第3話 死の祝福

「そん、な」


 目を背けたくなる惨劇を目撃してしまったことよりも、唯一地上へ続く梯子を潰されたことよりも。またしても止めることが出来なかった『死』が、俺の足を立てなくなる程に座り込ませて竦ませる。


「俺は、また……」


 かつての惨劇が、両親を悪魔に殺された地獄が、血液が上手く集まらない頭の中で蘇る。例え慎二が俺を騙していたとしても、それでもこの手で救えたはずの命には違いなかった。


「……あ」


 見慣れた悪魔の卑しく鋭い目つきは妖しく揺らめき、俺という獲物ただ一人をじっと見つめている。たった一人の人間を平らげた所で、リヴァイアサン級の悪魔の胃袋を満たすにはまだまだ不十分らしい。


「……フ、ハハ」


 先程とは真逆の乾ききった笑いは、悪魔へ立ち向かう意志を無慈悲に削いでいく。


「……ねえ、先生」


 立ち上がる気力さえも薄皮に成り果てていき、気が付けば子供の頃と同じように縋る声が口を衝いて出ていた。


「どうしても笑えない時は、どうすればいいのかな?」


 遠い記憶で佇む天使は俺の知りたい答えを告げず、目の前にいるリヴァイアサンは数メートルもある大きな口を開いている。何の障害も配置されていない真っ白なダイニングテーブルの上を滑るようにして、リヴァイアサンの大口が眼前へ迫ってくる。


「――そういう時はね、無理にでも笑えばいいのよ」

「……は?」


 血飛沫の向こうで消えようとしていた問いかけへ、漆黒の天使とも違う声があっさりと答えを提示する。


「あなたはそこで見てなさい、八重樫一季」

「お、お前は……」


 その名を呟くよりも早く、ブレザーの制服を着た少女がリヴァイアサンへ向かって駆け出す。


 考え無しの破れかぶれではなく、悪魔の動向を予測し計算し尽くされた足捌き。俺から彼女へ標的を変えたリヴァイアサンに臆することなく、少女は瞬く間にその巨大な間合いへ入った。


「……! あ、危ない‼」


 しかしA級悪魔の名も伊達ではなく、リヴァイアサンは一瞬で自らの尻尾に当たる部分を少女の頭上へ掲げる。このまま尻尾が振り落とされれば、少女の華奢な身体は砕けたガラスのように粉々になってしまうだろう。


「何、あたしがこれぐらい避けられないとでも思った?」

「な……!」


 そんな危機的状況にも関わらず、少女は未だに膝をついている俺へ呆れたように鼻を鳴らす。


「それじゃ、ちゃちゃっと終わらせましょうか」


 少女は手にしている武器を掲げ、その刃先をリヴァイアサンの懐へ向ける。全長一・五メートル程はあるであろう武器、斧と槍両者の鋭利な殺意をその先端に携えたハルバード。少女は小慣れた様子のまま、悪魔の腸目掛けて自らの凶器を振り下ろした。


「――っっ!」


 耳を塞ぎたくなる程の叫び声が、ぽっかりと開いた悪魔の大口から木霊する。


 リヴァイアサンの青い身体に出来上がったのは、ハルバードの斬撃による一線の傷跡のみ。しかし大蛇の悪魔はまるで致命傷でも負ったかのように、断末魔が如き悲鳴を上げていた。


「……これが」


 リヴァイアサンの身体は地面の上で横たわり、その場で力なく弱々しく痙攣する。そして慎二の命を喰らった蛇型悪魔はしばらくして、命の無い作り物のように活動を完全に停止させた。


「……七海エルザの、『死の祝福』」


 自分とは何もかもが正反対の少女の名を口にし、強大な祝福が宿っている彼女のハルバードへ侮蔑の視線を向ける。


「ねえ、あなた」

「っ⁉」


 突然エルザから声をかけられ、立ち上がった俺の口から恐怖で上ずった声が漏れ出る。


「鷹巣君は何処かしら? 一緒に下校していたわよね?」

「……慎二は」


 鷹巣慎二という名の同級生はもういない。そう答えようとした口は震え、思う様に言葉を発することができない。


「……いや、やっぱり言わなくていいわ。悪魔の口元とあなたの傷跡を見て、大方の状況は把握したから」

「傷跡……ああ、そうか」


 石化の銃で全身を何発も撃たれたことを思い出し、ブレザーの下に着ている穴だらけのワイシャツを擦る。


「俺なら大丈夫だ。石化を打ち消した時、弾丸も同じように消えてなくなったらしい」

「でも、傷はまだ治ってないでしょ? 今日は緊急だったから満足な道具も持ってきてないし、後でどこか病院に連れて行ってあげるわ」

「緊急……?」

「知らないの? この地下放水路はC級からA級まで様々な階級の悪魔が跋扈している立入禁止区域。そんな場所にのうのうと入っていく二人組の目撃情報があったから、他の任務をほったらかしにしてまで駆けつけたのよ」

「……そうか」


 「全くもう、今日は任務が立て込んでいて大忙しなのに」と悪態をつきつつも、エルザの碧眼は真っすぐ俺のことを見つめている。


「な、何だ……?」

「…………」


 傷だらけの身体を鼓舞し、俺も負けじとエルザを睨み返す。しかしエルザの注意はあくまでも、俺の手の内にあるナイフへ向けられていた。


「八重樫君、そのナイフはどこで手に入れたの?」

「……『漆黒の天使』と言えば、貴様も分かるはずだ」

「いや、全然分からないのだけど」

「え?」


 あっさりとしたエルザの返答を受け、呆然と愕然により開いた口が塞がらなくなる。


 俺がエルザを尾行していた理由、それはエルザが『漆黒の天使』と接触したという情報を人伝に入手した為だ。長い間行方をくらましている恩師に繋がる唯一の手掛かり、それが最強として世間に名高い殺し屋にしてクラスメイト、七海エルザだった。


「……ガセだった、というわけか」


 追いかけている面影がまた一歩遠ざかってしまったことを悟り、ため息と共に背中からコンクリートの地面へ倒れ込む。


「ちょっと、一体何なのよ?」

「……いや、知らないなら別にいい」


 幸福とはかけ離れた重苦しい心持のまま、同じようにして横たわるリヴァイアサンの死体を見つめる。


「……なあ、慎二」


 今はもういない同級生へ、道すがら交わした言葉を思い浮かべながら呼びかける。


「お前も、幸せになりたかっただけなんだよな」


 握りしめたナイフを胸に抱き、また一人の命が失われたという事実を心に刻み付ける。


 この世界では誰もが受け入れている、異形の悪魔達によってもたらされる『死の呪い』。ナイフは持ち主の願いを叶えることなく、自らに込められた不死の奇蹟を白く淡く灯し続けていた。

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