大学デビュー

江東うゆう

第1話 遠山大樹、転ぶ

「おーい、ひのき宮原みやはら、こっち!」


 入学式会場の講堂の真ん中で、手を振っている赤い髪の男がいる。赤褐色の髪は地毛だ。名前は遠山とおやま大樹だいきという。名前のほうは目立つ字面でも音でもないのだが、青い目と髪の色の美しい対比から、どうしても人目を引いてしまう。宮原和也かずやにとって、小学校からの悪友だが、毎年、こういう場面を目撃する。

 黙れ、遠山、と思いながら、和也は片手を挙げる。遠山は何を勘違いしたのか、手を左右に振り、ぴょんぴょん飛び跳(は)ねた。

 自分たちと同じように、着慣れないスーツを着た男女が十数人、和也たちを振り返る。

 和也は、焦りを感じた。

 隣にいる、栗色の髪の男――中学、高校と共に過ごしてきた親友、檜にしきが目立つのを避けたかったからだった。

 ところが、当の錦が声を上げた。


「遠山、段差のあるところでぶな。足を踏み外すぞ」


 よく響くテノール。壇上で腹から声を出し慣れていることがよくわかる。

 ああ、余計なことを、と和也は額に手を当てる。

 檜錦は、和也や遠山が通っていた高校で、二期続けて生徒会長を務めた人物だ。そのときの副会長と広報部長が和也と遠山だった。

 生徒たちの細かな訴えに、錦はいちいち応えようとした。錦が行動すれば、副会長の和也は一緒について行くことになる。ちょっとした事件の尋問めいたものもあった。関係者一同が集まった教室を思い返すと、今でも、胃が痛くなる。

 だが、その尋問も錦は持ち前の柔らかい雰囲気で、穏便に済ませた。


「あ!」


 突然、錦が顔をしかめた。

 前を見ると、遠山が足を踏み外したところだった。たたらを踏んで、最後に変な傾き方をして倒れ、最前列左から五番目くらいの席の陰に消えた。


「だから跳ぶなって言ったのに」


 言うなり、錦が講堂の階段を駆け下りた。座席の陰になって見えなくなった遠山が心配なのか、二列目から最前列へは座席の背に手を掛け飛び越える。スーツを着ているのに身軽な動きだ。その姿に、講堂中の視線が釘付(くぎづ)けになる。

 和也は、やめろよ、錦、ともう少しで声を出しそうになる。

 いかにも人畜無害で素直そうな顔をしているが、あれでなかなかの強者つわものだ。頭もいいし、スポーツもできる。

 それだけではない。リーダーシップや実行力にも優れている。中学時代に錦の父が亡くなってからは、檜家の代表として家のあれこれをとりしきっている。けっこう面倒な家で、苦労が多い。


☆☆☆☆☆☆☆

 

 実は、昨年末に檜家ではとんでもないことがあった。

 錦が思い詰めている様子だと気づいてから、何があったのかわかるまで、家に何度も電話をした。

 最初、錦は各所に迷惑がかかるのを恐れていたらしく、かいつまんでしか話さなかった。

 しかし、当時、檜家に滞在していたげんいちろうという人が、和也の電話を錦に取り次がず、「信じるか信じないかはあなた次第ですが」という前置きをつけて事件の話をしてくれた。

 とても信じられない話だったが、学校帰りに錦を海岸に連れ出して、現一狼に聞いたことを問いただしたら、ようやく白状した。


 ――あつみにも、本当のことは言っていないんだ。


 渥とは錦が溺愛している弟だ。同じ高校の後輩でもある。

 二人きりの兄弟でも話せない事件だったのだ。真相は、錦と現一狼と和也しか知っていてはならないことだと、瞬時に了解した。

 身動きが取れない状況も理解した。ずっと、苦しみを背負っていくであろうことも。

 和也は、真相を秘匿する者として、錦の苦しみの一部を共有しようと覚悟を決めた。


 さまざまなことを考えて黙っている和也に、錦は檜家の秘密も話してくれた。

 話が終わると、錦は心の奥からあふれ出るものを押さえ込むような声で言った。


 ――……ごめんなさい。


 辺りは夕焼けに飲まれていた。海は沖のほうから次第に夜の色を帯び始めている。

 錦は引き込まれるように数歩、波打ち際へ歩いた。だが、ぴたりと立ち止まると、さて、と、うわずった明るい声をあげた。

 振り返った錦は、体育祭で勝ったクラスにトロフィーを渡すときのように、はっきりした笑みを作っていた。


 ――和也。もう、僕たちは友だちではいられないな?


 震え声だった。

 そんな錦を見るのは、たまらなく辛かった。

 何があっても錦との友人関係を切るつもりはないのに、そう言わせてしまった自分の無口さを呪いもした。けれども、ここで覚悟を伝えたところで、思い詰めている錦には白々しく聞こえてしまうのではないかと恐れた。

 代わりに、和也は駆け寄って錦を抱きしめ、「友だち? 俺は、これからも親友のつもりだけど?」と言った。

 あのときの、錦の表情は一生忘れない。

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