自由を示す数を答えよ

1話

 十一、と数えて笑われた。

 何を笑われたのかわからなかったおれを、天子は手を引いて導いた。

 我が国の、数について教えよう。明るい目を細め、かれは言った。




 糸巻をたどる。順番にかけ合わせていけば、遅々、遅々と織り目が重なっていく。カラン、と落ちた糸車を台に引っかけて、強ばった肩をかるく回す。

 外はまたかすかな雨が降っている。湿気を含んだ風が、肌にずっとまとわりついているような感覚には未だ慣れない。水気がこうも体力を奪うとは、この国へ来て初めて知った。

 南海の島国。本国の傘下にあたる列島からも遠く離れた極東の地は、未だ本国の手には治まらぬあおの原石だ。輝きは鈍く、本腰を上げて取りに行くほどではない。ひょいと摘まむには、少々遠すぎる。それでもちょっと指を掛けてはおくか、とおれが送りこまれた。

 本国を出たのは雨季を迎える前だったから、この国で雨に触れたときには少し嬉しいくらいだったのだが。

 年中雨が降り、年中晴れがあると聞いてはいたが、こんなに延々とじめじめした天気ばかりとは聞いていない。ずっと降っているわけではないのに、つねに風が濡れているのはどういうわけなのか。

 衣が軽く作られているのも、湿度がゆえだろう。本国のように羊毛を織った布はここでは重くて着られまい。薄くて頼りない布地を、何枚も重ねて着る。なんとも慣れない。

 晴れていても日差しはやわらかく、強く照りつけることはない。土は乾いていてもどこか、深いところでぬかるんでいる。

 床に敷き詰められた草の匂いだけが、どこか乾いた草原の匂いに似ていてほっとした。

「主」

 戸板が音もなく開いて、あわてて伸ばした足を隠した。隠してから、素知らぬふりでそろそろ足を伸ばしていけば、戸を開けた従者はちらりとおれの足を見下ろして、「慣れるまでは仕方ないですよ」と空嘯そらうそぶく。

 本国では裸足を見られるなど、あってはならないことだった。しかしここでは違う。従者はすでに慣れきって、もはや革の靴を履くのもやめた。彼曰く、とにかく地面が悪いのだと。おれもはやくあきらめたいものだが、まだ革の靴を捨てるほどは思い切れない。

「ところで主、先ほどはどこへ連れて行かれたのですか。天子と二人など、肝を冷やしましたよ」

「おれに言うな。逆らえるはずがなかろう」

 大国の王子とは言え末席も末席、ほとんど役に立たぬ人質と、神の血脈を受け継ぐ唯一無二の天眼の御子である。ましてなにか失礼があったようだから、余計に逆らえなかったのだ。

 右の人差し指で糸巻をすくい上げて、中指で左の糸巻を引く。左の人差し指で右の二番目の糸巻を引っかけながら、糸を薬指で押さえて次の糸巻をたどる。糸が手の中で蜘蛛の巣のように形を変えていく。そのたびに、カラン、コロンと糸巻が織台に落ちて鳴る。

「天像を拝見しただけだ」

 規則的に落ちる糸巻の音に、また強く降り始めた雨音が重なった。



 数について教える、と天子はおれの手を引いて、ずいずいと宮の奥へと分けいっていった。

 導かれるまま、長いながい廊下を進んだ。おそらく禁域とされるような場所だったろう。静寂と砂の上に架された木橋は水面のように木々の影をゆらゆらと点し、まるで川を上るようだった。

 風に揺れる葉ずれはせせらぎに、床板の軋みは舟を漕ぐ櫂のしなりに。

 遡る川の源には祠があった。歩いたのはそれほど長い時間ではなかったが、そこは昼日中ひるひなかにも関わらず、夜のように暗かった。鬱然と繁る、人為的な森。滴る雨の中、林冠に覆い隠された禁足の地。

