Icy Blue Moon

風座琴文

1-1

 町田まちだはるは考える。


 どうして僕はこんなに人と話すのが苦手なんだろう。


 話す事は昔から苦手だった。どんな言葉を話せば人を傷つけないか考える内に周りの話はどんどん流れていく。結局、何も言えないまま時間が過ぎていく。


 小学校の頃の友達が誰もいない環境で、別人みたいになれたら?


 伸ばしていた髪の毛は思い切り短く切った。視力が悪くなる一方だから大きな縁の眼鏡を新調した。癖っ毛は跳ねまくってデカ眼鏡をかけた自分は自分じゃないみたいで、いっそ別人になろうと藻掻いた。


 私から僕へ、一人称を変えてみた。


「僕は……」


 二の句が継げない。クラスの中の自己紹介の時間、自分の番で用意した言葉は緊張で白く弾けた。


「……町田桜です」


 自分の名前だけ言って終わる自己紹介があるか。何か言わなきゃ。僕の好きな物、僕がやりたい事、どうして鳳天ほうてんにきたのか、みんなとどんな関係になりたいのか。言いたい事は選べずに頭の中を飽和させていく。


 飽和した言葉は頭の中で潰れていった。そして最後に出てきたのが。


「……よろしくお願いします」


 たったそれだけの言葉だった。


「えっと……」


 担任の教師は、困ったように頬を掻いた。


「町田さんはどの部活に入りたいとかある?」


 教師の言葉で、桜は座りかけていた体をピンと伸ばした。


「文芸部に入りたいです! 小学校の頃に江戸川乱歩の『怪人二十面相』を読んで、他にもエドガー・アラン・ポーとか、難しい所でいくと泉鏡花とか谷崎潤一郎とか、色々読んで、僕もそんな物語を作りたいなって思って、まだなんにもできてはないんですけど、でも……」


 でも?


 結局、僕がどんな人間かより、何がやりたいかより、ただ早口で好きな物をまくしたてているだけじゃないか。


 言葉は少しずつ消えていった。憂鬱が心の中に堆積する。油断すると倒れそうになるくらいに頭がくらくらする。


 話すんじゃなかった。後悔すら湧いてくる。


「町田さん、本を読むのが好きなのね。文芸部、頑張って」


「はい……」


 このまま溶けて消えてしまいたい……桜は静かに座り、残り二人の自己紹介を聞いた。桜のようにつっかえる者はそれ以前にも以後にもいなかった。


 自己紹介は、大失敗だ。


「みんな新しい環境で、知らない人ばかりの環境です。仲よくしていきましょう」


 毒ではなし、薬にしては沁みすぎる言葉を聞いて、桜は俯いた。


 桜は白い顔に暗鬱な色を浮かべて、教師の言葉に従って入学式で行なわれる諸々の説明を聞いた。


 明日からしばらく、行事が続く。身体測定、春休みの課題をこなしたかを試す新学期の学力テスト。スポーツテストもあるらしい。


 どれも自信がない。何か一つ上手くいかないというだけで、全てがダメになってしまうような恐怖の陥穽にはまる。


 簡単に別人になれるなら、誰も悩んだりしないんだろう。


 桜はひっそり、小学校の頃から書き溜めているノートを取り出して、そこに自分の感情を書き出した。言葉は幾らでも浮かんでくる。それを順番通りにはめる事ができれば、何かしらの物にはなる気がする。けれどならない。


[また上手くいかなかった。自分で髪を切った時のお母さんのあの視線を思い出した。誰もそんな風には見ていない筈なのに不安が体を軋ませる。ギリギリ、ギリギリ、僕の体が僕じゃないみたいになって、心の中から何かを探し出して体を動かそうとしても上手くいかない、みんなは上手にできている事が僕にはできない。それがどうしてか分からない。分からないけれど……]


 言葉を紡いでいく事だけはできても、それが単なる羅列に過ぎない事を桜は知っている。幾ら書いても《物語》になった試しは一度もない。それでも書く事を諦めないのは、彼女が持っている何かの執念に近かった。


