雪が融けない山で、心の氷が融けるまで
水鳴諒
第1話 濡卑の一座
初夏は若葉が美しい。囀るような木々の葉音に耳を傾けながら、
透理は
腰回りは若干細いが、背丈は長身で、鍛えているからしなやかに筋肉がついており、面の奥の紺色の瞳は若干つり目だが形がよく、薄い唇に通った鼻筋は、とても麗しい。艶やかな黒髪も目を惹く。彼が濡卑でさえなければ、男女問わず放っておかないだろう。
今年で二十一歳。
頭領となったのは昨年で、成人を迎えた時だった。それまでの頭領の
腐華肉病、それは呪いの名前だ。
病とはいうが、この呪いを〝発症〟すると、皮膚が焼け爛れたように、腐り果てていく。
一座の者は、多かれ少なかれ、いつかは体が腐肉に変わり死に逝く運命にある。
これはいつから始まったのかも分からないほど、古くから続いてきた呪いだ。
現在、時は
遠い都には、
この和国日ノ本の
帝にも色々噂があって、声が流麗だとか、不老不死だとか、地下に住んでいるなどという噂話は事欠かない。
濡卑は必ずといっていいほど患う業病……呪いのせいで、一座以外の者からは、差別されている。濡卑という名称自体が差別用語だ。彼らの先祖が禁忌を犯したと真しやかに囁かれており、必ずといっていいほど滞在先の村では蔑まれる。その頭領ともなると、風当たりはさらに強い。だからなり手がいない事もあり、同時に前々頭領の養い子である透理ならば対応できるとして、周囲は彼に頭領を任せた。実力があり、誠実な人柄ゆえに、透理もまた一座を守る決意をしている。
「あ、本当に雪が降ってるみたい」
その時、一歩後ろにいる三春が、遠くの山を見上げた。
そこにあるのは、花刹山である。
花刹山は、絵森郡において多くの者が畏怖している。他の土地や山々で春夏秋冬が巡ろうとも、花刹山だけは常に冬であり、雪に覆われている。標高が高いからではなく、山自体はそれほど高いわけではないし、他の周囲の山の中にはより高いものもあるが、花刹山だけは常に雪化粧をしている。強いていえば、形が綺麗に三角形をしているのは特徴的だろうか。
理由は、
月白色の薄手の着物を纏っているそうで、
雪童は古い神の子だとされる。
現在この日ノ本で主流なのは、森羅万象には八百万の神が宿ると唱える万象仏教だ。神々の御遣いである御仏に祈る事を善とする。そうする事で、死後も輪廻から外れず、また人に生まれてこられると説く。尤も、濡卑には祈る事も許されないので、亜流の独自宗教があり、その宗教的代表者が神子となる。濡卑の呪いが許されるよう、神々に祈りを捧げる存在だ。
神子は基本的に一座にあって、呪いを免れた者が襲名する。ごく稀に業病から逃れた者がいた場合は、絵森郡から出て、各地の大名お抱えの忍び衆に入る。それを期待して、濡卑の者は小さい頃から忍術を学ぶ。中には光糸を用いるような不可思議な術も含まれているが、それらは仕える主以外には知らせてはならないとされている。
よって、一般的には、呪われた濡卑は無抵抗の弱者だと考えられている。
天領覚書においても、反抗は禁じられており、万が一濡卑の者が抵抗したならば、磔刑に処して構わないと周知されている。
その濡卑も、多くの人々の事も、分け隔てなく――呪うのが、雪童だという。
花刹山に一歩でも立ち入ると、恐ろしい呪いを受けると専らの噂だ。
「……そうだな」
答えながら透理は、ぼんやりと童唄を思い出す。
――さぁ、命を落としてもよい者は、足を踏み入れよ。
――雪童の祟りが、汝を襲おう。
雪童の存在は、幼子に聞かせるお伽噺ではない。
皆がそう囁き、恐れ戦いている。迷い込むと呪いを受け、命を奪われるそうだ。
多くの者は、嫉妬深いのが山の姫神と湖の姫神、それらよりも凶悪で制御できないのが雪童だと注意深く噂をしている。口に出すのも禁忌だという面持ちだが、人の口には戸が立てられない。
ただそうは言うが、透理から見れば、他に恐怖すべき事は山ほどある。
例えば絵森湖を根城にしている東雲水軍は、常に濡卑を追い回している。相樂鷹海が戯れに、『濡卑の首を一つ持参する度に、五百万圓』とお触れを出した結果だ。絵森郡は天領ではあるが、遠く離れた場所にいる御上は何事にも関知しない。圓というのは、この国の通貨だ。
今も透理達は、東雲水軍の急襲を察知し、先程までいた麻丘村を出て、次の村を目指して歩いている。透理のように触りが軽い者達だけであれば、忍術を用いて逃れる事は難しくはない。けれど一座の掟で、仕える主がいない限り、鍛錬以外では使ってはならないとされているし、なにより腐肉から膿が出て歩く事が困難な仲間をおいていくわけにも行かない。