 天子が祠の守り人から火を分かち、頭上へ掲げる。

 灯火に浮かび上がったのは、無数の手だ。思わず息を飲み、続く天子の言葉に耳を疑った。

「うつくしいだろう」

 うつくしい。それは、綺麗という意味だったか。これが? 正気かと顔を伺えば、天子は焦がれるような目で無数の手の群れ、その更に上を見上げていた。

 そこには三つの顔があった。見下ろされている。睥睨されている。見守られている。三つの視線が、こちらを向いている。

 三顔千手の異形の神。それが、かれらが崇める神だという。天眼を持ち、あまねくすべてを見通して、その千の手で多くの民草をすくいあげる――。




「テンツォ?」

「そう。神を象った木の像だ。千手の神でな。この国では、数のかぞえかたが神に由来するらしい」

 話の流れがつかめないのか、はあ、と生返事しながら、従者が傍に膝をつく。

「それで、十一というのは人が扱ってはならん数だそうだ。どうやら『十』『一』と続けて言うと『生ける屍』という意味になるらしい」

「はあ?」と従者は間抜けな声を上げた。ほつれて落ちかけていたおれの髪紐をほどき、わしわしと雑に編み目をといていく。

「それ、十一以上はどう数えるんです? 間にわざわざ『と』を入れるんですか?」

「いや、もっとややこしい。十一から二十一まで、別の単語だ。そしてそこから四十二までは重ねて繋げる。つまり三十二は十一と二十一だ」

「ええ? そんな使いづらい数字あります?」

「更に驚くことに、十一から二十一までまったく規則性がない。ちなみに書くときは使わんそうだ」

「廃れてしまえ!」

「神の言語だぞ、慎め。おれもそう思う」

 深くうなずくと、従者はぶんぶんと頭を振って「いやだ、俺もう数はかぞえないことにします」と早々に学習を放棄した。このやろう。

「だってこの国、色の名前も山ほどあるんですよ。俺は色だけでいっぱいいっぱいです」

「なんであんなに多いんだろうな」

「似たような色がありすぎなんですよ……」

 今度は肩を落とした従者が少々気の毒になり、つい、許した。

「まあ、色のことは頼む」

「聞き取りも満足に出来ないのに、難易度高すぎます」

「迷惑をかけるな」

「いいえぇ、おれがもっと頭よければ、あなたをもっと助けてさしあげられるんですけど」

「十分助けられている」

 本当に。

 本来ならこいつは、この国へだってついてこなくてもよかったのだ。

 言葉も満足にわからぬような、遠方の島国へ送られたのは失っても惜しくないからだ。片道になるかもしれぬ船旅も、情勢のわからぬ国への使者も、うまくいく保証など欠片もなかった。

 人質ですらない。

 この国では咎人の刑罰に『島流し』なるものがあるようだが、まさにそれだった。

 山蜘蛛を制圧しそこねた責任を取って、新たな手土産を持ってこいと、名目上はそう告げられたが、実際のところ、おれは今度こそ捨てられたに違いなかった。

 運よく宮へ逗留出来たのは、本国では蛇蝎のごとく嫌われるこの瞳が、この国においては神のごとく尊ばれるものだったからだ。

 おぞましい悪魔、東より来たる獣、アイオロクス。呪われた瞳は邪視魔眼、その瞳に映るものに禍をもたらす。そう疎まれてきた目は、この国では天眼と呼ばれ、生き神の証だそうだ。統貴すめらきの血筋へ受け継がれ、直系男子にのみしるしとして顕れる。

