしれない。顔つきに似合わぬ声だと思った。

「今しがたの……」影は何なのか、問いたかったが欄干の上には何も見えない。

如何いかがなされました」どこかきまり悪そうに、切れ上がった目元に影を落として若者は聞く。

 地下者じげもの(昇殿を許されない者・六位以下の者)にしては、随分と品の良さそうな顔つきだ。

「いや、見事な腕前にあられるな」

「恐縮致します」

 少しうつむく姿は、悪戯をとがめられた子供のようにも見える。

御身おみ、名は何と言われたか」

安倍幸親あべのゆきちかにございます」歯切れ良く答える。

 安倍の姓は陰陽寮おんようりょうでは珍しくない。最上臈さいじょうろう安倍吉平あべのよしひらをはじめ、その息子や孫たちと、片手以上に数える事ができる。現在の天文博士は安倍章親あきちかのはずだ。その前は父親の吉平だったろうか、よく覚えていない。何れにせよ、この者は吉平の身内で間違いはなかろう。陰陽寮の者らに関わるのも面倒だ。

「少し、酒を過ごしたようだ」道雅は独り言つ。

「私もです」

 応えて微笑む幸親の顔は、妙に老成して見えた。奇妙な印象を持つ男だ、にわかに興味を覚えたが、それ以上に交わす言葉が思いつかない。

「邪魔をして悪かった。我は戻るとするか」

 立ち去ろうときびすを返しかけたところで、再び呼び止められる。

「御身様、たれそに恨みを買われておられませぬか」唐突な言葉が幸親の口から出る。

「何だと」

「いえ、失礼を申し上げました」

 またも決まり悪そうに下を向く。

「恨みなど数知れぬ。故に世間は、荒三位あらさんみなどと陰口を言う。御身も聞いた事はあろう」

 幸親は小さくうなずいて、手にしていた笛を懐中に戻す。年の割には地味な葡萄染えびぞめかさねの直衣のうしからは、微かに菊花きくかの香りがする。思いの外、趣味は悪くない。

「御身には心当たりがあるのか、我が誰その恨みを買う」

「分かりませぬ。しかし、相手は女人かと思えます」

 おかしな物言いだ、まるで呪師ずしのようだ。

「そちらも覚えが有りすぎるわ」苦笑気味に道雅は応える。

「浮いた話ではありませぬ。女は宇治の川面に髪を浸したやも知れませぬ」

「宇治の川とは、どういう意味か」

「宇治でも加茂でも良いのですが……いにしえの語りに在りましょう。夫の心変わりを恨んだ妻は宇治川に入り、三七、二十一日の後に鬼になったと」

「鬼になって男を取り殺したか。面白うもない例え話よな。とどのつまりは浮いた話ではないのか」呆れたように道雅は言う。

 幸親は伏し目がちに溜息をつく。

「私の祖父おおじや大叔父ならば、忠告をするでしょう」幸親の声が更に低くなる。「今宵と言うても既に遅すぎる。明日より五日、いや十日の間、夜間の外出は慎まれた方がよろしいかと思われます」

 篝籠かがりかごの内でたきぎが音を立て、燃えさしが落下する。

「誰そに頼まれたのか、御身は。我に忠告して来いとでも」

「そうではありませぬ。が、もしも覚えのある事ならば、それなりの者に相談されるのが賢明かと思われます」

 何やら、年相応にうろたえているのが滑稽だ。道雅は笑いに緩みそうになる口元を引き締める。

「要らぬ世話だ。呪師ずしやからは人の不幸に取り入り、懐を肥やそうとする」

「その御言葉、否定する気はありませぬ。しかし、私の言葉を信じるも信じぬも御身様次第です」

「それを要らぬ世話と言うのだよ」道雅は言い捨てて背を向ける。

 話している内に、そこはかとなく気味が悪くなる男だ。古い仏像のような、黒目勝ちの目をしている。それ故か、視線を合わせた者を気後れさせる。陰陽師おんようしの類にしては、拙い様子も見受けられるのは年若いせいか。大抵の者は、身分もわきまえずに横柄な物言いをする。

 いささか憤慨しながら、懐中を探って檜扇ひおうぎを引きずり出す。暑い訳でもないが、喉元を仰ぎながら再び思う。欄干の上にいた、あの小さな影は何だったのか。考えたところで答えは分からない。


―― * ― * ―—


 名を呼ぶ声に幸親ゆきちかは顔を向けて立ち上がる。孫廂まごひさしの半ば降ろされた蔀戸しとみどの内に、源隆国みなもとのたかくにが立っている。外に下げられた釣燈篭の灯りで、かろうじて顔が分かる。