山道を進み、青い若草に覆われた地面を踏む。木々の合間を抜けた先には、夏の山菜が顔を出していて、蕨を取った形跡があった。ここから下り坂を進めば、次の街、落葉村があるはずだと、透理は一座に伝わる絵森郡の村々の位置を描いてある絵図の事を想起した。
花刹山から最も近い場所にあるのが落葉村、その次が雛原村だ。
後ろを振り返った透理は、一座の皆が疲れているのを見て取り、早く村で休みたいと考えた。つい足を速めてしまいそうになるが、それは堪える。
こうして濡卑の一座は、三十分ほどして、
時・分や十二の月は、古から伝わっている数え方だ。
村へと足を踏み入れると、最初に気づいた村人が、嫌そうに眉を顰めた。隣にいた奥方が血相を変えて隣家へ飛び込む。すぐに濡卑の一座の来訪は村中に知れ渡り、少し進むと村長が顔を出した。壮年の大柄な男だった。髭面で、猟をするらしく火縄銃を持っていた。
「濡卑の一座か」
地を這うような声で言われ、一歩前に出た透理が頷く。
「三日間、滞在させてもらいたい」
「ふぅん。三日だけ滞在させるのは、まぁ、ある意味決まりといえば決まりだがなぁ。ああ、腐肉の嫌ぁな臭いがするな。こんな村の真ん中には置いておけん。滅多に法師様が来ない寺にでも泊めるか。一座の頭領はお前か?」
「ああ」
「そうか。慣例では、頭領と神子と、滞在場所の村長、つまり俺は事前に話し合いをする事になっているんだったな。村に滞在中の規則を伝えたり」
「宜しく頼む」
透理の声に、村長が横を向いて、村人の一人に顎をしゃくった。
「案内してやれ」
「はい!」
透理もまた振り返り、一座の者達に向かって頷く。それから歩みよってきた三春を一瞥し、安心させるようにその背に触れた。
「お前らはこっちだ」
こうして村長が歩きはじめたので、三春を連れて透理は後に従った。
連れて行かれたのは、村長の邸宅で、そこには村の重役らしい屈強な男達がいた。皆筋骨隆々としており、獣のようにギラついた目をしている。案内された土間で、透理と三春は並んで座った。
「それで? お前ら、名前は?」
「俺は透理、こちらは神子の三春だ」
「ふぅん。率直に言うが、何人女を出せる?」
その言葉に、透理は面の奥で唇を噛んだ。どの村に置いても、大抵聞かれる質問である。滞在する賃料として、女性の体を差し出せと、男達は卑しい目つきで笑う。だが、透理はいつも同じ答えをしている。
「その……女性は皆、今は〝障り〟が重い者ばかりで、とても閨の相手は出来ないんだ」
こういえば、腐肉を嫌って、皆悔しそうながらも退くのが常だ。
「へぇ。じゃあ、男でいい。そこの神子様は、障りがないから、神子なんだろう? 鈍いから一人だけ逃れているから、体のどこにも腐肉はないんだとかなぁ」
すると村長がそう言って下卑た笑いを浮かべた。
「なっ」
これまでこのような言葉が返ってきた事は一度も無い。狼狽えて透理は凍りつく。
村長の周囲にいた男達が立ち上がる。
「ま、待ってくれ。三春はまだ十二歳だ……そうでなくとも、そんな……」
これまで男性の体を求められた事は無かったが、透理も知識としては、近年この絵森郡では男色もひっそりと流行しているとは耳にしたことがあった。だからといって、女性を差し出せないのと同様に、男性を差し出すつもりもない。いくら差別されている身であるとはいえ、そんな非道は認めがたい。
「ん? 反抗するっていうのか? なら――何をしてもいいんだったな? 罰として」
「っ、それは……」
透理が俯く。歩けぬ者も多い現状では、暴力を振るわれたならば、ひとたまりもない。
「頼む、それだけは止めてくれ」
「頼み方ってもんがあるだろ。面を外して、頭を下げろ」
鋭い眼光で村長が言う。怖気が走りながらも、透理は手を持ち上げて御先狐の面を後頭部へと回した。そしてまじまじと村長を見てから、両手を床について頭を下げる。
「ほう。男前だねぇ。こりゃあいい。一つ提案だ」
「提案?」
「神子くんの代わりに、頭領さんが相手をしてくれるか?」
「え……?」
「お前さんからは、腐肉の臭いが感じない。ま、多少障りがあったとしても、やれることがやれりゃぁ問題は無ぇからな」
村長がそう言うと、その場に哄笑が溢れた。
透理は三春を一瞥する。真っ青になって震えている異父弟は、膝の着物をギュッと両手で掴み、涙ぐんでいる。
「……分かった。だから三春と、他の一座の者には手を出さないでくれ」
「だから言い方がなってねぇんだよ。言い直せ。『出さないで下さい』だろ?」
「……手を出さないで下さい」