 ただ人には生まれぬ色、という点では同じだが、扱いには天と地ほどの差がある。

 たったひとりの従者を連れた死地への旅は、思わぬ運に助けられて、のんびりとした休暇に変わった。

 湿気にうねるおれの髪を再び編み込み、束ねて紐でくくりながら、従者は小さな声を落とす。

「邪視でさえなければ、あなたが王となれましたのに」

「滅多なことは言うな」

「誰も聞きやしませんよ。こんな僻地にまで、影も届かない」

「それも、そうか」



 言語と文化の戸惑いはあれど、概ねこの国での暮らしは快適だった。

 最初は外からの使者、しかも天眼の持ち主と騒がれたが、明らかに異人種であるから、やがてこれは天眼ではないと認識されたようだ。

 それでも、この瞳を血に取り入れたいと望むのか、人生最大に持て囃されることになった。もちろん、こんな危うい橋を渡るつもりはない。

 時折人の集まりに呼ばれ、もの珍しそうに、眩しいものを見るように瞳を眺められて、ときに歓談し、そしてしずしずと解散する。仕事といえば、そのくらいのものだ。


 つまり、人生最大に、暇になった。

 まったく期待されていないとはいえ、使者としてたまには報告書など書いてみようかと筆を執ったが、驚くほど書くことがない。なにせ宮は天子と統貴の御子たちの住む場所、かなり閉ざされている。世情など風にも聞こえてこないし、庶民とは使っているものから食べているものまで違う。

 書けそうなものは気候か、動物か、植物のことくらい。

 たとえば、平べったくない猫とかだ。

 庭にせり出した床に座る、なぜかやたら丸っこい猫のひなたぼっこを眺める。どうしてあの猫はあんなに丸いのか。

 猫は細い尻尾をふりふり、転がったり、伸びてみたりする。あくびをするのはなかなか愛嬌がある。眺めていると、間延びした声を上げながら膝の上へ乗り上げてくるのには驚いた。警戒心をどこへ置いてきたのか。それとも、この国には猫を狩る鳥はいないのか。

 猫も変だが、山羊も変だ。あまりにも貧相なので、初めて見たときには今日の糧にするのか、それにしてもずいぶん痩せた山羊を食べるものだと不思議に思ったものだ。しかし明くる日も庭にいる。ずっといる。山蜘蛛の里にいた山羊と比べれば半分もないのではなかろうか。

 山に放してやらぬのはあまりにも哀れではないかと、近頃はすっかり囚われの山羊に同情している。

 山羊は貧相だが、狼はころころと太っている。ともに飼われているが、どちらも手触りはやたらと悪い。湿度のせいだろうか。

 狼はまだ子どもだから丸くて、ほとんどは毛玉だというが、とにかくころころしていて、なぜかやたらと腹を見せる。狼の矜持はないらしい。

 平べったくない猫はいつのまにか部屋へ居着いてしまった。なぜか糸巻を狙っている。虫でも捕ればよいものを。

 しかもこの丸い猫は意外にもどんくさく、なんと捕まえることが出来る。持ち上げると三倍に伸びる。これは手触りがよく、香でも焚きしめているのか、驚くほどよい匂いがする。特に額のあたりは、煙っぽく甘い蜜の匂いだ。

 毛刈りをすればよい糸になるのに、と女中に呟いたら猫はこなくなった。道具もないのに刈れるわけがなかろう。うっかり野蛮人だと思われている節がある。


 海からは離れているというが、風には潮の臭いがかすかに混じる。名も知らぬ花の香りと、干し草の乾いた匂い。それから煮た豆の匂いが、どこにでも染みこんでいる。

 乳酪を煮詰めて少し焦がしたような甘い匂いばかりがするのに、どういうわけかしょっぱい郷土料理は、なかなか慣れない。草と豆と草と草の実ばかりの食事だが、腹は膨れるし、よく眠れる。