「今、御主おぬしが話し込んでいた相手は、荒三位あらさんみか」

「ああ」簀子縁すのこえんに立ったまま、ぞんざいに応える。

「何の話をしていた。御主があのような男と、知り合いには思えぬが」

 非難がましく聞きながら、妻戸つまどをくぐって縁に出てくる。

龍笛りゅうてきを奏していたのを誉められただけだ」

 隆国は道雅に限らず、九条流の藤原氏にあまり良い感情を持っていないらしい。父親の民部卿は御堂みどう様(藤原道長)の支持者だというのに、親兄弟からはどう思われているのか。幸親は、篝の側に来た悪友の童顔を眺めて思う。

「御主は奇妙な事に、笛の腕前とこうの趣味だけは褒められるな」

「家業でも、少しは褒められておるぞ」鼻先で笑いながら幸親は言う。

「今更、何を言うか」

 高笑いする友人の顔を見て思う。俺のような地下者じげもの蔵人少将くらうどのしょうしょうが対等な口を利いて高笑いするのは、はたから見て好ましいものには映らないだろう。だが、へりくだった物言いなどしたところで、隆国は何を企んでいるのかと面白がるだけだ。

「何にせよ、陰口を叩かれる男と関わっても、御主には特になるまい。どうせなら、宮中でのし上がりそうな相手とつるめ」

「御主のような、か」

「分かっておるではないか。ともかく、荒三位には関わるな」

 左近衛さこんえ三位さんみ中将、藤原道雅ふじわらのみちまさは素行の粗さから荒三位と呼ばれる。父親は伊周これちか、祖父は道隆みちたかと、九条流でも最有力の中関白なかのかんぱく家の嫡男として生まれた。しかし祖父が早くに病没し、父親も御堂関白みどうかんぱく道長みちながに追い落とされて失意の内に亡くなった。家が政争に敗れなければ、道雅も三位中将などという非参議ではなく、太政官に名を連ねていただろう。幸親自身とは縁のない高位者の話ではあるが、宮仕えの身としては同情は禁じ得ない。

「時に、俺に用事があって来たのではないのか」

 隆国はといえば、荒三位の去った西対の方を気にしている。

「ああ、関白が御呼びだ」向き直った隆国は軽く答える。

何故なにゆえ」思わず聞き返す。

「何故と言われても、御主を連れて来いとの仰せだ。まったく、この寒いのに、こんな所で何をしておるのだか」

「飲みすぎたから、酔いを醒ましているだけだよ」

 霜月も冬至を過ぎ、夜の冷えは一層厳しい。まだ雪は降らないが、屋外にいては一刻もたたないうちに凍えてくる。

「皆、酔ってもなお火鉢を抱えておるというに、御主は寒うはないのか」

「いや、寒いと言えば、かなり寒い」

 改めて周囲を見回し、首をすくめる。篝の火が消えかけているのに、誰も薪を補充に来ない。ここの下男らも屋内で火鉢を囲んでいるのだろう。

「言うておくが、関白の御前で笛など吹かぬぞ」

 所望もされまいがと思いつつも、一応の憎まれ口をきく。

 万寿まんじゅ元(1024)年十一月も押し迫ったこの日、関白藤原頼通ふじわらのよりみち大炊御門第おおいみかどのだい高陽院かやのいん)では、親しい者を集めた管絃の会が開かれている。関白お気に入りの源隆国が招かれるのは、誰が見ても当然だろう。しかし、安部幸親という若造は、そのお零れでも拾うつもりで付いて来ているのか。上達部かんだちめの目には、そのように映っているに違いない。友人に腕を取られながらも、幸親は密かに苦笑する。

がくなど、追従したい者が幾らでも奏しておるわ。だが、関白様は御主の姿が見えぬと気にされておられる。御主、関白様の前で何かしたのか、顔や名を覚えられるような事を」

「何もした覚えはない」

「そうか、それならば良いのだが。御主のうなられた祖父おおじ様からも、愚孫を頼むと言われておる故、俺も心配しておるのだぞ」あまり本気とも思えない顔で隆国は笑う。何せこの男とは、年も一つしか変わらない。

「ああ、重ね重ね、すまぬ事だ」

 天文博士てんもんのはかせ陰陽頭おんようのかみも務めた祖父は、五年前に亡くなった。生前は隆国の父親の民部卿、源俊賢みなもとのとしかたとも親しく、屋敷も頻繁に訪れた。幼い頃から祖父に付いて、幸親も上達部の許に出入りをして来た。元々、物怖じをしない子供は、大内裏だいだいりに出資するようになって、人からは得体の知れぬ類と見られるようになった。

 従四位下じゅしいげ蔵人くらうど左近衛少将さこんえのしょうしょうである源隆国に対して、横柄な口をきく。一つ年上の幼馴染も、ようやく六位に手の届いた友人の態度を当たり前のものと受け流す。

 

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