「いいだろう。神子様は送ってやれ。先にこっちは楽しんでるからなぁ」
村長の指示で、ニヤニヤ笑った一番若い男が、三春のそばに立った。
「透理……」
三春が泣きそうな顔で己を見たので、透理は微笑する。だがどうしても顔が引きつってしまったのは否めない。
「俺は大丈夫だ。先に一座の皆のところへ行っているように。いいな?」
「……」
「三春。早く行くんだ」
語調を強めて透理がいうと、ビクリとしてから三春が立ち上がった。
そして男と出て行くのを、透理は見ていた。ぴしゃりと扉が閉まってすぐ、村長が笑った。
「いやぁ、素晴らしい自己犠牲だな」
「……」
「いつまでその強気そうな無表情が持つ事やら」
そう言って笑うと、村長が透理の背後に回り、羽交い締めにした。
別の男が、前から透理に迫る。
黒衣にほとんど露出はないが、うなじに息を吹きかけられた時、透理は恐怖と嫌悪から全身に震えが走ったのを理解した。正面の男に、強引に服を乱される。そして掌で鎖骨の上をなぞられる。もう少し左肩の部分には、障りがあるのだが、まだそれは見えないらしい。
「っ」
耳に息を吹きかけられた時、いよいよ怖くなって、透理はもがきかけた。
しかし――抵抗すれば極刑、そうでなくとも何をされても構わない事になる。それは一人だけではなく、一座の全ての者に飛び火する。一人が罪を犯せば、皆が罰を受けるのも決まりだ。
「男前を虐めるのは気分がいいなぁ。どうやって甚振ってやろうか」
耳元でにやついた声を出され、透理は息を詰める。今すぐにでも抵抗して逃れたいけれど、一座の者を思うとそれが出来ない。悔しさと恐怖と、混乱。それらに襲われた透理は、自然と目が潤んでくるのを感じた。黒い瞳に悲愴が宿る。
ガラガラと戸が開く音がしたのはその時だった。
「村長殿、今年の寺院戸籍の件で――……っ!!」
その場にいた透理を含めて全員の視線が、戸口に向いた。シャラランと錫杖の輪が音を立てている。そこに驚愕したように目を丸くして立っているのは、濃鼠色の着物に金色の袈裟をつけた、長身の青年だった。少し色素の薄い髪を、後ろで一つに結んでいる。首からは長い念珠を提げている。
「随分なご趣味ですね」
目を眇め、眉間に皺を寄せた法師が、透理の背後にいる村長を見た。
「おう。
その言葉を聞いて、透理の涙に濡れた瞳がさらに暗く変わった。悲愴を宿した瞳で、透理は昭唯を見る。するとバチリと目が合った。昭唯は目を見開き、息を呑んでいる。それから哀れむような眼差しで微苦笑してから、大きな左右対称の目をつり上げて、キッと村長を睨めつけた。
「何をたわけた事を言っているのですか。即刻その者を離しなさい!! 何人たりとも無理矢理は許されません」
「無理矢理? いやいや、これはこの頭領様も同意していて、なぁ?」
村長がしらを切るように、後ろから透理の体に腕を回す。ぐっと唇を引き結び、透理は俯いた。きつく瞼を閉じると、眦に涙が滲む。
「では、貴方がよほど下手くそで、その方は今後を想像し痛みに怯えて泣いているとでも?」
「なっ!?」
昭唯の言葉に、村長が呆気にとられた顔をしてから、顔を歪めて、唇をわなわなと震わせる。
「それならそれで、一人の男として見過ごせません。床の下手な暴漢が、狼藉を働く行為を見過ごすなど、御仏に誓ってあり得ませんので」
そう口にして口角を持ち上げると、昭唯が前へと出て、村長の首へと真っ直ぐに錫杖の尖端を突きつけた。その先に、仏門の者が持つ陽力の淡い黄緑色の光が見える。陽力を見るのが初めてだからというよりも、自分のすぐ脇にある錫杖と震え上がっている村長の様子、自分から飛び退いた正面の男に、透理が驚いて昭唯を見上げる。すると昭唯が今度はしっかりと笑顔を浮かべて、目を合わせると小さく頷いた。
「立てますか?」
「……ああ」
「では、一緒に参りましょう。私は隣の雛原村の住職で、この村の戸籍の管理も行っている幸栖昭唯と申します。貴方は?」
「俺は、透理という……その……」
一瞬だけ言うべきか否か逡巡したが、装束を見れば分かると判断し、透理は告げる。
「濡卑の一座の頭領だ。この村に、一座の他の者もいる」
「ええ。存じておりますよ。先程先に、寺へと詣でましたので」
柔和な微笑を浮かべている昭唯は、村長が離れたのを確認してから、透理の前で膝をついた。そしてそっと透理の頬に手で触れ、顔を覗き込む。
「雛原へ参りましょう。半日もかかりません。あちらには、このような不埒な行為に及ぶ者はおりませんから」
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