 どこをどうとっても異国だというのに、本国よりよほどくつろいでしまっている。

「東宮からヨーの差し入れをいただきましたよ」

「ヨー? ああ、イォか」

「ヨー」

「滑舌が悪い」

「いいんですよ、これで通じるんだから! 今日は焼きヨーです」

「魚か……」

「文句言わない!」

「そのうち鱗が生えそうだ」

「豆と豆と草と草と根っこと草の実の食事でご満足ならいいんですよ別に」

「たまに虫も出る」

「やめてください忘れようとしてるのに!!」

「まあ、魚も生きものの肉だ」

「これはヴィーイーだそうです」

「その発音合ってるんだろうな? だいたいこれはイナドじゃなかったか?」

「大きくなると名前が変わるらしいです。シ、ズィー、ヨー?」

「『出世』『魚』? 階位が上がるのか」

「そんな感じらしいです」

「ややこしいな」

「幼名みたいなものじゃないですかね」

「食えなくなるだろ、よせ!」

「主は気が優しいから。ところで、なぜ東宮から贈り物が?」

「襲われているところに通りかかってな」

「なんでそういうところに通りかかっちゃうんです?」

「おれが悪いように言うな。助けたんだから褒められるところだろ」

 狙われて、間一髪死ぬところだったというのに、天子はおっとりと目をまたたくばかりだった。危機感がまったくないところは、平べったくない猫に似ている。

 大切に、花のように守られて育ったのだろう。かれは同じ男だというのにいい匂いがして、たおやかに細く、長い指には整えられた小さな爪、あきらかに日に当たっていない、明るい肌をしている。

「天眼の御子ってのは生き神なのだろう? 殺してどうするんだろうな」

「いやあ、どうにでもするんじゃないですかね」

 従者は魚を相手に悪戦苦闘しながら言う。別に厨に任せればいいと言ったのだが、本国にいた頃の癖が抜けないのだろう。自分で影も届かないといいながら、こいつはまだ安心できていない。

「天眼の儀というのがあるそうで、そこまでは天眼とは認められないそうですよ」

「それを受ければ他のものでも瞳の色が変わるのか?」

「そんなわけないでしょう。天眼じゃないと受けられないらしいですよ」

「殺しても王になれぬのに狙うのか」

「天子が即位すると、他の御子は海に流されるそうで」

「はあ?」

 かつてはにえとして両手を落として海へ沈めたそうだが、今はただの遠流おんるだという。天子になれぬものは手を失い、イォクズになるのだと。

 贄に比べれば熱いほどの温情ではあるが、ぬくぬくと鳥籠で育てられた御子たちを放逐するとは、なかなか思いきったことをする。どうせ王になれぬものたちならば、はじめから宮で囲わず、外に放してやればよかったものを。

 しかし島流しが嫌で、国を潰すのか。破壊的で、根性のある御子もいるらしい。

「しかしこれは、いくらなんでももらいすぎだな。礼にひとつ、髪紐でも組むか」

 夕餉に並んだ巨大な焼き魚を二人でつつきながら、皿に盛った草の実を食べる。慣れればこの草の実も美味い。ただ、今日はやたら柔らかくて汁っぽい。わからん料理なら無理にするなと言うのも憚られるので黙っているが、この草の実の正しい状態が、未だにおれにはわからない。

「いいですね、糸なら買ってありますよ。本国なら髪色や瞳にちなむところですが、こちらじゃ髪は国民だいたいみんな一緒だし、瞳は主と同色ですから変な誤解が生じても困ります。なにより天眼を象ってはなにかお怒りを買ってしまうかも」

 ちょうど暇に飽かせて一織をあげ、織台が空いたところだった。いつもは山羊の毛を紡いだ糸を扱うが、こちらに山羊の毛はないらしい。木の糸に草の糸、それから虫の糸。手触りも、音も、匂いも違う。

 髪紐ならば、三日もあれば編み上がる。

「では、名にちなむか」

「ところが天子様、お名前がないらしいんですよ。生き神さまなので、人として名を授かるのは、死んだときなんだそうです」

「なんだそれは。幼名くらいつければいいだろう。魚にもあるんだぞ」

 魚は幼名じゃないでしょう、と従者が言うのを聞き流す。

「誕生季に合わせましょう、それなら有名です。色合わせも、お任せください」

 習ってきましたから、とはりきった従者が糸を選び、合わせはじめる。

 名もなくただ天子と呼ばれるのと、化け物アイオロクスと名づけられるのと、果たしてどちらがましだろうか。

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