 綺麗に整ったリノリウムの床、教室を明るく照らす蛍光灯、生徒が快適に過ごせるようにと整えられた空調設備、黒板から作り替えられたホワイトボード、それら人為的な物一切が、桜にはなんだか不気味に思えた。


 入学式で校長が『鳳天は自由を貴ぶ学園です』と言っていたのを思い出す。


 自由、何か恐ろしい言葉のような気がする。


〝お前は自由だから、好きにしていいよ〟崖の上から突き落とされるような感覚が湧いて、桜は座っているのに足元から平静が瓦解していくのを感じた。


「大丈夫?」


 声をかけられて、桜は右隣を見た。


 黒く染められた絹と言われても頷けるような美しい黒髪が長くまっすぐに伸びている。色白な顔には表情がない。それはかえって彼女の彫刻のような美しさを際立たせた。自然にそうなったとは思えない程、彼女の目鼻立ちは綺麗に美しく整っている。


 身長は恐らく桜より高い。黒い瞳には何が映っているのか、桜がよく見ると、蒼白な顔をした自分自身だった。汗をかいている事を桜は自覚した。彼女はポケットからハンカチを取り出して、桜に差し出してくる。


「あ、ありがとう……」


 ハンカチを受け取って、眼鏡を取って、桜は顔に浮く汗を拭いた。綺麗な白い、手触りのいいハンカチに自分の汗を滲ませるのは申し訳ない。


「町田さん、だよね。ホームルームもう終わったよ」


 黒髪の麗人は、桜の事を覚えてくれていた。隣の席の人物だ、自己紹介はしっかり聞いているだろう。桜の席は窓際で、彼女はその隣の列だ。


「うん……」


 ずっと、書く事に夢中になっていた。その間、悪夢の中にいるような気持ちでいた。


「ハンカチ、ありがとう……。洗って返すね……」


 消えてなくなりそうな声が、声帯から零れた。


「別にいいよ、そのままで」


 桜は記憶の中から目の前の麗人の名前を引っ張り出した。


 月守つきもり玄佳しずか――静かに、綺麗に、彼女は桜に手を差し伸べる。


 その手の指が長く、桜よりも桜色の爪が綺麗に整っている。色白な肌に柔らかそうな肉が包まれていて、しかし肉感的ではなく、無駄な肉はない事をうかがわせる。桜は少し、その美しい手に見惚れていた。


 不意に心をちくちくと刺してやまない、トラウマが聞かせる足音が、桜の心に痛みを感じさせる。


「町田さん?」


 玄佳に声をかけられて、痛む心はそのまま、桜は目の前の現実を見た。


「ご、ごめん……」


 慌てて、桜は玄佳の手の上にハンカチを返した。ハンカチの隅に桜の刺繍がついている事に気づく。


「ずっと座って動かないから、具合悪いのかと思った」


 機嫌を悪くするでもなく、心配そうな言葉の割に顔はポーカーフェイスのままで、玄佳はハンカチをポケットに入れて立ち上がった。


「大丈夫……」


 仕草も、どこか洗練されていて、綺麗な人だった。


 鳳天は特段お嬢様学校ではないが、玄佳に関しては例外ではないか。そんな気持ちが湧いてくる。


「……一緒に帰る?」


 玄佳は、座ったままの桜に声をかけてきた。


「う、ううん!!」


 桜は(僕は月守さんと一緒に歩くにはあまりにもみすぼらしい鼠だ)なんて考えて、立ち上がった。心は動揺していて、机の上にあるプリントとノートを大急ぎで鞄の中に仕舞い込む。


「一人で帰るよ……」


「そう。気をつけて」


 引き留めるでもなく、玄佳は鞄を持って先に教室を出ていった。


 教室の中には、桜が一人きり。


 もしもこの教室の中に桜の花があったのならば、きっと僕はその花弁の散るに合わせてひっそり消えて、誰からも気にされないままいなくなって、この席も空席のまま、時間だけが過ぎていくんだ。


 どうして人は出会って、別れるんだろう。


 益体もない事を考えながら、桜は一人でとぼとぼと歩き出した。



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